ミステリ作家は死ぬ日まで、
黄色い部屋の夢を見るか?
~阿津川辰海・読書日記~

「いったい、いつ読んでいるんだ!?」各社の担当編集者が不思議がるほど、
ミステリ作家・阿津川辰海は書きながら読み、繙きながら執筆している。
耽読、快読、濫読、痛読、熱読、爆読……とにかく、ありとあらゆる「読」を日々探究し続けているのだ。
本連載は、阿津川が読んだ小説その他について、「読書日記」と称して好き勝手語ってもらおうというコーナーである(月2回更新予定)。
ここで取り上げる本は、いわば阿津川辰海という作家を構成する「成分表」にもなっているはず。
ただし偏愛カロリーは少々高めですので、お気をつけください。
(※本文中は敬称略)
著者
阿津川辰海(あつかわ・たつみ)
2017年、本格ミステリ新人発掘プロジェクト「カッパ・ツー」第1期に選ばれた『名探偵は嘘をつかない』でデビュー。作品に『録音された誘拐』『阿津川辰海・読書日記 かくしてミステリー作家は語る〈新鋭奮闘編〉』『入れ子細工の夜』『星詠師の記憶』『透明人間は密室に潜む』『紅蓮館の殺人』『蒼海館の殺人』がある。
読書日記が単行本になりました!『阿津川辰海・読書日記かくしてミステリー作家は語る〈新鋭奮闘編〉』

目次

第93回~最新

2025.02.14 第98回初めて月跨ぎの読書日記 ~チャンドラー、再履修(2)~

2025.01.31 第97回その偉業に襟を正して ~チャンドラー、再履修~

2025.01.17 第96回いつだって胸を熱くさせる青春小説 ~ザ・ゾンビーズ13年ぶりの帰還~

2024.12.27 第95回脅威の邦訳第二作 ~ジャニス・ハレット、またしても~

2024.12.13 第94回ネオ・ハードボイルドが辿った道 ~メタフィクション的自伝のすすめ~

2024.11.22 第93回評論を読もう! ~色々と振り幅がすごい回~

第87回~第92回

2024.11.08 第92回モダンホラー巨編、遂に来たる! ~あるいは旧刊再読日記~

2024.10.25 第91回秋の翻訳ミステリー特集(後編) ~超犯人、最後の打ち上げ花火~

2024.10.11 第90回の翻訳ミステリー特集(前編) ~表からも裏からも読める、推理の冒険~

2024.09.27 第89回不可能犯罪とは、演出力である ~〈ワシントン・ポー〉、最高傑作!~

2024.09.13 第88回論理とは、たたずまいである ~有栖川有栖の推理に魅せられる~

2024.08.23 第87回〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略(2) ~中期・後期の達成~

第81回~第86回

2024.08.09 第86回〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略(1) ~パターンを知ろう・前期のスタイル~

2024.07.26 第85回「探偵」の意志 ~坂口安吾と松本清張~

2024.07.12 第84回台湾発、私立探偵小説の精華 ~あるいは私的なイベントレポート~

2024.06.28 第83回まるで憑りつかれたように ~小市民シリーズ長編完結、の話題のはずが~

2024.06.14 第82回「トゥルー・クライム(実録犯罪)」ものの隆盛 ~話題は蛇行しながら~

2024.05.24 第81回S・A・コスビーにまたも注目 ~今回は捜査小説の王道か~

第75回~第80回

2024.05.10 第80回『両京十五日』は、今年最高の冒険小説だ! ~中国冒険小説の面白さを満載して~

2024.04.26 第79回ぼくの盛岡・仙台・神戸紀行 ~作家ゆかりの地を訪ねる~

2024.04.12 第78回犯罪小説への愛、物語への愛 ~スティーヴン・キングの最高到達点~

2024.03.22 第77回ぼくの山形紀行 ~もはやただの旅行記録~

2024.03.08 第76回作家たちの忘れ物 ~芦辺拓、新たなる偉業~

2024.02.23 第75回この罪だけは見逃せない ~ルー・バーニーの小説世界~

第69回~第74回

2024.02.09 第74回歩き、踏みしめる確かな道 ~私の愛する土屋隆夫~

2024.01.26 第73回評論を読もう! ~後半戦・海外ミステリー叢書の海に溺れる~

2024.01.12 第72回評論を読もう! ~前半戦・本格ミステリーの最前線~

2023.12.22 第71回ぼくの福岡清張紀行 ~松本清張記念館に行ってきました~

2023.12.08 第70回御無礼、32000字です ~『地雷グリコ』発売記念、ギャンブルミステリー試論~

2023.11.24 第69回これがほんとの「読書日記」 ~10月に読んだ本を時系列順にざっくり紹介~

第63回~第68回

2023.11.10 第68回書きたい人にも、読みたい人にも ~都筑流小説メソッド、再受講~

2023.10.27 第67回疲れた時に沁みるもの ~「日本ハードボイルド全集」総括とクロフツの話(なぜ?)~

2023.10.13 第66回17年ぶり、その威容 ~〈百鬼夜行〉シリーズ長編再読記録~

2023.09.22 第65回私の「神」が、私の「神」に挑む物語群 ~〈柄刀版・国名〉シリーズ、これにて終幕~

2023.09.08 第64回全員信用ならないなあ…… ~作家小説大豊作~

2023.08.25 第63回翻訳ミステリー特集・2023年版 後半戦 ~シビれるような「名探偵」~

第57回~第62回

2023.08.11 第62回翻訳ミステリー特集・2023年版 前半戦 ~ブッキッシュ・オン・ブッキッシュ~

2023.07.28 第61回映画と小説のあいだ ~後編(国内編)~

2023.07.14 第60回映画と小説のあいだ ~前編(海外編)~

2023.06.23 第59回多崎礼の話をしよう ~私を作った作家たち・2~

2023.06.09 第58回私たちを救うカナリアの声 ~私を作った作家たち・1~

2023.05.26 第57回古典の効用 ~今を忘れ、今を想う~

第51回~第56回

2023.05.12 第56回「老い」を考え、「謎」に痺れる ~「探偵役」の使いどころ~

2023.04.28 第55回 特別編10極私的「時代・歴史小説が読みたい」 ~〈修道女フィデルマ〉シリーズ全作レビューもあるよ!~

2023.04.14 第54回解かれぬ事件に潜むもの ~〈コールドケース四部作〉、堂々完結!~

2023.03.24 第53回新ミステリーの「女王」、新たなる羽ばたき ~マシュー・ヴェンの冒険、のっけから最高潮~

2023.03.10 第52回大いなる山に捧ぐ情熱 ~山岳ミステリー小特集~

2023.02.24 第51回新刊詰め合わせ ~それと、誰得すぎる2022年雑誌短編傑作選~

第45回~第50回

2023.02.10 第50回現代英国の新たなる「女王」! ~アン・クリーヴス全作レビュー(仮)~

2022.12.23 第49回クリスマスには仁木悦子を! ~江戸川乱歩賞受賞の傑作、三回目の再読~

2022.12.09 第48回極・私的『SFが読みたい……』2022年版 ~韓国SFから古典まで~

2022.11.25 第47回驚愕と奇想のミステリー集成! ~9月・10月新刊つめあわせ~

2022.11.11 第46回これまでのアメリカ、これからのアメリカ ~心に染み入るロード・ムービー~

2022.10.28 第45回現代英国本格の新たなる旗手、さらなる覚醒! ~イギリスの「ディーヴァー」~

第39回~第44回

2022.10.14 第44回 特別編9ジェフリー・ディーヴァー試論 ~その「どんでん返し」の正体、あるいは偽手掛かりと名探偵への現代米国アプローチ~

2022.09.23 第43回 特別編8-2翻訳ミステリー頂上決戦・2022年版! 後半戦 ~壮大なる物語の迷宮の先に、辿り着いた景色とは?~

2022.09.09 第42回 特別編8-1翻訳ミステリー頂上決戦・2022年版! 前半戦 ~無法者の少女と懐かしきアメリカ、そして謎解き~

2022.08.26 第41回 特別編7-2まだまだ阿津川辰海は語る ~新刊乱読編~

2022.08.12 第40回 特別編7-1まだまだ阿津川辰海は語る ~旧刊再読編~

2022.05.27 第39回全ページ興奮の本格×冒険小説、待望の最新刊 ~進化するアンデシュ・ルースルンド~

第33回~第38回

2022.05.13 第38回春の新刊まつり ~絞り切れなかったので、「かわら版」的短評集~

2022.04.22 第37回その足跡に思いを馳せて ~ミステリーファン必携の一冊~

2022.04.08 第36回心に残る犯人 〜未解決事件四部作、いよいよ好調!〜

2022.03.25 第35回悪魔的なほど面白い、盛りだくさんの超本格ミステリー! ~我が生き別れの、イギリスのお兄ちゃん……(嘘)~

2022.03.11 第34回引き裂かれたアイデンティティー ~歴史ミステリーの雄、快調のクリーンヒット~

2022.02.25 第33回児童ミステリーが読みたい! ~あるいは、私を育てた作家たちのこと~

第27回~第32回

2022.02.11 第32回かくして阿津川は一人で語る ~あるいは我々を魅了する『黒後家』 の謎~

2022.01.28 第31回たった一人で、不可能の極致に挑む男 ~しかし、ユーモアだけは忘れない~

2022.01.14 第30回佐々木譲は立ち止まらない ~歴史改変SF×警察小説、無敵の再出発~

2021.12.24 第29回法月綸太郎は我が聖典 ~“疾風”“怒涛”のミステリー塾、待望の新作!~

2021.12.10 第28回超個人版「SFが読みたい……」 ~ファースト・コンタクトSFっていいよね……~

2021.11.25 第27回ワシントン・ポー、更なる冒険へ ~イギリス・ミステリーの新星、絶好調の第二作!

第21回~第26回

2021.11.12 第26回伊坂幸太郎は心の特効薬 ~唯一無二の寓話世界、新たなる傑作~

2021.10.22 第25回世界に毒を撒き散らして ~〈ドーキー・アーカイヴ〉、またしても快作~

2021.10.08 第24回お天道様が許しても、この名探偵が許さない ~コルター・ショウ、カルト教団に挑む~

2021.09.24 第23回海外本格ミステリー頂上決戦 ~ヨルガオvs.木曜、そして……~

2021.09.10 第22回“日本の黒い霧”の中へ、中へ、中へ ~文体の魔術師、その新たなる達成~

2021.08.26 第21回世界水準の警察小説、新たなる傑作 ~時代と切り結ぶ仕事人、月村了衛~

第15回~第20回

2021.08.13 第20回 特別編6七月刊行のミステリー多すぎ(遺言)~選べないから全部やっちゃえスペシャル~

2021.07.23 第19回 特別編5ヘニング・マンケル「ヴァランダー・シリーズ」完全攻略

2021.07.09 第18回皆川博子『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』

2021.06.25 第17回ユーディト・W・タシュラー『誕生日パーティー』

2021.06.11 第16回 特別編4D・M・ディヴァイン邦訳作品全レビュー

2021.05.28 第15回ベア・ウースマ『北極探検隊の謎を追って:人類で初めて気球で北極点を目指した探検隊はなぜ生還できなかったのか』

第9回〜第14回

2021.05.14 第14回 特別編3ディック・フランシス「不完全」攻略

2021.04.23 第13回ヨルン・リーエル・ホルスト『警部ヴィスティング 鍵穴』

2021.04.09 第12回恩田 陸『灰の劇場』

2021.03.26 第11回佐藤究『テスカトリポカ』

2021.03.12 第10回高橋泰邦『偽りの晴れ間』

2021.02.26 第9回ロバート・クレイス『危険な男』

第3回〜第8回

2021.02.12 第8回 特別編2 ~SF世界の本格ミステリ~ ランドル・ギャレット『魔術師を探せ! 〔新訳版〕』

2021.01.22 第7回ジョー・ネスボ『ファントム 亡霊の罠』

2021.01.08 第6回清水義範『国語入試問題必勝法 新装版』

2020.12.25 第5回 特別編~クリスマスにはミステリを!~ マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』

2020.12.11 第4回ケイト・マスカレナス『時間旅行者のキャンディボックス』

2020.11.27 第3回エイドリアン・マッキンティ『ガン・ストリート・ガール』

第2回〜第1回

2020.11.13 第2回ジェフリー・ディーヴァー『ネヴァー・ゲーム』

2020.10.23 第1回ジョセフ・ノックス『笑う死体』

画面下の番号リンクから目次の回に切り替えることが出来ます

第98回2025.02.14
初めて月跨ぎの読書日記 ~チャンドラー、再履修(2)~

  • レイモンド・チャンドラー with ビリー・ワイルダー『深夜の告白』(小学館)

    レイモンド・チャンドラー with ビリー・ワイルダー
    『深夜の告白』
    (小学館)

  • 〇読売新聞オンラインにて短編連載しています!

     読売新聞オンラインにて、2月7日から「ビフォア・エスケープ・ブライド」という短編を連載させていただきます。毎日更新でストーリーが読め、読売新聞オンラインの会員以外の方も読むことが出来るようにしてもらっています。

     濱村カイリは決意した。必ず、かの花婿から元カノ・大村茜を奪還すると。そう、「エスケープ・ブライド」と呼ばれる、映画ではよく見るアレ、悪く言えば花嫁の誘拐だった。彼は地元名古屋から式場のある横浜まで新幹線で向かうが、隣の席にはなんと死体があった。他の乗客は誰も気付いていない。しかし、この中に犯人がいるはずだ。カイリが無事横浜に辿り着くには、真犯人を見つけ、死体を押し付けるしかない――。

     という感じの、ブラック風味ユーモアミステリーです。さて、「大村茜」という名前でピンときた方もいるかもしれませんが、こちらは中央公論新社の依頼で書いた短編で、同社から刊行された『脱出 ミステリー小説集』に掲載した短編「屋上からの脱出」と繋がりがあります。どう繋げるか、は今後のお楽しみですが、今回の短編も、さながら「新幹線からの脱出」というべき内容になったと思います。ぜひ。

    〇『チャンドラー講義』の話を先月から引き継ぎます

     1月31日更新の読書日記で、諏訪部浩一『チャンドラー講義』の話をしました。レイモンド・チャンドラーという作家の年代記、そして一作品ごとの変化や試行錯誤について丁寧に拾っていく「講義」は、作品の読みという深さの「縦軸」と、チャンドラーの通史としても通用する「横軸」の強さを兼ね備えた良書です。あらためてオススメしておきましょう。

     さて、私は第38回の読書日記でチャンドラーの新訳『長い別れ』を取り上げ、〝これをメインに持ってきたのは、初読の中学生の頃(清水俊二訳)、二回目の大学生の頃(村上春樹訳)と、全然面白さが分からなかったので、そのことを、恥を忍んで告白したい、という意図があってのことです。〟と述べました。この一節からも分かる通り、実は私、昔からチャンドラー作品が大の苦手なのです。『チャンドラー講義』でも、どの長編がどの短編の再利用か、という有名な話は丁寧に拾ってあるのですが、再利用するのは構わないのだけれど(鮎川哲也などもそうだし)、そういう事実を知らなくても、どうも話が急に飛ぶし、全体的にちぐはぐだと感じてしまうのです。今なんの話をしているんだっけ、とすぐに筋が分からなくなって、翻訳ミステリーに慣れていない中学生の頃には耐えられなかったんですね。なので、『さよなら、愛しい人』も、あらすじに書かれているマロイの恋の話が気になって読み始めたのに、途中から全然違う話になって、「マロイの話はどこにいったんだよ」なんて思いながら、中学の時に途中で止めたのを覚えています。

     そんなわけで、『チャンドラー講義』を読んだ後、1月にはレイモンド・チャンドラー作品を、襟を正して読む試みをしていました。今回のタイトルに(2)と謳ってあるのは、まあ続くかもしれないな、という意味があってのことです。何作か残してしまったので。とはいえ、気分次第なので、続けないかもしれません。

     ということで最初は『さよなら、愛しい人』(ハヤカワ・ミステリ文庫/村上春樹訳)に再挑戦しました(マーロウ第一作の『大いなる眠り』は昔読んだことがあるので、再読は後に回すことにしています)。やっぱり、話が変わるなあという印象こそ変わらないし、有名なカジノ船のシーンが言うほど巧くハマっていない感じがするのは認めるところなのですが、ここでこういう表現を使うんだ、とか、こんなプロットの転がし方でもいいんだ、とか、前よりは楽しく読むことが出来ました。確かにあらすじを書くならマロイの話しか書けないよな。霊能力者が出て来るとか、読むまで本当に知らなかったよ。

     その点、『高い窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫/村上春樹訳)の方がかなり好みには合っていました。これもいろんな話に転がっていってしまう作品ではあるのですが、行方をくらました義理の娘を捜してほしい、という一つの依頼が、古銭という要素によって思わぬ方向へもつれていく話なので、非常にオーソドックスなハードボイルド小説として味わうことが出来たからです。古銭商のうさんくさい感じがとても良い。訳者、村上春樹のあとがきに引用されたチャンドラーの手紙(p.407-408)を読むと、この作品自体が「推理小説としての整合性を欠いている」という批判に応えたもので、チャンドラー自身これを書いても納得がいっていなさそうなので、プロットにこだわる自分の読み方自体が、古臭い読み方なのかなあと反省する所はあるのですが。

     次の長編は順番でいうと『水底の女』……なのですが、『チャンドラー講義』で紹介されていたチャンドラーの戯曲/シナリオが気になるので、そちらを読むことに。前回の読書日記の末尾に書誌情報を記載していますが、もう一度書いておきます。

    ① 「深夜の告白」:レイモンド・チャンドラー withビリー・ワイルダー/森田義信訳『深夜の告白』、小学館、2000年刊
    ② 「青い戦慄」:レイモンド・チャンドラー、マシュー・J・ブラッコリ編/小鷹信光訳『ブルー・ダリア』、角川書店(角川ベストセラー・シリーズ)、1988年刊
    ③ 「プレイバック」:レイモンド・チャンドラー/小鷹信光訳『過去ある女─プレイバック』、サンケイ文庫、1988年刊→のちに同題名で小学館文庫、2014年刊 ※小学館文庫は電子書籍あり。

     この三作品。シナリオなので早く読めるだろうと思い、取り寄せて読んでみたところ……ええっ、これ、全部すごくいいじゃないか。そもそもシナリオが読めるなんて『チャンドラー講義』を見るまで知らなかったので、なんでみんな教えてくれなかったんだ、と思ったのですが、色んな文章で、チャンドラーのハリウッド時代が否定的に言及されるのを見て、そもそも興味がなくなっていたのかな、と思います。「深夜の告白」だって、ビリー・ワイルダーの作品と認識していたし。

     どれか一つお薦めするなら間違いなく①『深夜の告白』。凄すぎる。保険会社のトップセールスマン、ネフが、フィリスという女性に出会って一つの犯罪に巻き込まれる過程を描いたフィルムノワールで、ジェイムズ・M・ケインの『殺人保険』が原作です。チャンドラー、ワイルダー、ケインのいいところも全て凝縮されています。早く文庫化してくれ。とにかく台詞が良いんです。『チャンドラー講義』でもネフとフィリスの歯切れのよい会話が引用されているのですが、ここではもう一つ別の要素として、モノローグに注目してみます。①では登場人物のモノローグが多用されていて、②、③の語りとは異なるので、これはワイルダーの癖なのではないかと思うのですが(論創社から出た戯曲『アパートの鍵貸します』でも、モノローグが魅力的でした)、そうしたモノローグにも台詞の魅力が溢れています。ちょっと引用しましょう。

    〝ネフの声(画面に重なって) 女は俺のことを気に入っていた。それはわかった。欲しいカードが手元にくるのがわかるときの、あの感じさ。テーブルのまんなかに青や黄色のチップを積みあげてな。ただあのときまだわかってなかったのは、俺があの女をもてあそぼうとしてたんじゃなく、その逆だったってことだ。カードに印をつけてイカサマをやろうとしてたのは、あの女のほうだったんだ。そして賭けていたのは青や黄色のチップなんかじゃなかった。とてつもなく危険なものだった。暑い午後だったよ。まだ覚えてる。通りに充ちてたスイカズラの匂い。わかっておくべきだったな。殺しがときには蜜の匂いをさせることがあるなんて。あんただったら、わかったかもしれないよ、キーズ。あの女が「事故の保険」って言ったときにな。でも俺にはわからなかった。ただ、大金持ちになったみたいな気分だったんだ。〟(『深夜の告白』、p.23-25)

     ノワールというものの魅力を濃縮して刻み付けたような、グッとくるモノローグです。一瞬の眩さも、愚かしさも、破局への予感も、全てがある。ちょっと語り過ぎで、チャンドラーの小説に登場することはあり得ないと思わされるセリフですが、それだけに、心に残った箇所です。文中に登場する「キーズ」とはネフが勤める会社の「請求審査部部長」で、彼は作中でネフに起こる悲劇を見つめる役目が与えられています。ここも巧い。ラストシーンがとても良く、早く映画でも見たいと思わされました(1月はちょっとバタバタしていて、見る余裕がありませんでした……)。

     ②『ブルー・ダリア』という本は、本文の他、俳優ジョン・ハウスマンによる回想記「失われた二週間」、編者マシュー・J・ブラッコリによる「チャンドラーとハリウッド」で構成されています。本文の内容は、言葉を選ばずに言えば、ちぐはぐな感じが拭えません。海軍少佐であるジョニー・モリスンが妻を殺され、その犯人を捜す物語ですが、様々な要請によって犯人と結末を書き換えられてしまった、という経緯があります。しかし、その「ちぐはぐ」な出来栄えの答えが、「チャンドラーとハリウッド」の中で明かされるところが刺激的でした。P.220で明かされた「本来の」チャンドラーの構想は、マーロウ物語としては絶対に達成しえないものですが、「私立探偵小説」のプロットとしては極上の構想です(奇しくも2000年代制作のある映画を思わせます)。裏話も含めて――というか、オーディオ・コメンタリーめいた注釈こそが面白い作品です。そのために本文を読む価値があります。

     ③『過去ある女 ―プレイバック』は、チャンドラーがシナリオを書いたものの、結局映画は制作されず、本人が晩年に小説にリライトしたという経緯をもつ作品です。正直小説版も苦手なので、気が進まなかったのですが、ここまできたら読もうと気合いを入れて読みました。ところがところが、これが面白い。小説『プレイバック』を読んだのは中学生の頃なので、成長したせいなのか、と思って、昨年4月に創元推理文庫で出た『プレイバック』新訳と引き比べながら読んだのですが、やっぱり最初のシーンからもう全然違う。読み比べて思わされたのは、私立探偵というパーツは、ここまで小説の「型」を規定するのかという当たり前の事実でした。

     ③の冒頭は、過去を持つ女にして本作の中心人物、ベティ・メイフィールドと、ジゴロのラリー・ミッチェルが列車内で出会うシーンから始まり、(脚本だと非常に分かりづらいのですが)二人の会話に検札をする移民局員の声が被さる――という演出がなされています。こういう演出自体が映画的にすぎるとはいえ、①のト書きよりもくっきりと情景がイメージ出来るように書かれていて非常に魅力的です。殺人事件について、刑事たちがディスカッションを交わすシーンも、会話のテンポが良くてすいすい入ってきます。ラストシーンも非常に良い。エンドロールまで完璧に見えましたねえ。これどこかで映画にしてくれないかな……。

     シナリオ版を読んだうえで小説版『プレイバック』を読み直すと、やはりマーロウを強引に登場させたことによって生まれている展開や味もあって、シナリオ/小説にはどちらも一長一短あるのですが、個人的には、シナリオを読んで評価が高まりました。これ2014年に小学館文庫で復刊されていたのか……大学2年生? まあそうか……チャンドラーに興味の無かった頃だな……同世代の言及もあまりなかった……。

     ということで、1月のチャンドラー読了はここまで。残っているのは初読が『水底の女』『リトル・シスター』、再読が『大いなる眠り』です。『長い別れ』は第38回で読んでいるのでいいかな……。何か進捗があればまた書くかもしれません。とにかく、シナリオ読んでみて良かったなあ。ちゃんと好きになれました。

    (2025年2月)

第97回2025.01.31
その偉業に襟を正して ~チャンドラー、再履修~

  • 諏訪部浩一『チャンドラー講義』(講談社)

    諏訪部浩一
    『チャンドラー講義』
    (講談社)

  • 〇告知から

     1月末発売のポプラ社「季刊asta VOL.14」に、〈失恋名探偵〉シリーズの第四話「ポイズン・レター」が掲載されています。好きになってしまった相手が必ず犯人になってしまう不幸体質の男子高校生、隆一郎が、名探偵を目指す女子高生、花林に使役される連作短編シリーズなのですが、隆一郎の方は、花林に好きな相手がいると見抜かれると必ず引き裂かれてしまう運命にあるので、なるべく隠そうとする――という関係性にあります。第四話になる「ポイズン・レター」では、隆一郎の方からなぜか依頼を持ち掛けてくる、というフックを作りました。

     その内容は、文化祭の日程中に下駄箱に投函された無記名のラブレターの差出人を特定してほしい、というもの。かくして花林は手紙のみを手掛かりに、校外参加者も含めた無数の人々の中から、たった一人の差出人を特定しようとする――という趣向です。これまでのシリーズで一番短い短編ですが、やりたいことはやれたので満足です。ぜひ。

    〇再びの短評集

     前回の国内編に続いて、今回も海外編の短評集をお送りいたします。以下は取り上げる作品のリストです。最後のやつは国内の評論なので本来なら前回の読書日記に回すべきですが、チャンドラーの話なのでこちらに含めることにしました。

    〇フランシス・ハーディング『ささやきの島』(東京創元社)
    〇ジョー・ネスボ『失墜の王国』(早川書房)
    〇レックス・スタウト『シャンパンは死の香り』(論創社)
    〇諏訪部浩一『チャンドラー講義』(講談社)

     フランシス・ハーディング『ささやきの島』(東京創元社)は、死者の魂を載せる船の渡し守を描くファンタジーですが、著者のこれまでの作品とは異なり、120ページぐらいの横書きの小説で、エミリー・グラヴェットの挿絵を豊富に掲載したYAファンタジーとなっています。渡し守だった父が殺されてしまい、怖がりのマイロが代わりを務めることになる――という筋なので、『嘘の木』『ガラスの顔』などの過去作と同じくまたしてもミステリーとみることが出来なくもないのですが、これは豊富な挿絵を楽しみながら、いつもながらのハーディングの語りに身を任せるべき作品でしょう。特に、終盤には挿絵を利用した実に心憎いエンドロールがあり、ここにグッときてしまいました。劉慈欣『火守』も同種の絵本としてかなり楽しめましたし、こういう、サクッと読める作品で入門するというのもいいかもしれません。

     ジョー・ネスボ『失墜の王国』(早川書房)は、著者の新たな代表作といえるノワール小説。500ページ超え二段組という威容は、正直読み始めるのをためらうほどで、おまけに読み始めてもなお、兄弟に関する挿話と、村に残った兄・ロイの元に、弟のカールが帰ってきて、しかも妻を連れていたというシチュエーションのもと、兄の仕事まわりの不穏なエピソードと、弟の妻との不審なやり取りが点描されるばかりで、肝心の「彼らの過去に何があったのか?」という部分がなかなか明かされません。じりじりするような読み心地に戸惑いながら、我慢に我慢を重ねていると、兄が抱えている「罪」が三分の一程度の位置で遂に明らかにされる。ここからは、とんでもなく面白い。

     序盤にじっくりと蒔いた不穏の種が少しずつ芽を出し、逃れられない破局へと傾いでいく過程は、まさに極上のノワール小説。兄弟の過去がとくにしんどくて、読んでいる間はかなり気持ちが塞ぎます。兄と弟、そして父の歪んだ関係性を描く中盤は読みごたえたっぷり。兄弟の罪を追いかける保安官のどっしりとした重さも良いですし、何より、弟の妻・シャノンの妖しさが出色です。終盤の凄絶さ(グロテスクという意味ではなく、精神的なエグさ)には思わず絶句してしまうほどで、ノワールらしい大破局に魅せられてしまいました。ネスボはこれまで、『その雪と血を』『真夜中の太陽』などのノワール作品を発表してきましたが、これらは短いなかにエモーショナルな感動を詰め込んだ作品でしたが、『失墜の王国』は質・量・内容全てが重量級の戦車のようです。忘れがたい収穫として覚えておきたいと思います。

     レックス・スタウト『シャンパンは死の香り』(論創社)は、著者の作品の中でもかなり王道のフーダニットに寄せた作品。探偵アーチー・グッドウィンが急遽招かれたパーティーの席で、彼は毒殺事件に遭遇。パーティー会場にいた容疑者は11人。誰が毒を入れたのか? ネロ・ウルフ、今回は毒殺トリックに挑む……というシロモノ。キャラクターもしっかり立っていて、いかにも黄金期の本格ミステリらしい作品として幕を開けます。だからこそ、いわゆる本格ミステリらしさから、奇妙に外れていくスタウトの筆さばきを味わうことが出来ると思うのです。それが、本書をオススメしてみたい大きな理由である。たとえば、アメリカの私立探偵らしいシーンとして、もうこれ以上私たちの身辺を探るなと脅しをかけにくる容疑者たちの姿が描かれるのですが、ここに当の依頼人が仲間の誘いを断れずに混ざっていて、気まずそうにしている、なんていうシーンをスタウトは延々書いてしまう。こういうしょうもなさと、ネロ・ウルフの鼻もちならなさが実に笑えてくるのです。ネロ・ウルフを褒めちぎり始めるアーチーの地の文など、抱腹絶倒。

     謎解きとしても、こういうあらすじだと毒殺トリックに注目してしまいがちですが、トリックはそれ単体では非常に味気ないもので、むしろその事実を導き出す「再現」の演出に面白さがあると言えます(思えば、アーノルド・ゼック三部作の劈頭を飾る『Xと呼ばれる男』も毒殺ものなのですが、あちらも、トリックだけを取り出せば他愛ないものの、人間心理に根差した「謎」の作り方という観点から見ると非常にユニークなのです)。ネロ・ウルフという探偵がどう容疑者に揺さぶりをかけるのか、という手腕が堪能出来るのです。ネロ・ウルフはさらにある事実を立証するため、解決編においてある効果を狙って仕掛けを施すのですが、このシーンはスタウトらしい喜劇で、いい意味で人を馬鹿にしています。ここも笑いました。本書は1958年に原著が刊行されていますが、翌年に刊行された『殺人は自策で』も盗作をテーマにした鋭いフーダニットだったので、油の乗った時期だったと言えるのかもしれません。あと、本書巻末の「訳者あとがき」では、アーノルド・ゼック三部作の刊行も予告されています。こちらも楽しみでなりません!

    〇レイモンド・チャンドラー、再履修

     諏訪部浩一『チャンドラー講義』(講談社)は、「群像」に一年間かけて掲載された諏訪部浩一による「講義」の書籍化です。諏訪部浩一による「講義」といえば、『ノワール文学講義』『『マルタの鷹』講義』を思い出すところです。前者はノワール作品の勃興と発展を映画(フィルム・ノワール)にも目配りしながらまとめた本で、いわば「ノワール」というものの通史の側面もある一冊です。

     後者はダシール・ハメット『マルタの鷹』を一章ごとに分けて精読し(重要な章は複数回にまたいで解説される)、その内容を精査するものです。端的に言えば、『マルタの鷹』という小説がどのような構成を持ち、どのような意図でこの表現が書かれ、なぜこのような真相なのか、ということを一つ一つ、薄皮を剥ぐように解き明かし、『マルタの鷹』という小説を丸裸にしてしまう本なのです。『マルタの鷹』と併読すると、一週間に一度、諏訪部浩一の講義を生で聞きに行くような、そんな幸福な感覚を味わえる一冊でもあるのです。

     だから『チャンドラー講義』を手に取った時、私は後者のスタイルを想起しました。チャンドラーの作品について、その一つ一つの表現や登場人物の深層に分け入っていき、精読していくという営為。しかし、その予想は目次を見た瞬間に裏切られることになりました。イントロダクションにあたる第一講を終えると、チャンドラーの作品を時系列で追いかけていき、『大いなる眠り』から『プレイバック』までを順に辿るのはもちろんですが、何より驚いたのは第二稿「チャンドラー以前のチャンドラー ――詩とエッセイ」と第三講「パルプ作家時代 ――短編小説」です。ここまで辿るか、と唸らされました。考えてみれば、短編小説については、いかに長編の中に再利用されているか――という話しか、今までは聞いたことがなかったように思います。第三講では、一人称小説とチャンドラーの接近という観点から、のちに「マーロウ」の物語として語り直された作品にも着目していますし、第二講の詩を踏まえると(恥ずかしながら、チャンドラーの詩を初めて読みました)、チャンドラーが「ブラックマスク」誌に短編小説を書くことの意味が、評伝的に浮かび上がってくる。このあたりが面白い。

     また、『大いなる眠り』(第四講「マーロウ登場」)を踏まえたうえで『さよなら、愛しい人』(第五講「シリーズの始まり」)を読むと、チャンドラーがどのようにしてシリーズを進めようとしていたか、その手つきが見えてくるといったあたりも読み応え十分でした。第二長編である『さよなら、愛しい人』を「シリーズの始まり」と呼ぶのは奇妙な感じがするかもしれませんが、作家にとって、「シリーズ」を動かさないといけないのは二作目だ、という指摘には、まさしくと頷きたくなります。ある意味で、チャンドラーという作家を身近に感じるための全12講でもあるのです。

     つまり、これは『『マルタの鷹』講義』のように、作品の内容に踏み込んでいく縦軸(深さ)の強さを前提としながら、チャンドラーという作家の苦闘と歩みを生涯にわたって辿る横軸(広さ)をも見せてくれる充実の一冊なのです。この横軸は『ノワール文学講義』の強みと共通する部分があり、だからこそ、やはり、諏訪部浩一の文章を読むのが好きだなと思わされます。

     著者らしいと思わされ、かつ、著者でなければこれほど重きを置いて指摘できないだろうと思うのは、第八講「チャンドラー、ハリウッドへ行く ――映画シナリオ」です。実は、作者自身が注で指摘する通り、映画「深夜の告白」(監督ビリー・ワイルダー、脚本レイモンド・チャンドラー。原作はジェームズ・M・クイン『殺人保険』)の重要性については『ノワール文学講義』でも詳しく語られていたところではあるのですが、それはフィルム・ノワールと小説の出会いという観点であったので、『チャンドラー講義』はチャンドラーの視点からみた意義が分かって面白い。未完成も含めたシナリオ参加作品のリストや会話劇の抜粋を読むだけでも興味津々ですし、どこかが「レイモンド・チャンドラー シナリオ集」を出してくれないかと願うばかり。

     とはいえ、夢ばかり見ていても仕方がないので、著者が「少なくとも」「チャンドラーのキャノンとして認知され、広く読まれるようになることを期待したい」と第八講の末尾で述べている三つのテキストについては注文してみました。書誌情報として以下に書き加えておきましょう。まずは私も襟を正して、以下の三つのテキストを読みたいと思っています。かつて「講義」を受けた教授から、久しぶりに課題を出された気分です。やったるぞー。

    ① 「深夜の告白」:レイモンド・チャンドラー&ビリー・ワイルダー/森田義信訳『深夜の告白』、小学館、2000年刊
    ② 「青い戦慄」:レイモンド・チャンドラー、マシュー・J・ブラッコリ編/小鷹信光訳『ブルー・ダリア』、角川書店(角川ベストセラー・シリーズ)、1988年刊
    ③ 「プレイバック」:レイモンド・チャンドラー/小鷹信光訳『過去ある女─プレイバック』、サンケイ文庫、1988年刊→のちに同題名で小学館文庫、2014年刊 ※小学館文庫は電子書籍あり。

     ちなみに、本編では書き切ることが出来ず申し訳ないのですが、ビリー・ワイルダーに関連して一つだけ。論創社から刊行されたビリー・ワイルダー/ I・A・L・ダイアモンド『アパートの鍵貸します』は、同題の名作映画の脚本が読めるというだけでかなり充実の内容ではあるのですが、全編にわたって著者のインタビューからの抜粋情報や訳者による評価ポイントの指摘が脚注としてびっしりと書かれ、さらにはワイルダー映画を愛する三谷幸喜のインタビューまで収録しており、とんでもない本です。持っておくべきでしょう。『アパートの鍵貸します』を読み終わった直後、『チャンドラー講義』で「深夜の告白」の話で再度ワイルダーと出会うこととなり、驚いたという話でした。

    (2025年1月)

第96回2025.01.17
いつだって胸を熱くさせる青春小説 ~ザ・ゾンビーズ13年ぶりの帰還~

  • 金城一紀『友が、消えた』(KADOKAWA)

    金城一紀
    『友が、消えた』
    (KADOKAWA)

  • 〇新年の挨拶と宣伝

     あけましておめでとうございます。今年も読書日記をよろしくお願いいたします。小説も頑張っていきますので、そちらの方もよろしくお願いしますね。

     さて、ということで新年一発目の小説は、「小説新潮」の〈夢見灯の読書会〉シリーズの最新短編です。タイトルは「三階の窓」。タイトルの元ネタは江戸川乱歩小酒井不木らが参加したリレー小説「五階の窓」です。そう、今回のテーマはリレー小説なのです。

     夢見灯という女子大生が読書会を開いて紅茶を振る舞うと、紅茶を飲んだ人物を夢の世界に引きずり込むことができ、彼らに探偵役や被害者役をキャスティングして、課題本そっくりの事件を起こす――というのがこのシリーズの基本設定で、これまでに、カー、クリスティー、クイーン、法月綸太郎の作品をモチーフにしてきました。一話で一カ月作中時間が進むので、第五作にあたる「三階の窓」の時期は八月。夏休みですね。そこで、今回は変化球として、合宿に行ったサークルメンバー六人が、徹夜でリレー小説を書き上げ、それが犯人当てになっている――という趣向を書いてみました。

     というのも、「徹夜でリレー小説を書き上げる」というのは、私が所属していた大学サークル「新月お茶の会」の伝統行事だったんですよね。サークルメンバーの好みが如実に反映されるので、第一走者が特撮風に書き始めたと思いきや、第二、第三走者を経るとSFまっしぐらになって、最後にはオールジャンルのごった煮に――なんてことも珍しくなく、正直クオリティーは度外視です。ただ、この行事自体は非常に面白いものなので、いつかこの仕組みを利用した小説を書きたいと思っていたのです。

     結果、サークルメンバー六人の個性もいつも以上に書き込むことが出来た短編になっていると思います。〈夢見灯の読書会〉連作は、来年の書籍化を見込んでいますが、「三階の窓」は単体で読んでも結構面白いものに仕上がったと思いますので、気になる方は、今年の「小説新潮」2月号をぜひ。

    〇短評集をお届けします

     さて、年末年始はバタバタしながらの読書だったので、一冊を深く、というより、色んな作品に短評で触れていくスタイルをとろうと思います。あらすじの紹介なども適宜、という形にしますので、気になった本は調べてみてください。ということで1月の前半分は国内編からです。以下は、取り上げる作品のリスト。

    〇鮎川哲也『占魚亭夜話 鮎川哲也短編クロニクル1966~1969』(光文社文庫)
    〇宮内悠介『暗号の子』(文藝春秋)
    〇澤村伊智『頭の大きな毛のないコウモリ 澤村伊智異形短編集』(光文社)
    〇井上真偽『引きこもり姉ちゃんのアルゴリズム推理』(朝日新聞出版)
    〇金城一紀『友が、消えた』(KADOKAWA)

     まずは鮎川哲也『占魚亭夜話 鮎川哲也短編クロニクル1966~1969』(光文社文庫)。光文社文庫のシリーズ〈鮎川哲也短編クロニクル〉は、一冊目『夜の挽歌』が既に出ており、『占魚亭夜話』は二冊目。来月には完結巻となる『絵のない絵本』が刊行予定です。さて、『夜の挽歌』は、鮎川哲也の倒叙推理のレアなところがたくさん収められていて、なかなか幸福感のある作品集でしたが、『占魚亭夜話』でもその流れは健在。「濡れた花びら」などは典型的な倒叙として楽しめましたし、意外なところにオチる「黒い版画」なども嬉しい。個人的には表題作である「占魚亭夜話」をようやく読めたのも感慨深いです。こちらは雑誌未発表の短編で、今までは『鮎川哲也読本』でしか読むことが出来ませんでした。かなりストレートな犯人当て短編で、遊覧船の上の殺人事件という趣向も楽しく、満足でした。

     宮内悠介『暗号の子』(文藝春秋)は著者三冊目のノンシリーズ短編集。初出誌はさまざまで、アメリカ発のテクノロジー誌「WIRED」の日本版などもあり、よりレアなところでは「トランジスタ技術」の名前に驚かされます(著者の短編「トランジスタ技術の圧縮」〈『超動く家にて』)収録〉を読んだ人なら思わずニヤリとするのではないでしょうか)。様々な掲載紙の特徴を反映してか、バリエーション豊かな作品が揃っている印象です。特に感慨深かったのは表題作「暗号の子」。VR世界で結成された団体「クリプトクリドゥス」のメンバーが無差別殺傷事件を起こしたことにより、主人公が遭遇する騒動とその顛末を描いた中編で、完全自由主義とテクノロジーに相対する人間の姿を現代のリアルで描いた力作ですが、何より衝撃を受けたのは末尾の参考文献にG・K・チェスタトン『木曜の男』が挙げられていることでした。『木曜の男』は私にとってはミステリーでしかなく、半ば冗談交じりに「秘密結社ミステリー」のはしりと呼称することもあったくらいで、その思想的な部分に触れたと思えたことはありませんでした。だから、一つの古典から引き出せるものがこれだけ違うのかと、己の不勉強ぶりを恥じたのでした。そうした衝撃も含め、忘れがたい一冊です。他のお気に入り短編は「ローパス・フィルター」「行かなかった旅の記憶」

     澤村伊智『頭の大きな毛のないコウモリ 澤村伊智異形短編集』(光文社)は、著者が井上雅彦のアンソロジー『異形コレクション』シリーズに寄稿した短編六つと、山口雅也のアンソロジー『甘美で痛いキス 吸血鬼コンピレーション』に寄稿した短編一つの計七つの短編に、書き下ろしの「自作解説」を付した短編集。『異形コレクション』に発表した作品はなかなか作品集にまとまらないイメージがあったので、最近は斜線堂有紀『本の背骨が最後に残る』なども刊行されて嬉しい限りです。既読作品の中では、ゾンビホラーの文脈にとても厭なルールを付け加えて、絶妙の後味を生み出している「ゾンビと間違える」や、某アイドルのバスツアーをモチーフにしたと思しき結構と、アイドルオタクたちの語りにどこか薄ら寒さを覚えるくびるまたはるバスツアーにまつわる五つの怪談」がお気に入りです。未読だった『甘美で痛いキス』の掲載作品「頭の大きな毛のないコウモリ」は、乳児の母親と保育士の間でやり取りされる「すくすくのーと」という交換日記に目を付けた構成が妙で、緩急の付け方に膝を打ちました。そして書き下ろしの「自作解説」ですが……これは、すごいぞ。一つだけ言えるのは、絶対に最後に読んでくれということだけです。都筑道夫や法月綸太郎、霧舎巧など、多くの作家の「自作解説」を見てきましたが、正直初めて見る趣向でニヤリとさせられました。

     井上真偽『引きこもり姉ちゃんのアルゴリズム推理』(朝日新聞出版)は、同社の児童ミステリーレーベル「ナゾノベル」から刊行された一冊。学校教育でも必修化されたというプログラミングについて、その基礎となるアルゴリズムを推理短編の形で楽しく学ぼう――という趣向の作品です。中編三つにエピローグにあたる短いエピソードが一つ、合間に「姉ちゃんのアルゴリズムノート」と題したコラムが配されるという構成で、プログラミングについては何も知らない私でも分かりやすい。普通に推理しても解き得る謎を、あえてアルゴリズムを介して解く趣向で統一したミステリーパートも、著者らしさが溢れていてユニークです。これは論理学を駆使して真相当てを繰り広げる著者のデビュー作『恋と禁忌の述語論理プレディケットの変奏といえるでしょう。著者が得意とする形のプレゼンテーションが、時を経て蘇ったような感慨を覚えました。児童向け小説ということもあり、二重の「懐かしさ」を感じた収穫です。

    〇〈ザ・ゾンビーズ〉シリーズ、13年ぶりに復活!

     金城一紀の〈ザ・ゾンビーズ〉シリーズが13年ぶりに復活した新作『友が、消えた』(KADOKAWA)。その感動を語るために、シリーズとの出会いから遡って語ってみることにしましょう。

     第一作は『レヴォリューションNo.3』(角川文庫)……随分懐かしいタイトルです。むさぼるように小説を読んでいた中学2年生、2008年に文庫化されて手に取り、そのあまりの馬鹿馬鹿しさと眩いばかりのきらめきに胸打たれて、一気に虜になりました。『レヴォリューションNo.3』には三編の中編が収められています。オチコボレ高校に通い、「殺しても死にそうにないから」という理由でザ・ゾンビーズと呼ばれる高校生たちが主人公で、表題作では、ガードの堅いお嬢さま学校の城砦を突破し、学園祭でナンパをする! という心底くだらない「作戦」が描かれます。彼らをそそのかした生物教師の「君たち、世界を変えてみたくはないか?」というセリフも、そこだけ切り出せばカッコいいけど、内容は結構危なっかしいし、過去二年間の「作戦」の失敗ぶりを語るところでもう笑いが止まらないのですが、ここにサブプロットとして、病床にいる友人のエピソードが描かれると、馬鹿馬鹿しさの中に、一瞬の輝きを得ようとする少年たちの熱が一層強く感じられてきます。最後まで読むと、泣いてるんだか、笑っているんだか、自分でも分からないまま、最高だ、という気分で本を閉じることが出来る。その熱が忘れがたく、『レヴォリューションNo.3』は、私の中で忘れがたい一冊になっていたのでした。

     シリーズの他作品でいえば、第二作『フライ、ダディ、フライ』も素晴らしい。47歳のサラリーマン、鈴木一はある日娘を不良高校生に傷つけられ、彼への復讐を果たすためにナイフを持って高校へ――しかし、彼は間違えてオチコボレ高校に来てしまい、あのザ・ゾンビーズたちに出会ってしまった! この強引な流れだけでくすりとくるのですが、鈴木の思いを知ったザ・ゾンビーズの一員、朴舜臣パク・スンシンにひと夏の間、体を鍛えてもらうことに。この鍛錬パートと、最後の試合がとにかく熱い。父としての誇りを取り戻すための熱く、険しい戦い。己のうちに潜む恐怖に打ち勝つための旅が、これほどまでに強く胸を打つ。ラストはもう手に汗握りっぱなしです。これぞ冒険小説の感動。そう、この小説群は青春小説であると同時に、ちょっとだけズレた日常を舞台にした冒険小説なのです。その芯は、第三作『SPEED』にも、第四作『レヴォリューションNo.0』にも一本通っています。

    〝これから僕が話そうと思っているのは、僕たちのちょっとした冒険譚であり、また、僕たちの《変化》に関する物語だ。〟(「ラン、ボーイズ、ラン」〈『レヴォリューションNo.3』収録〉、p.78)
    〝いまから私が話そうと思っているのは、私のひと夏の冒険譚だ。〟(『フライ、ダディ、フライ』、p.9)
    〝いまからわたしが話そうと思ってるのは、わたしの生まれて初めての冒険の話だ。〟(『SPEED』、p.7)
    〝これから話そうと思っているのは、僕と仲間たちの生まれて初めての冒険譚だ。〟(『レヴォリューションNo.3』、p.7)

     ここでしつこく「冒険」の始まりを告げる一節を引いてきたのは、13年ぶりの復帰作『友が、消えた』においては、この「冒険」という言葉が本文中から消えていることを強調するためです。語り手の南方は大学生となり、結城という大学生にある相談を持ち掛けられるが、彼は「祭りの日々は終わったのだ」(p.9)と地の文で語る。では冒険のエッセンスはなくなったのかといえば、そうではない。冒頭には、レイモンド・チャンドラーのこんな言葉が引かれる。〝冒険にふさわしい者が秘められた真実の探求を行えば、それはおのずと冒険譚となる。〟

     そう、これもまた、〈ザ・ゾンビーズ〉の血を引く「冒険譚」なのです。しかし、その意味合いは違います。『友が、消えた』はハードボイルド小説のスケッチを行うことを冒険で宣言しているのです。失踪した結城の友人を追って、大学の友人たちの裏に隠されたある暗い秘密を探り出してしまう――という筋立てはまさしくハードボイルド小説のものです。南方がとある俳優に気に入られ、彼のもとでバイトに勤しんでいるという設定も、どことなく昔ながらの若手私立探偵っぽくて面白い。

    〈ザ・ゾンビーズ〉シリーズがハードボイルド小説に接近するのは初めてのことではありません。重要なのは、『レヴォリューションNo.3』に収録された中編「異教徒たちの踊り」でしょう。ここでは、大学生の吉村恭子がストーカーに悩まされている――というのが最初の謎になっていて、ザ・ゾンビーズの面々はかなりストレートなハードボイルド小説のプロットに則って犯人を特定し(語り手の南方は「ハードボイルド路線」に自己言及するし、ギャビン・ライアル『もっとも危険なゲーム』を冒頭で読んでもいます)、最後には、その犯人との直接対決まで描かれます。この世の「クソみたいな現実」を煮詰めたような犯人が登場する小説であり、冒頭に挿入された寓話が重く響いてくる作品です。著者がこの中編を意識しているのは、『友が、消えた』に「異教徒たちの踊り」の重要人物が再登場することからも明らかです。

     このシリーズは、現実のままならなさへの反発を、青春小説として、ハードボイルド小説として表現し続けてきました。だから「祭りの日々は終わった」と嘯く大学生の南方が、ハードボイルドの路線に行きつくのは必然でもありますし、「異教徒たちの踊り」で表現した「クソみたいな現実」が、単行本の刊行(2005年)から20年経った今も何一つ変わっていないことに対する抗議でもあるのでしょう。だから、『友が、消えた』の20章、21章は、こんなにも感動的なのです。泣かせるのです。年を経ても、大学生になっても、大切にしたいものは変わらない。

     ラストシーンも素晴らしい。海外ドラマの鮮やかな幕切れを見るような、実にすがすがしいシーンです。13年ぶりに、素晴らしい再会でした。

    (2025年1月)

第95回2024.12.27
脅威の邦訳第二作 ~ジャニス・ハレット、またしても~

  • ジャニス・ハレット『アルパートンの天使たち』(集英社文庫)

    ジャニス・ハレット
    『アルパートンの天使たち』
    (集英社文庫)

  • 〇ジャニス・ハレットの新作がきた! のだが……

     11月の集英社文庫からは待ち侘びていた作品が登場。ジャニス・ハレット『アルパートンの天使たち』(集英社文庫)がそれです。2022年に同作者の『ポピーのためにできること』が邦訳紹介され、私は衝撃を受けたのでした。全編700ページ以上がメールやSNSでのやり取りなどの書簡のみで構成され、その膨大な情報の中から真実を摘まみ上げる――という枠組みで書かれたこの小説は、確かに読むのに骨が折れる難渋な小説ではありましたが、代わりに、核となる発想に鮮やかな反転が仕込まれており、登場人物たちの証言のズレから生じるゾクゾク感も十分で、本格ミステリーとしても高い評価をつけたのでした。

     そんな作家の、邦訳第二作です。期待しないわけがありません。そして開いて即、驚愕。ええっ! この作者、またこの形式でやってるの!?

    『アルパートンの天使たち』は、2003年に起きた、ロンドン北西部の廃倉庫でカルト教団の信者数人の死体が見つかった事件について、2023年の現代から犯罪ノンフィクション作家アマンダ・ベイリーが調査し、本に仕立てることを構想する……という小説です。当時のカルト教団のメンバーたち、現場に駆けつけ、捜査をした警官たち、あるいは、過去の事件に見せられて映画や小説を書いたクリエイターたち……といった複数の人間関係の環の中から、アマンダは真相を探り出そうとします。アマンダには、ライバル的存在である昔の同僚オリヴァーがいて、自分が録音した取材データを書き起こしてくれる有能な元アシスタント、エリー・クーパーがいて、エージェントもいて……というように、アマンダを中心とした人間関係の円も描かれていて、これだけなら、イギリスの演劇世界を舞台にした『ポピー~』と仕立ては変わらないように見えます。

     しかし、この二作には大きな違いがあります。『ポピー~』という作品は、良くも悪くも、ゲーム的に仕立てられた小説です。中心となるのは殺人事件ですが、この事件は、ロデリック・タナー勅選弁護士により既に検討が済んだ状態であり、膨大なデータを司法実務実習生であるオルフェミ(フェミ)・ハッサンとシャーロット・ホルロイドに送り、考えさせる、というプロットの小説です。ロデリックは、「さて、これを読んで、きみたちはどう考えるかな」と、これがテストであることを隠そうともしません。

     つまるところ、この小説では、フェミとシャーロットが謎を解こうが解くまいが、究極的にはどうでもいいのです。作中現実での解決は、ロデリックによりつつがなく行われることが期待されており、フェミとシャーロットに課されたのは、あくまでもテストに過ぎないのですから。それが、ゲーム的であると言ったことの意味です。主人公二人=読者は安全地帯に置かれ、その安全地帯から資料を読んで、一瞬だけ退屈なスリルを享受する。非常にイギリスミステリー的で、帯に「21世紀のアガサ・クリスティー」と謳われたのも頷ける牧歌的な雰囲気があの小説にはありました。

     一方、『アルパートン~』はどうか。ここに描かれるのは、生の素材に、それも、答えの分かっていない事件に立ち向かっていくアマンダの姿です。時系列順にデータをまとめていく、という方針は『ポピー~』と同様であるため、Aという人物とアポイントを取るメール→Bという人物に会った時の会話の書き起こし→Cという人物から届いた先日のメールに対する返信といったように、限りなく話題が移り変わり、ともすれば読者が道しるべを見失いそうになるところは共通していますが、代わりに、キャラクターの強さが盛り込まれました。アマンダ周りの登場人物たちはいずれも魅力的で、同じ事件について扱おうとして対立するアマンダとオリヴァーの口喧嘩は時に痛快ですし、アマンダの取材を書き起こす際、たびたび[EC記]として自分のコメントを残してチクチク注意したり自分の意見を言うエリー・クーパーのエスプリもいい(この「コメント」には、メディア的なくすぐりの意図も感じますが、より類似を感じるのはホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』における、「一人時間差ツッコミ」でしょう。ピップは自分の取材時の声を書き起こしの時に聞き直し、うわ、私こんなこと言ってる、などのツッコミを自分に施します)。

    『アルパートン~』では、当時生後間もない乳児だった、信者同士の「赤ちゃん」が行方不明になっているという謎が中心を貫いています。思えば『ポピー~』のタイトルになっている「ポピー」も、作中に登場する2歳の女の子のことでした。一人の子供をプロットの中心に据え、その存在の謎で引っ張っていくところは、二作とも共通しているようです(作者のこだわりなのでしょうか)。とはいえ、『ポピー~』では、ロデリックが事件の全体像を示さず、ありのままに実習生二人に検討させるせいで、先を見通しづらくなっていましたが、今回はそこも見事にクリアーされています。アマンダの取材の大本丸がこの「赤ちゃん」の行方であり、調べれば調べるほど不可解な点が見つかっていくため、大きな謎としての求心力が最後まで衰えないのです。

     今回はメールや書き起こしなどに加えて、「脚本」がテキストの一種として加わったのも、大きな特色です。ジャニス・ハレットは脚本家としての経歴を持ち、テキストでの会話によって人間関係の輪郭を描いていくところにも、以前から強みが現れていましたが、遂に本職の実力が解放されたといった感じです。脚本家の特異なキャラクターも含めて、この脚本パートの面白さは無類。ところで、ハレットって、脚本だと結構ト書き書くのね。

    『ポピー~』から『アルパートン~』へ至る進化をいくつも辿ってきましたが、じゃあ『ポピー~』はダメかというと、そういうことではありません。むしろ、『ポピー~』がクリスティー流の本格ミステリーだ、というのには同意しますが、違う書き方を選択して書かれた『アルパートン~』は、同じ女流作家でもミネット・ウォルターズとか宮部みゆきの面白さに近いのです。起こってしまった事件が、作中人物たちの現実を歪ませていく、その重くて昏い読み味が、こうした作家の世界観に繋がっている、とでも言いましょうか。ともあれ、その重さ、昏さが、面白いのです。

     衝撃の結末を読んで私が想起したのは、90年代に日本で発表されたある警察小説です。奇しくも、同じくカルト教団を扱った小説でした。その小説が持っていたやるせなさ、切なさが、この『アルパートン~』でも遺憾なく発揮されている。しかし、全く違う形で発揮されているのです。そこに私は感動を覚えました。或るトリックによって●●と作中人物の断裂を明かし、その空隙にやるせなさの楔を打ち込んだ日本のその作品と、「文書記録によってのみ再構成された事件の記録」という、序盤から示されていた小説の枠組みが意味を持って立ち上がってくる『アルパートンの天使たち』。いずれもすごい。

     謝辞には、本書の成立にはミシェル・マクナマラ『黄金州の殺人鬼――凶悪犯を追いつめた執念の捜査録』(亜紀書房)が関わっているということが明かされています。十年以上にわたって強盗、強姦、殺人を繰り返した殺人鬼「ゴールデン・ステイト・キラー」の存在を暴いて自ら名づけ(複数の州をまたぐため、そもそも事件が顕在化していなかった)、その手口に迫り、遂に逮捕にまで至った、その劇的なノンフィクションは、ミシェルの死後、夫らが記録を引き継いで完成させたという凄絶な経緯を持つ本です。その凄絶な経緯は、恐らく、海外での「実話犯罪(トゥルー・クライム)」ものの隆盛に一役買っているものと思われます。キャサリン・ライアン・ハワード『ナッシング・マン』も、『黄金州の殺人鬼』を読んで思い付いた、と作者自身があとがきで明かしています。もはや、『黄金州の殺人鬼』も、読み落とせない本になっていると言って過言ではないでしょう。頼むから文庫にしておいてくれ。あれもべらぼうに面白いから。このあたりの「実録犯罪」もののことは、読書日記の第82回にも書きましたので参照してください。

     ともあれ、『アルパートンの天使たち』、またしてもなかなか衝撃的な本です。しかし、集英社文庫のページにみっしりと字がある版面も『ポピー~』と共通で、今回も700ページ超えだから、次こそ普通の小説読みたいよ……と思ったのですが、今までに刊行した長編四作品は全てこのスタイルで書かれているらしい。どっしぇー。まあいいや、ハレットさん、私はあなたにどこまでもついていきますよ。

    (2024年12月)

第94回2024.12.13
ネオ・ハードボイルドが辿った道 ~メタフィクション的自伝のすすめ~

  • ローレンス・ブロック『マット・スカダー わが探偵人生』(二見書房)

    ローレンス・ブロック
    『マット・スカダー わが探偵人生』
    (二見書房)

  • 〇とんでもない「自伝」が出ました

     今月はローレンス・ブロック『マット・スカダー わが探偵人生』(二見書房。以下、『わが探偵人生』と表記)の話をしましょう。本書は作中のキャラクターであるはずの「マット・スカダー」が、ローレンス・ブロックの勧めを受けて自伝を書く、という設定を用いたメタフィクションになっています。かなり変わった建て付けの小説で、往年のファンが最も興味を示すはずの少女誤射事件の話題にはなかなか辿り着かず(離婚と辞職のきっかけとなった事件であるため)、スカダーの「設定」なのか、ブロック自身の「体験」なのか判然としない幼少期から学生期のエピソードを延々と読まされるあたり、公平に言って、ファン以外にはなかなかおすすめしづらい本です。これは、冒頭で言っておかなければならない。

     しかし、これは大変な本だ、と私は感じたのです。なぜそう感じたのかを、今から1万字くらい使ってお話します。この話だけでも聞いていってくれ。もしこの話を聞いて少しでも興味を持ったなら、版が切れないうちに買っておいて棚の肥やしにしておいてほしい。いつかあなたがマット・スカダーにハマるその時まで。

     一言でいうなら、「ああ、〈マット・スカダー〉シリーズ、これで着地したな」という感慨です。本シリーズの着地には、ネオ・ハードボイルドというものの幕引き、その答えの提示を与えられるほどの、そんなインパクトがあります。こうした感慨には二重三重の意味があって、その意味を伝えるために長々と綴らないといけない。とはいえ、この「着地したな」という感覚は、これまでシリーズを追ってきた読者なら何度となく感じてきたはずのもので、その証拠に、第八作『墓場への切符』の解説を書いた池上冬樹は第五作『八百万の死にざま』以降もシリーズが続いたことについて、「しかし、その一方で、懸念する声も多くなった。マット・スカダーがアル中であることを認め、禁酒を余儀なくされた以上、シリーズを存続させる意味がないのではないか、というものである。/正直にいうなら、僕もそう思った一人である。」と述べているし、第十一作『死者との誓い』の解説者・霜月蒼に至っては「ハメット以降の私立探偵小説の歴史は、『暗闇にひと突き』と『八百万の死にざま』(中略)で決定的な疑念を投げかけられ、《倒錯三部作》で殺害され、『死者との誓い』で葬送されてしまったとすら言えるだろう。」とまで言う。ずっと伴走して翻訳してきた翻訳者の田口俊樹でさえ、第十二作『死者の長い列』で突然ブロックが五十五歳になったことを疑問に思い、作者に疑問をぶつけているし、第十五作『死への祈り』の「訳者あとがき」では三人称視点の導入に疑念を投げ掛けています(これについては、続く第十六作『すべては死にゆく』の刊行により安堵し、納得しているのですが)。

     しかしこれは、終われたはずのシリーズなのだから、早く終われば良かったのに、という話ではまったくない。このシリーズは、それぞれに区切りがあって、ざっくり言うと、その区切りごとに新しいステージを見せているのです。三期に分けて、ついでに特におすすめの作品を「◎」で示しておきましょう。

    〈第一期 アル中探偵、マット・スカダーの冒険〉
    ① 過去からの弔鐘
    ② 冬を怖れた女
    ③ 一ドル銀貨の遺言
    ④ 暗闇にひと突き  ◎
    ⑤ 八百万の死にざま ◎
    ⑥ 《回想編》聖なる酒場の挽歌 ◎ 
      ※10年前を回想するという設定

    〈第二期 禁酒探偵、マット・スカダーの巡礼〉
    ⑦慈悲深い死
    ⑧墓場への切符 ◎
    ⑨倒錯の舞踏  ◎
    ⑩獣たちの墓  ◎ 
      ※⑧~⑩で《倒錯三部作》
    ⑪死者との誓い ◎

    〈第三期 私立探偵、マット・スカダーの奮闘〉
    ⑫死者の長い列 ◎ 
      ※この時、スカダーが当時の作者と同じ55歳の設定に。
    ⑬処刑宣告
    ⑭皆殺し
    ⑮死への祈り
    ⑯すべては死にゆく
    ⑰《回想編》償いの報酬 ◎
      ※⑤の三か月後の時期を回想する小説

    〈第四期 マット・スカダーの晩年〉
    ⑱〈中編〉「石を放つとき」(『石を放つとき』収録) 
      ※スカダーも老齢に。作者は80歳
    ⑲《回想編》『マット・スカダー わが探偵人生』 
      ※スカダー1938年生まれと確定。執筆時に85歳。

     作中で大きなイベントが起こったタイミングや、年齢設定が大幅に動いたタイミングで区切っています。第三期と第四期は、実際にはまとめてしまってもよいでしょう。

     第一期は、叙情的な文章も、探偵の懊悩も、全てが「ネオ・ハードボイルド」という宝石の完成体ともいうべき作品群です。「◎」こそつけていませんが、冒頭の三作品(『過去からの弔鐘』『冬を怖れた女』『一ドル銀貨の遺言』)も実に心地よく読むことが出来ます。ところが、第四作『暗闇にひと突き』と第五作『八百万の死にざま』がすごすぎるので、ちょっと「◎」を出し惜しんでしまう。『暗闇にひと突き』はシリアルキラーサスペンスとパズラーをミックスした無類の味わいで、これが300ページ以内にまとまっているとは信じられないほどのシャープな良作。私がシリーズにハマったのは、この作品が理由でした。そして第五作『八百万の死にざま』は、第一期、のみならずシリーズ全体の一つ目の重大な転換点です。私立探偵小説のプロットの中に、一人の人間が、いかに自分のことを見つめ、認め、折り合いをつけ、生きていくかという主題が等身大に、みっともなく綴られる。だからこそ、この本は感動的なのです。『聖なる酒場の挽歌』は、回想編ですが、だからこそ好きな「第一期」の雰囲気に満ちていて、自信を持ってオススメ出来る逸品。『わが探偵人生』の解説を書いた霜月蒼も、『聖なる~』から読み始めたと言います。

     第二期はこのシリーズにおける最高到達点であると言っていいでしょう。ハードな悪意と対峙し、プロットにもキレがある〈倒錯三部作〉(『墓場への切符』『倒錯の舞踏』『獣たちの墓』)は一作たりとも読み逃すことが出来ない傑作ぶり。特に『倒錯の舞踏』がお気に入りです。この三部作はいずれもエグい作品群なのですが、『倒錯~』はスナッフフィルムが題材で、かなりグロッキーになりました。これら三部作に続く『死者との誓い』も、シリーズの総決算的位置づけの作品で、ここでは無意味な死という主題がいよいよ不条理さを増して提示され、その死と対置するように、シリーズにとって重要なキャラクターである女性、ジャン・キーン(スカダーの昔の恋人で、彫刻家)を配置し、彼女が自殺を考えるというエピソードを書いてみせる。事件は、そして彼女は、どのような結末を迎えるのか。『死者との誓い』は、謎解きの部分だけでも十分な良作であるのに、この女性のエピソードによって、マット・スカダーの物語として類を見ないほどの傑作と化しています。自らもその昏い淵を歩いた一人の人間として、生と死を見つめるスカダーという男の物語は、ここでまた、極点に達します。

     しかし、やはりこれでもシリーズは閉じない。『死者の長い列』は、アメリカの軽本格としては面白い(しかし、これは重要な作品なので後述します)。続く『処刑宣告』でも、新聞を使った予告殺人を扱ったプロットで謎解きものへの回帰を示します(とはいうものの、密室にはそんなに期待してはいけない)。これらの作品では、スカダーは軽快に善悪を割り切り、突き放すような結末にもなっていて、トーンは明らかに異なります。『死への祈り』『すべては死にゆく』は続けて読まなければ意味がなく、『すべて~』ではスカダーものとしてもかなりハードなピンチが描かれます。『償いの報酬』は時間軸を遡って、過去の事件を描いており、これまた番外編的な扱い。なので、ここでは『すべては死にゆく』で描かれた地平が重要である、といえるでしょう。近親者にまで危機が迫った時、彼は何を考え、何をなしたのか。

     そして第四期です。中編「石を放つとき」で膝の痛みを訴える老スカダーは、かつての姿を考えると想像も出来ない。そして、最新作は自伝……この自伝に私が感じた衝撃のほどを伝えるには、「ネオ・ハードボイルド」という言葉の意味まで遡らなければなりません。そして、このジャンルがいかに自分にとって大切な里程標だったのかということを語らなければなりません。なぜなら、私の世界観において、ネオ・ハードボイルドの世界観は本格ミステリーにおける名探偵の苦悩と地続きであり、さらには国境を越えて、北欧型警察小説の世界観と一体であったからです。正直今回は暴論回です。議論を精緻化するための再読がまったく間に合わなかった。だからいずれ時間をかけられる時に帰ってきます。そんなタイミング来るのか?

    〇ネオ・ハードボイルドって何?

     そもそも、なぜ私がこのジャンルに執着するかということを、意識の上で顕在化させてくれたのは、若林踏による『新世代ミステリ作家探訪』でした。十人の作家に対するトークイベントを書籍の形でまとめたこの本で、当時『透明人間は密室に潜む』までを刊行していた私は、若林踏氏に「もしかすると阿津川さんの探偵観はネオ・ハードボイルドに近いものを持っているのかもしれません」と投げかけられています。少し長いですが、以下に引用してみます。

    〝若林 改稿の話から逸れますが、阿津川さんが「分かりすぎる」探偵の存在から、実社会における苦悩を描こうとするのって、翻訳家の小鷹信光さんが名付けた「ネオ・ハードボイルド」の書き手たちと姿勢が似ているよな、と思いました。
     かつて米国で七〇~八〇年代にかけて執筆されたネオ・ハードボイルドの中には、身体にハンディキャップを負った探偵を視点人物にして、彼がこの社会をどのように観察し、受け止めるのか、という点に力を入れた小説がありました。(中略)
    「探偵の存在とは」「探偵とワトソンの関係とは」といったテーマを聞くと、現代はどうしても本格謎解きミステリにおけるキャラクターの役割論みたいなものが真っ先に思い浮かんでしまうんですね。でも、それとはどこか違うんですよね、阿津川さんの持っている探偵観というか、探偵の存在意義を描くことへのこだわりは、私もまだ上手く言語化出来ないんですけれど、もしかすると阿津川さんの探偵観はネオ・ハードボイルドに近いものを持っているのかもしれません。
    阿津川 (中略)特にブロックの〈マット・スカダ―〉シリーズには、謎解きに注力した傑作もありますし、探偵の存在意義の書き込みも含め、案外本格ミステリとも近い距離にあるのかもしれません。〟(『新世代ミステリ作家探訪』、p.212~213)

     トークイベントの現場における若林氏の投げかけが、何か、ずっと頭に残っていたのです。このくだりをよく覚えているのは、ゲラ作業の際、赤字でこのくだりがまるまる「トル」となっていたのを、「ここは現場で聞いていて面白かったから、残してほしい」と氏にお願いしたことを覚えているからです。氏も遠慮して「上手く言語化できない」と言い、それを受ける私の言葉も何か言っているようでいて甚だ頼りないのだけれど、ただ、残しておいてほしかった。自分が〈マット・スカダー〉に追い求めていたことの答え合わせとなる問答に思えたからです。まだまだ自分の中でも答えは出ていないのですが、とにかく、今回はやれるだけやってみましょう。

     ネオ・ハードボイルドとは何か。伝統的なマチズモのハードボイルドと対置される概念として、①身体的あるいは精神的な弱点を抱えた探偵が、②自分の弱さに一人称の語りで向き合うことで物語が進行し、③その語りの効用が小説全体のプロットと連関していること、とさしあたって定義してみます(探偵の一人称視点と文体はハードボイルド全般の特徴なのでここでは省く)。私がここで念頭においているのは、既に話してきたローレンス・ブロックの〈マット・スカダー〉シリーズ(①探偵がアルコール依存症〈精神的〉)や、マイクル・コリンズの〈ダン・フォーチュン〉シリーズ(①キャッチコピーは「隻腕探偵」=片腕がない〈肉体的〉。代表作に『フリーク』など)などです。

     しかし、これだけではまだしっくりこない。小鷹信光『私のハードボイルド 固茹で玉子の戦後史』(早川書房)には、ハードボイルドの起こりとその受容史について、貴重な証言が収められていますが、中でも「第六章 新生の船出 ――一九七〇年代」から「4 ネオ・ハードボイルド派の台頭」に注目してみましょう。ここでは、ローレンス・ブロックに並んで、ロバート・B・パーカー、マイクル・Z・リューイン、ジョン・タナー(スティーヴン・グリーンリーフ)、ジェイムズ・クラムリーなどの名前が挙がると同時に、ネオ・ハードボイルド派を巡る当時の論争について要約されます。ネオ・ハードボイルド派への死刑宣告が施されるなど、穏やかでない反発の事例がいくつか挙げられる中、田中小実昌ダシール・ハメット『血の収穫』の新装版(1974年)に寄せた「あとがき」を引いたうえで(改行前の部分)、小鷹は次のように述べます。

    〝ミステリの主人公の私立探偵にも、生活のかげがなければだめだ、と言う人がいる……だけど、なんにでも生活がいるだろうか。(中略)この作品の主人公は、名前もなく、飲むウイスキーだって名前がないくらいだから、生活などはない……ハメットは、生活をすてるように、たえず注意し、努力して、この作品を書いたのにちがいない。

     明らかにこれは、主人公である私立探偵の私生活をべったり書き込む手法をおおむね活用していたネオ・ハードボイルド派批判だった。実際には、作家としての田中小実昌の小説作法を語っているだけなのだが、「探偵たちの生き方、生活ぶりを描いた小説」という作法そのものに疑問を呈したのだろう。〟(『私のハードボイルド』、p,231)

     ここで重要なのは、「探偵たちの生き方、生活ぶりを描いた小説」という表現です。ローレンス・ブロックの世界観では、女と寝たり、悪党をぶちのめしたりする以外の、マット・スカダーという人間の人生が、これでもかというほど厚く描かれます。根っこには、アルコール依存症となるきっかけとなった、警官時代に死なせてしまった少女のトラウマがあり、自分という存在への懊悩がある。こうした要素を捉えて、マット・スカダーは長らく「ネクラ探偵」と呼ばれますが、シリーズ中、ある重大な転換点となった作品を経てからは(第十一作『死者との誓い』)、そのネクラさが抑えられてきた。

     ある種、この「ネクラ」な探偵の自壊的な問いを繰り返す小説群において、第十二作『死者の長い列』の文庫解説を法月綸太郎が書いていることは、重要に感じられます。文庫化は2002年。『生首に聞いてみろ』の刊行前にあたります。法月が『生首~』のアイデアの原型を得たのは大学生だというので、ただの偶然ですが、『生首~』の川島伊作も第十一作『死者との誓い』のジャン・キーンも彫刻家です。

    『死者の長い列』は、ブロックが敬愛するレックス・スタウトの長編『腰ぬけ連盟』にオマージュを捧げたような小気味の良いハードボイルド×本格ミステリーです。スタウトが行う、妙な因縁によって結ばれた登場人物群(フーダニット・サークル)の中に分け入っていく作法を、あえてなぞっているようにも感じられるのです。真犯人の隠し方もシンプルながら本格ミステリー的。

     ここでのスカダーはある種軽快で、最後、悪への裁きを下すシーンはこれまでの重さに比べるとけろっとしすぎていて、若干拍子抜けでさえあります。しかし、この腰の軽さは(悪い意味ではなく)パズラーとしての心地よさに貢献していて、法月の作品群で言えば、2011年の『キングを探せ』の軽やかな足取りに繋がっているように思えます。マット・スカダーの浮き沈みは、ここだけかもしれませんが、本格ミステリーの世界観で探偵を悩ませ、その存在意義を問う法月の世界観と一部連動しているように感じます。『死者の長い列』の文庫解説の冒頭で、アメリカの政権政党の変遷とブロックの作風の変遷を重ね合わせた法月の指摘と同じように。

     もちろん、こんなのは牽強付会な話でしょう。しかし、〈マット・スカダー〉シリーズ中期の作品群――『墓場への切符』『倒錯の舞踏』『獣たちの墓』からなる「倒錯三部作」と、『死者との誓い』――では、大都会の中で、名前もなく、動機すらない無意味な死に、スカダーが挑んでいく過程が、もはや執拗なまでに描かれます。この苛烈さと、一方で、都市小説としての背骨の強さを併せ持つところは、エラリイ・クイーン『九尾の猫』に似ています。名探偵はなぜ謎を解くのか、という苦悩と、自らの弱さにも向き合わなければいけない一人の無力な私立探偵がこの社会で一体何を出来るのか、という苛烈な問題設定は、同じ根っこを抱えているようにみえます。名探偵と私立探偵は似て非なる存在かもしれませんが、公権力に頼らず犯罪に立ち向かわなければならない点は同じだからです。

     小鷹の「探偵の生き方、生活ぶり」というキーワードが、まず、北欧型の警察小説に繋がってきます。警察小説とは組織を描く小説であり、組織が正当に機能することによって犯罪が解決され/あるいはされない小説です。しかし、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの〈マルティン・ベック〉シリーズでは、夏季休暇で手薄になる署の様子からシリーズが始まり(『ロセアンナ』)、ヘニング・マンケルの〈クルト・ヴァランダー〉シリーズでは、第一作『殺人者の顔』から、健康診断を受けるヴァランダーの姿が描かれ、実父との折り合いが付けられず苦しむ様子さえ描かれます。組織の中の警官が、一人の人間としての厚みを増し、その中で事件に挑んでいく。ジョー・ネスボの〈ハリー・ホーレ〉シリーズは、アル中警官であるハリーの暴走がシリーズ中で描かれ、『悪魔の星』では一度極点に達します。まるで北欧型警察小説とマット・スカダーのコラボを見るかのようです。

     本格ミステリーにおける名探偵属性への興味や、キャラクターとしての受容(いわゆるキャラ萌え)については、ライトノベルからの影響も辿らなければならないので、ここでは踏み込みきれませんが、私生活が書き込まれる名探偵というのは、そんなに多くはありません。超人的なヒーローである方が事件を捌くのも心地よいですし、名探偵に人間の厚みがあればそれこそ邪魔になりかねない。しかし、悩ませることで、そこに人間味が覗く瞬間を書き得る。自然発生的な懊悩を扱える空間としての「学校」と本格ミステリーとの相性が良いのは、懊悩という欲求とも繋がっているような気がします。そうだとすれば、米澤穂信〈小市民〉シリーズの小鳩常悟朗がハードボイルド的な設定に感じられることと、小鳩が謎を解こうとしない、小市民でありたいと願って悩むこととの間に、何か連関が見えてくる。スカダーが大都会という社会でやっていることを学校という小社会でプレゼンテーションできる、し得る、後に出た学園ミステリーは意識的あるいは無意識的にこの構造をなぞっているのではないかと感じる。いや、考えすぎか? しかし、『秋期限定栗きんとん事件』はまたしても『九尾の猫』に繋がる。さすが猫。やっぱり尻尾が九本もあるもんな。

     多少高比良くるま『漫才過剰考察』みたいなことをやりたがっているのは自分でも認めます。生まれた日19日しか違わないのになんであんなに面白いんだ、ちくしょう。ともあれ、私にとって、〈マット・スカダー〉シリーズに向き合うことというのは、自分にとって広い意味での「ミステリー」の体験と共振を起こす奇妙な現象で、それだけに、一作一作が非常に重要なのです。だからこそ、『わが探偵人生』にも、頭を刺激されまくっている。だけどまだまだ本丸にはいかない。一冊寄り道をしなければなりません。

    〇メタフィクション的自伝のすすめ

     スカダーの最新作と比較するために、一旦、同じような建て付けのメタフィクションとしてジョルジュ・シムノン『メグレの回想録』(早川書房)を経由しておきましょう。こちらは早川書房の叢書〈世界ミステリ全集〉の9巻に収録されたもので、フランス・ミステリの代表的作品として、ボアロー・ナルスジャック『悪魔のような女』アルベール・シモナン『現金に手を出すな』と一緒に収録されています。

     二段組でも100ページぐらいの分量なので、他のメグレものよりも少し短い。内容はメグレの若かりし頃を描くもので、風紀課の刑事だった時代や、若き日のシムノンとの出会いのエピソードなどが点描されます。事件も起きますが、内容も解決も他愛なく、力点はメグレの「日常」を描く方にある。シムノンはこの作品の冒頭でメグレに取材します。そしてシムノンが、断りもなく、自分の本にメグレを登場させる。それも、本名のまま。メグレは一躍有名人になりますが、シムノンの書いた自分の人物像は、本来の自分と違うのではないかと考えます(映画版のキャストの名前を次々に挙げ品評していく箇所は抱腹絶倒)。そこで、実際はどうなのか、ということを、回想録の形で書いておこう――これが、メグレがこの回想録を書く動機です。

     メグレから見たシムノンは、若く、自分に満足しており、ちょっといけすかない男として描写されていて、これもくすぐりになっています。しかし、メグレとシムノンの対話は、それ自体が優れた創作論になっていると言えるでしょう。

    〝「警部さん、ぼくはプロの犯罪人には関心がありません。彼らの心理からはいかなる問題も引きだせない。彼らは、ある意味では、たんに自分の職業をしているにすぎないのですから」
    「では、きみはなんに興味があるのかね?」
    「彼ら以外の人々。ある日、思いがけずに人を殺してしまったような人間」〟(「メグレの回想録」、p.14)

     この問答などは、メグレもののみならず、他のシムノン犯罪小説にも通底する精神を簡潔に表明したものでしょう。シムノンの小説は犯罪という黒い穴に滑り落ちてしまった人を見つめ、描いて過不足がない。

     一方、『わが探偵人生』では、ローレンス・ブロック本人も登場こそしますが、その登場シーンは非常に抑制されていて、『メグレの回想録』とはまた違った方法論で書かれています(とはいえ、スカダーがブロックのアドバイスを思い出して、前を読み返すなと言われたから、しないでおこうと思ったのに、読み直してしまって、全部消したくなる……といったくだりは、シムノンと同じような「創作法」の裏話でしかない)。

     シムノンとブロックの違いを考えるためには、〈世界ミステリ全集〉9巻の巻末に置かれた、都筑道夫、石川喬司、稲葉明雄、小鷹信光による座談会がヒントになりそうです。そこでは石川が『メグレの回想録』について、「メグレという男が手記を書けばこういう手記しか書けないだろう」という感じを「ところどころ流れをきってぶっきらぼうにやったり、思い出しかけてやめたり、そういうところを意識的に構成している」と指摘している。都筑はこれについて「彼の場合、(……)計算じゃない気がするんです。完全にメグレに没入していって無意識の計算で書いている気がするんだけれど」と受けています。

     手記という「語りの形式」には他の著作、シリーズ作品と一線を画すような語りのリズムやテンポを採用する余地が生じるけれども、元々、このシリーズでは作者と語り手との間の距離が近いからこそ、こういう二者の評価が生じ得るのだと思います。そもそも、メグレは『メグレと若い女の死』でも、被害者の人生に分け入っていき、そこに没入していく手法によって真相に辿り着いており、ここでもメグレの捜査手法とシムノンの創作手法が二重写しに存在していると言えそうです。メグレとシムノンの口喧嘩も、文字面以上にどこか馴れ合いのような、互いが互いの理解者であるという前提で書かれているような気配がしてしまいます。

     結局のところ、自伝、というものが書かれるのは、自分の人生を振り返り、その正当性を示すためではないかと思わされます。メグレはシムノンの書き方が「まちがっている」と示す動機で筆を執りますが、その結果は、メグレの妻が告げる、さして違いはないのではないか、という結論です。しかし、では100ページ以上の旅路に意味がなかったのかと言えば、そうではない。まちがっていない、ということを突き止めるために、回り道をする。その回り道が回想録という形をとっている。

     では、マット・スカダーはどうなのか。これは明瞭に自伝です。スカダーが筆を執る――正確には、キーボードを打つ――動機はシンプルで、ただ、ローレンス・ブロックにそうするように勧められたから、です。言葉を吐き出すうちに、彼はこの作業に惹かれていき、幼少期の話から始め、若かりし日々の話を書き、遂に、アルコール依存症になるきっかけとなった少女誤射事件へとたどり着く。

     しかし、やはりこれも自伝なのです。自らの人生の正当性を確かめるための。しかし、その正当性というのは、決して独りよがりなものではない。スカダーは序盤で、実に印象的な言葉を以下のように引用してみせます。

    〝ある女性の作家――南部出身の人だ。名前はたぶんそのうち思い出す――がこんなことを言っている。子供時代を生き延びたことが作家となる資質を自分に与えてくれたと。それがなんであれ、子供時代の体験が作家となるベースになった、というのが彼女の言いたいことなのだろうが、私がこのことばから思うのは、そもそも子供時代というのは生き延びなければならないものだということだ。そして、それができた大人はどんな大人にもそのことを自分の手柄とする権利がある。私はそう思う。
    (中略)
     私はその後も生き延びた。〟(『わが探偵人生』、p.25-26)

     私はこの表現に接した時、マット・スカダー自身の口から、彼自身のサーガの終幕宣言を聞いたような気分になったのです。(子供時代を)生き延びたものは、それを自分の手柄とすることが出来る。いま、子供時代をカッコでくくったのは、スカダーが「その後も」生き延びたと自ら宣言しているからです。スカダーは、子供時代にはあまり問題がなかったとしたうえで、自分の子供時代の終わりも曖昧にしてしまう。つまりここで言われているのは、今、生き延びている自分の存在にほかならないのではないか。だからこそ、彼は語るのではないか。

     ネオ・ハードボイルドとは、①身体的あるいは精神的な弱点を抱えた探偵が、②自分の弱さに一人称の語りで向き合うことで物語が進行し、③その語りの効用が小説全体のプロットと連関していると定義すると、最初の方で述べました。スカダーは、それ自体が自壊的な傷を抱えながら、自分と被害者たち、そして犯人たちの生と死を見つめ、これまでの人生を歩んできた。だからこそ、生き延びた、という率直な表明が、これほどまでに感動的なのです。

     スカダーという探偵の転換点は、己の弱さを見つめ、それを表明した瞬間にありました(『八百万の死にざま』)。だとすれば、自分の人生を丸ごと、「生き延びた」と表明して見せるこの言葉は、スカダーの最後を飾るにふさわしい言葉でしょう。探偵というものは、最後の最後、この言葉を吐けるように生きなければならない。いや、本格ミステリーに基礎を置きながらも、どこか、近い世界観があるのではないかと感じていたスカダーがこのように舞台から降りようとしていることで、スカダーがくるりと振り返って、「まだ、そこにいるのかい」と微笑みかけているような気さえするのです。行かないでくれスカダー。私がそこに行くにはあと五十五年かかる。

     都筑のいうように、シムノンがメグレの中に入っていってしまうのだとすれば、ブロックとスカダーにも、どこに区別があるのかは分かりません。メグレの警官時代が物語であるように、スカダーも、警官時代からは物語であると言えそうですが、代わりに、100ページ以上にわたって繰り広げられる幼少期から学生期あたりまでの人生の記録は、ブロック自身のものなのか、スカダーとして物語られたものなのか、区別がつかない。二人は同じ生年に設定されているのですから。しかし、ユーモアに溢れたスカダーの語り口は、それだけで面白い。そんな区別などどうでもいいのです。ただ私たちは、この老人の訥々とした、それでいてくすりとくる語りに魅せられていればいい。

     冒頭でも述べた通り、少なくとも、『わが探偵人生』は(ついでに言えば『メグレの回想録』も)、それぞれのシリーズのファン以外には決して勧められない作品と言い切ってしまってもいいでしょう。ファンでなければ、そもそも語られていることに興味を持てない可能性が高いですし、ここから読者が増えるというビジョンも浮かびません。

     ただ、いつハマるか分からない。これだけは言えます。振り返ってみると、スカダ―シリーズの作品群は、かなりの数が入手困難となってしまっているようです(『八百万の死にざま』『聖なる酒場の挽歌』『死者との誓い』くらいはいつでも手に取れるようにしておいてよ!)。転ばぬ先の杖として、新刊で買えるうちに買っておくのが吉、ではないでしょうか。

    (2024年12月)

第93回2024.11.22
評論を読もう! ~色々と振り幅がすごい回~

  • 杉江松恋『日本の犯罪小説』(光文社)

    杉江松恋
    『日本の犯罪小説』
    (光文社)

  • 〇再読した思い出の二冊

     最初は巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』(講談社)を再読しよう――というところから始めました。私にとって「時評」というもののバイブルの一つでもある本書を読み返すことで、何か自分の拠って立つべきところや、最近続いている複数の長編の停滞状況にヒントを得られないか、という気持ちです。「メフィスト」に1998年から2006年にかけて連載されていた「時評」集であり、序文には「私が試みたのは、複数の作品を対比し、底流とみられる共通点や影響関係を見出しつつ、そこから折り返して、この底流がジャンルの特性や作家の個性とぶつかり合い、互いに相手を変えてゆく様子を観察することだった」(同書、p.7)とあります。この言葉通り、第一回から一見共通点がないように思える花村萬月『ゲルマニウムの夜』京極夏彦『塗仏の宴 宴の始末』を取り合わせてみせるのが、さすが。共通点を論じる、という場合、二作の間の距離があまりに近すぎると、誰でも指摘できそうな気がするし、遠すぎると、牽強付会という感じがする……要するに、二作の間の「距離」が非常に大事なわけですが、その「距離」が毎回絶妙なのです。同時代的に発生する作品群から何を摘まみ上げ、何を共通点として炙り出すか、その手つきがどの回も鮮やかで、何度咀嚼しても噛み足りない気がする。今回強く心に残ったのは第二回で語られた髙村薫論でした。

     というのも、『論理の蜘蛛の巣の中で』を再読するキッカケの一つとなったのが、荒岸来穂「陰謀論的探偵小説論」の第十回「空虚さを抱きしめて」だからです。ここでは髙村薫『我らが少女A』に対する指摘があり、同論の中に、巽昌章の文章が引用されるからです。巽と荒岸は共に、髙村作品におけるディティールのありよう、手触りを探りながら、同じく中心に「空虚なカタチ」を見出す(巽が横山秀夫の作品についても同じく「ドーナツ状」という比喩を用いるのはとても興味深いと思っているのですが、ちょっと寄り道する余裕がない)。その空虚に何を見出すか、というところに、それぞれの論が生まれた時代と論者の立つ位置が見えてくる。荒岸の論は、同作におけるディティールとして「ゲーム」が登場することに着目しつつ、その「空虚」への向き合い方を、現代の状況に即して論じていて、書かれるべき言葉だと思わされました(同作について、ドラクエⅧ以外にも言及してくれた文章に初めて触れ、単に嬉しくなったというのもあります)。

     巽昌章が同書のあとがきで述べる「時評の存在価値は、世の中の動きに押し流されることにある」(同書、p.264)という言葉は、ここでもまた重く、面白く響いてきて、やはりこの本は飽きがこないと思うのです。なお、ここで名前を挙げた髙村薫は、本稿の最後で取り上げる杉江松恋『日本の犯罪小説』(光文社)でも最後の章で言及され、ここでは犯罪による「空疎」を語る小説家としての髙村の貌を「犯罪小説」というレンズを通して見ることが出来ます。

     その再読の流れで、福井健太『本格ミステリ鑑賞術』(東京創元社)を再読しました。こちらは「ミステリーズ!」vol.12~vol.34に掲載され、2012年に単行本化されたもので、本格ミステリーマニアが作品を鑑賞する際にどのような観点から作品を評価しているか、というポイントを言語化した書籍です。かなり画期的な一冊である一方、刊行当時にはかなり新しい作品(詠坂雄二『電氣人間の虞』麻耶雄嵩「こうもり」『貴族探偵』収録〉など)のネタバラシまでも含まれており、言及作品も多岐にわたるため、本当の初心者には手に取りにくいのではないか、という面もあるのですが、そのトピックを語るための核の核といった作品を抽出しているので、「この章を読むために、あとは、これとこれを読もう!」という積極的な態度で臨むべき一冊です。かくいう私は、高校3年生で手にした時に、9割の作品は既読だったので実に刺激的に楽しんだのですが、最後の章「謎の物語」でネタバレ言及があるカミ「インクは昇る!」だけ読んだことがなく、探すのが大変だったことを覚えています。今では、『ルーフォック・オルメスの冒険』が創元推理文庫入りしており、以前より入手しやすいかと思います。

     中でもオススメの一章は、第三部第五章「パズルとミステリの間」。ここでネタバレがあると言及されているのは、短編のエラリー・クイーン「ガラスの丸天井付き時計の冒険」『エラリー・クイーンの冒険』〈創元推理文庫〉収録)のみなので、ここだけまず読んでみるのも簡単です。いわゆる論理パズルの論理と、本格ミステリーが扱う論理の距離について論じた文章で、感覚的には理解していても、どう言葉にしていいか分からない差異が、色んなパズルの事例とクイーンの実作を通して炙り出されています。第一部第三章の「ミスディレクション」などは、実作者にとっても参考になることがクリティカルに書いてあり、本格ミステリーをより深く読みたいという人から、作家志望者まで、広く薦められる本です。

    〇江戸川乱歩生誕130周年を記念する二冊

    『本格ミステリ鑑賞術』と比較して読むと興味深いのが、江戸川乱歩『江戸川乱歩座談』『江戸川乱歩トリック論集』(いずれも中公文庫)ではないかと思います。乱歩の二冊は、江戸川乱歩の生誕130周年を記念して、『~座談』は乱歩が参加した対談や鼎談、座談会を収録し、『~論集』は「類別トリック集成」「探偵小説の「謎」」を二本柱に、乱歩がトリックについて論じた文章を収録したものです。いずれも、非常に資料的な価値が高い本となっています。

    『本格ミステリ鑑賞術』では、本格ミステリーのさまざな技巧や趣向――ミスディレクションやロジック、叙述トリック――といった側面を抽出し、並べていきます。いずれも、それぞれの作品の「キモ」というべき部分を抽出しており、同時に、同じ作品を複数の視点から何度も取り上げることもあります(例えばエラリー・クイーンの『Xの悲劇』は「犯人特定のロジック」だけでなく「伏線の妙味」の項でも扱われる)。ところが、「『江戸川乱歩トリック論集』に収録された「類別トリック集成」「探偵小説の「謎」」では、「トリック」という言葉の旗印のもとに、全てのミステリーが等価値に並べられていく。トリック、という言葉によって何かが傾いでいく感覚が最もスリリングなのだ、と思う私は、きっと乱歩の良い読者ではないのでしょう。「類別トリック集成」の補完を試みた山村正夫・中島河太郎は、「毒殺トリック」の項に『虚無への供物』を包摂します。しかし、果たしてあの長編を読んで毒殺トリックだけを取り出す人間が他にいるでしょうか。これも、トリックという旗印のもとに傾いでいったために起きた奇妙な現象の一つではないかと思ってしまいます。トリックのデータベース化、という現象の根っこに、この「類別トリック集成」がある。その功罪については新保博久解説でも過不足なく語られており、歴史的に重要な資料であることは間違いありません。

     先に脱線すると、私も「分類表」なるものを作ったことがあります。といっても、全ての作品群に対して行うのは困難であるため、エドワード・D・ホック『サム・ホーソーンの事件簿』全六巻に対して作ったものです。全72編、全てが不可能犯罪ものという驚異的作品集ですが、分類してしまうと、同工異曲のシチュエーションが目立ってしまうのは否めません。リストにトリックを抽出し、分類していき、二巻に達したところで、伏線やテクニックの部分について言及しないとなんの参考にもならないことに気付き、「鑑賞ポイント」という項目を別に立て、何ページの伏線が巧いとか、別解をここで潰しているとか、そういう話をメモすることにしました。おかげで、今読み直してもそれなりに参考になりそうなものにはなっています。ただ、こういうものは、もはや原典に対するファスト本にしかなり得ず、公表することは出来ないでしょう。これも、「類別トリック集成」の頃からは大きく情勢が変わったと思わせられる事実です。「類別トリック集成」は、小説のトリックはトリックだけで出来ているのではなく、小説全体の中で有機的に生きている、ということを、むしろあからさまにしてしまうのです。

     むしろ今オススメしたいのは、『江戸川乱歩座談』と『江戸川乱歩トリック論集』を併読することです。『~座談』においては、探偵小説のあるべき未来について、内外の探偵小説を広くカバーし、大いに語る乱歩の姿を見ることが出来ます。そのイキイキとした語りっぷりや(イキイキしているという点では、小栗虫太郎がシャカリキにテンション高くてめっちゃ良い)、度々、ヴァン・ダインの評価を巡ってバトルを繰り広げるところなどが見えて(小林秀雄との対談は、危なっかしいという意味も含めて、とんでもなくスリリングです)、読み手としての乱歩像を探ることが出来ます。ある種、今の同人的な情熱を孕んだ、活気のある雰囲気です。そして重要なのは、「類別トリック集成」の冒頭に書かれたこの文章なのです。

    〝そこで私は、一つ探偵クラブの探偵小説通の連中に相談してみようと考えた。(中略)
     岩谷書店の三階応接間には、毎週土曜日に、探偵作家クラブ員の中の特別に探偵小説好きな人々数名が集まることになっている。そのメンバーは時によって変ったが、最も熱心な常連ともいうべき人々は、渡辺剣次、武田武彦、黒部龍二、中島河太郎、桂英二の諸君で、私が出かけたときには、このほかに、やはり常連に近い人々で、二宮栄三、宇野利泰、千代有三、岡田鯱彦、楠田匡介、鷲尾三郎などの諸君の顔が見えた。私は確か四週間だったと思うが、土曜毎にそこへ出かけて行って、私の作った分類表と七百何十種のトリックの作例を読み上げ、諸君の助言を乞うたのである。
    (中略)各回四、五時間ずつ四回、約二十時間で事が運んだのである。〟(『江戸川乱歩トリック論集』、p.13~14)

     もちろん、基礎となるものを作り上げたのは江戸川乱歩だし、カードにトリックを書いていってデータベース化していったのは乱歩なのですが、私はこの一節に触れた時、やはり感動を覚えました。そう、これもまた、立派な「座談」の成果であったのです。「座談」の成果として「日本の作品を多数追加」したという言葉のうち、どこからどこまでが同席者の業績なのかは分からないものの、やはり、「座談」の功績もあったのではないかと思うのです。この「座談」のメンバーに、後に「類別トリック集成」の補完を試みる中島河太郎の名前があるのも重要に思えてきます。

     だから「類別トリック集成」には、今は、どこか憧れを抱きます。ここまでのめり込んでいってしまう情熱と、四時間も五時間も、ひたすらトリックの例だけを挙げ続ける乱歩を傍で見ていた同業者たちの姿に、です。それはある意味で、前回「犯人当て」というものについてした話とどこか重なりあっているかもしれません。何か、一種異様な、妄執としか呼べない情熱に、私は強く惹かれるのだと思います。

    〇昭和、というキーワードから発展して

     春日太一『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)は、多くの資料と生前のインタビューによって紡がれた、決定版ともいえる橋本忍の評伝であり、第55回大宅賞を受賞した作品です。井上先斗『イッツ・ダ・ボム』の松本清張賞授賞式に参加した際、同時に春日さんの授賞式も行われていて、選評や春日さんご本人のお話を聞くうちに、興味を持って購入したものです。膨大な資料を参照する中で、その典拠を逐一詳らかにし、資料の信頼性を揺らがせたり、整合性の採れる説を立てていったりする過程が面白い。キャリアの最初期である、黒澤明監督の元での「羅生門」「生きる」「七人の侍」について、どこまで誰が担当したか、どのように脚本ホンが生まれたか、という点に認識と証言のズレが生じている過程が既に面白い。

     ミステリー好きの視点からは、「砂の器」に代表される松本清張への言及、「八つ墓村」における横溝正史への言及、「旅路 村でいちばんの首吊りの木」を通じた辻真先への言及の三か所により強い興味があります。特に、松本清張を巡るエピソードにはニヤリ。映画「張込み」についての話で、橋本が清張に警察機構のことについてツッコミを入れて、恐らくこう答えるだろうと思っていた回答とは、少し違った、でも面白い提案を清張がしてくる。橋本はそれを「世慣れた」と表現しますが、何かこう、スッと懐に入ろうとする清張の言葉に、「らしさ」をかぎ取ったような気がして、心に残りました。

     清張に関連して言えば、「砂の器」の原作との違いに関して――これについては、変な形で引用・孫引きをしては、何か誤解を生む可能性があるので、差し控えておきます。ともかく第七章「血の章」の、「生血が欲しい」という章を読んでみていただきたい。私はここに何か、感動というのでも、ショックというのでもない、一種凄絶なものを感じました。その比喩はあまりに凄絶なので、清張と対比されるように置かれた司馬遼太郎の否定的な反応にも一種頷ける側面がありますが、一方で、「血」という言葉に首尾一貫した態度が覗いていて、だから凄絶なのです。

     辻真先の中編を原作とした「旅路 村でいちばんの首吊りの木」に関しては、映画「砂の器」で父と子の話を書いた、その裏返しとしての母と娘、という整理がこの本の中でされたことで、ようやく腑に落ちた感覚があります。原作小説では母と息子が主題となっていて、そこが作者としてもウリであったことを、私は文庫版『村でいちばんの首吊りの木』のインタビューにおいて、辻真先本人の口から聞き出しており、どこかで映画側の話も読んでおきたいと思っていたからです。

     そういう興味だけでなく、エネルギッシュな仕事ぶりや、個々のプロジェクトにおけるすり合わせや創作意図など、多岐にわたる話題のどれもこれもが面白く、心動かされる一冊でありました。「真昼の暗黒」「切腹」が見たくなったので、探してみようと思っています。

    〇振り幅がすごい杉江松恋の二冊

     杉江松恋は9月に『芸人本書く派列伝』(原書房)、10月に『日本の犯罪小説』(光文社)を刊行。どちらも非常に面白い評論本になっていますが、その振り幅のすごさは目を瞠るほどです。何せ、前者は落語家、講談師、漫才・コント師といった芸事に携わる人々が書いた本について取り上げた書評連載の書籍化であり、一方で後者は、「犯罪小説」というジャンルのありようを日本の実作者18人の作例から明晰に探り出していく一冊であるのですから。適切なたとえなのかは分かりませんが、明と暗の取り合わせ、というような。

    『芸人本書く派列伝』は、著者の中心的興味である浪曲や落語の話よりも、書き手たちのパーソナリティーをよく知ってしまっているお笑い芸人の話の方を、面白く読んでしまったことは否定出来ません。杉江松恋の書評は、その本の核の核の部分にミートしてどういう本かを端的に表していくのですが、その際の、引用がいちいち、上手い。その本を読みたくさせると同時に、書き手の人となりをうかがわせる鋭い一文を引いて、それを優しく受け止めている。そこが心地よく、内容は既に読んだことがあるはずの、山里亮太『天才はあきらめた』や、若林正恭『社会人大学人見知り学部卒業見込』について評した箇所を読んだ時には、何か、涙腺が熱くなるものがありました。恐らく、この後取り上げる『日本の犯罪小説』よりも、この本の文章の足取りは軽い、と言ってもいいのだと思います。その軽やかさの根っこに、芸事に人生を捧げる人々へのリスペクトがしっかりと張っていて、心地が良い。このあたりの本まで集め始めちゃったら、大変だぞ、と思いながらも、その誘惑に心が動くのを感じる、そういう幸福な一冊です。

     さて、『日本の犯罪小説』です。ここでは、大藪春彦を取り上げた第一章において、「犯罪小説とは個人と社会の本質的な対立構造を、主として個人の視点によって描くジャンルだ。この手法によって描き出されるものがいかに豊穣であるかが、本書によって明らかになるだろう」(本書、p.17)と宣言され、過不足ない定義と同時に、一冊全体を通じた問題提起がされます。大藪春彦をはじめ、江戸川乱歩、藤原審爾、水上勉、松本清張、結城昌治、佐木隆三、石原慎太郎、阿佐田哲也、池波正太郎、山田風太郎、西村京太郎、小池真理子、船戸与一、宮部みゆき、桐野夏生、馳星周、髙村薫という18人は、犯罪小説の書き手の総覧とは無論イコールではないものの、この定義から考えれば、その「個人―社会」の関係を網羅するという点に置いて、過不足がないと思わされます。そう思わされるのが、この本の凄みなのです。

     たとえば水上勉、松本清張という名前は、どうしても「社会派ミステリー」という切り口で取り上げられがちな作家です。しかし、彼らの初期作から出世作までを、彼らがどのように犯罪者の「心」を扱っていったかという観点から克明に整理することで、この二人もまた犯罪小説の可能性を拡げた作家たちであることが明らかにされる。あるいは、彼らよりもシビアな世界観を描いている佐木隆三や石原慎太郎(の初期作)についても、当時の文壇での評価や同じ対象について扱った評論の評価を整理することで、佐木の書くディティールの怖さが、石原の書く情緒の薄さの意味が、分かってくる。船戸与一を「冒険小説」というフィルターを排除してみることによって、「叛史のために」という言葉のもと、船戸作品を別の形で語り直してみることが出来る。しかしもちろん、犯罪を称揚するだけではなく、「被害者」を描く作家として、宮部みゆきが登場する……。

     犯罪小説、という言葉の持つ広汎性が、実作者一人一人の営みを通じて、立体的に見えてくる。それこそが、本書のスリリングさの要諦をなしています。犯罪小説とはどんなジャンルなのか知りたい、という時に、最初に手に取るべき一冊と言えるでしょう。

     個人的には、書き下ろしの最終章において、馳星周の『ブルー・ローズ』について読んだことがかなり衝撃的だったことを付言しておきます。好きな作品であり、面白く読んだのも事実ですが、あの一作がハードボイルドという様式の鉱脈を掘り尽くしたという評価の意味が腑に落ちず、これまで過ごしてきたからです。最終章を読み、特に、『ブルー・ローズ』がなぜあれほど身体性の描写に満ちているかを理解し、思わずため息が漏れたのでした。

    (2024年11月)

第92回2024.11.08
モダンホラー巨編、遂に来たる! ~あるいは旧刊再読日記~

  • 貴志祐介『さかさ星』(角川書店)

    貴志祐介
    『さかさ星』
    (角川書店)

  • 〇告知から

     11月6日に文春文庫からアンソロジー『有栖川有栖に捧げる七つの謎』が刊行されました。有栖川有栖さんのデビュー35周年を記念して、一穂ミチ、青崎有吾、白井智之、織守きょうや、夕木春央、今村昌弘、私の七人が有栖川さんの作品世界をお借りして短編を書こうという企画で、「オール讀物」と「別冊文藝春秋」に順次掲載されたものでした。一冊にまとまったというわけです。それぞれの短編の感想は、第83回、第84回の冒頭あたりで話しておりますが、せっかくなのでもう一度まとめておきます。

     青崎有吾「縄、綱、ロープ」は、オーソドックスなフーダニット×都筑道夫の「ジャケット背広スーツ」(『退職刑事1』所収)を思わせる出来栄えで、劈頭を飾るにふさわしい読み味の好編……と思いながら読んでいると、思いもよらぬところのひねりに、火村ものの良さを思わせる洒落ッ気を感じさせ、膝を打たされました。トリビュートへのアンサーが見事な傑作。一分の隙もない。

     一穂ミチ「クローズド・クローズ」は、『ダリの繭』に登場した作家アリスの隣人である真野早織にスポットライトを当てて、女子高での制服盗難事件を描いてみせるのが楽しい一編。文庫には収録されていませんが、「オール讀物」2024年5月号に載った有栖川×一穂対談は、一穂さんの興奮ぶりに嬉しくなる楽しい対談ですので、ファンの方はぜひ。

     織守きょうや「火村英生に捧げる怪談」は、火村ものを主軸に置きつつ、有栖川作品の中でも〈濱地健三郎〉シリーズや『赤い月、廃駅の上に』といった怪談もののエッセンスを巧みに響かせ合うことで著者ならではの作品に仕立てています。自由に作品を掛け合わせるのもトリビュートの愉しみ。

     白井智之「ブラックミラー」は、『マジックミラー』に的を絞り、そのネタを割ると冒頭で宣言する所からして挑戦的です。『マジックミラー』では、アリバイ講義を逆手に取って実に鮮やかなトリックを仕掛けますが、このトリックを白井流の悪魔的発想で発展させてみせるところが素晴らしい力作。これにも意外な掛け合わせがあり、ニヤリとしました。ちなみに、私も『マジックミラー』ベースでいくことを一瞬考えたのですが、編集さんから「ブラックミラー」の原稿を共有いただいたタイミングで、白旗を上げた――というのはナイショの話。

     夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」は、こんなタイトルつけちゃって怒られないの?――という心配はまったく無用の愉快な一編(それでも心配な人は、有栖川さんの「解説」から先に目を通しましょう)。トリビュートならではの「日常の謎」で、有栖川版国名シリーズのある作品の響きも聞こえてくる作品です。

     今村昌弘「型取られた死体は語る」は、集中で唯一〈江神二郎(学生アリス)〉シリーズに挑んだ一編。同シリーズの良さでもある、学生同士のディスカッション小説の良さを活かしながら(シリーズ作品の中では「パズル研対推理研」を思わせる味)、著者らしい二転三転の展開を見せてくれます。

     私の作品「山伏地蔵坊の狼狽」は、『山伏地蔵坊の放浪』から三十年後の世界を描いています。短編「ブラジル蝶の謎」をベースにした作中作を書いているのは、〈有栖川版国名〉シリーズの中で、最も謎が前に押し出されており、かつ、別解を考えるのが楽しそうなシチュエーションだったため。それぞれ原典のネタは割っていません。

     巻末には、有栖川有栖ご本人による「解説」がついており、一編一編に丁寧に言及してくださっています(なので、本来なら私の感想なども不要だったのだ)。いずれにせよ、非常に贅沢な一冊となりましたので、有栖川作品や参加者に興味があればぜひとも「買い」の一冊ですよ。ファンとしては、帯裏で予告された、幻の火村シリーズと単行本未収録作品集『砂男』(2025年1月刊行予定)が待ち遠しいです。

    ○再読ばっかりしている秋

     さて、最近の読書は、各種ミステリーランキングへの投票を終えたため、新作のためだったり、頭の中をぐるぐるしている考えをまとめるためだったり、色んな理由で再読をしていました。なので、今日は最近読んだ小説を、読んだ順に軽く紹介していくだけの回をやります(評論も読んだのですが、評論回は次回に回します)。

     エリザベス・フェラーズ『猿来たりなば』(創元推理文庫)は、中学生以来の再読。なぜチンパンジーが殺されたのか? というホワイダニットが主軸になる話で、この解答だけはあまりに鮮やかなので覚えていたのですが、どのように成立させていたかを確認するために再読。この十数年で、フェラーズの邦訳作も色々読んだので、この作者の良さはどこか明朗でありながらひねくれたユーモアの感覚と、探偵―ワトソン関係のスクラッチングにあるな、というのを再認識。ジャーナリスト、トビー・ダイクとその親友ジョージの関係は、一般的にどちらが探偵で、どちらがワトソンと言える関係ではなく、さりとて、競い合っているわけでもない。片方が思い込みで爆走して推理をするのですが、それをもう片方が馬鹿にしきっている――かと言えば、そうでもない。いずれにせよ、この二人の言動を使って、読者を思いのままに誤導し、伏線を蒔いておく手つきが巧いのです。

     合作ミステリー『漂う提督』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、企画中の短編のテーマを「リレー小説」にしたので再読したもの。川を流れていたボートに殺されたペニストーン提督が乗っていた――という発端はタイトル通りで、この謎を英国の《ディテクションクラブ》のメンバーがリレー形式で繋いで解き明かしていくという趣向の小説になっています。この《ディテクションクラブ》については、マーティン・エドワーズの評伝『探偵小説の黄金時代』でもその内幕が明かされており、併せて読むと楽しめます。『漂う提督』の難しいところは、それぞれが担当部分(20ページそこそこのこともあれば、50ページ書く人もいて、解決編を任されたアントニイ・バークリイは100ページも書いている。しかもタイトルは「混乱収拾篇」である)を書く時に、自分の想定した解決に沿うように進めていき、自分の考えた解決編も発表しなければならないこと。これが、非常にキツい。と同時に、作家性が出るところです。たとえば第四章を担当したアガサ・クリスティーの考えた犯人像及びその動機は、実にクリスティーらしい。第七章を担当したドロシイ・L・セイヤーズは、犯行手順の再現や犯人の背景の設定に紙幅を割いていて、それも作者の持ち味です。第八章を担当したロナルド・A・ノックスは、39の疑問点を作中の警部に整理させ、後進に託しているかと思いきや、「予想解決編」では自らの「十戒」のルールそのままに犯人を割り出していて、どこまで本気で書いているんだか分からない。訳者あとがきで指摘されている通り、矛盾点が多い作品であり、前章を担当した作家がせっかく話を動かそうとしているのに、後の章の人が揺り戻してしまったりと、問題点は多いのですが、それだけに「リレー小説ってプロがやってもこうなるんだ」というのを再確認。企画の糧にはなりました。ちなみに、リレー小説の企画じゃないから、期待しないでくださいね。

     綾辻行人『どんどん橋、落ちた〈新装改訂版〉』『鳴風荘事件 殺人方程式Ⅱ』(いずれも講談社文庫)は、「犯人当て」というスタイルについて考えるために再度手に取った二冊。いずれも中学2年生以来。「犯人当て」について考えているのは、今年8月に参加した全日本大学ミステリ連合会の合宿において、私の古巣の「新月お茶の会」や京大・阪大等々の学生たちとした議論が頭にこびりついていて――それを自分の中でどう解消するかを考えていたからでした。京都大学推理小説研究会というと、手の届かない憧れにも似た存在なわけですが、その先輩―後輩の間には、外野にはもはや感知出来ない応答関係があることを肌で感じたのです(その応答関係の存在については、『どんどん橋~〈新装改訂版〉』に収録された大山誠一郎の解説からも垣間見ることが出来ます)。ある種の「過剰さ」によって成り立っている世界観を把握したい、そう思って『どんどん橋、落ちた』を読み返すと、腑に落ちることがいくつもありました。

    「精神的に超多忙」な状態に置かれた「綾辻行人」(内幕では、第二話以降の時期はゲーム「ナイトメア・プロジェクト〈YAKATA〉」に関わっていた時期だと明かされる)が、突然訪れたU君に「犯人当て」のテキストを差し出され、それに挑むことになる。U君の仕掛けた数々のトリックに、「綾辻行人」は時に「――汚い。卑怯だ」というような怒りにも似た言葉をぶつける。技巧的には、過剰すぎるトリックを外から解決するための額縁にすぎないわけですが、実はその額縁に、「犯人当て」というものの過剰さをシニカルに見つめる「現在」の作者の視点と、むしろ嬉々としてその道を追い求める「過去」の作者の視点が二重に折り重なっている。そう、この連作は、それ自体が秀逸な青春小説なのです。第二話の幕切れで、「綾辻行人」が思い出す、学生の頃の野心作に「袋小路への道標」という評価をつけられた記憶の苦さも、青春小説ならではの苦さであり、何か啓示にも満ちています。

     しかもこの連作は、第二話「ぼうぼう森、燃えた」以降の四作がわずか一年の間に書かれており、「犯人当て」というスタイルの過剰さによって、何か自分の欠落(=ラストに繋がる光景)を埋めようとするような作者の姿を現しているようでもあります。私は、ここに心が震えました。中学生の時は「なんじゃ、こりゃあ!」とひっくり返りそうになった本に、今はただただ、涙を誘われる。こういう体験こそ、再読の愉しみです。……まあ、初読時はU君のイニシャルがUであることの意味も分からず(本名を知らなかったので)、第三話「フェラーリが見ていた」に登場する編集者U山と同じなのか、と誤読していたくらいなので(読み始めの頃は編集者の名前まで意識しないので)。「内幕」が分かっていない初読時には見えなかったのは仕方のないことですが。

     一方『鳴風荘事件』は、長編という長さもあってか、「進んでいる道が間違っていない」と本当に解こうとしている読者に思わせる工夫が随所に見えて唸りました。初読時はクローズアップされた謎である「なぜ犯人は被害者の髪を切断したのか?」という謎の解答も分からなかったわけですが、そこを突破し、消去法を入念に組み立てて、真相に肉薄出来る何割かのマニアたちにも、「あれ?」と思わせるポイントを仕込んでいる。その「あれ?」というポイントの位置は、「読者への挑戦状」前の――真相を知らなければ意味が分からないはずなので、ページ数も明かせば――356ページで、きちんと宣言してある。ただ、この「あれ?」は、同時に「正しい方向に進んでいる」と思わせる強度も備えているのです。そこが面白くて、同時に、同時期の京大出身者の短編や、あるいは綾辻行人×有栖川有栖のドラマ「安楽椅子探偵」にも同様の趣向が存在し、それが例の議論から「当時会内で流行り、発展してきた手法」だと知り……なんとまあ、世界には色んなことがあるものだなあと思わされたのでした。

    ○自分にとっての「エンタメ」の代名詞

     貴志祐介『さかさ星』(角川書店)の話から始めましょう。著者の新作ホラー小説である『さかさ星』で扱われるのは、戦国時代から続く旧家・福森家に保管された大量の呪物。福森家では人による犯行とは思えないほど残忍な一家惨殺事件が起きており、この事件は、何者かがその大量の呪物を利用して引き起こしたのではないかと、霊能者・加茂禮子は喝破する――というのが大体の筋で、それぞれの呪物について、もっともらしい因縁譚を次々に開陳し、一方で、そもそものはじまりである一家惨殺事件の内容については物語の進行とともに小出しにされていく――という按配が、不安を掻き立ててくれます。霊能者を信頼してよいのかどうかも宙づりの心理状態に置かれて、語り手は事件を見極めなければならないのです。

     手札を開陳し、中盤以降、加速度的に展開していく事件は、開示された設定を用いた奇妙な「人物当て」の趣向を明らかにします。そう、これはフーダニットの小説でもあったのです。「解かなければ死ぬ」という絶体絶命のシチュエーションを用意したうえで提示される「人物当て」のロジックは実に悪魔的で、惚れ惚れするようです。語り手は恐怖を抑えるために終盤、ある行動を取りながら標的に迫るのですが……このシーン、なんだかとてもリアリティがあるんですよね。はたから見れば、ちょっと笑っちゃうような状況に見えるのですが、人が怪異に相対した時、自分の内から湧き上がる恐怖を抑え込むためには、恐らく有効な手法だと思うのです。というのが全部分かるからこそ――怖い。終盤の息詰まるようなスリルは、やはりこの人はエンターテインメントのど真ん中にいる、と感じさせてくれます。

     著者は今年『兎は薄氷に駆ける』も発表しており、こちらは冤罪をテーマにした法廷ミステリーになっています。冤罪がテーマのミステリーは、究極のところ、やったか、やっていないか、という二択に解が絞られるという苦しさがありますが、『兎は~』のすごいところは、たとえどちらが答えか確信を持っていたとしても――否、確信を持つからこそ――話がどう転ぶか分からない、というスリルを作っているところだと思います。何度も状況をひっくり返され、その過程をハラハラしながら見守ることが出来る。これだけ読まされてしまうなんて、と恐れをなしたことを覚えています。

     とまあ、『さかさ星』にダメージを喰らい――ついでに、自分が連載完結させたホラーサスペンスの改稿方法を考えなければいけないので――貴志祐介作品を読み返してみることにしたのです。中学1年生の頃、『クリムゾンの迷宮』『青の炎』を同時期に読んだことがハマったきっかけでした。『クリムゾンの迷宮』はゲーム小説にハマっていた流れで手に取り、ゲーム内で起こっているあまりにグロテスクな事態に悲鳴を上げ、作中で出てくる「ゾンビ」に夢の中で追いかけられました……(当時、それまでに読んだ中で一番グロテスクだった小説はなんだろう。多分、誉田哲也『ストロベリーナイト』の死体の描写だったと思います。これも中1。かなり近いタイミングで、『クリムゾン~』に塗り替えられたことになります)。だからこそ、別のタイミングで読んだ『青の炎』が、同じ人の手で生み出されていることが信じられず、その瞬間、すべて読むことに決めたのでした。当時から、私はホラーが苦手です。だから、本来なら足が止まってもおかしくないはずなのですが、とにかく読んだ。面白いものが読めるという確信が体を突き動かしていたのです。2008年1月、『新世界より』の刊行までに追いつけたことは、当時から誇らしかった。これをすぐに読めて良かったと、心が躍りました。中学2年生で新本格に足を踏み入れる前の出来事です。

     さて、その時期以来、久しぶりに手に取ったのはまず、『黒い家』です。これは、昔読んだ時あまりに怖かった。怖かったからこそ、再読できずにいました。そして今再読すると……怖い。めちゃくちゃ怖い。何が怖いって、どう考えても異常な事態が起こっているのに、「社会人だから」逃げられないのが、本当に怖い。中学生の頃に感じた恐怖というのは、保険というシステムを活かして社会に生きている化け物の行状を淡々と語る恐怖と、包丁を持って追いかけてくるという事実のシンプルな怖さ。しかし、やっぱりフィクションとしての怖さだと受け止めていたと思います。子供だったから。『クリムゾンの迷宮』も、『黒い家』も、中学生の頃には恐怖の質を同等に受け止めていたのでしょう。ある種、バーチャルな恐怖として。

     しかし、今は大人になり、なんなら、保険会社ではないにせよ、ある程度公的な機関での窓口業務を体験したからこそ、この話の本当の怖さが分かる。相手が「こちらのルール」に従って行動してくる以上、こっちも社会人として対応せざるを得ない、これが非常に嫌なのです。『黒い家』という小説では、事態が大きく動く100ページまでを使って、これから起こる悲劇の種まきと同時に、「こちらのルール」の提示を行います。保険会社ではこういう仕事が行われ、そのルールの穴を突いてこういうことをしてくるやつらがいる、という提示がひたすらに行われるのです。入院給付金の詐欺のエピソードなどはその最たるもので、「こちらのルール」と穴の提示を行ったうえで、しかし、それでもこういう事例にはこう対応することが出来る――という解決法を見せてくれます。

     では、『黒い家』に出てくる犯人はどうか? なすすべがない。そう、これが怖い。社会人として、会社としての「こちらのルール」を読者も共有している以上、この「なすすべがない」という状況を、認めたくなくても理解せざるを得ない。ここに恐怖の構造があります。ロジックで、人の悪意を立証しきることは出来ない。だからこそ相手の論理に従わなければいけない。異常な事態が起こっていることは、疑いようがないのに。家を特定されているのに、色んなしがらみがあって逃げられないのも、すごくリアルです。横山秀夫の警察小説は、組織に入った後の方が面白く読める、というのは私の先輩の言ですが、『黒い家』にも何か近しいものを感じました。保険会社のディティールを通じて見えてくる「こちらのルール」は、組織に所属した人間ならどこか心当たりのあるものであるはずだからです。

     なお、ここでは、初読―再読の違いを記すことを目的としているため、上記のように書きましたが、『黒い家』は子供が読んでも十全に楽しめない、と主張する意図は全くありません。むしろ、作中で子供がひどい扱いを受けるからこそ、湧き出る怒りや恐怖というものが、この本にはあります。名作は何度読んでも発見があるものだ――という当たり前すぎることを言うために、こんなに字数をかけるなという話ですが、当たり前のことを、当たり前に書き残したいのです。

     続いて『悪の教典』です。2010年7月に刊行された単行本を私は読んだのですが……そうなんです、高校1年生で読んだんですよ。恐らく、一番面白い時期に。だからこそ再読をためらう気持ちもあったのですが、これは、読み直して正解。どのように抑制し、恐怖を高め、種を蒔き、伏線を張り、解放するか――そのリズムを気持ち良いくらいに味わうことが出来ました。何より驚いたのは、結末を知ってから読み返すと、あらゆる伏線が綺麗に張られ、上巻の三分の一を読み返しただけで、生徒が死ぬ順番から結末まで全てを思い出すことが出来たことでした。無駄なく配置され、設計された小説が持つ美しさが『悪の教典』にはあります。

     語り過ぎるとネタバラシになりかねず、読んでいる時の疾走感を味わうべき本なので、ここでは再読で初めて気付いた事実を一つだけ。『悪の教典』のダークヒーロー、ハスミンは英語教師であり、たびたび生徒に「Good!」「Great!」「Excellent !」などの賛辞を投げかけます。その評価は三段階なのか? という疑問が、小説の冒頭、第一章で提起されます。ハスミンはそれに応え、「Excellent!」の上があることを示し、その英単語を吐きます。さて、その英単語が次に登場するのはどこでしょうか? なんと小説の最終盤、ハスミンがある事態に差し掛かった瞬間に、その口から放たれるのです。「心底感動するくらい素晴らしい」場合に発するという、「その単語」を。そして、「その単語」は、最終盤一度きりしか放たれない――上下合本版の電子書籍で答え合わせをすれば、その単語の検索ヒットは2件。第一章の講義のシーンと、最終盤のそのシーンのみです。なお、「Excellent」は8件。

     しかし、この小説が怖いところは、ギリギリまでその刀を抜かなかった貴志祐介の凄みではない――その刀を抜いたうえで、なおも「諦めていない」ハスミンの姿が、怖いのです。「心底感動した」瞬間に放つとされるその言葉をあえてそのタイミングで書くことによって、ハスミンの言葉が、やはり感情のトレースに過ぎなかったことをあからさまにするこの手つきが、怖い。何度読んでも惚れ惚れとします。やはり、私にとって貴志祐介こそは、ホラーというジャンルの代名詞、否、エンターテインメントの代名詞であるのです。

    (2024年11月)

第91回2024.10.25
秋の翻訳ミステリー特集(後編) ~超犯人、最後の打ち上げ花火~

  • ジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメイカーの罠』(文藝春秋)

    ジェフリー・ディーヴァー
    『ウォッチメイカーの罠』
    (文藝春秋)

  • 〇翻訳ミステリー特集、後半戦!

     では、後編に取り扱う作品のリストを。

    ●ロス・トーマス『狂った宴』(新潮文庫)
    ●ヱヴァ・ドーラン『終着点』(創元推理文庫)
    ●アンソニー・ホロヴィッツ『死はすぐそばに』(創元推理文庫)
    ●ローレンス・ブロック『エイレングラフ弁護士の事件簿』(文春文庫)
    ●ジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメイカーの罠』(文藝春秋)

     ロス・トーマス『狂った宴』(新潮文庫)は、新潮文庫の「海外名作発掘」の一環で刊行されました。ロス・トーマスについては、読書日記第62回で同じく新潮文庫で刊行された『愚者の街』を取り上げています。令和の世に、ロス・トーマスを新刊で読めるというだけで奇跡のようなことなのですが、『狂った宴』も高まり切った期待を軽々と越えてくる良作です。選挙請負人と若手広告マンがアフリカの小国で選挙戦に乗り出していく……というのがざっくりとしたあらすじなのですが、ゆっくりと描写の妙に身を委ねながら、選挙戦の勢力図をじっくりと頭に浸透させていく読み方が吉。人物描写の端々まで味わっていると、選挙小説として次第に面白さが増していき、ラストに至って、あっ、と声を上げることになるでしょう。騙された……といっても、『愚者の街』のようなコンゲーム性ともやや違いますが、「これはどういう小説だったのか」を一瞬で提示してしまう作者の手際の鮮やかさには舌を巻きました。

     ヱヴァ・ドーラン『終着点』(創元推理文庫)は、極めて特異な構成で描かれるサスペンス。社会改革の活動家、エラからの電話を受けてモリーが彼女のもとへ駆けつけると、エラの傍には男の死体が。エラは正当防衛を主張。モリーはエラを庇おうとするが……というのが冒頭に描かれる光景ですが、物語はこのシーンを起点として、エラを視点人物とする「過去」の章と、モリーを視点人物とする「現在」の章を交互に描いていきます。どちらも、現在の一点を起点に「遡って/進行して」いくので、描かれる時間軸はどんどん離れていきます。この特異な構成にもかかわらず、「エラは何を考えているのか」「被害者は誰なのか」などの複数の疑問のピースが手際よく埋まっていくのが見事です。極めて特異な構成の一作として、記憶に留めたい一冊です。

     アンソニー・ホロヴィッツ『死はすぐそばに』(創元推理文庫)は、〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズの第五作にして、かつてない冒険に挑んだ一作。第一部ではテムズ川沿いの高級住宅地〈リヴァービュー・クロース〉に住む人々について、共通の人物への殺意をそれぞれが醸成する過程を一人ずつ順番に活写します。第二部では、「わたし=ホロヴィッツ」が登場し、第一部に書いた物語は、ホロヴィッツの手によるもので、ホーソーンが五年前に解決した事件について彼から聞き出し、物語に仕立てたという事情が明かされます。この後も、三人称視点で過去の殺人事件の顛末が描かれるパートと、ホロヴィッツの一人称視点で書かれたパートが(基本的に)交互にやってくることになります。その二つのパートによって、少しずつ謎が深まる行程は、さすがホロヴィッツというところでしょう(個人的には、第四部である人物が放つセリフにはニヤリとさせられました。さすがホロヴィッツ、クリフハンガーが巧い)。車庫と車の二重密室、というやや変わった問題構成ながら、ストレートに密室の謎が登場し、ジョン・ディクスン・カー、島田荘司、横溝正史への言及があるのも面白いところ。昔の日本では、障子と畳の国で密室ミステリーが生まれるはずがない、というのが通説だったように思いますが(だから畳の部屋で構成された横溝正史『本陣殺人事件』山村美紗『花の棺』が新鮮だった)、ホロヴィッツが「最高の密室ミステリは日本から生まれていると考えるようになった」(『死はすぐそばに』、p.298)と述べているのも興味深いです。シリーズ第五作でこれほどの冒険を成し遂げているのも見事……と思わされますが、最終的な犯人と結末には、まごついてしまいました。段々と手癖が見えてきてしまったというのもありますが、犯人の犯行計画に一点、納得しがたい箇所があり(ホロヴィッツは密室物に対する議論の箇所で、感情、つまり動機が埋もれてしまうといった批判的なスタンスを明らかにしますが、このスタンスからきた趣向であると考えれば、このアイデアが出てきた理由は分かります。ホロヴィッツの作品世界では、動機が最も重くみられる)、ついでに……このシリーズの次回作をどのように続けるつもりなのか分からなくなったというのは、これは要らない心配ですかねえ。過去の相棒が出てくるという趣向は面白いと思ったのですが、もうホロヴィッツ(作中人物)もやっていることめちゃくちゃですからね。不安よりも期待が大きいのはもちろんですが、また第六作を、あるいは他のシリーズや単発の作品であっても、楽しみに待ちたいと思います。

     文春文庫から刊行のローレンス・ブロック『エイレングラフ弁護士の事件簿』は、ファン垂涎の一冊。ブロックが38年間かけて大事に書き継いできた悪徳弁護士、エイレングラフの物語全12編を、一冊に集成したものです。第一作「エイレングラフの弁護」が発表されたのは1976年。この短編にエラリイ・クイーンが太鼓判を押したため、帯に「エラリイ・クイーン偏愛」の文字が躍っているわけです。

     エイレングラフはかなり癖のあるキャラクターです。自分の弁護した人間は必ず無罪になる、とうそぶいたうえで、依頼料については「成功報酬制」をとる。つまり、有罪になったら一銭もいただかない。代わりに、いかなる経緯であれ、無罪になったのなら、法外な金を支払わないといけない、というわけです。エイレングラフは最初の短編で、医師も成功報酬制にするべきだと発言するとおり、ブラック・ジャックを思い浮かべてもらえれば大体イメージ通りですが、この男、無罪を勝ち取るためならどんな裏工作でもする。それも、法廷に持ち込まれることなく、その手前で無罪になってしまうのです。とにかく悪辣。「無罪」という結論のためならなんでもするその極悪ぶりと、短編自体が持つトリッキーな味わいからは、麻耶雄嵩の創り出した銘探偵、メルカトル鮎を思い出します。すぐに事件を解いてしまうがゆえに、短編には向かないとうそぶいている、あいつのことです。

     その悪辣さは、一編目「エイレングラフの弁護」を読んだ段階で明らかになりますし、必ず無罪になる、というパターンをきっちりと守りながら、わずかに切り口を変えていく、曲芸的マンネリズムというべき手法に唸ります。さすがの職人芸。しかも、これは長編には決定的に向かない設定なのです。裏工作の具体的な手口をブラックボックスに入れることによって、「無罪」という結果と、その原因である「真犯人の自白」であるとか「疑いの払拭」だけを示し、エイレングラフが具体的に何をどこまでやったかは明言しない(一部手口を明かすこともありますが、脅迫の材料となる部分だけ話したら説明を打ち切ってしまう)。依頼人との対話のみで骨格だけを示す。この省略によって、エイレングラフの怖さが立ってきます(たとえば一編目について、「そうする」ように誰かに金を握らせて頼むとか、あるいは本人が本当にやってしまうとか、そんなシーンが描かれたら興ざめでしょう)。そういう意味で――かつ、メルカトル鮎とはまた違った意味で――エイレングラフは「短編向きの」弁護士なのです。

     ブロックの短編芸を味わえる名編で、どれも面白いのですが、シリーズものならではのひねった開幕から、ゾッとさせられる終幕まで実に見事な「エイレングラフの反撃」と、ふてぶてしい弁護士にふてぶてしい依頼人を掛け合わせた愉快な一編「エイレングラフの代案」を好きな短編として挙げておきましょう。いずれにせよ、ぜひとも買うべき一冊です。

    〇さらば、ウォッチメイカー!

     さあ、そしてジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメイカーの罠』(文藝春秋)です。言わずと知れた〈リンカーン・ライム〉シリーズの最新作であり、シリーズ中盤以降、ライムの宿敵として幾度となく立ちはだかってきた犯罪王「ウォッチメイカー」との最終対決を描く作品となっております。個人的な感慨は別として、まずは客観的な評価ポイントについて、説明を済ませてしまいましょう。

     犯罪王「ウォッチメイカー」との因縁の歴史は、シリーズ第七作『ウォッチメイカー』から始まりました。時計を愛し、連続殺人のモチーフとして「時」を採用したこの犯罪者は、『ウォッチメイカー』の事件を通じてライムと戦いますが、その後の事件でも、突如黒幕として立ち現れたり、かと思えば刑務所から逃げ出したりと、八面六臂の活躍を見せてきました(それがどの作品でのことなのか――を明かしてしまうのはさすがにマズいので、タイトルは控えますが)。

     読書日記第44回では、「ジェフリー・ディーヴァー試論」と題して、当時の新刊『真夜中の密室』までの全作レビュー及びディーヴァーの「どんでん返し」を分析するという試みを行いました。そこでの議論を繰り返すことはしませんが、「ウォッチメイカー」については、ディーヴァーの頭の中に生まれた壮大な構想を、説得力を持って提示するための絶対的犯人、というような言い方で評価しました。『ウォッチメイカー』という作品はシリーズの第七作にして、ライムの第一期の総決算ともいえる作品であり、第二期以降、この作品では「操りの構図」が前面に立ち現れるようになります。これはディーヴァーが「どんでん返し」のためにこの構図を好んでいる――というのはもちろんだと思いますが、「ウォッチメイカー」という存在をサプライズに隠しておくためには、前面に別の犯人がいなければいけない、という事情もありそうです。

     さて、本作『ウォッチメイカーの罠』では、かなり早い段階で、ウォッチメイカー本人が犯人であることが明らかになります。「操りの構図」を捨て、直球勝負でリンカーン・ライムに挑んでくるのです。その意味で、本作は原点回帰ともいえる王道の〈リンカーン・ライム〉の推理物語たりえています。

     高層ビル建設現場でタワークレーンが倒壊、一名の死者と数名のケガ人が出た。富裕層のための都市計画に反対する過激派組織が犯行声明を出し、さらに、24時間のタイムリミットを提示、時間が経過したら、次のクレーンを倒壊させるという。証拠の分析結果から、ライムは結論する――犯人は、あのウォッチメイカーであると。彼はニューヨークに潜伏し、クレーン倒壊に始まる恐るべき犯罪計画を組み立てていたのだ。そう、リンカーン・ライムを、殺害するための計画を……。

    『バーニング・ワイヤー』の電気、『スティール・キス』のエスカレーターなど、身近なものを凶器に変えてしまうディーヴァーの腕前には恐れ入ります。序盤では、どのようにクレーンを倒壊させたか、がカギになりますが(最初の一章はクレーンに乗っていた作業員の視点から描かれ、爆発のような手段で一気に倒れるのではなく、少しずつ傾いていき、それが止められなくなっていったという経過であったことが示されます。この不可解な倒壊の仕方が、最初の謎になっている)、この手段の巧さにも膝を打ちますし、ここで登場したアイテムを何度も使い倒して、サスペンスを醸成してみせるところも余念がありません。

     ウォッチメイカー周辺の謎や、その目的といった大きな「どんでん返し」の前にも、思いもかけないところに罠が仕掛けられていて、思わず、アッと声を上げてしまう箇所が何回もありました。個人的には、第一部に置かれた、タイムリミットサスペンスだからこそ成立する、ちょっと意外な捻り。冷静に考えてみれば、疑ってもいいような書き方がされているのですが、どんどん前に進むストーリー展開に翻弄されて、思わずやられてしまいました。

     そういう細かい点も含めてよく出来ていますし、最後の最後の瞬間まで練りに練られた、「ウォッチメイカー最後の花道」には感嘆しました。ホワイダニットに凝るのは『ウォッチメイカー』以降の作者の特徴でもありますが、よくもまあ、これだけ捻りに捻ったことを考えると感心させられます。ライムが推理に推理を重ね、ウォッチメイカーの動機を推理しても、まだまだ、一枚、二枚先に展開がある。ここが面白い。対決の凝りようも嬉しくなるほどです。

     そして、最後に明かされるのは、とびっきり稚気に溢れた真相。ここも巧い。際限なく反転してしまいそうな真相に、最後の楔をそっと打つ、「なぜ?」への解答。この真相自体が、「ウォッチメイカー最後の事件」に捧げられたはなむけでもあるのではないかと思わされます。『真夜中の密室』で見せた原点回帰のエネルギーを、ウォッチメイカーという怪物に再度注入し、華々しく退場させた大いなる力作。シリーズファンとして大満足の一冊でした。

     さて……ここからは、かなり個人的な話。私が『ウォッチメイカー』という作品に出会ったのは、2008年、中学2年生でのことでした(邦訳刊行は2007年)。そして、『ウォッチメイカー』が、現代海外ミステリーへの入り口となったのです。中学生の時に読む『ウォッチメイカー』は、ビザールな魅力に満ち溢れていて、かつ、謎解きミステリーの快楽に溢れていました。その時点では――他のシリーズ作品をすっ飛ばして、『ウォッチメイカー』を手に取ったという経緯もあり――ライムその人よりも、悪のカリスマというべきウォッチメイカーという存在に強く惹かれ、こういう犯人を造形できるディーヴァーに憧れを抱きました。私のディーヴァーに対する憧憬は、その多くの部分を「ウォッチメイカー」という存在に負っており、どこか象徴的な存在と捉えてさえいたのです。

     それから、15年以上経ち、今、ウィッチメイカーの最後の事件に立ち会う。20代最後の月である24年9月に、この本に出会う……私にとっては、遅すぎる青春の終わりを意味するような、そんな気がして、自分に呆れるような、同時に、切なくなるような、そんな気持ちになったのです。ラストまで、手に汗握る展開で、どんどん読み進めたくなる一方で、なんだか読み終わりたくなかったのも、それが理由でした。

     読み終わったら、自分の中で何かが終わるような気がする。そんな不安に駆られつつ、完成度の高さに満足して本を置こうと思ったその最後の瞬間に、先ほども指摘した「稚気に溢れた真相」が明かされたのです。なんだかそれが妙におかしくて、切なさや寂しさが吹っ飛んで、まだまだこの人の背中を追いたいと、そう思わされたのです。「時計」というガジェットに執着して、悪の天才を創造したかつてのディーヴァーの姿が、今も変わらずそこにあることを、その「真相」は教えてくれたから――なのだと思います。

     だから、『ウォッチメイカーの罠』は、私の中で、かつてないほど大切な一冊であり、このようにどれだけ言葉を尽くしても、言い尽くせるような気がしないのですが……ひとまずは、最高だった、という言葉を残して、この原稿を終わろうと思います。

    (2024年10月)

第90回2024.10.11
秋の翻訳ミステリー特集(前編) ~表からも裏からも読める、推理の冒険~

  • ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』(早川書房)

    ガレス・ルービン
    『ターングラス 鏡映しの殺人』
    (早川書房)

  • 〇雑誌短編など

     ハヤカワミステリマガジン2024年11月号の特集「世界のジョン・ディクスン・カー」はなかなか気合いの入った良い読み物でした。ジョン・ディクスン・カー本人の未訳短編のほか、各国で「〇〇のカー」の名を冠された作家たちの短編が三つ収録されています。いずれも読みごたえのある作品でした。

     まずカー本家は未訳短編「運命の銃弾」。カーの17歳の頃の作品だという本作は、密室トリックそのものには大きな難がありますが、短い尺の中でも容疑者を二転三転させ、自白合戦まで盛り込むあたりの過剰さは、これぞカー! と嬉しくなってしまいました。結末まで読んだ後、冒頭に立ち返ると、思わずニヤリとするような趣向も。密室や怪奇趣味ばかりが取りざたされるカーですが、やはりその本質は、「狙いすぎたフーダニット」にあると思うのです。

     スウェーデンのカーことヤーン・エクストレムは国内での短編紹介自体初めてという貴重な一編(長編の訳出は『誕生パーティの17人』『ウナギの罠』の二作)。短編「事件番号94.028.72」では、実験室内の冷凍槽の中で氷漬けになって発見された博士の死体。一見すると足を滑らせて冷凍槽の中に転落し、その後凍結した……という事故のようにも見えるが、所長は殺人としか思えないと主張する。特異な空間を使ったトリックの案出は『ウナギの罠』にも通じる美点。お前このシチュエーション好きすぎだろ! というツッコミが浮かんだりもするが。間違いなくこの雑誌最大の収穫といえる珍品。

     フランスのカーことポール・アルテの短編「妖怪ウェンディゴの呪い」は、六千キロも離れた二つの土地(フランスとカナダ)で同時刻に同じ手口で二人の女性が殺された、という奇妙な事件が描かれます。ウェンディゴの伝承を利用した怪奇色たっぷりの味付けは、カーの一側面を強く受け継いだ結果でしょう。シチュエーションを聞いた時はアリバイトリックなのかと思ったのですが、そうではなく、「なぜこのような符合が起こったのか?」という切り口から真相が浮かび上がるところが見所です。安楽椅子探偵風に短編で処理したのも成功だと思います。

     中国のカーこと孫沁文(鶏丁)の短編「昆虫絞首刑執行人」は、なんと目張り密室に挑んだ一編(内側からテープ等で目張りされており、出入りが不可能と思われる状況を作るシチュエーションのこと。カーの『爬虫類館の殺人』が代表的作例)。本文中では「テープ密室講義」と題された章まであり、どのように目張り密室を作るか、について二つの方法を示唆しています。本文中ではサンプルとしてカーとクレイトン・ロースンの短編「この世の外から」を挙げ、法月綸太郎『密閉教室』有栖川有栖『マレー鉄道の謎』については(作中のキャラは)未読であると書いていますが、その二作まで広くカバー出来る分類なのは間違いないでしょう(ついでにいえば、綾辻行人×有栖川有栖のドラマ「安楽椅子探偵」の第四弾「安楽椅子探偵UFOの夜」も)。派手過ぎる密室トリックについては、良い意味で、笑うが吉、というところでしょう。

     小説新潮10月号の特集は「伏線回収について本気出して考えてみる」。私の短編「女死刑囚パズル」もこちらに掲載されていますが(内容紹介は前回の読書日記を参照のこと)、今回注目したのは坪田侑也「放送部には滅ぼせない」。高校の体育祭直前、体育祭でかける音楽のアンケートをとるために置いていた放送部の投書箱に突如投げ込まれたルーズリーフ。『体育祭が憂鬱です。中止してください。いっそ、滅んでしまえ。』奇妙な投書に返事をしてみると、そこから手紙のやり取りが始まる。放送部の部員二名は、投書した人の気持ちに寄り添おうとしつつ、一体、誰からの投書なのだろうと、手紙の中の些細な文言からその素性を推理していく……。ザ・青春ミステリーといった感じの一編であり、「素性当て」については、フェアであると仮定するならほとんど解が決まっているようなもの。では、この短編はどこがすごいのか? 伏線の張り方、手掛かりの示し方が上手い、ということに尽きます。どこか懐かしさも感じるいい短編です。ぜひ。

     最後に寄り道として、稲田豊史『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)を取り上げておきたい。ドキュメンタリーに隠された「作り手の作為」を読み解くことによって、ドキュメンタリーのフィクション性が明らかになる、という主張を、犯罪ドキュメンタリーからバラエティー番組までを俎上に載せて丁寧に論じていく本です。著者の別の本『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』〈光文社新書〉を岩井圭也さんにオススメされたことがあり、興味深く読んだので、こちらも楽しみにしていました。『映画を~』にも通じる議論ですが、「第6章 脚注としてのメイキング」(主題は「さようならすべてのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~」など)における、メイキング=脚注「だけ」を楽しむ人の姿や、第7・8章で展開されるバラエティー「水曜日のダウンタウン」の悪意ある仕掛け(「水ダウ」のVTR明けやカット尻の話をきちんと系統立てて話してくれる評論に出会えてとても嬉しい)と受容のされ方に関する議論は、現在の受け手の態度を考えさせるという意味でかなり示唆に富んでいて、刺激的な読書になりました。ドキュメンタリーにあまり興味がないという人もぜひ手に取って見てほしいです。ハマりますよ。

    〇年に一度の翻訳ミステリー特集

     今年もミステリーランキングの刊行時期が近付いており、翻訳ミステリーの話題作の刊行が立て込んでいます。例年通り、今回も翻訳ミステリー特集を行っていきましょう。昨年も使った手法ですが、全国翻訳ミステリー読書会YouTubeライブとして行われた「第3回 夏の出版社イチオシ祭り」から、各出版社がイチオシ作品として取り上げた作品をまとめて取り上げていくことにします。ただ、参加した9社9作品のうち、扶桑社の『ヴァイパーズ・ドリーム』(11月5日刊行予定)、U-NEXTの『THE LIVING DEAD』(10月23日に上下巻で刊行予定)は、この原稿を執筆している9月末時点では刊行されていないため、紹介を割愛します。

     まずは前編で取り上げる作品のリストから。

    ●ベンジャミン・スティーヴンソン『ぼくの家族はみんな誰かを殺してる』(ハーパーコリンズ・ジャパン)
    ●イライザ・クラーク『ブレグジットの日に少女は死んだ』(小学館文庫)
    ●エイヴァ・グラス『エイリアス・エマ』(集英社文庫)
    ●ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』(早川書房)

     残りの3出版社、文藝春秋、東京創元社、新潮社の作品は2週間後に更新の後編で紹介します。では、ガンガンいきましょう。

     ベンジャミン・スティーヴンソン『ぼくの家族はみんな誰かを殺してる』(ハーパーコリンズ・ジャパン)は、冒頭に「ノックスの十戒」を掲げるふてぶてしい謎解きミステリー。カニンガム家は曰く付きの一族であり、主人公の「ぼく」は冒頭で「ぼくの家族は全員誰かを殺してる」と宣言する。彼ら一族が集まったロッジで起こる殺人事件を描くわけですが、この平凡なプロットを「ぼく」の自在な語りが闊達に動かしていくところが本書のミソ。狙い澄ましたフーダニットの趣向まで一直線に練り上げられています。犯人の隠し方は非常に面白く、それだけでも読む価値がある一作です。趣向に関しては、一点、個人的に大きな不満があるのですが、友人に話したところ全く同意を得られなかったので、私の考えすぎかもしれません。

     ハーパーコリンズからは、ルー・バーニー『7月のダークライド』にもご注目。第75回で取り上げました。疾走感あふれる青春犯罪小説の傑作です。

     イライザ・クラーク『ブレグジットの日に少女は死んだ』(小学館文庫)は、読書日記の第82回でも取り上げた「実録犯罪(トゥルー・クライム)もの」の系譜に属する一冊。EU離脱(ブレグジット)の日に、十六歳の少女が暴行を受けて死んだ。犯人は同じ年頃の少女三人組だった。被害者と加害者たちはどんな人生を送ってきた人物なのか? なぜ、悲劇は起きたのか? モキュメンタリーの手法を使った作劇は、第82回で取り上げた作品と似通っていますし、「一旦この事件について取り上げたノンフィクションが出版され、内容に問題があるとされて回収された」という設定も、「第二版」という設定を付したジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』と酷似していますが、語り口が大きく異なるため、二番煎じとは感じさせません(ノックスが2021年に原著刊行、クラークは2023年に原著刊行)。様々な叙述形式を導入し、テキストの信頼性を幾重にも揺さぶってくるところが本作のミソといえるでしょう。

     エイヴァ・グラス『エイリアス・エマ』(集英社文庫)は、英国推理作家協会(CWA)賞の最終候補となったスパイ小説。英国の新人スパイ、エイリアス・エマは、ロシア人科学者夫妻の一人息子、マイケルを保護する任務を受けます。しかし、ロンドンの監視カメラ・ネットワークはロシアの諜報員にハッキングされており、二人はカメラの目をかいくぐって、自力でMI6の本部まで辿り着かねばならない……というのがあらすじ。エマの父親がロシアのスパイであり、エマにとってスパイになるのが夢だったという設定が効いています。決して楽天的なものではありません。父親のすすめで、エマは母親と一緒にロシアを出ることになりますが、単身ロシアに残った父はその後、国に殺されてしまったのです。いつか、ロシアに復讐するために、自分もスパイになる。新人スパイであるエマにはそうした強い復讐心があり、新人ならではの危うさも相まって、実にスリリングな読み味になっています。古き良きスパイ小説の面白さを味わえるアクション小説ですが、エマが超人ではなく、足掻いて立ち回るところが、親しみやすさを感じさせる理由でしょうか。池田真紀子の訳文も相まって、スピーディーに楽しめる快作。

     集英社文庫からは、海外ミステリーの刊行点数は少ないながら、今年はカルロス・ルイス・サフォン『マリーナ バルセロナの亡霊たち』も刊行されています。〈忘れられた本の墓場四部作〉の作者の原点ともいえる、愛すべき小品です。

    〇「両面から読めるミステリー」の新たなる傑作

     前編の最後に取り上げるのは、ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』(早川書房)。本を手に取ってまず驚かされるのは、表からも裏からも読める、という構成の特異さでしょう(これは邦訳版だけでなく、原書もこの構成のようです)。赤い表紙の面からは、1881年、ターングラス館で起きる奇怪な殺人事件を描く【エセックス篇】、青い表紙の面からは、1939年、カリフォルニアで起こる作家の自殺事件を描く【カルフォルニア篇】を読むことが出来るのです。それぞれの作品は独立していますが、二つの物語を読むと、全体像が見えてくる仕掛けとなっているのです。ターングラス、砂時計というタイトルと、鏡のモチーフ選択も完璧で、実に惚れ惚れするような一冊です。

     両面から読めるようになっている本を「テート・ベーシュ」と呼び、日本でも過去に例がなかったわけではありません。折原一『倒錯の帰結』『黒い森』、芦辺拓『ダブル・ミステリ 月琴亭の殺人/ノンシリアル・キラー』がそれに該当するでしょう。また、テート・ベーシュとは厳密には異なりますが、六つの短編が互い違いに右綴じ・左綴じにされており、短編を好きな順番で読める道尾秀介『N』も、同じような仕掛けの本と言えるでしょう。

     先に、こうした日本の過去作品の話をしてしまうと、折原、芦辺の作品は、表から始まる「●●編」と裏から始める「▲▲編」のどちらからでも読めると謳ってはいますが、最後の大オチは真ん中に綴じられた袋綴じに書かれており、袋綴じだけは最後に開けるように指示されているわけです。何か大オチがある場合は、この仕切りが限界でしょう(また、二つの物語に何かしらの大オチがある、という提示によって、考え得るオチはあらかた制約されてしまうきらいもあります)。『N』はこの点、全編を通した大オチというものは存在せず、短編を一つ読むごとに作品世界のタペストリーが穴埋めのように埋まるような仕掛けになっているため、本当にどこから読もうと、どういう順番で読もうと良いという自由度を確保できるわけです。自由度の代わりに、著者が衝撃を制御しきれない弱点はあるでしょうが、ここでは繋がりが明らかになることで生じる衝撃よりも、個々人によって違う体験を得る体験価値の方に重きが置かれていそうです。『いけない』『きこえる』にも通ずる著者の姿勢です。

     では、翻って『ターングラス』はどうかというと、形式的には『N』に近いといえます。袋綴じのように、絶対に最後に読まなければいけないという箇所はありませんし、【エセックス篇】と【カルフォルニア篇】は本当にどちらから先に読んでも構わないようになっています。ネタを割らないように言うのが難しいのですが、二つの物語は、卵とニワトリのような関係性なのです。また、どちらから読んでも、「あれ?」となるタイミングが揃っているのも面白いと思います。最後の瞬間ではなく、もっと手前に置かれた違和感なのです。本の形式そのものも生かして、作者は容赦なく読者の鼻面を引き回してくれます。

     このタイプの作品で、趣向に溺れることなく、【エセックス篇】、【カルフォルニア篇】共に謎解きミステリーとしてスマートに作られているところも非常に好感が持てます。そのうえで、リドル・ストーリーのように、埋め切れない空白が残るところも面白いのです。全てがスッキリ明快に解かれて終わる折原・芦辺式のテート・ベーシュが好きだという方は首を捻るかもしれませんが、本を幾度も(砂時計のように)ひっくり返しながら、広げられた物語のタペストリーを眺め、わずかに埋まらなかった空白に思いを馳せる体験は、他では得難い楽しさがあります。造本も素晴らしく、ぜひ、一冊持っておきたくなる本です。

    (2024年10月)

第89回2024.09.27
不可能犯罪とは、演出力である ~〈ワシントン・ポー〉、最高傑作!~

  • M・W・クレイヴン『ボタニストの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

    M・W・クレイヴン
    『ボタニストの殺人』
    (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 〇告知から

    「小説新潮10月号」に「女死刑囚パズル ~迷探偵・夢見灯の読書会~」が掲載されています。同シリーズの第四弾です。このシリーズでは、読書会の課題本そっくりの事件に夢の中で巻き込まれる――という設定を用いて、これまで三人の作家を扱ってきました。ジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)、アガサ・クリスティー、エラリー・クイーンの三人です。そして、四人目はいよいよ日本人作家、それも、法月綸太郎に挑もうという趣向です。法月綸太郎「死刑囚パズル」『法月綸太郎の冒険』〈講談社文庫〉収録)で扱われた、「死刑執行直前の人間を、なぜ殺害したか?」というホワイダニットの謎に挑みます。この謎の別解は、鳥飼否宇「魔王シャヴォ・ドルマヤンの密室」『死と砂時計』〈創元推理文庫〉収録)でも編み出されていますが、それとはまた違った解決を捻り出しています。

     アイデアの中核は、打ち合わせの中で与えられたものですが、日本の刑務所をそのまま使うと上手く実現できないアイデアであるため(逆に言うと、夢世界で事件を起こす、という本作の枠組みが巧く使える形で、時宜を得たような感じがして嬉しかったです)、肉付けと演出、「死刑囚パズル」とクイーンの『Zの悲劇』に捧げるための消去法推理への挑戦に意を払って、どうにか完成させることが出来ました。核を与えてくださった新潮社の新井久幸さん、魅力的な設定と謎を使わせていただいた法月綸太郎さん、ありがとうございます。

     これからは日本人作家編が始まります……と言いたいところですが、打ち合わせの内容そのままでいくなら、第五話は異色編です。とはいえ、この異色編、料理が多分大変なんですよね……どうなることやら……。

    〇トリックの話

     さて、今少し名前を出した、カーター・ディクスン(以下、カーと表記)に寄り道してみます。なんだか無性にカーが読みたくなって、読書日記第79回の仙台紀行編で購入したカーの『一角獣の殺人』を読んでみました。カーの作品にはまだいくつか読んでいないものがあり、ちょっと大事に取っておいているのです。

     で、この作品、もう、めちゃくちゃ。良い意味で。「一角獣」の角で突かれたとしか思えない死体が出てくるという演出だけで、カー全開で笑ってしまうのですが、ストーリーの主軸をなしているのは、希代の怪盗、フラマンドとパリ警視庁の主任警部、ガストン・ガスケの知恵比べ、そこにわれらが名探偵H・M卿が絡んでいくという三つ巴の戦いなのです。もう、めちゃくちゃ(笑)。フラマンドもガスケも変装していて、誰がその正体なのか分からない、という状況がますます謎を複雑にしていて、もはや笑うしかないのです。でも、このめちゃくちゃっぷりが、カーなんですよねえ。

     謎解き物としては、このフラマンドとガスケまわりのアクロバティックな状況作りと、それを読み解いていく解決編が面白いところですが、トリックそのものはやや落ちる感じと言わざるを得ません。やっぱり、馴染みのないアイテムが真相に関わっているのが難点でしょうか。

     でも、これがね、事件が起こる時は妙にワクワクするんですよ。目撃者のいる状況で、階段の中腹に転げ落ちていった人間が、発見時には額に角で刺されたような痕を残されて死んでいる。不可能性の高い状況で、ここの演出力は、さすがカーといったところ。とにかくワクワクするんですね。一体どうやったのか、どうやれば突破できるのかと、眉に唾をつけて挑みたくなってしまう。だからカーの作品を読むたびに、ハウダニットというのは、演出力なんだと思い直してしまうのです。

     そこで、M・W・クレイヴンの話をしたい。

    〇〈ワシントン・ポー〉シリーズ、またしても最高到達点!

     M・W・クレイヴン『ボタニストの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、著者による警察小説〈ワシントン・ポー〉シリーズの第五作であり、真っ向から「不可能犯罪」に挑んだ贅沢な作品です。邦訳では初めて上下巻の分厚さになっていますが(6月に刊行された別シリーズの『恐怖を失った男』も600ページ超えの大部でしたが、『ボタニスト』は上下巻合わせると750ページを超える)、その分厚さをまったく感じさせない娯楽大作になっています。

     本作では二つの事件が同時並行で起きます。一つは、「ボタニスト」と呼ばれる殺人犯による連続毒殺事件です。ターゲットにあらかじめ押し花と一編の詩を送り、その詩の内容によって使う毒物を仄めかす……という趣向で、殺されるのは、女性差別主義者やネットの陰謀論者など、殺されても仕方ないとボタニストが考える相手ばかり。これが上巻の帯に書かれた「完全な密室下での毒殺」を描くパートになりますが、本来、密室と毒殺は喰い合わせが悪いところ、本作における徹底した「不可能性」の演出にはどうしようもなく興奮させられます。第三の事件以降、使われ得る毒物を特定してからの、「完全な」封鎖作戦には胸躍るものがあります。

     しかし、もう一つの事件もすごい。こちらでは、シリーズの重要キャラクターであるエステル・ドイルの父親が殺され、しかもその現場は新雪に覆われた「雪密室」。密室の中には、エステルしかいなかったので、第一容疑者になる……という趣向なのです。かなりショッキングな幕開けですし、それに見合うだけの盛り上げ方をしてくれます。クレイヴン自身、不可能犯罪に対する気概は十分で、「ジョン・ディクスン・カーの小説のなかにいるような気分なのはなぜだろうな?」(上巻、p.195)というセリフをポーに吐かせるシーンもあります。

     本作を読んで痛感するのは、不可能犯罪は演出によってこれほどまでに面白くなる、ということです。ハッキリ言って、たとえば本作のネタバラシだけを聞いて、二つの事件のトリックだけを知った本格ミステリーマニアが感心する可能性は極めて低いでしょう。片方のトリックはあまりにもぬけぬけとしすぎていて、もう片方のトリックは専門性が高すぎる。専門性が高すぎると、事前にフェアな情報提示が出来ないうえ、細かい手順の説明が解決の快感を削ぐ傾向があります。だから、トリックだけ抜き出したとしても、本作の魅力は少しも表現出来ないのです。

     では、『ボタニストの殺人』の魅力はどこか。それは、「不可能性」を堅牢にするための演出です。別解潰しだけでなく、「さあ、ここまで塞いだらいよいよ困難に見えるでしょう?」という作者のふてぶてしい書きぶりも、実に憎らしい。毒殺事件の方は、ターゲットは予告されている状態ですから、ターゲットを殺されないように、徹底的に通り道を塞いでいく手法が採られています。この執拗なまでの毒殺ルート潰しが、小説のテンションに大きく寄与しているのです。演出が強烈に行われているため、それだけでワクワクさせられますし、トリックが明らかになる推理や捜査の過程が面白く映えてきます。ここに、確かな本格ミステリーの愉しみがあります。

     少しだけ脱線すると、8月に公開された映画「ラストマイル」にも、こうした「演出」による「不可能犯罪」の愉しみがあります。同作は、監督・塚原あゆ子と脚本家・野木亜紀子のタッグによって作られた「アンナチュラル」「MIU404」と世界線を同じくするシェアード・ユニバース形式の映画であり、物流業界に鋭く切り込んだ社会派エンターテインメントです。しかし、何より興奮させられたのは、爆発物をいかに荷物の中に仕込んだか、という不可能犯罪ものとしての魅力です。「DAILY FAST」というショッピングサイトから運ばれた荷物の中に、爆発物が混じっていた。しかし、倉庫の管理状況はこう、配送時の状況はこう、では、どこで爆弾を仕込むことが出来る? というのが興味の中心になっていて、主人公二人は何度もその手口について議論を重ねます。何度も繰り返されるディスカッションと、「ショッピングサイトのセンター長がこの危機にどう対処するか?」という部分の解決策をケレン味たっぷりに描くことで、剛腕で成し遂げられるしらみつぶしの「消去法推理」。不可能性をこれほどまでに高めつつ、数段階に分けてプロットの中で謎を解消する手口には惚れ惚れしました。「ラストマイル」と『ボタニストの殺人』は、その娯楽大作としてのプレゼンテーションの見事さと、「不可能犯罪は演出力である」ということを思い出させてくれるという、この二点において、私の中で妙に重なった作品でした。

     閑話休題。〈ワシントン・ポー〉シリーズには、第一作の『ストーンサークルの殺人』や第三作の『キュレーターの殺人』のように、ミッシングリンクなどホワイダニットを中心に据えた作品があったり、第四作『グレイラットの殺人』のように派手なスケールの事件を扱う作品もありますが、個人的には、第二作『ブラックサマーの殺人』や本作『ボタニストの殺人』のように、「不可能性」を中心に据えたプロットの方が好みです。専門性の高いトリックも含まれますが、ブラッドショーというキャラクターの特性を生かしながら、ポーの推理力も光る展開が多く、読み応えがあります。そんなわけで、本作、かなり好みです。異論はありそうですが、私の中ではクレイヴンのベスト。

    (2024年9月)

第88回2024.09.13
論理とは、たたずまいである ~有栖川有栖の推理に魅せられる~

  • 有栖川有栖『日本扇の謎』(講談社ノベルス) ※講談社から愛蔵版も同時発売。書影は講談社ノベルス。

    有栖川有栖
    『日本扇の謎』
    (講談社ノベルス)
    ※講談社から愛蔵版も
    同時発売。
    書影は講談社ノベルス。

  • 〇めでたい知らせ!

     井上先斗『イッツ・ダ・ボム』(文藝春秋)が刊行されました。同書は第31回松本清張賞を受賞した作品であり、「日本のバンクシー」として注目を集めるグラフィティライター〈ブラックロータス〉を描いた犯罪小説となっています。第一部では、彼の正体を追うウェブライターの視点から、グラフィティなる特殊な文化そのものを俎上に載せつつ、〈ブラックロータス〉という謎の存在に迫る過程が描かれます。第一部は、いわばハードボイルド調。しかし、第二部になると、今度は別のグラフィティライターである〈TELL〉の視点に切り替わり、グラフィティという文化に身を浸す人々の叫びを描いていくのです。この二部構成が効いているのが、『イッツ・ダ・ボム』という小説の魅力です。もちろん、切り詰めた文体も魅力的で、ハードボイルドの雰囲気にがっちり合っています。200ページほどの長さなのも美点で、グラフィティに馴染みのない読者でも、ぐっと牽引されてあっという間に読めてしまうでしょう。

     表紙がグラフィティで描かれているという仕掛けも面白く、これはぜひ、紙で持っておきたい本ですね。表紙のグラフィティは、文藝春秋の地下駐車場で、実際にグラフィティライターの方が描いたものらしく、井上先斗による当日のルポエッセイが以下のリンクから読めます。WEB連載なので、すんなりハイパーリンクを貼れてしまうんですよね。

     リンク→https://bunshun.jp/articles/-/72887

     そして、この井上先斗さん……実は、同級生なのです。といっても学校は別なのですが、主に関東圏のミス研が参加する「全日本大学ミステリ連合」(以下、ミス連)という団体の同級生です。当時から会誌の交換などを通じて作品を読み合う仲だったので、『イッツ・ダ・ボム』の受賞及び刊行が自分のことのように嬉しい。授賞式での米澤穂信さんのスピーチも感動的で、良かったなぁ、とうるうる。昔からの友人がデビューするというのは初めての経験なので、こういう感慨が生まれるんだなあと、今はしみじみと噛み締めています。

     よく、新人が出るということはライバルが出てくるということだぞ、なんていう言葉を聞きますが、今はね、正直どうでもいいです、そんなこと。『イッツ・ダ・ボム』を読もうぜ、みんな――という、そんな感じ。

    〇ミス連の話から派生して……

     ところで今年、ミス連の夏合宿にお招きいただき、講演会をしてきました。その節は皆様、ありがとうございました。

     同団体は、毎年夏に作家を招いた合宿を行っており、今年は5年ぶりの開催となったのです。2019年は、辻真先先生をお招きして、熱海で合宿を行いました。新型コロナの影響でしばらく開催できなかった、ということです。私が現役学生で、幹事を務めていた頃は、毎月一回、OBOGも招いて夜に飲み会を行い、夏合宿をしていたのですが、今は現役学生を中心に昼に読書会を行っているということです。いいですねえ。

     また、文学フリマを通じて連絡先を交換したということで、なんと、関東圏中心だったミス連の合宿に大阪大学と京都大学のミス研が参加していたのです。個人的には、ちょっとした事件でした。それどころか、現役学生だけで40人を超える大所帯となっていて、私が幹事の頃、OBOGを入れても合宿が20人程度だったのがもう隔世の感。でかい団体になってくれて嬉しいです。来年も誰かに声がかかると思うので、もしこれを読んでくれている人に作家がいたら、うっすら、そういう行事があるって覚えておいてください。効果があるかは知らないけど。

     私の仕事としては、熱海の宿で二時間講演会を行い(他の作家さんや評論家さんがいない状態で二時間喋るのは、結構体力使いました。初めて喋ったことなども多いので、話した内容が何かの参考になれば嬉しいです)、サイン会をさせていただいて、夜にミス連恒例となっている古本オークションという、ダブってしまった本や放出本をオークション形式で売る行事の出品者および司会および集計者をやっていました。このオークションの収益は、出品者の懐に入るわけではなく、代々のミス連金庫に入れるだけなので、要するにチャリティーイベントなのです。評論本を中心に提供したもう一人のOBである早川書房の井戸本幹也氏と、電子書籍化もなかなかされていないレアな小説を中心に持ってきた私とで、バランスが取れていたのではないでしょうか。夜は京大ミス研の「犯人当て」観を拝聴する時間もあり、なかなか濃い時間でした。

     というわけで、今回お世話になった方々、改めてありがとうございました。今後の活動も、来年のミス連合宿も、ますます賑やかで楽しいものになることを願っております。

    〇論理に関わる小説たち

     では、ここから新刊の話を。白井智之『ぼくは化け物きみは怪物』(光文社)は、グロテスクな奇想を毎回実現してくれる名手による最新短編集。今回のポイントは、SF的な発想を導入することで、著者の奇想の領域が広がっていることだと思います。「大きな手の悪魔」は突如襲来した「襲撃者」たちにより人類が滅亡の危機に瀕している世界を描き、「モーティリアンの手首」では異星生物のバラバラ死体を発掘してしまった人々が描かれます。こうした派手な設定を使っていても、細かな物証に着目して状況をひっくり返していくのが白井流。

     末尾に置かれた書き下ろしの「天使と怪物」が白眉。綾辻行人「フリークス ─五六四号室の患者─」『フリークス』収録)や井上雅彦『竹馬男の犯罪』を思わせる、ショーに参加する異形の人間だらけの状況だからこそ成立するフーダニットのアイデアに、多重解決を絡ませているところが秀逸です。個人的には、冒頭に置かれた「最初の事件」は、雑誌掲載時から大好きな一編。設定を使ったぬけぬけとした展開にクスッときますし、些細な物証の動きとダイナミックなハウダニットが同居した謎解きも魅力。

     方丈貴恵『少女には向かない完全犯罪』(講談社)は、クライム・サスペンス風の枠組みを導入することで、今までにない著者の顔を示した一作。特殊設定×ロジックの遣い手である作者が今回導入したのは、完全犯罪請負人が幽霊となってしまい、復讐を企む少女のアドバイザーとなる……という設定。幽霊が存在する世界ではありますが、それが特殊設定ミステリー的に扱われるのではなく、むしろ、事件の調査を容易にするなどサスペンスとしての見せ方に奉仕し、ロジックは徹頭徹尾現実の理屈で行われるというあたりが魅力です。ロジックのかすがいが要所要所で使われることで、目的地を見失わずについていくことが出来ますし、だからこそ、終盤の連続どんでん返しの味わいも映えてきます。中盤である人物の存在が明らかになってから、コンゲームめいた味わいが生まれてくるのもユニークです。

     静月遠火『何かの家』(メディアワークス文庫)は、特殊設定ミステリーを読みたい人の心を満たしてくれるであろう一冊。なんといっても、西澤保彦『人格転移の殺人』を思わせる設定が扱われているのが魅力です。「決して一人で入ってはいけない」約束事がある家について、民俗学を専攻している学生がフィールドワークにやってくる……というのが筋。この家にはなんと、必ず誰か一人が囚われていて、次の人が来ないと外に出られない……というルールがあったのです。それだけでなく、もう一つ重要なルールがあるのですが、これはルール開示=ロジックの提示自体にニヤリとさせられるシーンなので、あえて伏せておきましょう。ぼかしたうえで説明すると、ここでは、そのルールが導入されれば真相はあからさまになるはずなのに、そうなっていない、というアクロバットが用意されているのです。著者は『真夏の日の夢』でも逆三角形型というか、終盤で怒涛の謎解きを行う快作をものしていて、探偵小説研究会の評論本『本格ミステリ・エターナル300』にも採られていました。本書『何かの家』もまた、ミステリー好きは読み逃すなかれ。

     倉知淳『死体で遊ぶな大人たち』(実業之日本社)は、タイトル通り、死体をテーマに据えて奇妙な謎を捻り出した中短編集で、著者のデビュー三十周年記念作品。死者が生者の首を絞めて心中が成立したとしか思えない状況を意外なトリックで解き明かす「それを情死と呼ぶべきか」や、両腕を切断後、腕だけ別人のものにすり替えられた奇妙な死体の謎を安楽椅子探偵形式で解き明かす短編「死体で遊ぶな大人たち」など(ロジックの形は違いますが、「死体で遊ぶな~」で展開される、街の中から一人を摘まみ上げるロジックの切れ味は、著者の『壺中の天国』を思い出します)、作者らしい作品が並ぶ中、異彩を放っているのは中編「本格・オブ・ザ・リビングデッド」

     作品の冒頭に置かれた注意書きの通り、「某人気作家の某ベストセラー作品と状況設定に類似したところが」ある作品なのですが、ここではゾンビに囲まれた山荘での殺人劇が描かれます(某ベストセラー作品を読んでいる人なら、あ、と気付くでしょう)。ゾンビについて、ロメロの創造した「モダンゾンビ」像にばっさりと焦点を絞り、八つのルールを提示して事件に入るのは、いかにもぬけぬけとしていて、倉知淳作品の読み味といったところ。あまりにも無茶ながら、妙に納得のいくバカトリック(誉め言葉)が成立しているのも面白くて、別バージョンとして摂取してほしい怪作です。

    〇〈有栖川有栖の国名〉シリーズ最新作

     さて、ここまで、さまざまな形の「ロジック小説」を見てきましたが、新刊を読むたびに、毎回、新しい形の冒険をしていると思わされるのが、有栖川有栖の作品群、特に、火村英生シリーズです。ここからの話は、正直、私の中でもまだ生煮えの議論です。時間が足りず、重要と思われる作品を読み返すことも出来ていません。なのですが、一度吐き出しておこうと思います。一言でいうなら、有栖川有栖の作品群においては、毎回、志向されているロジックの「たたずまい」が違っており、それは事件の性格から、あるいは名探偵にいかに推理をさせるかという問題意識から、必然的に生じうるものなのではないか、ということを言ってみたいのです。

     これを意識したのは、〈火村英生〉シリーズの一つ前の作品、『捜査線上の夕映え』が刊行された時の杉江松恋による書評がきっかけです(【今週はこれを読め! ミステリー編】→https://www.webdoku.jp/newshz/sugie/2022/01/11/185756.html)。この文章にある、「ここしばらくの火村英生シリーズは、名探偵が登場して推理するタイプの謎解き小説のフォーマットに新たなバリエーションを加えるような実験を常に行っている」という指摘からインスピレーションを受け、有栖川作品を読み直すうちに、仮説が生まれてきた……これが発想の順序でしょうか。なので、前述した杉江評に敬意を表しつつ、ここでは、自分なりの用語で、この「実験」をロジックの「たたずまい」という言葉で表現してみることにします。

     決定的だったのは、この評に出会った後、『妃は船を沈める』を読んだ時のこと(これは『ミステリーツアー』の書評のために再読したものです)。ネタを割らないために、迂回した言い方をします。ここでは、解決編において、重要な物証が一つ宙づりの状態で置かれ、そこから一点突破することは出来ません。だから、火村はある程度の段階まで推理を進めたら、その物証を宙づりのまま別の角度から推理を始める。その推理が、宙づりにした物証を回収するような形でなされたら、犯人はこの人だ、という言い方をする。この推理のやり口というのは、犯人の性格の裏返しでもあり、同時に、同書がW・W・ジェイコブズの怪奇短編「猿の左手」に別の解釈を見出す小説だったことを思い出させます。一つだけでは意味をなさない記述が、別角度の議論を経由することで、その形を変えてしまう。ここでは、ロジックの「たたずまい」が、小説全体の趣向と軌を一にしています。

     あるいは『乱鴉の島』。ここでは、島にいる人々の真ん中に、ぽっかりと、何か埋められない空白がある。その空白は、もちろん、作中で引用されるE・A・ポーの詩「大鴉」の響きとも重なり合っているのですが、重要なのは、その空白の正体を知らずに事件に巻き込まれる火村とアリスは、彼らから絶えず「疎外者」として扱われることです。この小説の構造そのものが、解決編の論理と響き合っていることは、既読者ならば納得してくれるはずです。

     『狩人の悪夢』という小説は論理の構造そのものが「狩人」という言葉に集約される物語でしたし、『捜査線上の夕映え』も、小説全体がコロナ禍の閉塞感とそこからの開放感を表現しており、事件の真相の中核をなすアレと、ロジックの動きはどこか連動しているようにも思います(こういう言い方が生煮えたる所以)。

     で、要するに何を長々と言ってきたかというと、最新作である『日本扇の謎』(講談社/講談社ノベルス)という長編でも、またやってきたぞ! ということが言いたいのです。そしてやはり、毎回、ロジックの「たたずまい」が違うという感覚は勘違いではなかったことが、ハッキリ示されているように思ったので、いかに生煮えといえどこのタイミングで言ってみたいと思ったのでした。

     まずはおおまかなあらすじから。記憶喪失の青年が舞鶴の海辺の町で発見され、身元を示す手掛かりは、大事に持っていた「扇」だけだった。程なく、その青年の身元は判明するものの、彼の周囲で不可解な密室殺人が起き、青年は事件と共に忽然と姿を消してしまう……。

    『日本扇の謎』というのは、エラリー・クイーン『境界の扉 ニッポン樫鳥の謎』(角川文庫。原題はThe Door Between)の予告が戦前のわが国では〝The Japanese Fan Mystery〟という誤ったタイトルで流布された……という「いわく」を利用して編み出されたタイトルです。この辺りの事情は、プロローグの「作家・有栖川有栖」と編集者・片桐とのやり方で過不足なく説明されます(ちなみにこのプロローグは、有栖川有栖が発想を組み立てる時の裏話を聞いているようで、そういう意味でも面白い)。密室殺人事件が出てくるところは『境界の扉』の本歌取りと言えますが、「扇」を中心に据えつつ、ロマンチックな筋運びをしてくれるあたりは、さすが有栖川本格といったところ。

     さて、今回の解決編で重要なのは、火村が「私はこれから●●を●●●●いきます」と宣言する場面だと思います。これは、発言の直後、刑事にツッコませている通り、火村がこれまでは嫌ってきた、嫌っていると言ってきた手法です。ここでは、今までの事件と違うことをしていますよ、と有栖川有栖はハッキリと宣言しているのです。

     しかし、この事件には、この論理が合うのです。実にぴったりとくる。要するに、『日本扇の謎』という作品の謎は、「あいまいさ」によって成り立っているのです。なぜなら、テーマが記憶喪失なのですから。

     記憶喪失というテーマが、あいまい、の印象に繋がるという議論について、せっかくなので他の二冊の新刊を経由してみましょう。一冊目は、S・J・ボルトン『身代りの女』(新潮文庫)。この作品は、学生の頃の若気の至りで起こしてしまった交通事故について、罪を引き受けた「身代りの女」が、二十年ぶりに出所し、かつての仲間たちの前に現れる……という筋の作品ですが、この「身代り」のアイデアよりも唸らされたのは、彼女が出所後、仲間の前で最初に発する一言です。彼女は、刑務所内でのケンカに巻き込まれてケガをし、記憶を失っている、と告げるのです。もし本当に記憶を失っているなら、身代りで罪を引き受けたことを覚えておらず、かつての仲間たちは「何か恐ろしい要求をされるのでは」と怯えなくてもよくなる。でも、本当にそうなのか? 記憶喪失を装うことで、自分たちの反応を試しているのでは? 「記憶喪失」という要素を導入した瞬間、彼女の本心は宙づりになり、これこそが、中盤以降のサスペンスを引き立てているのです。

     二冊目は、平石貴樹『室蘭地球岬のフィナーレ』(光文社)。〈函館物語〉シリーズの最終作であるこの作品については、読書日記第84回でも取り上げております。『室蘭~』では、ある人物が記憶喪失になったと主張しますが、捜査陣はこれを鵜呑みにせず、「記憶喪失が真実である場合/虚偽である場合」の二つの場合分けを念頭に置きながら、入念に推理を巡らせます。ここでは、記憶喪失という事象のあいまいさが、ロジックを複雑化させているのです。しかし、平石の論理は、有栖川の論理(ここでいう、『日本扇の謎』の論理)とは違った形で動きます。重要な物証、細かな手掛かりを、要石のように置いて、複雑化しそうな状況をロジカルに切り分けていきます。

    『日本扇の謎』では、どうか。ここでは、記憶喪失という事象の「あいまいさ」が、ロジックの中にそのまま取り込まれている。それこそが、「●●を●●●●」いくという手法なのです。全ての要素があいまいであり(これは読みづらいという意味では決してない)、確定しづらい状況であるからこそ、あえてそちらの道を採る。ロジックの「たたずまい」という仮説からすれば、記憶喪失というテーマと、「●●を●●●●」いく手法とは、ぴったりとハマるように選択されている。これが、有栖川有栖のロジックの「たたずまい」なのです。あいまいで、不確定。この事件の性格から、事件の動機も必然的に導かれるようになっています。事件の性格が、ロジックの「たたずまい」を規定する。これを、美しいと言わずしてなんでしょうか。

     そんなわけで、これはまたしても、ロジックの「たたずまい」が作品全体のテーマと一致した、見事で美しい作品なのです。この日記でこれまで挙げた作品や、エラリー・クイーンの諸作が示す通り、私は、物証そのものだとか、その物証から何を導くか、というところにややもすれば執着してしまい、物証や手掛かりばかり記憶に残ってしまうことが多いのですが、そうした微小な点ではなく、「たたずまい」そのものが流麗だと感じさせられるのは有栖川作品ぐらいしか思いつきません。有栖川有栖のロジックは、作品丸ごと呑み込まなければいけない。毎回ここまで計算し尽くされているのだとしたら、震えます。

    (2024年9月)

第87回2024.08.23
〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略(2) ~中期・後期の達成~

  • レックス・スタウト『編集者を殺せ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

    レックス・スタウト
    『編集者を殺せ』
    (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

  • 〇(不)完全攻略、続行!(各論編(2))

     レックス・スタウトの〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略の続きです。はい、細かいことは説明しません。前回を参照してください。

    凡例:〇は既読(◎は特にオススメ)。
     ・のままは未読。
     長編のタイトルの下にある太字はキャッチコピー。
     長編は「ユーモア度」「謎解き度」「読みやすさ」の三つの観点から五段階評価。
     短編については評価の表記を割愛。

    〇1946年『語らぬ講演者』(「別冊宝石」58号に掲載)
     ネロ・ウルフ依頼料を返還する? 謎めいた探偵の行動の意味は?
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆

     1400名もの聴衆が待つなか、講演をする予定だった男が殴り殺された――という事件ですが、この長編では、『毒蛇』でも結末で用いた、アーチーによるウルフの行動の意図の絵解きが効いています。『毒蛇』の頃に比べると、二人の関係性にも変化が見える……でしょうか。読みやすさを低くつけているのは、ひとえに「別冊宝石」の読みづらさと訳によるもので、新訳されればまた印象も変わる……のでしょうか。戦後間もない発表であるため、アーチー少佐編の余波が感じられるのが興味深いです。

     この「別冊宝石58号」は、「世界探偵小説全集 レックス・スタウト篇」と題されており、『語らぬ講演者』のほか、長編『15人の名料理長』(『料理長が多すぎる』のこと)と中編「死の招待」(「ようこそ、死のパーティーへ」のこと)が収められています。『料理長~』と並ぶくらいには、スタウトの中でも有名長編なんでしょうか。

    〇1947年『女が多すぎる』(「EQ」89年11月号~90年3月号に掲載)
     アーチー、女だらけの会社に潜入捜査す。女好きの面目躍如、ここにあり。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆
     読みやすさ ☆☆☆☆

     今回の依頼人は、大企業ネイラー・カー社の社長。この会社では、社員の一人が交通事故で亡くなっていたが、退職者に関するアンケートを社内でとったところ、その社員について「殺害されたため」と回答した人間がいた。本当に、彼は殺されたのか? この回答者は、なんのつもりでそんなことを書いたのか? 社長はこの謎について調べるためウルフに依頼し、なんと――ウルフを社員として潜入捜査させようとしていたのです。

     もう、この冒頭だけで笑わされますし、案の定、アーチーが潜入させられるところまでお約束通り、なのですが(いったんケンカ別れのような形になって潜入捜査に向かう寸前のウルフとアーチーの会話が結構好きです)、残念ながら、ミステリーとしては発端が山場だったと言わざるを得ないところ。依頼がスライドしていくようなウルフものの持ち味がなく、中盤、やや長すぎるきらいがあります(他の「EQ」掲載長編よりも長いので、ウルフものの長編の中でもかなり長い方でしょう)。解決編も今回はまずまず。ウルフによる大団円の推理劇を楽しめないことも、不満足感の一因です。ただ、アーチーのアクションシーンなど見所は多く、アーチーのファンであれば読み逃せない一編。

    ◎1948年『Xと呼ばれる男』(「EQ」98年9月号~99年5月号に掲載)
     悪の黒幕、アーノルド・ゼック現る。話題性は十分なのに、謎解きにも手を抜かない。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     ここから三つの長編にわたって、〈アーノルド・ゼック〉三部作が展開されます。アーノルド・ゼックというのは本書でも「ある犯罪」の裏にいる黒幕であり、政財界の大物ともつながっている「謎の人物」。たとえるなら、ホームズにとってのモリアーティ、というべき存在です。本書では中盤に、ウルフに電話をかけてきて、この件から手を引くように、という脅迫の電話をかけてきます。電話のみなので存在感は薄めとはいえ、「もしゼックを敵に回すようなことになったら、この家を離れて隠れ家を探さざるを得ないだろう」という旨のことをウルフは漏らしています。あのウルフが家を離れることを考えるというだけでも、相当です。ラストの会話劇がシビれる。

     作中で扱われる事件は、テレビ放送の本番中にゲストが毒殺された、というもの。ウルフの事務所は所得税の追加支払いに応ずるための余裕がなく、この毒殺事件に首を突っ込むことを決意……という発端からもう笑わされるのですが、出演者や関係者一人一人に秘密があり、それを暴いた結果、犯罪の形が見えてくる中盤まで、実にウルフものらしい本格ミステリーを味わうことが出来ます。中盤に、ある「ツイスト」を挟んでから、やや読み味が変わってきますが、最後に関係者全員を集めて推理を披露するところはいつも通り。偶然に頼り過ぎた真相に目を瞑れば、充分、スタウト印の本格ミステリーを味わえる作品です。

    ・1949年中編集〝Trouble in Triplicate〟
    ◎「急募、身代わりターゲット」(「求む、影武者」)→『ネロ・ウルフの事件簿 アーチ―・グッドウィン少佐編』(論創社)に収録
    〇「この世を去る前に」(「死の前に」)→同上
    〇「証拠のかわりに」→『世界短編傑作集5』(創元推理文庫)に収録

     この頃の中短編の充実ぶりには、本当に驚かされます。「急募、身代わり」は、ユーモアミステリーの教科書というべき傑作。ある人物が殺人を示唆する脅迫状を受け取り、ウルフのもとを訪れるが、どうせイタズラでしょうと追い返すと、本当に殺されてしまった。そして、二通目の脅迫状がウルフのもとに届いた……というのが発端で、アーチーは最初こそ本気にせず、軍の仕事を優先して事務所を離れますが、続く事態がもう、衝撃(笑)。笑撃といってもいいでしょう。この笑いの中に伏線とミスディレクションを潜ませてしまう手際こそ、「教科書」といった理由。謎解きの切れ味も素晴らしく、ウルフ初心者にも大いに薦められる作品です。

    「この世を去る前に」は、ギャングの抗争にウルフが巻き込まれるさまを楽しむ作品です。対立する二つのギャングが部屋に乗り込んできても椅子を立たないウルフ、面白すぎる。ネタの要になっている部分は、いつか、ちゃんと原書で確認しておきたいですね。

    「証拠のかわりに」は、読んだ時期を忘れたので総論の略歴には書きませんでしたが、スタウトで初めて読んだ作品になると思います。読み返してみると、中学生の頃はウルフやアーチーの魅力が分からなかったんだな、と思わされます。

    ・1949年長編〝The Second Confession〟
    (〈アーノルド・ゼック〉三部作の第二作にあたる長編です。原書を購入しましたが、この原稿を書くまでに読み終えることが出来ませんでした。ごめんなさい)

    ・1950年中編集〝Three Doors to Death〟
    〇「二度死んだ男」 「EQ」93年5月号に掲載
    ◎「献花無用」(「花のない葬礼」)→『黒い蘭』(論創社)に収録
    〇「死への扉」(「死の扉」)→『ネロ・ウルフの災難 外出編』(論創社)に収録

    「二度死んだ男」は、服を脱いで間歇泉の中に飛び込み、自殺したと思われていた叔父を街中で発見した、調べてほしい、という依頼から始まる一編。その後、顔を傷つけられた、当該叔父と身体的特徴の一致する死体が発見され、事態は大きく動き出します。ストレートなプロットの謎解きものですが、解決に際してウルフが取る手段には笑わされます。

    「献花無用」はウルフものの一つの愉しみである、コンゲーム性が色濃く出た中編。なかなか証言が集まらない状況下で、ウルフがいかにして事態を収めるか。「ぼくの見たてでは、この事件こそネロ・ウルフが最高の腕前をみせた事件のうちの一つだ」(『黒い蘭』、p.142)という作品冒頭での宣言は伊達ではありません。

    「死への扉」は、「外出編」の一編であることから分かる通り、自らが愛する蘭のために庭師の引き抜きをもくろみ、外出したウルフが事件に巻き込まれる話。一度帰ったらもう二度と来ないと自分で分かっているウルフの姿にはくすりときます。謎解きは普通。

    ・1950年長編〝In the Best Families〟
    (〈アーノルド・ゼック〉三部作の第三作にあたる長編です)

    ・1950年中編集〝Curtains for Three〟
    ◎「翼の生えた銃」(「翼ある拳銃」)→『ようこそ、死のパーティーへ』(論創社)に収録
    ・「セントラル・パーク殺人事件」→「ミステリマガジン」1979年11月号に掲載
    ・「ねじれたスカーフ」→「EQMM」1962年1月号に掲載

    「翼の生えた銃」は本格ミステリーというポイントから選ぶなら、〈ネロ・ウルフ〉シリーズ随一の傑作。銃殺事件の謎への解法は絵に描いたように鮮やかで、強烈な印象を残します。ディスカッションも読ませる作品です。

    ◎1951年『編集者を殺せ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     「これぞ、ネロ・ウルフ」と思わせる中期のマスターピース。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     ウルフのキャリアからすると中期に位置する作品で、円熟の域にある傑作。出版業界を舞台としたからか、いつも以上に筆がいきいきしている感じがします。いきいきしているからこそ、ドタバタ喜劇も映えてくる。そのため、無暗に多い容疑者たちにも意外と混乱しない。今、新刊で手に入るものからウルフへの入り口を選ぶとしたら、これではないかと思います。ビブリオ・ミステリーとしても読める作品で、色々な切り口から楽しめるのではないでしょうか。

     依頼Aにあたる部分のきっかけの提示が、クレイマー警視が持ち込んだメモ、という形で、実にスピーディーに行われ、本題に入っていく流れも心地よい。謎解きの魅力と、ネロ・ウルフ流の心理劇の魅力が両立された解決編が見事です。

    ・1952年長編〝Prisoner’s Base〟

    ・1952年中編集〝Triple Jeopardy〟
    〇「悪い連〝左〟」(「身から出た錆」)→『ネロ・ウルフの災難 激怒編』(論創社)に収録
    ・「巡査殺し」→「EQMM」1957年12月号に掲載
    〇「『ダズル・ダン』殺害事件」(「ヒーローは死んだ」)→『ようこそ、死のパーティーへ』(論創社)に収録

    「悪い連〝左〟」は赤狩り時代のアメリカを背景に、FBIが関わる事件が描かれます。後の長編、『黒い山』や『ネロ・ウルフ対FBI』のプロトタイプのようにも思えます。

    「『ダズル・ダン』殺害事件」は、裏切り者の依頼人にやきもきさせられ、アーチーが容疑者という絶体絶命の状況にウルフが立ち向かう話。シチュエーションは凝っており、それだけで読ませますが、謎解きはまずまずです。

    〇1953年『黄金の蜘蛛』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     ネロ・ウルフ、子供の死を解き明かす。かのイヤリングの女は何処へ?
     ユーモア度 ☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆

     タイトルとなっている「黄金の蜘蛛」とは、事件のキーポイントとなっている女性がつけているイヤリングのデザインです。ピートという窓ふきの少年(車の窓を拭いて、チップをもらう)が覗いた車の中で、「黄金の蜘蛛」のイヤリングをした女性がピートに警察を呼ぶよう求めた。しかし、女性に銃を突きつけた男が車を発進させ、警察は間に合わなかった。そこでピートはネロ・ウルフに相談を持ち掛ける、という筋です。このピートが、昨日見かけた車と同じ車に轢き殺されたことから、事態は大きく動き出します。ウルフ型のフォーマットを上手く活かした作劇で、ウルフは会ったこともない人々の中から犯人を見つけ出そうとするのです。これまでは、結構、容疑者を家に招いていたのに、今回は解決編で初めて会うなんて趣向も。イヤリングの手掛かりが効いている、シンプルかつ面白いスタウト型本格ミステリーの良作です。

     良作と言いつつ「◎」をつけていないのは、良作というのはあくまでもプロットに対する評価で、翻訳については首を捻ってしまうからです。本書の翻訳者、高橋豊は、アーチ―の一人称を「私」、ウルフの一人称を「俺」(客に対する時のみ「私」)という訳し方をしており(他は大抵アーチー「ぼく」、ウルフ「私」で、アーチー「私」を採るのは他に『ネロ・ウルフ対FBI』くらい)、それはいいとしても、ウルフの口調が乱暴で粗雑なのが気になってしまいます。他の作品だと、敬語ながら、慇懃無礼な印象が際立つといった塩梅で、私はこちらの解釈を採ります。ただ、「俺」口調のウルフはそれはそれで貴重なので、解釈の一つとして味わうのも吉、でしょう。

    ・1954年中編集〝Three Men Out〟
    ・「美しい容疑者たち」→「ミステリマガジン」1986年2月号に掲載
    ・「ゼロの手がかり」→「EQMM」1963年10月号に掲載
    〇「ワールド・シリーズの殺人」→『EQMMアンソロジーⅡ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)に収録

     「ワールド・シリーズの殺人」は野球場に出かけたウルフがいつも通り殺人に巻き込まれる話です。野球ならではの心理的な手掛かりから、一発で犯人を指摘する推理が見所か。アンソロジー収録作品では、結構外出しがちですね。

    ◎1954年『黒い山』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     シリーズ最大にして、「最高」の異色編。シリアスだが「らしさ」溢れる冒険小説。
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     シリーズものとしての「遊び」が楽しい作品です。遊びというには、題材がシリアスすぎるかもしれませんが。中期ネロ・ウルフ最大の実りと言えるのが、この作品です。

     この作品は、『我が屍を乗り越えよ』の続篇であり、そちらにも登場したウルフの養女、カルラ・ブリトンが再登場する作品となっています。ウルフの親友・マルコが路上で射殺され(これまでも幾度か登場しているキャラなので、かなり驚かされました)、さすがのウルフが茫然としながら遺体安置所へ出かけ(出かけ!?)、現場検証にも向かう……という冒頭からしてショッキング。ストーリーそのものも、ですが、ウルフが外出して動き回る、という部分もシリーズファンとしてはなかなかの衝撃。謎を解くために故郷の地、モンテネグロへ飛ぶことにもなります(ついに飛行機に乗るシーンまであるんだぜ)。『我が屍を乗り越えよ』に書かれていたウルフの過去が、がっつり本筋に絡んでくる作品です。

     とはいえ、ウルフが「外出」するというシリーズものとしての「くすぐり」自体は、他の作品でもたびたび取り入れられています。では、『黒い山』の面白さの本質はどこかといえば、東西冷戦の時代を舞台にしたスパイ小説的なプロットに、ネロ・ウルフが放り込まれること――でしょう。軍師タイプなのかと思いきや……というところもありますしね。シリーズものとしても衝撃的な展開の連続で、なかなか読ませる一冊。当時のアメリカの空気(「赤狩り」)に対するカウンターパンチであるとか、リベラリストとしてのスタウト像であるとかは、杉江松恋による解説に詳しいのでそちらに譲ります。

    ・1955年長編〝Before Midnight〟

    ・1956年中編集〝Three Witnesses〟
    ◎「次の証人」(「法廷のウルフ」)→『ネロ・ウルフの災難 外出編』(論創社)に収録
    ・「人を殺さば」→「EQ」1995年1月号に掲載
    ◎「真昼の犬」→『いぬはミステリー』(新潮文庫)に収録

    「次の証人」は『ネロ・ウルフの災難 外出編』に収録されたことからも分かる通り、ウルフが法廷に出廷し、証人を務める作品です。いつもは証人になるのを徹底的に拒否するので、相当珍しい事態ですが、おとなしくしていられないのがすごいところ。自分の前の証人の話を聞いている時、突然ウルフは席を立ち、独自の捜査を始めてしまうのです。法廷侮辱罪で逮捕状まで出る中、ウルフは事件を解決することが出来るのか? ユーモア・謎解き・読みやすさ、三拍子そろった快作です。

    「真昼の犬」は、『黒い山』でも描かれたモンテネグロ時代に引っ掛けて、意外にも犬好きなウルフの姿が描かれます。ホームズの時代から使われる「犬の手掛かり」を一捻りして使ってあるところがポイントで、なかなか読ませる作品です。

    〇1956年『殺人犯はわが子なり』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     ネロ・ウルフ、依頼人の息子の無実を証明せんとす。シリーズファン驚愕の展開とは?
     ユーモア度 ☆☆☆
     謎解き度  ☆
     読みやすさ ☆☆☆

     2003年にハヤカワ・ポケット・ミステリにて邦訳。ポケミスへの登場は、この作品が四十余年ぶりとなりました。この頃、ネロ・ウルフものの邦訳・再刊が進んでいたのは、帯にもある通り、WOWOWにて「グルメ探偵 ネロ・ウルフ」のシーズン1が放映されていたからのようです(私の手元にある『ネロ・ウルフ対FBI』新装版の帯にも同じ告知があります)。

     父親から息子を探すよう依頼され、息子のイニシャルPH宛ての新聞記事を出してみたところ、同じイニシャルをもつ、殺人事件の公判の被告がいることを知る――という発端は実に魅力的で、読ませるものになっているのですが、その後のプロットがかなりバタバタしていて、謎解きものとしてもやや不満の残る出来です。「冤罪で囚われた人間を救う」というプロットと、連続殺人との相性が悪いため(疑われている人物がアリバイを確保出来てしまう)、そのように感じるのでしょうか。

     ただ、シリーズファンとしてはかなり衝撃的な展開が一つ間に挟まれています。そんな展開を放り込むなら、もっと盛り上げてくれよ、と思わんでもないですが。

    ・1957年〝Three for the Chair〟
    ・「死を招く窓」→「カッパまがじん」1977年5月号に掲載
    ・「殺人はもう御免」→「EQMM」1958年7月号に掲載
    ◎「探偵が多すぎる」→『短編ミステリの二百年2』(創元推理文庫)に掲載

    「探偵が多すぎる」は私立探偵たちを集めていつものように推理を繰り広げるウルフの姿が面白い(スタウトのもう一つのシリーズで登場する女探偵、ドル・ボナーも登場します)。これも、ウルフもののパターンを律儀になぞっているので、入門編としてお薦めです。『短編ミステリの二百年』に選出されたのも納得の良作です。

    ・1957年長編〝If Death Ever Slept〟

    ・1958年中短編集〝And Four to Go〟
    ◎「クリスマス・パーティ」→『クリスマス12のミステリー』(新潮文庫)に収録
    ・「イースター・パレード」→「EQ」1987年5月号に掲載
    〇「独立記念日の殺人」→「ミステリマガジン」1976年2月号に掲載後、同2012年4月号に再録
    〇「殺人は笑いごとじゃない」→『ビッグ・アップル・ミステリー マンハッタン12の事件』(新潮文庫)等に収録

    「クリスマス・パーティ」〈ネロ・ウルフ〉シリーズのマスターピース。なぜなら、もうね、激萌え(笑)。アーチーに結婚話が持ち上がり、ウルフが慌て、アーチーは事務所で過ごした年月をしみじみとウルフ相手に語る……という冒頭だけでも素晴らしいのに、アーチーが出かけたクリスマス・パーティで殺人が起き、さて、突如現れたサンタクロースの正体は――で、もう、爆上がり。面白いねえ。東洋の血を引く容疑者に対しても偏見を持たず接するウルフの姿は、『料理長が多すぎる』で描かれたもの(黒人に対してもフェアに接するウルフの態度)とも通じますし、解決の手際も巧い。いやあ、いいね。ウルフ、アーチーが好きになってきたタイミングで、ぜひ手を出してほしい逸品です。

    「独立記念日の殺人」はどうも昔読んだような気がして、なぜだろう、と思って、再録されているという「ミステリマガジン」2012年4月号を探し出したら、納得。この巻の特集はアニメ「探偵オペラ ミルキィホームズ」に関するものだったのです。なるほどね、道理で読んでるはずだわ。作中にネロという名前のキャラがいて、そのモデルがネロ・ウルフなので、再録されたのですね。冒頭で『料理長が多すぎる』の被害者ヴュクシクの名前が登場し、彼から引き継いだレストランの管財人としての役目の一環として、ウルフは独立記念日のスピーチに招かれます。そう、これも「外出編」です。ハッタリ一発で犯人を捕まえてしまうので、解決はまずまず。

    「殺人は笑いごとじゃない」が収められたアンソロジー『ビッグ・アップル・ミステリー マンハッタン12の事件』は、あらゆる人種がひしめき、ビッグ・アップルと呼ばれる都市、ニューヨークを舞台にした作品を集めたもの。「西35丁目の殺人」を担当するネロ・ウルフは、ファッションデザイナーを巡るきらびやかな事件に挑みます。手にした情報を基に、いかに事態を収めるか? というところにポイントがあります。

    ・1958年長編〝Champagne for One〟

    ◎1959年『殺人は自策で』(論創社)
     ネロ・ウルフ、ビール断ちを決意する? 中期謎解き編の雄、現る。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     すごいですよ、これ。傑作。ベストセラーを盗作だと訴えて金をせしめる詐欺集団が本作の敵なのですが、「事件Aが事件Bへとつながっていく」「ある目的を持った一団を設定してその枠の中でフーダニットを展開する」というウルフものの特徴を踏襲したうえで、高いレベルの充実度を誇っています。

     フーダニットの完成度はスタウト作品の中でも屈指のレベルですし、ウルフがしっかり名探偵として追い込まれるのが良い(ビール断ちも決意するし、外出もする)。登場人物はかなり多いのですが、中期以降、やはりそのあたりの捌きが上手くなっていますから、あまり混乱しません。アーチーによる「挑戦」を受けて、ぜひ推理してみましょう。『編集者を殺せ』と並んで、今、ウルフ作品への入り口として薦める作品のツートップです(『シーザーの埋葬』も挙げていますが、現役本で手に入らないんですよね)。

    ・1960年長編〝Too Many Clients〟

    ・1960年中編集〝Three at Wolfe‘s Door〟
    ◎「ポイズン・ア・ラ・カルト」→『16品の殺人メニュー』『ディナーで殺人を〈下〉』に収録
    〇「殺人規則その三」(「第三の殺人法」)→『ネロ・ウルフの災難 女難編』に収録
    〇「ロデオ殺人事件」→『ネロ・ウルフの災難 外出編』に収録

    「ポイズン・ア・ラ・カルト」は各種食事系アンソロジーひっぱりだこのマスターピース。晩餐会中に毒殺事件が発生してしまう作品で、お抱えシェフであるフリッツに対して優しく接するウルフの姿など、レアな姿を楽しめます。解決編で、戯曲のように発話者とセリフを淡々と書く手法を使っており、この頃から増えてくる印象がありますが(『腰ぬけ連盟』にも存在するのですが、しばらく見かけなかった)、登場人物の多いスタウト作品においては分かりやすいのは確かなので効果的かも。

    「殺人規則その三」は、タクシーの中に突如現れた死体、という謎を描いた作品で、最終的な解決よりも、状況の転がし方が楽しい作品です。アーチーが事務所を辞職するところから始まるのも、シリーズファンはニヤリとくるところです。

    「ロデオ殺人事件」は、またしてもウルフ「外出編」の一編であり、リリー・ローワンのゲスト出演回でもあります。謎解きはやや精彩を欠きますが、オチにはくすりときます。

    〇1961年『究極の推論』(「EQ」1997年7月号に掲載)
     ネロ・ウルフ、不動のまま誘拐犯罪に挑む。消えた身代金の行方は?
     ユーモア度 ☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     こちらも「EQ」に掲載されたきりの長編。「ビッグ・ボーナス一挙400枚」と冒頭にある通り、今でいう、長編の一挙掲載がなされた回です。少し短めの長編、の分量ですね。今回のポイントは、「動かない」探偵ネロ・ウルフと誘拐犯罪の取り合わせ。ウルフはいつも通りまったく家から出ることなく、金をせしめる方法を考えます(笑)。本格ミステリーの作家が誘拐ものを扱う時の手つきの癖が、この作品にも明瞭に感じ取れるのが面白く(センセーショナルにはいかず、すぐに死体が転がるところとか)、身代金が一旦消失する、という謎作りもユニークです。

    ◎1962年『ギャンビット』(「EQ」1992年5月号~7月号に掲載)
     ネロ・ウルフ、チェスプレイヤーの犯罪に挑む。彼はいかにして無実を証明するか?
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆

     ウルフものの愉しさがストレートに出た作品です。『黒い山』などの冒険を経て、このシリーズはまた、シンプルな謎解きの魅力に帰ってきた、というべきでしょう。まず、作品の頭でネロ・ウルフが焚書をしているというだけで爆笑。「英語の完璧さを脅かす破壊的な辞書」だからと、ウェブスター大辞典の三版を、千切っては暖炉にくべ、千切っては……をしている時に依頼人がやってきます。殺人の容疑をかけられた父を救ってほしい、というヘビーな依頼を聞いている時にも、辞書を千切るウルフの手は止まりません。

     チェスをモチーフにした展開も面白く、チェス仲間たち(メッセンジャー、と作中では呼ばれます)を半身内サークルにした生真面目なフーダニットも、ウルフものの愉しさのパターンを綺麗になぞってくれます。アーチーが依頼人の父を訪れる場面では、『殺人犯はわが子なり』の被告人だったピーター・ヘイズの名前が登場し、スタウトがあの作品で試みたプロットにもう一度挑んだ、という宣言にも取れます。

     ポイントは、中盤でウルフが解き明かす事件の構図と、「被疑者は何を隠しているか?」。最終的な解決の仕方も、ちょっと捻った見せ方になっていて、飽きが来ない良い作品でした。

    ・1962年中短編集〝Homicide Trinity〟
    ◎「犯人、だれにしようかなイニ・ミニ・マーダー・モ」(「殺人鬼はどの子」)→『ネロ・ウルフの災難 激怒編』」(論創社)に収録
    〇「悪魔の死」(「デーモンの死」)→『ネロ・ウルフの災難 女難編』(論創社)に収録
    〇「ニセモノは殺人のはじまり」→『黒い蘭』(論創社)に収録

    「犯人、だれにしようかな」は確かにウルフ「激怒」の一編ではありますが、同時に、抱腹絶倒のシチュエーションともいえます。ウルフが油で汚れたネクタイを外して植物室へ行っている間に、依頼人がやってきて、アーチーがウルフを呼びに行った僅か数分の間に、依頼人がウルフのネクタイで絞殺されるのです。自分のネクタイを使われて怒り、「犯人をだれにしようか」と私怨全開の動機で推理を始めるウルフの姿に笑わされます。フーダニットとしてもソリッドな作りです。

    「悪魔の死」は特異なシチュエーションに笑わされました。夫を殺さないために、夫殺しの計画をウルフたちに聞いてもらい、銃を預かってほしい、という奇妙な依頼を聞いた直後、くだんの夫が殺されたのをラジオで知る、というのが発端。謎解きは手順にこだわりすぎ、やや切れ味に欠けますが、この発端だけでお釣りがきます。

    「ニセモノは殺人のはじまり」は偽札を巡る謎がメインですが、むしろハッティーという女性の強烈なキャラクターで引っ張っていく作品といえます。軽妙さは実に楽しい。

    〇1963年『母親探し』(論創社)
     ネロ・ウルフ、赤ん坊の母親を探す。意外なところから現れる真相が見所。
     ユーモア度 ☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     後年の『ファーザー・ハント』と対をなす〝The Mother Hunt〟という原題の作品。依頼人の家の前に突然放置された赤ん坊の母親を探してほしい、という謎めいた依頼の面白さもさることながら、状況の転がし方が面白くて、読んでいて飽きがこない長編です。これまで未訳だったのが信じられないくらい。『ファーザー・ハント』はむしろ、私立探偵小説としての味わいに力点がある作品ですが、こちらは謎解きミステリーに踏みとどまっている印象を受けます。

     この作品では、ネロ・ウルフが外出――どころか、自分の城である事務所から逃亡する一幕が描かれます。ここが正直、めちゃくちゃ面白い。ある人物の家に行って、スクランブルエッグ作りには四十分かけろ、とか言い出す場面とか、やけに印象に残る。

    ・1964年中短編集〝Trio for Blunt Instruments〟
    ・「殺しはツケで」→「EQ」1979年11月号に掲載
    ◎「トウモロコシとコロシ」(「スイート・コーン殺人事件」)→『ネロ・ウルフの災難 女難編』(論創社)に収録
    ・「血の証拠」→「EQMM」1964年6月号に掲載

    「トウモロコシとコロシ」はウルフらしい捻くれぶりがフーダニットの中で生かされた良品。解決編直前に疑問のリストを掲げてみせるのは、他の本格ミステリーもやっていることですが、この作品では、ある意外な「もの」に疑問のリストが書かれているのです。こういう処理の仕方が、ネロ・ウルフという探偵と、このシリーズの面白さですね。幕切れの会話も実に感動的。いいですね。

    ・1964年長編〝A Right to Die〟

    ◎1965年『ネロ・ウルフ対FBI』(光文社文庫)
     ネロ・ウルフ、国家権力に挑む。コンゲームの魅力が炸裂した、ウルフ編随一の快作。
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     後期ネロ・ウルフ、最大の異色編。ネロ・ウルフのもとを訪れた大富豪の未亡人レイチェル・ブルーナーは、FBIによる執拗な尾行、盗聴の被害に遭っていると訴えた。十万ドルの依頼料と引き換えに、FBIの所業をやめさせてほしい、という。行動を始めたウルフの前に、FBIの犯行と疑われるルポライター殺害事件が立ち上がってくるあたりは、依頼Aが事件Bへと転がるように繋がっていく、ウルフ謎解き編の定型をなぞっているように見えます。

     しかし、この作品で最も重要なのは、真相を突き止めたうえで、「どのように事態を収めるか?」というコンゲームものに通じる魅力。海千山千の猛者であるウルフだからこそ、困難な敵に打ち勝ち、全てを収める解決策を見いだすことが出来る。これはそういう長編です。ウルフ対FBIの構図だけでなく、ウルフ最大の敵にして友であるクレーマー警視の描き方も魅力。アメリカへの反発、主張がプロットの要諦をなし、作品の背景にあるアメリカ史を浮かび上がらせている点でも、『我が屍を乗り越えよ』―『黒い山』の系列に連なる作品といえます。

    ・1966年長編〝Death of a Doxy〟

    ・1968 年『ファーザー・ハント』(「EQ」1982年1月号から5月号に掲載)
     訳者にも恵まれた、〈ネロ・ウルフ〉シリーズ中、最高の「私立探偵小説」。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     エーミー・デノヴォの母親は三ヶ月前に轢き逃げで亡くなり、彼女に一通の手紙と二十万ドルを超える金を遺した。手紙によれば、その金は、二十二年間にわたり、彼女の父親から毎月送金されたものを貯めたものだという。エーミーはアーチーに依頼する。「私の父親を探してほしい」。二転三転する「父親探し(ファーザー・ハント)」が迎える結末は?

     英国推理作家協会シルヴァー・ダガー賞(CWA)を受賞した作品であり(刊行は1968年、受賞は1969年)、読む前から秘かに期待していた作品でした。謎解き度を☆1にしていることからも分かる通り、謎解きの魅力には乏しいプロットではあるのですが(母親の轢き逃げがクローズアップされるところなどは非常に魅力的なのですが、解決は腰砕けです)、ある人物を探すという、私立探偵小説の王道プロットが、ネロ・ウルフの世界観と見事に噛み合った素晴らしい「私立探偵小説」です(高名な容疑者に対して、不遜に挑んでいく……というウルフもののパターンと「父親探し」という主題の相性は抜群なのです)。父親候補をしつこく探しながら、否定されていく過程も、苦い結末も、クールな幕の引き方も、実に素晴らしい。この苦さ、クールさは、アーチーの普段の饒舌さゆえに成り立つのですが、各務三郎の訳が、その饒舌さの魅力を最大限に引き出しているのもたまりません。ウルフの邦訳は生真面目な、硬い文体が多く、笑いどころを見逃してしまうことも多いのですが、各務三郎の、適度に肩の力が抜けた感じの訳文には、何度もくすくすと笑わされました。あるいは、後期作品ならではの、レックス・スタウトの筆の余裕、でもあるのでしょうか。

     初期で謎解き小説としてのネロ・ウルフを追及し、1940年の『我が屍を乗り越えよ』からウルフのキャラクターというものを掘り下げてきたスタウトは、中期で二つの路線を並列させ、最後期に、シンプルな私立探偵小説に行きついたことになります。この変遷がどうにも面白く、また、CWAの受賞も納得の傑作です。

    ・1969年長編〝Death of a Dude〟

    〇1973年『マクベス夫人症の男』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     ネロ・ウルフ、夢分析に挑む? 晩年のスタウトは爆殺ものが趣味なのか。
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆☆

     スタウト晩年の作品で、両手が血まみれになる夢を見てしまう男を紹介される……というのが事件への入り口になります。パターンをご存知の人ならお分かりの通り、これが事件Aであり、メインの事件はBということになります。慣れていないと、この構成だけで振り落とされそうな感じがします。「爆弾」というアイテムを使った大味なプロットは苦笑するしかないところですが、殺人犯の心理に迫っていくスタウトの筆さばきはなかなか面白いです。

    ・1975年『ネロ・ウルフ最後の事件』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     ネロ・ウルフ、依頼人のいない事件に挑む。ただ、己のプライドを守るために。
     ユーモア度 ☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆

     原題は〝A Family Affair〟で、「最後の事件」とつけたのは邦題独自ということになります。1975年、この作品を発表後にレックス・スタウトが亡くなっているため、事実上「最後の事件」であることは間違いありません。しかし事実上「最後」であるだけか、というと、そうでもない。シリーズ最後の事件にふさわしい重みと意外性をこの作品は備えているのです。

     深夜にウルフを尋ねてきた、馴染みの給仕ピエール。彼は怯えた様子で、すぐにでもウルフに会いたいと持ち掛けてきた。アーチーはひとまず、彼をウルフの家に泊まらせるが、深夜の静けさを大音声が裂いた。ピエールは爆殺されたのだ。ピエールは何を恐れていたのか、何を言おうとしていたのか? 依頼人なき事件に、ネロ・ウルフは挑むことになる……。

     依頼人なき事件、というプロット自体は、実は中短編においては珍しい事態ではありません(「苦い話」「次の証人」「探偵が多すぎる」「ポイズン・ア・ラ・カルト」など)。しかし、この作品にはそれらの中編にはなかった、独特の重いトーンが絡みついています。地方検事からの妨害も受け、私立探偵としてのライセンスも停止されるなど、かなり危機的な状況での事件です。文体の魅力やアーチーの語りの魅力は健在ですが、ユーモア度を低くつけているのは、そのため。シリーズキャラクターも最後とばかりいきいきと動き、このピンチに立ち向かいます。謎解きは実に見事で、犯人の正体と、そのアイディアを支える伏線の巧さには唸らされました。たとえば、アーチーは解決編直前に、こんなことを漏らします。

    〝彼がそういうのを聞いたとき、ぼくは初めて理解した。稲妻のようにひらめいたのだ。推測や虫のしらせではない。理解したのだ。読者は少し前に気がついて、ぼくが理解しないことにあきれはてておられたのではないかと思うが、それは読者がぼくより頭がいいというのではない。読者は事件について読んでいるのに対し、ぼくは事件にまきこまれてきりきり舞いしていたのだから。また、ぼくとしては、一度か二度はいいところをついたことがあったかもしれない。だからといって、いまさらあと戻りしたり、変更したりしようとは思わない。ぼくは起こったことをありのまま記述し、報告しようとしているのであって、故意に引っかけようとなどとはしていないのだから。〟(本書、p.202-203)

     どうだろう。実に堂々とした「読者への挑戦」ではないだろうか? こんな風に挑発するほど、スタウトがこの真相と趣向に自信があったという証左だ(こうした「読者への挑戦」は、『殺人は自策で』でも試みられていた。後期の〈ネロ・ウルフ〉シリーズでは、「記述者」としてのアーチーがしばしば読者に顔を向けてくる)。もちろん、真相だけ取り出せば、特異というほどではない。しかし、これを〈ネロ・ウルフ〉シリーズの一作、それも最終作として読む、というのが大事なのです。旅路の最後に行きつくのにふさわしい作品。ラストのセリフも、スタウト自身の死をも思わせるようで、じーんとします。

    〇まとめ (不)完全攻略のおわりに

     これまで、〈ネロ・ウルフ〉シリーズについて感じたことを残しておこう、という試みをお届けしました。まあ、とりあえず、私があと十年くらいたって、「そーいえば、〈ネロ・ウルフ〉シリーズってどれがいいんだっけ」と分からなくなった時に、帰ってこられるようにはなっているなあと思います。『ギャンビット』や『ファーザー・ハント』などは非常にレベルが高く、雑誌に載せたままにしておくのはもったいないほどで、こういう機会に読むことが出来て本当に良かった、と思います。

     また、『Xと呼ばれる男』では、まだアーノルド・ゼックは電話の声のみの登場ですが、既に堂々たる存在感で、残る二作にも期待が高まりました。Kindleで原書を買い、冒頭を少し読んでみた……というところなので、読み切れたら、どこかでこれに加筆するか、報告するかします。しかし、いつになるんだろう。こうやって古典作家の読みたい原書を溜めすぎているな。

    (2024年8月)

第86回2024.08.09
〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略(1) ~パターンを知ろう・前期のスタイル~

  • レックス・スタウト『シーザーの埋葬』(光文社文庫)

    レックス・スタウト
    『シーザーの埋葬』
    (光文社文庫)

  • 〇告知から

     8月21日に『阿津川辰海 読書日記 ぼくのミステリー紀行《七転八倒編》』(光文社)が発売されます。読書日記の第36回から第71回までを収録し、2021年から2024年にかけて書いた13本の解説原稿を収めた本です。前巻より140ページも増えてしまった。ジェフリー・ディーヴァー回やギャンブル作品特集まで、長く、大変で、恐ろしい回がたくさん収録されています。眩暈がするような校正作業でした。昨今の情勢もあり、部数は第一弾の時より少なめですので、予約するなどして手に入れてくださいませ。

    〇レックス・スタウトなんかこわくない(総論編)

     さて、そんなことを言ったそばから恐縮ですが、これから「長く、大変で、恐ろしい回」が始まります。〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略です。アメリカの作家、レックス・スタウトが書いたシリーズであり、個人的には、長い長い苦闘の末、ようやく楽しめるようになった作品群です。33の長編と15冊の短編集があり、ここでは、邦訳されている長編23冊と、入手するのが間に合わなかった11の邦訳短編以外のすべての短編をレビューします。「間に合わなかった」というのは、ある仕事をこなすために読んだため、調査期間を7月末までということで区切ったからです(なんの仕事なのか、というのは、まだ言ってはいけないらしいのでここでは伏せます)。なお、8月の読書日記は、このレックス・スタウト回を前後編に分割して掲載してもらいます。ぶっちゃけ、7月は、まだ詳細を明かせない企画で短編集を読むフェーズと、レックス・スタウトを読むフェーズの二つしかなかったため、他に読書日記に書けるネタがないからです。

     このレビューを試みるにあたり、23の長編は、既読のものも含めて、発表年代順に読み潰していくことにしました。そうすることで、なにか、作風の変遷や、シリーズとしてのダイナミズムを捉えられないかと思ったからです。

     さて、まずは、「長い長い苦闘」について話させていただこうと思います。私とレックス・スタウトの関わりは、以下の通りになります。

    ・中学3年生の時、『法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー』(角川文庫)の「海外クラシック・ベスト20」を一つ一つ読み潰す中で、『腰ぬけ連盟』を図書館で借りて読んでみるが、一度挫折する。
    ・「海外クラシック・ベスト20」の他19作品を全て読んだので、『腰ぬけ連盟』を再度借り、どうにか読み通すが、読んだ瞬間に全ての印象が記憶から消える。
    ・高校1年生の時、はやみねかおるの推薦作として栗本薫『ぼくらの時代』に出会う。同シリーズを読んでいき、第三作『ぼくらの世界』に辿り着くが、この本の中でネタばらしされる作品のリストに、『わが屍を乗り越えよ』がある(このタイトルは正しくは『我が屍を乗り越えよ』ですが、『ぼくらの世界』の中では「わが」表記になっています)。挑んでみるが、あまりの読みづらさに一章で挫折。同時に、『ぼくらの世界』を読むのも先送りになる。
    ・高校2年生の時、「いや、さすがにあれだけで終わるのはもったいない」と、唯一新刊で買える文庫だった『料理長が多すぎる』を読んでみる。全くハマらない。
    ・大学生になり、レックス・スタウトを読んでいる先輩に会う。「『黄金の蜘蛛』が面白い」などの話を聞くが、そもそも古書店で安く見つけることが出来ない。均一棚で見つけたら買う、というルールを設け、集め始める。
    ・大学2年生の時、『シーザーの埋葬』『編集者を殺せ』を読み、楽しむが、それ以上読もうという気が起こらない。論創社から『黒い蘭』が邦訳され、以後、中短編集の刊行が相次ぐ。お金が足りず、なかなか手は伸びない。
    ・社会人となり、体を壊して入院した時、どうせなら、今までゆっくり読む気にならなかったものを読んでみようと思い、『腰ぬけ連盟』を入院生活に持ち込む。この時はかなり楽しめるようになった。→読書日記第40回に詳しい。
    ・以降、論創社におけるレックス・スタウト短編集と長編を読む中で、少しずつ、面白さのリズムが分かってくる。ここで、ようやくほとんどの作品を楽しめるように。
    ・「ある仕事」のためにレックス・スタウトを読む必要が生じる。そこで、この7月に、全ての長編を頭から読む作戦を決行する。

     このような経緯です。実に15年間、紆余曲折を経て、どうにか楽しめるようになった、ということです。原因ははっきりしていて、これまでの読者としての私(特に中高生の頃)がキャラクターに全く興味がなく、事件の面白さにしか興味がなかったからです。別段、特徴のある謎やトリックがあるわけではないので、記憶に残らず、興味を持って読み進められなかった、ということです。

     アメリカで人気のある探偵――という評価を聞いていてもイマイチピンとこなかったのは、そもそも褒めている日本の評者を見ないのも大きかったと思います。ジョルジュ・シムノンには長島良三がいて、ロス・マクドナルドには瀬戸川猛資小鷹信光がいて、アリステア・マクリーンやジャック・ヒギンズには内藤陳がいて……というのは思いつくのですが、スタウトになると、パッと出てこない。私が翻訳ミステリーを読み進める一つの基準としていた瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』では、スタウトは、ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』を評した人間として名前が載っているのみ。

     強烈な印象があるのは、栗本薫各務三郎でしょうか。さきに各務三郎について述べておくと、彼は「ネロ・ウルフは名料理長」というエッセイの中で『料理長は多すぎる』を絶賛し、作中に登場するレシピを紹介したうえ、日本におけるスタウト紹介が広がることを求めていますし、光文社の雑誌「EQ」では、スタウトのCWA賞受賞作『ファーザー・ハント』を訳出しています。

     栗本薫は先ほどの略歴にも名前を出しましたが、『ぼくらの世界』という長編において、この本では以下に挙げる海外の名作ミステリーのトリックのネタばらしをする、といって、エラリー・クイーン『スペイン岬~』『緋文字』など五作品と並んで、レックス・スタウト『わが屍を乗り越えよ』(原文ママ)の題名を挙げています。作中でも、次のように述べます。この『ぼくらの~』というのは、作者と同姓同名の「栗本薫」が作中に登場する趣向のシリーズなので(ただし、作中の性別は男性)、セリフ内の「ぼく」というのは、イコール「栗本薫」のこと。

    〝ぼく、好きなんです。クリスティー、クイーンと並んで、いちばん好きな作家のひとりなくらいですよ。〟(『ぼくらの世界』より)

     あるいは、パシフィカの『名探偵読本4 エラリイ・クイーンとそのライヴァルたち』では、巻末の対談に参加して次のように述べます。

    〝栗本 私は一番ネロ・ウルフが好きなんですけれども、あれで一番おもしろいのはネロ・ウルフと、助手のアーチー・グッドウィンのやりとりですね。アーチーってのは、頭もいいし、気もきくし、ネロ・ウルフに可愛がられているんですけれど、まあ常識人で行動人なわけですよ。そこへネロ・ウルフというのはたいへんな奇人でまったくユニークな考え方をする、そこがとてもうまくかみあっていて、あのやりとりを日本で書ける作家はたぶん泡坂妻夫さんだけだろうと思うんです。〟(同書、p.220-221)

     この座談会では、この栗本の言及を除いて、同書の特集の目玉の一人であるはずのスタウトへの言及がほとんどない。栗本は二人のキャラクター性とユーモアを高く評価しており、『ネロ・ウルフ対FBI』には中村梓名義で解説を書き、高見浩訳のアーチーの一人称が他の大半の作品の「ぼく」ではなく「私」であることに「苦情」を言っている。その愛情が長らく続いたことが見て取れるのです(それよりも衝撃なのは、栗本薫の時代ですでに、『腰ぬけ連盟』は「神田の古本屋で購入した」し、「もっとも古い『黄金の蜘蛛』は絶版で、もう手に入らない、と早川の人に言われて失望した」というくだりです。スタウトの作品が手に取りにくいのは、今に始まったことではないらしい)。

     もう一人、重要な評者として、杉江松恋を挙げておきましょう。同氏は『路地裏の迷宮踏査』(東京創元社)に収録された「レックス・スタウトのリベラリズム」と、2005年にポケミスから邦訳刊行された『編集者を殺せ』の解説、2009年に同じくポケミスから邦訳刊行された『黒い山』の解説で、主にスタウトについて言及しています。「レックス・スタウトのリベラリズム」において、杉江はリベラリストとしてのスタウト像を紡ぎ、『料理長が多すぎる』が「黒人差別の問題を採り上げたミステリとしては非常に早い段階のもの」であることを指摘し、『黒い山』『ネロ・ウルフ対FBI』などにも通じるスタウト作品の縦糸をつかまえ、『腰ぬけ連盟』のトリックに別の光を当ててみせる。実に惚れ惚れとする筆さばきです。

     さて――そういう風に前置きをしておいたうえで、私がスタウト作品を楽しむまで15年かかった理由を一言で言います。それは「世評が高い作品がスタウトにとっての異色作であり、定型を知ってから初めて十全に楽しめるものであることに丸15年気付かなかったから」です。そもそも、日本で現在でも唯一現役文庫で手に入る『料理長が多すぎる』が、「あの家から出たがらないネロ・ウルフが外出する」という一編ですし、『シーザーの埋葬』も同様に外出編、『黒い山』は『我が屍を乗り越えよ』の続篇であると同時にまたしても「外出する、それも今回は旅行」という趣向です。定型からの距離が分かると、どれもシチュエーションだけでくすぐられますが、ピンとこなかったら、事件そのものを楽しむしかない。でも、事件そのものだけを楽しむには、〈ネロ・ウルフ〉シリーズはやや弱い。

     事件が面白くないと言っているわけではありません。むしろ、特異な事件に対して、「あの」ネロ・ウルフとアーチー・グッドウィン、そして、彼の周辺にいる人物がいかに反応するか――その文脈ごと楽しむのが、一番楽しく読むための近道であることに気付いたのです。事実、〈ネロ・ウルフ〉シリーズにおいて、本格ミステリーとしてもレベルが高いと感じる作品は、そもそもキャラクターの転がし方が達者な作品でした。キャラクターを動かし、ユーモアをふんだんに撒き、その中に伏線も隠してしまう。それが上手くハマっている時に、本格ミステリーとしてのスタウト作品が輝いてくる。

     ここでいう、「定型」というのは、以下のようなイメージです。

    ①ネロ・ウルフは家から外に出ず、冒頭で依頼Aに遭遇する。この依頼Aは、事件とのかかわりの起点に過ぎず、メインの事件ではない(このため、「依頼Aにかかわる人物や依頼人の紹介者は登場人物表にリストアップされない」「冒頭の内容が文庫裏のあらすじと一致しない」など、翻訳ミステリーの初心者を振り落とす要素がいきなり含まれる)。
    ②ウルフは依頼Aから金をせしめる方法を考える。あるいは、金にならないからと突っぱねる。この時、Aを受ける/受けないの分岐を作るために、ウルフの気分を変えるための仕掛けが冒頭に配される(例:『黄金の蜘蛛』において、お抱えシェフのフリッツが勝手な味付けをしてウルフが激怒すること=ウルフは虫の居所が悪いので、子供の話をまともに聞かなくなる/『殺人は自策で』において、ウルフが読んでいる本のランクをA~Dに分けているとアーチーが分析し、そのAランクに属する本の作者が電話をかけてくること=珍しく、ウルフは自分から少し興味をもつ)
    ③依頼Aはイレギュラーバウンド的に依頼Bの事件(メインの事件)へと発展する。ここまでに、あるいは、この時に、容疑者の枠となる人物関係が提示される(五人程度から、二十数人まで)
    ④ウルフは家から動かず、アーチーが外で動き回る。情報はアーチーからの報告でもたらされるか、ウルフの事務所を証人が訪れることでもたらされる。
    ⑤中盤で、ウルフは見込み捜査をするために、「仮説」を提示し、事件の構図、その見方を大きく転換する。
    ⑥大団円において、ウルフは証拠が乏しいなか、容疑者全員を事務所に招き、推理を披露する。この時、純粋に推理のみを披露し、心理的に追い詰める場合(パターンX)と、何か犯人を嵌めるための逆トリックを用意しており、策略的に追い詰めてしまう場合(パターンY)がある。

     こうです。要するに、ウルフが家から一歩も出ず、アーチーが動き回り、最後は大団円で解決する、ということですね。こう聞くと、大体イメージ通りだと思います。ここに、ウルフの家にいるお抱えシェフのフリッツ・ブレンナーと、園芸係のシオドア・ホルストマン、ウルフとアーチーが調査のために雇っている四人の探偵(ソール・パンザー、ジョニー・キームズ、フレッド・ダーキン、オリー・キャザー)、ウルフにたびたび噛みついては、時に協力関係を結び、時に対立するクレイマー警視というレギュラーキャラクターの魅力が加わってくる、ということになります(クレイマーは訳者によって「警部」「警視」と訳語が違いますが、私は多数派である「警視」のほうに慣れてしまったので「警視」で記述します)。作品に緊張感を与えるのは、大抵、このクレイマー警視で、外出して事務所を離れてしまう『料理長~』『シーザー~』では、そもそもこのクレイマーにお目にかかることさえ出来ない。

     そして、このパターンの時のウルフという男は……とにかく、ムカつくんですよね(笑)。植物室に行く時間(9~11時、14~16時)は固定だから絶対に客を通すなというし、客が来ても待たせる横柄ぶりだし、自分からは絶対に容疑者の元を訪れないからどんな相手でも呼びつけるし、大事な話をしている時にもずっとビールを飲んでやがるし。なんだ、こいつ? というのが私の最初の印象だったわけです(栗本を含めた何人かの評者はアーチーを褒めるわけですが、ハードボイルドに興味がなかった中学生の頃は、アーチーも好きになれなかった)。

     ただ、そういう風にしか生きられないウルフという男をアーチーの一人称視点で存分に皮肉りながら、時に愛情深く、時にケンカしながら描いていく過程を味わっていくと――ようやく、この二人組に愛着が湧いてくる。ここまでくれば、『料理長が多すぎる』で、電車に14時間も乗るなんて! と自分で決めた旅行なのにグチグチ言いまくるウルフに、「なんだこいつ?」と眉をひそめる気持ちより、「面白い奴だなあ」と笑う気持ちが勝つようになります。眉をひそめるくらいの態度でいい気もしますが。

     ⑥の解決に関してですが、もちろん、パターンXの方が本格ミステリーとしては練度が高く、パターンYに属するものは、巧妙なものから、ミステリードラマなどでも大量に見たことがあるであろう「レコーダーに自白を録音する」といった弱いものまでさまざまです。犯人を嵌めて自白で終わらせる場合もあります。こうなると、キャラクター小説、サスペンスとして楽しむことしか出来ず、謎解きものとしての評価は難しくなります。ただ、パターンYの作品はむしろ、⑤の「仮説」の部分に力点があることが多いのです(逆に言うと、この場合は中盤の⑤の時点で本格ミステリーとしての完成度は打ち止めになり、後半は犯人をいかに追い詰めるかというサスペンス的な読み方しか出来なくなります。代表例は、後に話しますが、デビュー作である『毒蛇』です)。スタウト作品は最後だけ読んで済ませるというわけにいかず、捜査・調査の過程、いかに調べるか、どうアタリをつけて何を見つけ出すか、というところが面白い、ということになります。

     しかし、このパターンYにあたる作品もそうそう馬鹿には出来ません。犯人を嵌める手段が、倒叙ミステリーの優れた「逆トリック」(探偵が犯人に対して仕掛けるトリック)のような味わいをもたらすこともありますし、「利害関係が対立する複数の事件関係者との衝突をいかにウルフが収束させるか」あるいは「ウルフがいかにして金をせしめるか」という興味は、コンゲームの魅力に近接する部分があります。たとえば、『ネロ・ウルフ対FBI』という長編は、事件の謎を解決することはもちろんですが、FBIや警察相手に、ウルフがいかに事態を収めるか、という部分に最大の力点があるのです。

     邦訳された23長編を全て読んだ感想としては、必ずしも、本格ミステリーとしてだけ読むのは幸せとは言えない、ということです。むしろ、恐らくはA・A・フェアの一連の作品群のように、キャラクターを楽しみつつ、事件も綺麗に収まるところを読んで、翌日には綺麗さっぱり忘れてしまうのがよろしいのではないかと思います。ウルフやアーチー、彼らを取り巻く人々の魅力が記憶に残れば、それで御の字、という作品群でしょう。エラリー・クイーンやジョン・ディクスン・カーが高く評価される日本(私も含めて)において、積極的な評価の声が根付いていないのも、正直理解出来ます。

     だから、私が今から書く(不)完全攻略レビューは、もっとスタウトを評価しろとか、復刊しろとかいうことではなく(「EQ」を刊行していた光文社でこの原稿を発表するのも、特段の意図はない!)、正直、私も数カ月したらここに書いたような各作品の感想を忘れてしまいそうだから、記録に残しておきたい――という危機感に近いのです。あと一カ月もすれば、一部の事件の真相はさっぱり忘れているでしょう。だから、この文章の最終的な目標としては、現在流通している論創社版スタウト、特に中短編集に手を出してみる人が一人でも多くなるのを願うとか、古書店でレックス・スタウトに出会った時、「そういえば阿津川はなんて言ってたかな」「フーン、じゃあこの値段なら買っておくか」というせめてもの指標になるとか、それくらいの意味しかないと思います。まあでも、書いておきましょう。そのための「日記」なんですから。

    〇(不)完全攻略、スタート!(各論編(1))

     では、(不)完全攻略を試みます。第14回のディック・フランシス回と同じように、三つのバロメーターを設定し、ざっくりと評価していったほうが読みやすいでしょう。三つのバロメーターは、「ユーモア度」「謎解き度」「読みやすさ」とします。

    「ユーモア度」は、主に、事件そのものの面白さから、語りの面白さ、あるいはキャラクター小説としての完成度などで評価します。

    「謎解き度」は、端的に本格ミステリーとしての完成度ですが、上に述べたパターンであれば、⑤が鮮やかである作品も比較的高い傾向(☆3~4はつく。最後まで力が籠っていれば5になる)になります。

    「読みやすさ」は、登場人物の数やその整理の仕方、プロットの把握のしやすさ、訳文の読みやすさなどで判断します。

     以上の評価は邦訳長編23作品についてのみ、行います。短編については短評をつけますが、全てに評価を書いていると読みにくく、煩わしいので割愛します。

     さて、長々と評価を読んでも大変だと思いますので(おまけに、分割掲載のため後編の評価は2週間待っていただかないといけませんので)、ここで結論のみ書いておきます(見づらくなるので、初出の太字表記はしません。また、(不)完全攻略内においても、そこで話している作品のメインタイトルのみを太字表記し、関連作として言及している他のスタウト作品はすべて太字表記しません)。

    ・初心者におすすめの長編三選
    『編集者を殺せ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
    『殺人は自策で』(論創社)
    『シーザーの埋葬』(光文社文庫)

    ・偏愛長編五作(順不同)
    〇本格ミステリーとして
    『ギャンビット』(「EQ」掲載)
    『Xと呼ばれる男』(「EQ」掲載)
    『ラバー・バンド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
    『ネロ・ウルフ最後の事件』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
    〇私立探偵小説として
    『ファーザー・ハント』(「EQ」掲載)

    ・偏愛短編五選(順不同)
    「死にそこねた死体」(『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』〈論創社〉に収録)
    「急募、身代わりターゲット」(『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』〈論創社〉に収録)
    「トウモロコシとコロシ」(『ネロ・ウルフの災難 女難編』〈論創社〉)に収録
    「探偵が多すぎる」(『短編ミステリの二百年2』〈創元推理文庫〉に掲載)
    「クリスマス・パーティ」(『クリスマス12のミステリー』〈新潮文庫〉に収録)

     では、以下からは発表年順に作品をみていきましょう。未訳の作品は適宜スキップします。以下のリストは、『ネロ・ウルフ対FBI』の光文社文庫新装版に掲載されたリストをもとに作成したものです。元のリストは、長編、短編を分けて掲載してありますが、作風の変遷や展開を辿るために、年代順にすべて並べてあります。長編のタイトルの下に1行太字で入っているのは、なんとなく作ったキャッチコピーです。

    凡例:〇は既読(◎は特にオススメ)。
       ・のままは未読。
    〇1934年『毒蛇』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     ネロ・ウルフの捜査、原点にして確立す。衝撃の結末を見よ。
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆

     原点ともいえる作品ですが、ネロ・ウルフとアーチー・グッドウィンのキャラクターが既に完成しているのもさることながら、調査のやり方がどのシーンでも面白い。失踪した兄の部屋でスクラップされた新聞を見た、という些細な手掛かりから、彼がどの記事に興味を持って記事を切り抜いたかを、実験によって特定する序盤もユニークですが、中盤、キャディーの子供たちを招いて昼食会を開きながら尋問をするシーンは、ネロ・ウルフの探偵法を象徴するような名シーンになっています。彼と少年たちの対話から、事件の構図ががらりと変わる(総論で述べたパターンでいうと⑤の部分)、という見所も含めて。がらりと変わってからの展開が少し長すぎるのが、玉に瑕、とは言えますが(つまり、パターンYの代表例です)。

     病死で片が付いたはずの事件をほじくり返すために、地方検事との賭けを要求し、検視を要求するアーチーの姿はまさしく抱腹絶倒。自分からは話を聞きに行かず、とにかく相手を呼びつけるウルフのスタイルはこの時点で確立していて、これを痛快に感じるかどうかが、ウルフものを楽しめるかどうかの分水嶺といえます。特に……恐れ入ったのは、この結末です。1934年という発表年においても、特段、斬新というわけではないオチなのですが、シリーズの第一作でやっていいオチの方向性なのか、これは、と呆れてしまい、しかる後に、爆笑してしまいました(だから、Yパターンではあるのですが、単純に自白を引き出すとかではなく、変なオチに辿り着く作品ではあります)。いやあ、やられた、やられた。

     ただ、同時に、一切復刊が望めないのではないか、と思わされるのもこの作品です。黄金時代の本格ミステリーにおいて、今では「古い」と感じさせられる価値観が登場することは珍しいことではありませんが(本来的には、その時代性の違いも含めて受容し、作品の一部として鑑賞するべきですが)、『毒蛇』には、「事件関係者の女性を複数の男性で拉致、脅迫し、情報を聞き出す」というシーンが含まれ、それについてなんのお咎めやツッコミもないことには頭を抱えさせられました。この一点に目を瞑れば、悪い作品ではないのですが、目を瞑ってくれる読者の方がもはや少ないのではないかと思ってしまいます。また、シリーズを追った後で振り返ると、クレイマー警視がまだ登場していないのも非常に残念です。

    ◎1935年『腰ぬけ連盟』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     再読、三読してようやく真価を見出せた、「カーの長編ベストテン」
     ユーモア度 ☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆

     私が最初に読んで、最初に挫折してしまったウルフ作品。登場人物の多さや、なかなか事件の正体が見えてこない序盤の読み味が大きく足を引っ張っている印象です。「腰ぬけ連盟」というものの実態が見え、15人の容疑者が現れるところまでが少し長い。そこまで読んでいけば、連盟の中心にいる「ポール・チャピン」という作家のキャラクターが見えて、「いかにウルフが事態を収めるか」という部分に物語の興味の焦点が移っていきます。

     この作品では、本格ミステリーとしての狙いにも力点が置かれていますが(根拠をしっかり示した逆転劇なので、確かに他の長編よりは本格度が高い)、何より驚かされるのは、ウルフが正義で動く人間ではまったくない、ということを態度のうえで示す部分でした。ウルフは解決編において、ある評決を採りますが、その後の彼の発言が本当にすごい。そんな理由で謎を解かないルートもあったのね、と笑わされます。ただ、これで笑えるようになったのは三読目となる今回で、初読・再読の時は、「なんなの、こいつ?」という印象が先立ってしまっていたのです。ウルフは正義で動く人間ではない。それもこのシリーズの一つの「定型」であって、それを外す時が結構面白いのです。

    ◎1936年『ラバー・バンド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     確立したスタイルの「ウルフ流本格ミステリー」、初期の完成形。
     ユーモア度 ☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     本格ミステリーの良作。スタウト、あるいは〈ネロ・ウルフ〉シリーズ最初の一冊としてもオススメできます。これも、スタウトもののパターンに則った作品といえます。最初にウルフが担当することになる会社での金銭盗難事件は入り口に過ぎず(依頼A)、その事件で出会った関係者から「輪ゴム団(ラバー・バンド)」のメンバーたちをめぐる奇妙な事件に取り組むのが本題になります(依頼B)。しかし、導入の事件は登場人物たちの性格を印象付けるのに役立っていますし、冒頭、一見無関係に思われたウルフとアーチーの会話劇は、中盤に至って「そういうことだったのか!」という納得と驚きに転じます。段々とユーモアも脂がのってきて、冒頭の、「ウルフが運動のためにダーツを使ったポーカーの役作りゲームを始める」というくだりだけで笑わされます。

    『腰ぬけ連盟』でものにした、因縁を持った登場人物の一団を作って、そこでフーダニットを展開するフォーマットを活かした周到な本格ミステリー。その「登場人物の一団」がぐっと少なく、5人です。まあ、周辺に何人も散りばめているんですが、それでも少ない! ありがたい! トリックは脱力ものであるとはいえ、その狙いがはっきりとしたトリックであるため、謎解きものとしてまとまっている印象を受けるのです。犯人の正体と伏線には素直に膝を打たされました。

    〇1937年『赤い箱』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     ウルフ、早くも外出し、愚痴る。心理謎解きミステリーの良作。
     ユーモア度 ☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     この作品で早くも、ウルフ外出、というパターン外しを行っていることに驚かされます。奇妙な毒殺事件について直接聴き取りをするため、家を出ることになるのですが、一旦おとなしく家を出たはいいものの、その後も依頼人に「私を家から出したじゃないか」とグチグチ言う姿には苦笑。推理という点では、細かな伏線から隠された人間関係と犯人を炙り出していく手法が見事で、充実の本格ミステリーとなっています。

     問題は、またしても最後のオチ。ウルフものでは容疑者たちを集めて推理を披露するのが定型になっているとはいえ、そこから倫理観を踏み越えたようなオチがつくのは驚かされました。そうならないようにすることは出来たんじゃないか? という気分ではありますが、そうしてしまうのがウルフ、ということでしょう。

    〇1938年『料理長が多すぎる』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     有名作にして最も入手が容易にもかかわらず、異色作。パターン外し、完成す。
     ユーモア度 ☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆

     さて、『料理長が多すぎる』です。唯一現役の文庫で手に入る〈ネロ・ウルフ〉作品であり(24年7月時点)、最も手に取りやすい作品ですが、本書をスタウト作品の入り口として読むのはオススメ出来ません。なぜなら、これはシリーズ第五作目であり、今までの作品で試みたパターンを外すことが面白さの核心を成しており、これを始めに読むとシリーズキャラクターを含めた面白さを体感出来ないばかりか(クレイマー警視も名前こそ登場しますが、遠く離れた地なので活躍はしてくれません。フリッツやシオドアといったいつもの面々ももちろん不在)、ウルフの料理蘊蓄連打と「多すぎる」料理長(登場人物)のせいで混乱し、シリーズの愉しみから振り落とされかねないからです(読みやすさを☆1としているのは、そのためです)。

     ウルフが保養地カノーワ・スパーに向かうために電車に乗り込むが、車や電車など動くもの全般が嫌いなので恐慌状態になっている、という発端からして、ウルフをよく知った状態で読むと抱腹絶倒なのですが、初読時はその面白さも分からず、なんなんだこいつは、というだけで終わってしまいました(第四作『赤い箱』で近所に外出させ、第五作の本作で遠出をさせているなど、段階を踏んでいるのも面白い)。平井イサクの訳でスタウトを読めるのは嬉しいので、出来るなら、スタウトの文体や雰囲気に少し慣れてきてから手を出したいところです。じっくりと読めば、利きソースの催しから犯人を導き出す推理や、ウルフが犯人を追い詰めるためにとった手段は面白く、楽しめます。

    ◎1939年『シーザーの埋葬』(光文社文庫)
     ネロ・ウルフ、「牛による殺人事件」を捜査する? シリーズ随一の本格&ユーモア編。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆

     これは単独で読んでも十分に面白い作品ですが(事実、初読時の大学生の時もかなり楽しみました)、パターン外しという特徴を知ってからなら、より深く楽しめます。これも、ネロ・ウルフを外出させ、そこで事件を解かせる――というネタに挑んだ作品だからです。蘭を出品するため出かけたら車が故障し、アーチーはウルフにぐちぐち言われながら闘牛と戦うことになる、という冒頭から笑いが止まらないのですが、全米チャンピオン牛といわれるシーザーが、死体の傍におり、その角には血が――という不可思議な事件が起こって、本格ミステリーとしての興味もぐんと高まる、という次第。エリザベス・フェラーズ『猿来たりなば』を思い出す、動物×本格ミステリーの雄編です。

     この作品において、アーチーは彼の「本命」ともいえる女性リリー・ローワンに出会います。彼女の存在はシリーズにおいてかなり大きく、リリー・ローワンが出演する作品は大体良作以上といっても過言ではありません。実にいきいきとしたキャラクターで、これならアーチーを任せてよかろうと思わされます(誰目線?)。

    〇1940年『我が屍を乗り越えよ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     バロメーターは低いかもしれない。しかし、ウルフを知るためには読み逃せない一冊。
     ユーモア度 ☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆

     推理小説の体裁をとっており、ギリギリその枠内に踏みとどまっているものの、国際謀略風味を加えて異色編となっている作品。初期作から続けてきた、パターンの確立と、定型外しの試みが、ここで、「ネロ・ウルフ自身の物語」として完成する、というのがここまでの大きな流れと言えるでしょう。

     モンテネグロからやってきた女性がウルフを尋ねるのが事件の始まりなのですが、シリーズものとしては、ここでウルフの出自と過去が明かされるのが大きな見所。リベラリストとしてのスタウトの顔が覗く作品であり、およそ探偵らしからぬその過去には驚かされました。ここで明かされたウルフの過去は、ウルフが故郷モンテネグロの地に帰ることになる『黒い山』(1954年)へと繋がっていきます。

     ただ、この作品は翻訳の事情によってかなり読みづらい作品になっています。元々やや読みづらい佐倉潤吾訳+50年代発行のポケミスなので促音〈っ・ッ〉などが大文字で表記されている〈やってくる→やつてくる、のように表記される〉+モンテネグロから来た女性の発音を表現するための「どか(どうか)」などのヘンな表記、という三連コンボ。おまけに、促音とモンテネグロ発音の区別が時折つかない。すごく読みづらい。新訳が待たれるところ――といいたいところですが、作品の性質を考えると、それも厳しそうです。

    ◎1940年『遺志あるところ』(「EQ」93年7月~9月号に掲載)
     軽快にして軽妙な謎解き編が帰ってきた。ウルフ、遺言状騒動に巻き込まれる。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

    『我が屍を乗り越えよ』で異色の題材を取り扱った後、「遺言状」という推理小説のベタな題材に戻ってきた作品。前作で大きな冒険をしているせいか、今回は丁寧に「定型」をなぞるところから始めており、読み心地も安定したウルフものの面白さです。上流階級の三姉妹に、兄からの遺言でそれぞれ、モモ、ナシ、リンゴが一つずつ贈られ、兄の妻にはゼロ、兄の愛人に数百万が遺されるという発端からして笑わされてしまいますが、遺言関係のトラブルには首を突っ込みたくないウルフが、金ほしさに変な形で依頼を引き受けることに。ウルフの部屋に次々と事件関係者が訪れたかと思いきや、兄の死に不審な点が投げかけられ、一気に推理小説的な興味を深めていきます。

     ウルフが拠点を移すところなども非常に面白いのですが(パターン外しの一種)、それ以上に面白かったのが、ある事件が発生した際のやり取り。ウルフが「アーチー、わたしは二分もらいたい。二分後に上に行って、ブロンスン警部補に知らせなさい」と告げるくだりがあるのですが、アーチーが戻ってみると……いやぁ、久しぶりに小説を読んで声を出して笑った。アントニイ・バークリーの『最上階の殺人』の再読以来。そうした、シリーズものとしてのくすぐりが本編の最大の魅力ですが、謎解きもしっかりしています。ウルフらしい手掛かりが最後に配されているところがポイントでしょう。

    ・1940年中編→1985年刊行の〝Death Times Three〟に収められる

    〇「苦い話」(「苦いパテ」)→『ネロ・ウルフの災難 激怒編』(論創社)に収録

     さて、ここから、中短編集が登場することになります。中短編集の最大の特徴は、これまでの8長編で確立したスタイルを基礎として、圧縮した形でプレゼンテーションすると同時に、更に豊かなパターン外しを案出してくるところです。登場人物を大量に出し、その枠内でフーダニットを試みるスタウトの作風は、中編の長さでは十全に威力を発揮せず、バタバタした印象が際立つものもありますが、整理されている時は、〈ネロ・ウルフ〉シリーズの魅力を凝縮して味わうことが出来る最良のサンプルとなっています。また、パターン外しが多くなる、の一例として、中編の方がウルフの外出の機会が多いことも挙げておきます。ウルフを外出させると、いつもの拠点やシリーズキャラクターが使えなくなりますが、その分、中編の尺に合ったのではないか、という気がします。

    「苦い話」は、〈ネロ・ウルフ〉シリーズの中編初登場作品。スタウトの死後、作品集に収められました。ウルフ家のレバーパテに毒が入っていた、という発端こそ魅力的ですが、謎解きは普通です。

    ・1940年中編集〝Black Orchids〟
    ◎「黒い蘭」→『ネロ・ウルフの事件簿 黒い蘭』(論創社)に収録
    ◎「ようこそ、死のパーティーへ」→『ネロ・ウルフの事件簿 ようこそ、死のパーティーへ』(論創社)に収録

     非常に充実した二編です。前半にあたる「黒い蘭」では、フラワーショー中に起きた殺人事件をきっかけに、ウルフがある蘭を手に入れるまでが描かれ(外出編/パターン外し)、「ようこそ、死のパーティーへ」では、その蘭が絡んだもう一つの事件が語られる、という構成(こちらは、王道のパターンを使っている)。アーチーは序文において、「ようこそ~」には、一つ解かれない謎が残る、と大胆不敵に宣言してみせますが、最後まで読んでみて、その狙いにニヤリとしてしまうという、小気味の良い二編。日本では分冊して収録されましたが、可能なら、続けて読んでも楽しそうです。

    「黒い蘭」はウルフ外出編というのもあって、ユニークで楽しい仕上がりです。「ようこそ、死のパーティーへ」は、ウルフものの面白さを凝縮したような中編です。癖のある依頼人との面会→容疑者が一気に登場する→イレギュラーバウンドのように違う事件に発展する、という流れが定型をなぞっているのもさることながら、序盤に置かれたドタバタ劇が伏線となり、面白い調査シーンが描かれるのが実にスタウトらしい。犯人はやや分かりやすいですが、推理のポイントは鮮やかです。

    ・1944年中編集〝Not Quite Dead Enough〟
    ◎「死にそこねた死体」(「まだ死にきってはいない」)→『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』(論創社)に収録
    〇「ブービートラップ」→同上

     アーチー・グッドウィンは第二次世界大戦中、少佐になっていた――という事実に着目し、その時期の作品をまとめたのが、論創社の『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』です。このユーモラスなシリーズにも戦争の影がちらつく……のは事実なのですが、ユーモラスな筋運びは健在。中でも「死にそこねた死体」は、キャラクターを使った遊びと謎解きの企みが満杯に詰まっており、〈ネロ・ウルフ〉シリーズの中短編の中でも一、二を争う傑作。アーチーが久しぶりに事務所に戻ってみると、ウルフがダイエットを始めており、家は荒れ放題になっているという発端だけでも笑わされますし、『シーザーの埋葬』以降、アーチーの正ヒロインとして収まった感のあるリリー・ローワンのゲスト出演回でもあります。リリーが持ち込んだ依頼はやがて殺人に発展するのですが、そこでアーチーが取る行動が……衝撃(笑)。しかし、ウルフへの信頼に裏打ちされたその行動と、ウルフがアーチーへの信頼をにじませる一つのセリフに、グッときてしまう。それでいて、謎解きのポイントもシンプルかつ強力です。たった一つの発想で、容疑者枠が鮮やかに反転する。見事!

    「ブービートラップ」は手榴弾が爆発して大佐が死亡し、これが事故なのか殺人なのかを捜査することになる、というのが大体の筋。軍部の汚職に分け入っていく分、「死にそこねた死体」よりも、戦争の影は濃いのかもしれません。謎解きのほうはまずまず。

     さて、ちょうど原稿の半分なので、ここで分割します。続きは2週間後!

    (2024年8月)

第85回2024.07.26
「探偵」の意志 ~坂口安吾と松本清張~

  • 坂口安吾『安吾探偵事件帖 ――事件と探偵小説』(中公文庫)

    坂口安吾
    『安吾探偵事件帖
     ――事件と探偵小説』
    (中公文庫)

  • 〇告知

     本日、7月26日に拙作『バーニング・ダンサー』(KADOKAWA)が刊行されました。警察ミステリー×どんでん返しという惹句とタイトルからご想像いただける通り、ジェフリー・ディーヴァーっぽい作品をやりたくて書いたものです(読書日記の第44回と併読してもらうとちょっと面白いかも)。あとは、超能力者たち(作中では「コトダマ遣い」と呼んでいます)の戦いを書いたので、ドラマ「SPEC 〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜」へのオマージュも入っています。まあ、阿津川がやりたい放題やらせてもらった作品、という感じです。手掛かりと解決は、一応今まで通りのクオリティーを目指しているのですが、どうでしょうか。

    〇鮎川哲也のレアコレクション!

     光文社文庫から鮎川哲也『夜の挽歌 鮎川哲也短編クロニクル1969~1976』が刊行されました。光文社文庫への未収録短編を集めたもので、私も初めて読むものがたくさんあり、かなり楽しめました。光文社文庫から先んじて『黒い蹉跌』『白い陥穽』という倒叙ミステリー短編集が二冊刊行されており、その雰囲気を感じさせる倒叙ミステリーが大半で、他に、アリバイ物や密室物のレアなものが入っています。まずは倒叙ミステリーの話をすると、鮎川哲也の倒叙ミステリーは、ずっと犯人の視点から記述され、最後に数ページ、刑事が登場して、決め手を突き付けるという構成になっているものが多いのですが、この構成に説得力をもたらしている刑事たちの堅実な仕事ぶりが面白いと思います。鮎川哲也が描く刑事は本格ミステリー界でも屈指の有能さで、そうした刑事だからこそ、たった一つの決め手の提示が鮮やかに映える。徹底的にそぎ落とした構図が効いているのです。このタイプの作品だと、『夜の挽歌』の中では「水のなかの目」「冷雨」、「尾のないねずみ」が好きでした。しかも、「尾のないねずみ」は私が大好きな「ガスミステリー」(ガスを扱ったミステリーで、F・W・クロフツ『二つの密室』や日影丈吉『女の家』などいぶし銀の傑作が多い。ガスミステリーという言葉は多分ないと思いますが……)。

     密室ものである「地階ボイラー室」は推理の根拠が面白い作品で、最も感心したのは「ドン・ホァンの死」。犯人を指摘する決め手が、少し捻じれているのが好みです。ストレートにいかずに、誰が何を知っていたかを立体的に組み上げていくと、構図が見えるというのが良い。こうして集められたレアな短編十五編でこれだけ楽しめるのですから、いい加減、角川文庫の『鮎川哲也名作選』を集めて、一から読んでいくべきですね。『裸で転がる』しか読んでいない。あれは表題作が傑作。

    〇坂口安吾と「探偵」

     ここからは、だらだらと、坂口安吾の話をしてみます。5・6月に中公文庫から二冊の新刊『安吾探偵事件帖 ――事件と探偵小説』『不連続殺人事件 ――附・安吾探偵とそのライヴァルたち』が刊行されたからです。そこに描かれたいくつかの「探偵」という像を拾いながら、結局、この二冊が面白い、ということを語るだけの回ですが、結論を先取りするなら、それは坂口安吾を通じて松本清張の響きを聞く試みでもあります。

     ひとまずは『安吾探偵事件帖』の話から始めましょう。安吾のエッセイの中から、戦後の難事件について語ったものや、裁判の傍聴記などを収集した第一部(「Ⅰ 事件と裁判」)と、推理小説について論じたものを収集した第二部(「Ⅱ 推理小説論」)からなる本で、帯に「戦後の難事件を推理し、探偵小説を論ず/安吾探偵登場!」と謳われている通りの構成。まずはこれが面白かった。ここから安吾のエッセイにハマりました。

    「Ⅰ 事件と裁判」編は、難事件への推理、といいつつ、鋭い推理で犯人像に迫っていくというよりは、同時代的な事件について、ああでもない、こうでもないと安吾独自の視点で思索を巡らせるという内容です。「帝銀事件を論ず」では、「帝銀事件」そのものよりも戦争の影について話し、「孤独と好色」は「下山事件」について下山総裁自殺説を採った場合のスケッチという具合で、むしろ推理そのものより、最後の引用が効いている。「下山事件推理漫歩」は、江戸川乱歩・中舘久平との座談であり、基本的な事実は一緒に検討しているものの、むしろ、最後には他のエッセイと同じように新聞・マスコミへの批判へ流れていきます。「孤立殺人事件」は、「孤独と好色」とも響き合う内容で、一つの死を論証することでその孤立の構造を暴いていく内容でこちらも素晴らしいですし、事件の図面なども挿入されているのがますます探偵小説風。

     白眉は「フシギな女」という題名の、八宝亭事件に関するエッセイです。八宝亭事件というのは、このエッセイを読むまで知らなかったのですが、築地の中華料亭において四人が殺害された事件のようです。安吾はまず、1951年4月号の「新潮」に、この「八宝亭事件」に関して述べた「フシギな女」と題するエッセイを載せているのですが、すごいのはその続き。1951年5月号の「新潮」に掲載されたもので、これは先月号の原稿の内容について、東京新聞の小原壮助が寄せた批評に反論する内容なのです。「フシギな女」という題名に込められた皮肉と配慮について述べたうえで、いかに相手が自分の文章を読めていないかを滔々と論駁する安吾の筆の冴えに、何か黒い笑いが込み上げてくるシロモノです。現実の八宝亭事件に対する謎解きであるのはもちろん、先月号の安吾の原稿の意図に関する「謎解き」でもあるという構造がスリリング(5月号の原稿の口調が強気なのは、3月10日に共犯者の女性が逮捕され、その証言により、3月11日に主犯が捕まっていることを受けてのことなのかもしれません)。

    「Ⅱ 推理小説論」に収められた文章は、安吾の推理小説観が伝わってくるもので(人工性への拒否感や手掛かりに関する考え方など)、いかにして『不連続殺人事件』『安吾捕物帖』が生まれ得たかが分かってくる内容。特に、「推理小説論」が読めたのは嬉しかった。これは実は、2018年に新潮文庫から復刊された『不連続殺人事件』に収録された戸川安宣・北村薫の対談「安吾の挑戦」を読んだ時から気になっていたのです。ちょっと引用すると、

    〝北村 (中略)話を安吾の推理小説観に戻しますと、安吾の考えが分かりやすく書かれている「推理小説論」という文章があります。私は高校生の時に鈴木幸夫編『殺人芸術』に収められていたのを読んだのですが、この中で安吾は横溝の「蝶々殺人事件」が傑作だと書いています。なるほど「蝶々」はそんなにすごいのかと呼んでいくと、あろうことか、「一つ難を云えば、犯人の〇〇が……」と書いてあるんです。
    戸川 犯人を書いちゃった(笑)。
    北村 愕然としました。「おい、待ってくれよ」と。「本陣」よりも傑作だという犯人の名前を書いてしまっている。これは自分の記憶を改変しなければならないと思って、買ってあった「蝶々」に、登場人物表から適当な名前を見つけて、「犯人は誰々」と別の名前を書いておいたんです。さらに数年経って、記憶が薄らいだころに読んでみたら、なんと安吾が書いていたのと犯人が違うんですよ。
    戸川 安吾はどうしてしまったんでしょうか(笑)。意図的にそうしたんですかね?
    北村 いや、多分、思い込みで書いてしまったんでしょう。ぞろっぺえな安吾らしい。〟(『不連続殺人事件』〈新潮文庫〉、p.407~408)

     この対談では、むしろ、安吾のクリスティーに対する敬愛を引いてくるところ(この後の箇所)が面白いのですが、北村薫が話した「蝶々犯人取り違え事件」の衝撃が面白すぎて、やけに記憶に残っていました。その認識で「推理小説論」を読んでみると、確かに間違えている(笑)。トリックに対する評価とまとめは合っているのに、犯人だけが違う。このそそっかしさがどこか面白い。「推理小説論」の初出は1950年4月の「新潮」で、『蝶々殺人事件』についての分析は、1947年の「東京新聞」が初出の「推理小説について」の方が詳しい。トリックの難を三つに分けて具体的に記述したうえで、それでも、傑作だと述べるところが潔いのです(ちなみに、こちらでは犯人がバラされていません)。上の引用部でも「「本陣」よりも傑作」という表現がありますが、謎のために人間性を歪めるのが嫌いな安吾は、『蝶々』でも三つ気になったんだから、『本陣』はもっと気になったんだろうなと思わされてしまいます。

    〇『不連続殺人事件』とその周辺について

     さて、そんな安吾の実作について触れつつ、その周辺で書かれた文章を多角的に集めたのが中公文庫の『不連続殺人事件 附・安吾探偵とそのライヴァルたち』です。

     まずは『不連続殺人事件』の思い出話をしておけば、私が初めてこの作品を読んだのは中学生の時。角川文庫でした。初読時には、とにかく多すぎる登場人物と殺人事件の量に面食らい、読み進めるのに難儀したのですが、結末に至って狙いが分かり、「名作」であることは理解したという感想でした。とはいえ、そこに興奮が伴っていたかというとそうではなく、疲れの方が勝ったという印象ではありました。よく言われる、『不連続』に似たクリスティーのある作品を読む前でもあったので、衝撃もひとしおではありましたが。いわば、これが「懸賞付き犯人当て」だったという触れ込みで読み始めたのに、えー、そういう方向性の解答なの、という素朴な感情が基にあったという感じです。

     大学生の時に二回目(先ほど引用した新潮文庫の新版)、今回で三回目(中公文庫)。回を追うごとに、その精緻さへの評価が高まる感じがしています。二回目の時に、「犯人当て」として解が無限に広がりそうなところを、「心理の足跡」という楔を打っているのが巧いのだと気付かされ、伏線なども丹念に拾う作業が出来、それが楽しかった。また、新潮文庫版は、「読者への挑戦」となっている連載時の「附記」をすべて収めており、それによって、当時の素人探偵たちの雰囲気と安吾の挑発っぷりを味わえて、当時の雰囲気を嗅ぎ取れた気がしたのです(併録の戸川・北村の対談によると、これらの「附記」を収録したのは創元推理文庫版の『日本探偵小説全集』の功績が大きいよう。中公文庫にも「附記」はしっかり収録されています)。

     でもやはり、今回が一番面白く読めた。それはひとえに、附録の面白さだと思います。坂口安吾が平野謙・大井広介(廣介)・荒正人らと、読んでいる本を千切って回し読みし、解決編にあたる部分を読まずに全員で解答を出し合い、推理比べをするという「犯人当てゲーム」とでもいうべき遊びをしていたのは、安吾が「真珠」でも書いている通りなので有名な話ですが(どこで初めて触れたかは思い出せません。何かのエッセイか?)、そのゲームの内容と勝敗の記録について、「それぞれの言い分」を聞くことが出来るのがこの附録です。客観的な記録は戦争で燃えたらしいので、もうそれぞれの言い分の食い違いを楽しむしかないところですが、安吾以外の証言を拾っていくと、とにかく、安吾の推理が当たらなかったというところは大筋で正しそうな気がしてきます。一人だけ十五枚、二十枚も解答を書いて、短編小説ぐらいになっていた、というのも、いかにも安吾らしい。探偵行為そのものに没入し、熱をあげていく姿は、現実の世相・事件を巷談として語り倒していく巷談師の姿とも重なるように思えます。

     他にも、江戸川乱歩による『不連続殺人事件』の感想や、荒正人・江戸川乱歩・大井広介による「座談会・評論家の目」、埴谷雄高、佐々木甚一のエッセイも収録されています。埴谷と大井が『不連続殺人事件』の安吾に提出しにいく場面の描写などは、実に克明です。安吾がたった一つの質問をして、それへの反応が埴谷・大井の間で違う、というあたりのカット割りが巧い。ここで当たっていたのは大井なのですが、大井の推理は「メタ読み」、それも友人で手癖や好みを知っているがゆえの「作者読み」にすぎなくて、だからこそ、懸賞では四等の五十点に留まっているのでしょう(完全正答は九十五点)。メタ読みにも面白いのと面白くないのがあって、鮎川哲也の「薔薇荘殺人事件」に対する花森安治の解答なんかは、面白い例。作中のデータからの「メタ読み」であると同時に、推理小説を書く立場からはしっかり耳が痛いので、これは面白いと思うんですが、大井のは、こんな当て方されたらかわいそうだろと思ってしまう(笑)。

     それにしても、不思議なのは江戸川乱歩の文章です。『不連続殺人事件』について、クリスティーの作品を挙げるのはいいとして、「この小説の犯行動機と犯人についての着想は私のベスト・テンの高位にある作と酷似している」と言っているのは、どれのことを言っているんだろう。恐らく、海外作品のベスト・テンを挙げたのに関連していると思いますが、どれのつもりなんだろう。この評では「トリック」という言葉が広い意味に使われすぎていて、「作者が読者に仕掛ける」という一点のみで『不連続』の作中の雰囲気に関する工夫と、『アクロイド』の手法を同列に扱っているので、それほど真面目に考えてもいけないような気がするんだけど(ちなみに、傍証ではありますが、大井廣介の『紙上殺人現場 ――からくちミステリ年評』においては、陳舜臣『白い泥』に言及しながら坂口安吾『不連続殺人事件』に言及するくだりがあり、そこでは、まさに乱歩のベスト・テン作品から一作品の名前が挙がっています。この頃、その作品の「価値」ってそこだと思われていたんだと思うと、興味深い)。

     しかし、この附録に関しての熱の入れようはすごい。巻末の「関連年表」でようやく油断していると、『復員殺人事件』の「附記」が収録されたりしています(p.440)。珍しい。『不連続殺人事件』本文に描かれた「推理小説の世界」と、推理小説に耽溺し、探偵行為そのものに熱中していく「現実の安吾の世界」が響き合う、非常にユニークな構成になっていると思います。

    〇ここで松本清張の話題へ

     さて、ここでいったん、松本清張の話題へ脱線。「帝銀事件」や「下山事件」というと、松本清張自身も『小説帝銀事件』『日本の黒い霧』で扱った題材になります。で、あるがゆえに、安吾の『安吾探偵探偵帖』を読む時、私は常に松本清張のことを考えていました。しかし、実際の事件に対するそれぞれのスタイルはまったく異なる。それぞれが生きた時代の違いでもあるのかもしれませんが、スタンスの差が大きいのだと思います。安吾は巷談師であり、むしろ「探偵」行為そのものに耽溺し、いかに語るか、ということに関心があるように思えますが、清張のそれは「推理」として書かれることに意味がある。安吾の語りから覗くのは、彼の生きた「今」の姿と、そこに生きる人々の姿ですが、清張は推理によって自らの史観を紡ぐ。

     ヒントになるのは保阪正康『松本清張の昭和史』(中央公論新社)です。二〇〇六年に平凡社から刊行された同題の本を一部修正し、『松本清張研究』に掲載された二つの座談会を収録した本になっています。『松本清張の昭和史』においては、『昭和史発掘』と『日本の黒い霧』をメインテキストとし、松本清張の史観、その核心を暴いていきます。謀略・陰謀史観について正面から書いているのはもちろん、大岡昇平佐藤一の清張批判なども丁寧に拾い上げ、その実像に迫っていく足取りの確かさが魅力です(帝銀事件について清張が書いた文章を引用し、当時の清張の「恐怖心」を分析するところはユニークで、しかし、異様な説得力がある)。特にしっくりきたのは、「白鳥事件」に対する推理が説得力に欠けていることを指摘した場面でした。

    〝この結論は確かに興味のある見方だ。なるほどという感がする。しかし、もうひとつ説得力をもたないのはなぜか。松本の着想や推理には抜きんでたものがあるが、それにしても説得力をもつ史実が浮かびあがってこないことである。この点に私は戸惑いを覚えるが、このような着想や推理だけで事件を見ていくことに読者としてもいささか疲労を感じるのではないだろうか。
    『日本の黒い霧』にはそういう疲労を生む作品も含まれている。そうした作品には、謀略史観に近づく寸前で筆を止めて、それ以上は踏み込むまいとする必死の自制も感じられる。〟(『松本清張の昭和史』〈中央公論新社〉、p.179)

     証拠をきちんと列挙して推理や着想を導いていくにもかかわらず、それが一つの「史観」のもとに吸い取られていくことへの快感と違和感。『日本の黒い霧』に感じたスリルの正体は、これなのかもしれないと思わされました。

     翻って安吾の話をするなら、だからこそ、『安吾探偵事件帖』の「軽やかさ」に自分は惹かれたのだと思います。安吾にも当然主義主張があって、そのどぎつさもあるとはいえ、語り口そのものは軽妙であり、その「語り」によって自分たちの「今」の姿を描いていく。語りそのものに、あるいは探偵行為そのものに熱中する文章に、『三幕の悲劇』を千切って回し読みし、黙々と答案をしたためる安吾の姿を見ることが出来るような気がします。だから私は安吾のエッセイを好きになったのかもしれません。

     『松本清張の昭和史』の中には、『日本の黒い霧』を肯定的に評価した評者の名前として荒正人の名が挙がり、『閉じた海 社会派推理レアコレクション』(中央公論新社)に収録された「私小説と本格小説――対談・平野謙」では、松本清張と平野謙が対峙し、『日本の黒い霧』についても語る(清張が『点と線』以前の批評家たちの反応に対し、平野の前で恨み言を述べる場面もあり、どこかスリリングな対談にもなっています――ヒリヒリする、という意味で)。そういったメタ的な事情でも、「安吾探偵とそのライヴァルたち」と響き合っています。

     一方で、中公文庫『不連続殺人事件』の荒正人・大井広介・江戸川乱歩座談会では、清張作品について、乱歩は肯定的に、大井は否定的に受け止める場面があります(1957年11月の「宝石」に収録されているもので、『点と線』は連載中。刊行されるのは、その翌年のこと。なお、大井の清張評については、1960年から66年の「時評」である『紙上殺人現場』でその評価の変遷を丁寧に追えるので、併読すると楽しい)。複数のテキストが網の目のようにつながって、当時の人々の反応や関係が見えてくる、そういう体験を中央公論新社から復刊・再刊されている作品群が与えてくれています。

     坂口安吾のエッセイが読みたくなって、『安吾巷談』を買ってみました。文庫でも良かったのですが、2018年に刊行された三田産業版にしました。これも痛快な語り口に魅せられる本ですが、冒頭から「麻薬・自殺・宗教」という文章に接して面食らわされますし、延々と競輪の話をしている「今日われ競輪す」には笑わされます。しかし、「ストリップ罵倒」のようなどギツい風俗話を読むと、どこか都筑道夫『二十世紀のツヅキです』(フリースタイル)のキツさを思い出すというか。ところで、都筑道夫はモダーン・ディテクティブ・ストーリーとして『不連続殺人事件』を高く買っていて、解説も書いており……ありゃ、このままじゃ話題がループしてしまう。

    『安吾巷談』を買ったら、友人から「『安吾新日本地理』も面白いよ」と耳打ちされたので、さっそく購入してこちらも読んでみました。うん、さすがにこれも面白い。日本全国の土地について、ああでもない、こうでもないと語る「巷談」の一種で、大阪や仙台の住人は真面目に受け取ったら怒るのではないかという表現がざっくばらんに登場しているのに笑わされます。「探偵」行為の一種としてとらえるなら、古代史を読み解く「飛鳥の幻」「飛騨・高山の抹殺」は必読級に面白い。「安吾歴史三部作」の一つらしいので、残りの二作、『安吾新日本風土記』『安吾史譚』も楽しみに読もうと思います。まずは、探すところから。しかし、古代史に関して造詣が深く、それに対する推理の提示が面白いという点も、松本清張に通ずるところが――うわ、参った。これじゃ今回の原稿終わらない。こんなところでやめにしましょう。

    (2024年7月)

第84回2024.07.12
台湾発、私立探偵小説の精華 ~あるいは私的なイベントレポート~

  • 紀蔚然『DV8 台北プライベートアイ2』(文藝春秋)

    紀蔚然
    『DV8 台北プライベートアイ2』
    (文藝春秋)

  • 〇告知から

     前回の読書日記でうっすら告知した通り、泡坂妻夫『乱れからくり[新装版]』(創元推理文庫)の解説を執筆しています。泡坂長編の中では特に好きな一作なので、解説を任せていただき、光栄でした。自分と泡坂作品との出会いから、その作品の魅力、その中でも『乱れからくり』がいかに素晴らしいかについて、いつも通り暑苦しく語っております。ネタバラシありのパートも作りましたので、本文を読み終わった方、読んだことのある方は、そちらも併せて楽しんでいただけますと幸いです。ぜひ(なお、前回書いた通り、蓮沼尚太郎「第四の推理小説」を読む前に書いた解説ですので、参考文献には挙げておりませんが、リスペクトは捧げております)。

    〇雑誌の話題

    「小説新潮」7月号では「第37回山本周五郎賞」の決定・発表に伴い、受賞作である『地雷グリコ』の冒頭掲載と選評の掲載に加え(伊坂幸太郎の選評には、葛藤も評価も真っ直ぐに書いてあって、思わずため息が漏れました)、歴代受賞作家の競作が載っています。その中から米澤穂信「名残」に注目。大叔父が経営する宿の常連客が、お気に入りの牛乳をある時からぱったり飲まなくなる、という「日常の謎」なのですが、「日常の謎」に伴う問題意識である「なぜ本人に聞かないのか」という問いが静かにしかし重く響いてくる佳品でした。牛乳が主題になる点で、「おいしいココアの作り方」(『春期限定いちごタルト事件』収録)を思い出しますし、宿の描写もキリッとしていて心地よい。良い短編を読めて幸せ。それにしても、来年からはこの「歴代受賞作家の競作」の時に、青崎有吾にも声がかかる可能性があると思うと胸熱(改めて、青崎さんおめでとうございます!)。

    「オール讀物」7・8月号は「真夏のミステリー特大号」。冒頭からいきなり、『可燃物』の葛警部が登場する米澤穂信「お見通し」が掲載されていて、旺盛な仕事ぶりに驚き。居酒屋で「手柄話」を同僚から聞かされる、という冒頭から引き込まれ、次第に様々な真実が見えてくるいぶし銀の手つきが魅力。何より、居酒屋の描写が、とても良い。大山誠一郎「三匹の子ヤギ」は過去のコンビニ占拠事件を緋色冴子が解き明かす〈赤い博物館〉シリーズの一作ですが、どこか『可燃物』収録の「本物か」のアプローチを思い出せたところも、響き合いを感じてユニークでした。「有栖川有栖デビュー35周年記念トリビュート」企画では、一挙に三編の短編が掲載。今村昌弘「型取られた死体は語る」は企画中唯一〈江神二郎〉シリーズに挑み、推理研の雰囲気を活かしたメタミステリ―に仕立てていますし、織守きょうや「火村英生に捧げる怪談」は作者らしい怪談という切り口と火村ものの取り合わせが魅力的。フーダニットとしては青崎有吾「縄、綱、ロープ」の切れ味が素晴らしい。火村もののフォーマットの使い方や、ミステリーについての論の入れ方、その呼吸もエミュレートされているし、何より感動したのは結末の一言。火村ものの良い短編を読んだ時のため息が、見事に再現されているのです。

    〇函館物語四部作、感動の「フィナーレ」

     平石貴樹『室蘭地球岬のフィナーレ』(光文社)が刊行され、〈函館物語〉シリーズ四部作がこれにて完結。平石作品はいつも楽しみにしていて、落ち着いて文章を追いかけなければすぐに置いていかれてしまうほどのハードパズラーぶりを愛しているため(それは警察の捜査パートを地の文で淡々と記述していくこのシリーズでも無縁ではありません)、読む時には、えいやっと気合を入れて読まないといけません。しかし、本格推理好きとしては、それだけの価値がある作品群なのです。『だれもがポオを愛していた』『笑ってジグソー、殺してパズル』『スラム・ダンク・マーダー その他』はもちろん、『松谷警部と三ノ輪の鏡』『スノーバウンド@札幌連続殺人』が特に好き。さて、今回は〈函館物語〉シリーズについて簡単に全作紹介していくことにしましょう。

     第一作『潮首岬に郭公の鳴く』(光文社→光文社文庫)は本格推理の新たなる宝石ともいうべき傑作。三姉妹殺人事件、しかもその死にざまは芭蕉の俳句になぞらえられている、とくれば、マニアは横溝正史『獄門島』のことを思い浮かべるでしょうが、『潮首岬~』では幾重にも『獄門島』への響きが奏でられ、見事な本歌取りたりえています(解決編に至って、そんなところまで本歌取りするか! という驚きが幾つもやってくる)。驚愕の構図と動機に感服しきりの作品で、実に悪魔的。この時点で、解決編前に作中事件の年表が登場し、長い時間軸の中で起きていた犯罪の構図をジャン・ピエールが淡々と読み解くというシリーズの構図が出来上がっています。

     第二作『立待岬の鷗が見ていた』(光文社→光文社文庫)は、五年前から起きた複数の事件を巡る構図を読み解くミステリーですが、作中に登場する女性作家の設定が何よりもユニーク。「夏樹静子賞」という架空の賞を受賞している設定からして良いですが、彼女の小説を読み解くことによって見えてくるスリリングな構図が読みどころの作品。小説が現実の事件の手掛かりになるかも! という見せ方は、アンソニー・ホロヴィッツ『ヨルガオ殺人事件』をも思わせます。もちろん、行きつくところは全然違いますが。最後にタイトルの意味が明かされ、その心象風景を描くところが見事です。

     第三作『葛登志岬の雁よ、雁たちよ』(光文社)でも、長い時間軸にまたがる事件が扱われ、目次が示す通り、四つもの事件が複雑に絡み合う構図を見せてくれます。ある程度存在が宙ぶらりんな白骨死体が中心に据えられているのが特徴ですが、この作品の見所は、登場人物たちの心のすれ違いを、推理によって読み解いていくその試みだと思います。そう思って見ると、この〈函館物語〉シリーズの本質は、長い時間を描くことによって生じてくる心理の機微、動機の驚きなのではないかと思わされます。

     さて、そして迎えた第四作にして最終作『室蘭地球岬のフィナーレ』は、函館近郊で起きた放火事件と、その唯一の生存者である少年は記憶を失っている、というのを出発点にして、警察の地道な捜査行が描かれる作品になっています。それもそのはず、ジャン・ピエールはフランスに帰っており、事件の終盤まで現れることがないからです(舟見警部補が、ジャンがいずれやってきた時のため第一作目と同じように年表を書くシーンはちょっとかわいい)。捜査においてはかなり早い段階で少年が記憶喪失を装っている可能性まで疑われ、行き届いた検証によって事件の構図を明らかにしようとしますが、続発する事件の全体像がなかなか見えてこない。解決編で、私は思わずアッと膝を打ちました。中心にとても大胆なアイディアがあって、しかも、それを支えるために綺麗な伏線がいくつも敷いてある。その大胆なアイディアは、函館物語だからこそ映えるものです。うわっ、これはやられたな、と思わされましたし、ジャン・ピエールが登場してすぐに注目する手掛かりの解釈にも唸ります。手掛かりをはっきり出しておいて、その意味が分からない、という按配がとても巧い。これでお別れと思うと非常に寂しいですが、最後にまた一作目を想起するような悪魔的なアイディアを見せつけてくれて、大満足の一冊でした。一作目と四作目のトリックに、「あるアイテム」が共通して登場しているのもニヤリとさせられますね。

    〇私立探偵・呉誠の魅力

     ウツゼン『DV8 台北プライベートアイ2』(文藝春秋)が刊行されました。3年前に邦訳された『台北プライベートアイ』(文藝春秋→文春文庫)の続篇で、前作では台北市が舞台でしたが、今作では淡水に舞台が移り、事件の見せ方も大きく変わっています。

     まずは前作の話から。『台北プライベートアイ』は、元は劇作家であり、大学教授だった男、呉誠が50歳を機に「私立探偵」を開業するシーンから幕を開けます。台湾では組織的な「興信所」はあるけれども、個人による「私立探偵」は存在せず(もちろんアメリカのようなライセンスも存在しない)、だから自分は台湾で唯一、そして台湾で最高の「私立探偵」なのだ、と持論を展開する呉誠には笑わされてしまいますが、こうした一人称の語りこそが本書の魅力になっているのです。呉誠の語りは文庫版のあらすじでは「哲学的なモノローグ」と紹介されているので、難しい本なのか、と思う人もいるかもしれませんが、ユーモアとペーソスをまぶしながら、あらゆる事物に対して持論を展開する呉誠の語りは、哲学的でありながら、ところどころくすくす笑える「おかしさ」に満ちています。私が特に好きなのは、呉誠が隣人夫婦の子供である小学生二人に英語を教えるくだりです。長く難しい単語から教えた方が、あとで簡単な単語を覚える時の分かりが良い、として、あえて難しい単語を呑み込ませるのです。これだけならただ笑えるだけなのですが、その後、小学生らしい「覚えたものはすぐに使いたい」という感覚と、呉誠の持論が絡み合って、どこか暖かい光に満ちた情景がそっと置かれるのです。このあたりの筆さばきが、どうにも心地良い。ハードボイルド小説の魅力とは文体そのものであり、ひいては一人称の語りそのものです。ここには、その魅力が十全にあります。

     もちろん、事件そのものもユニーク。『台北プライベートアイ』のあらすじには「vs.連続殺人鬼」と大々的に書かれており、もちろん主題はそちらの事件になるのですが、まずは呉誠最初の事件となる浮気調査を丹念に描き、その描写の中で仕込みを少しずつしていくというプロットが面白い。中盤以降、いよいよ「連続殺人鬼」編が開始すると、絶体絶命のピンチに立ち向かいながら、真犯人との攻防を繰り広げることに。ここの味わいが、「劇場型犯罪」感も含めて、どこか懐かしい警察ミステリーの味わいがあって、非常に好きなのです。特に、組織とはいえ一枚岩ではなく、警察官一人一人に思惑があって、呉誠のことをまっとうに助けられなかったり、あの時自分はこんなことを考えていたんだよ、と本筋からはやや外れたところで種明かしがあったりと、キャラクターたちがプロットの中で魅力的に動いている感じがして良い。

     また、呉誠はパニック障害を抱えており、それが本書全体に「ネオ・ハードボイルド」の雰囲気をまとわせています。「ネオ・ハードボイルド」とは、①マチズモが弱体化し、より探偵自身のキャラクター性が重視された作品群を指す言葉で、多くの場合、②探偵自身がその身体や精神に何かしらの弱点を抱えています。マイクル・コリンズの描いた隻腕の探偵〈ダン・フォーチュン〉シリーズがその嚆矢といえます。③探偵が事件そのものと深いかかわりを持つようなプロットもその特徴で、個人的には、新本格ミステリー以後の本格ミステリーの系統・発展とも深いかかわりがある概念だと思っています(探偵そのものが何か「弱点」を抱えた存在として描かれることや、探偵が超人的な位置から引きずり降ろされるような一連の作品群のアプローチ、という点で)。

    『台北プライベートアイ』に感じたのは、このネオ・ハードボイルド的な楽しみでした。①呉誠自体のキャラクターの魅力、②呉誠がパニック障害という弱点を抱えながら探偵として奮戦し、それがプロットにも巧妙に使われていること、③(ネタバレにならない範囲で言うと)呉誠が事件を解くことが、プロット上の要諦になっていること。このように三要素が綺麗に揃っており、ドラマにも密接に関わっている。これほどまでに清々しいネオ・ハードボイルドを読めたのは久々で、嬉しさもひとしおです。

    〇2作目『DV8』について

    『DV8』とは作中に登場するバーの名前で、英語の「deviate」、逸脱する、という意味の単語です。こういう遊び心にもニヤリとさせられますが、作品の舞台も移っており、また新しい楽しみを提供してくれます。呉誠は前作の事件を受けて、台北市から淡水へと引っ越しており(訳者あとがきによれば、これは紀蔚然自身が淡水に引っ越したからだと言います)、新しい土地で新しい事件に巻き込まれます。バーの女主人、エマ姉さんから引き受けた依頼がきっかけとなり、20年前の連続殺人事件の謎を掘り出してしまう、その調査行そのものが面白い。

     今作の大きな特徴は、「DV8」というバーを中心に、呉誠の人間関係が発展し、広がっていくところです。一作目では、拠点が呉誠の事務所になっていますが、「最初の事件」の関係者との繋がりは、メインの事件である「vs.連続殺人鬼」編においては後景に退いてしまい、あまり顧みられません。一方、『DV8』においては、呉誠という人間を取り巻く人間関係が、バーを中心に築かれ、一つ目の事件の関係者が二つ目の事件では味方になったり、二つ目の事件がその人間関係によってさらなる謎を呼んだりと、一つの長編の中で有機的に生かされていきます。これが楽しいのです。たとえていうなら、これは東直己『探偵はバーにいる』の楽しみと似ているのです。

     事件そのものも、一作目とはまた違ったアプローチの見せ方をしています。過去の事件が題材になるからこその「ずらし方」が魅力でしょうか。

    〇私的イベントレポート

     さて、話題は2024年6月9日に新宿紀伊國屋書店イベントスペースにて開催されたトークイベント「台湾ハードボイルドと華文ミステリーの現在」へ移ります。控室に現れた紀蔚然さんはハットと髭が似合う紳士で、「東京という土地は煙草を吸うのが大変なところだね」などとニヤニヤしながら言うところは、さながら呉誠そのもの。そのため、トークの中心も、呉誠という存在や紀蔚然さんそのもののパーソナリティーを深堀するような形になりました。

    『DV8』の中には以下のような記述があります。

    〝おれは警察の捜査の過程を丁寧に追うタイプの小説が好きだ。スウェーデンのヘニング・マンケル、アメリカのマイクル・コナリー、それに日本の横山秀夫の三人がお気に入りの作家だ。彼らの小説にならって、おれも調査をするときには一歩一歩進むことにしている。〟(同書、p.44)

     同書の中に、島田荘司、ジョン・ディクスン・カーなどの名前が登場する個所もありますが、これらの作家が好きな登場人物は呉誠とはまったく別の人物であり、その扱いも軽いことから、ここに挙がった三人――マンケル、コナリー、横山――の扱いの方を重く見ます。私はこの記述をヒントに、紀蔚然さんの小説の好みや、どのように『台北プライベートアイ』二作の構想を膨らませていったかを聞き出したいと思っていました。

     今回の話の中で特に私が興味を惹かれたのは、「呉誠はパニック障害を抱えているが、そこには紀蔚然さん自身の体験が反映されていること」と、「ヘニング・マンケルが好きで、ミステリーによって犯罪や社会を描きたい」という熱意を話され、第三作の構想について明かした部分でした(全世界的な〇〇の活動についてミステリーの形で書く、ということをおっしゃっていましたが、興味を削ぐかもしれませんので、念のため伏せておきましょう)。

     アメリカのハードボイルドで好きな作品はあるか、という問いには直接の答えがありませんでしたが、別の話題の中で、ローレンス・ブロックの名前が挙がりました。ブロックの小説指南本の中で、ブロックが自身の活動の中で後悔していることの一つとして「探偵役であるマット・スカダーに年を取らせてしまったこと」を挙げている、というエピソードを話し、だからこそ、呉誠には年を取らせない、自分は年を取るけれども、五十歳のままでイメージしてほしい、と話されていました(「作品ごとに別の女性と恋愛をさせる」から、その説得力のためだとも冗談を飛ばしていましたが)。

     もうひとつ面白かったのが、横山秀夫の話題です。紀さんが机の上に広げているノートに、ずっと「横山秀夫」の文字があるので、この話はどうしても壇上で引き出しておきたかった。紀さんは「横山秀夫は自らが記者の経験を持つ作家で、それだからこそ、警察組織のことがいろいろと分かって読んでいて面白い」という点を指摘されました。この点は、『台北プライベートアイ』の魅力――前段で私が指摘した、組織とはいえ一枚岩ではなく、個々に思惑が存在し、それがキャラクターの魅力として現れる――にも繋がってくると思いました。横山秀夫のそうした長所を魅力と捉えるからこそ、あのように書かれたのだ、と。壇上で指摘すると、「横山さんほどきちんとしていない、私の書く警察はでたらめですよ」とはにかんでおられましたが。

     話を聞いているうちに、『台北プライベートアイ』はネオ・ハードボイルドだ、という前段の指摘は、修正する必要があるのではないかと思ってきました。「捜査の過程を丁寧に追う警察小説」を何よりも好む作家が、しかし、警察が捜査するのではなく、私立探偵を主人公にした理由は「一人称小説を書く」ことが主目的だったからだといいます。ミステリーの形で犯罪と社会を巡る物語を書きたい作家が、自らのパーソナリティーと向き合いながら作劇を進めていった結果として、ネオ・ハードボイルドが志向していた文学形式と近接していく。個性として現れていく。その過程が面白いと思ったのです。警察小説、ネオ・ハードボイルドの中間地点に『台北プライベートアイ』は位置し、そのどちらとも似ているようでいて、どちらでもない。だから面白いんだという話を、どうにか壇上でも言葉にして伝えさせていただいたのですが、どうだったでしょうか。

     心に残っているやり取りは、戯曲について伺った時のことです。紀さんは『台北プライベートアイ』を2011年に書く前は、戯曲を多数書いていたと著者略歴にもあるのですが、この戯曲の中に、ミステリーを志向したものはなかったのかどうかが気になったのです。答えは「一つあるが、戯曲でミステリーを書くのは非常に難しい。成功している例はアガサ・クリスティー『ねずみとり』くらいだ」「戯曲の会話劇の形で犯罪を書くことが上手くいかなかったからこそ、一人称の小説を書いてみようという思いが高まった」というものでした。やや自虐的にも思える答え方も呉誠の皮肉めいた語りを思わせますが、「一つある」と聞くと読みたくなってしまうのが、ミステリーマニアの哀しいサガ。

     あと心に残っているのは、『DV8』に登場する女性、「エマ姉さん」の名前は、ユングが提唱する「理想の女性」を意味する言葉「アニマ」からきているという話です。これと「作品ごとに違う女性と呉誠は恋愛する」という部分を組み合わせると、『DV8』の「訳者あとがき」にもある「第三巻では呉誠をダークサイドに落とす」という著者の言葉の意味が分かってきます。今、呉誠が幸せだからこそ……ということですね。うーん、呉誠がかわいそうな目に遭っていると、それはそれで目を引く私立探偵小説になりそうなので、期待が高まりますね。

     ところで、演題の後半部分「華文ミステリーの現在」については、担当編集からの事前情報で「紀さんは台湾や中国のミステリーはあまり読まれない」ということを伺っていたので、ほぼ一人で奮戦(といっても、自分の読書遍歴を語るだけですが)したのですが、幾つか具体的な作品名や作家名を挙げると、「陳浩基『13・67』は私も読んでいて、台湾・香港のミステリーのナンバーワンだと思っている」「『炒飯狙撃手』を書いた張國立とは友人で、あれも面白い」などの発言を引き出すことが出来て、ホッと一息でした。

     最後に開かれたサイン会では、自分もちゃっかり列の最後に並び、紀蔚然さんにサインを入れていただきました。かなり緊張しながら臨んだのですが、対話するうちに、作家としての紀蔚然像が色々と見えてきて、自分でも楽しいトークイベントになりました。

     以上、つたないながらイベントレポートをお送りいたしました。

    (2024年7月)

第83回2024.06.28
まるで憑りつかれたように ~小市民シリーズ長編完結、の話題のはずが~

  • まるで憑りつかれたように ~小市民シリーズ長編完結、の話題のはずが~

    米澤穂信
    『冬期限定ボンボンショコラ事件』
    (創元推理文庫)

  • 〇告知

     6月20日発売の「別冊文藝春秋」2024年7月号に短編「山伏地蔵坊の狼狽」が掲載されています。こちらは、「別冊文藝春秋」と「オール讀物」の連動企画で行われている「有栖川有栖デビュー35周年記念トリビュート」の一作として書かせていただきました。「別冊文藝春秋」は電子雑誌として購入していただくことが出来ますが、「WEB別冊文藝春秋」においても、300円の有料記事として販売されています。気になる方は、いずれの方法でも大丈夫ですので、ぜひチェックしていただければと思います。

    「山伏地蔵坊の狼狽」の元ネタはそのタイトルから分かる通り、有栖川有栖『山伏地蔵坊の放浪』(創元推理文庫)。探偵役の問わず語りで全てが進行し、語られた事件の真偽そのものも実は不明という点において、バロネス・オルツィ『隅の老人の事件簿』の唯一の正統後継者と言えるのが、この『山伏地蔵坊の放浪』だと思っています。といっても、今これを私が言ったところで、この二冊の解説者である戸川安宣の画期的な論考の二番煎じにしかならないのですが(この二つの解説は私の「安楽椅子探偵」に対する想像力の源泉であり、ひいては小学館の連作「隅野苑」の由来にもなっているのですが、その話は完結してからおいおい……)。

     というのはさておき、偏愛作だからこそ、トリビュートの題材に選ばせていただいた、というわけなのです。私の短編「山伏地蔵坊の狼狽」では、原典の頃から20年以上経った現代を舞台にして、「在りし日の山伏が、そのままの姿で彼ら常連客の前に現れる」という謎と、その山伏が語る作中作の事件――という二本立ての趣向で書かせていただいています。トリビュートということで、二次創作らしく、遊ばせていただきました。ちなみに、作中作の事件は死体の周囲を大量の蝶が飾っていたというもので、「ブラジル蝶の謎」のオマージュになっています。原典のネタばらしはしませんので、お気軽に遊んでいってください。

    「有栖川有栖トリビュート企画」は、5月までに一穂ミチ「クローズド・クロース」(オール讀物2024年6月号)、夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」白井智之「ブラック・ミラー」(別冊文藝春秋2024年6月号)の三編が発表されています。一穂は有栖川作品のキャラの中でも真野早織にスポットライトを当てて(『ダリの繭』に出てくるアリスの隣人です)、女子高での制服盗難事件を描くのが楽しい。夕木はどの作品の二次創作でもない、トリビュートならではの「日常の謎」を軽妙に書いて見せるのがユニークです。白井はタイトル通り『マジック・ミラー』がモチーフですが、原典の素晴らしいアリバイトリックに、白井らしい悪魔的発想が絡みついているのが見事。いずれも楽しい作品で、これから発表される作品も、いち有栖川有栖ファンとして大いに楽しみにしております。

     いつも、自分の雑誌短編の告知ならこんなに字数は使わないのですが……今回は有栖川さんの作品世界を使わせていただいて、書かせてもらった仕事ですので、他の作品も含めて長めに言及させていただきました。いわゆる二次創作を書くのは久しぶりだったので、「ならでは」の苦悩も色々あったのですが、ひっくるめて楽しんでいただけると幸いです。

    〇雑誌の話題から

    「ジャーロVol.94」では竹本健治「五色殺戮」の連載が開始。夢の中の殺人、という題材からして興奮してしまったのですが、経緯も凄い。完結したらインタビュー等でも言及されるのでしょうが、ここでも一度記録に残しておきたいので、巻末の「◎編集部より」から引用しておくと、

    〝この作品、じつは竹本氏が『匣の中の失楽』でデビューした直後に、とある評論家から「村山槐多が『五色殺戮』という長編を構想したまま夭逝してしまったのだが、ひとつ、竹本君、このタイトルで槐多の夢を果たしてみませんか」というご指名を受けて以来、長年積み残していた宿題だそうで、なんと構想45年!〟(「ジャーロVol.94」、p.266)

     45年! もうぶったまげるしかないのですが、なんとも人目を引くこのタイトルが、村山槐多の果たされなかった夢だというのが面白い。おまけに、本文の中に「内耳」が印象的に登場するあたり、これはもしや竹本の構想作品としてタイトルだけどこかで見た「内耳の構造」と関係があるのでは……? と邪推してしまいます。ともあれ、幻想ミステリーとして非常にワクワクさせられる滑り出しで、首を長くして続きを待ちたいと思います。

     倉知淳「風漂霊」は、なんと創元推理文庫『占い師はお昼寝中』のコンビによるシリーズ最新作。創元クライム・クラブで刊行されたのが1996年だから……これも、28年ぶりの新作? どっひゃあ。オカルトとロジックの掛け合わせが魅力のシリーズですが、綱渡りのような絵解きが今回も面白い。今後の動きにも期待したいところです。

     今号のジャーロでは、評論にも言及しなければいけないことがたくさん。新保博久⇔法月綸太郎往復書簡「死体置場で待ち合わせ」と杉江松恋「日本の犯罪小説 Persona Non Grata」がそれぞれ最終回。前者は最後の最後に多重解決、安楽椅子探偵、特殊設定ミステリーなどをキーワードにしながら、芦辺拓『乱歩殺人事件 ―「悪霊」ふたたび』の企みにならって、新保博久が坂口安吾『復員殺人事件』の「断筆」の理由を推理してみせるのが面白い。同往復書簡は書籍化予定もあるようなので期待したいところ。後者は宮部みゆき『火車』を冒頭に取り上げ、最終的に〈杉村三郎〉シリーズまで辿り着く。『日本ハードボイルド全集7 傑作集』の解説においる桐野夏生に関する指摘と、最後に接続してみせたところにしびれました。……かと思えば、佳多山大地「名作ミステリーの舞台を訪ねて」の主題も宮部みゆきの『火車』という、この交錯ぶりも楽しい。

     最後に、「謎のリアリティ」第58回では、片上平二郎さんが拙著『黄土館の殺人』を取り上げてくださっています。ありがとうございます。――あらゆる評論・書評と距離が近くなりすぎても悪いですし、あるいは、書かれていることに縛られるようになっても良くないのかなという思いもあり、最近は自分が言及されている評論や書評に一つ一つお礼を言わないようになってしまったのですが……これについては言及しておきたかった。『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の探偵作家たち』(南雲堂)における片上さんの「あらかじめ壊された探偵たちへ ―阿津川辰海論」を拝読して、「この後、私が何を書いてもいいんだな、いいようにしてくれたんだな」という思いが込み上げてきて、これが作家論の力なんだなと思わされたのです。同時にいち読者としても、この後何を書いてくれるのか気になっていた、というか。『黄土館』のあとがきにもある通り、プロットはだいぶ前に完成しており、本文を書き上げた後に(23年4月)、献本をいただいていた『現代ミステリとは何か』を読んだと記憶しているので、『黄土館』がどう受け取られるかはある意味ずっと気になっていたのでした(偶然、起こってしまった事象も含めて)。

    〇小市民シリーズ、「四部作」完結!

     24年4月、米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』(創元推理文庫)が刊行。小市民シリーズの「四部作」はこれまで、『春期限定いちごタルト事件』『夏期限定トロピカルパフェ事件』『秋期限定栗きんとん事件』と発表され、その後に、短編集である『巴里マカロンの謎』(いずれも創元推理文庫)が刊行されています。四季をそれぞれあてがわれた四部作と、間に短編集が一つ、という形になっています(加えて言うと、短編についてはまだまだ未収録のものが残っており、桑港サンフランシスコクッキーの謎」「羅馬ローマジェラートの謎」「倫敦ロンドンスコーンの謎」の三編が、それぞれ「ミステリーズ!」や「紙魚の手帖」に掲載されています。いずれ短編集の二冊目も出る、のでしょう。私は、趣向の面白さに膝を打った「羅馬ジェラートの謎」が大好きです)。

    「古典部・小市民」(発表)以後の世界を生きる私たち世代にとって、青春ミステリーのメルクマールとして無視することが出来ない存在であるのが、米澤穂信です。あえて大袈裟に言ってしまいますが。その中でも、〈小市民〉シリーズの動向からは目を逸らすことが出来ませんでした。キャラクターの特異性を使うことによって、ミステリーの可能性をどこまで拡張することが出来るか、という試みに毎回刺激を受けていたからです。もちろん、「小市民として生きたい」という標語と、そのために小鳩と小佐内がどのように振る舞うか、という主題はキャラクター小説、青春小説として充分読み得るものですが、ここでは、その標語と振る舞いがミステリーとしてのトリッキーさにも直結していると思ったのです。可能性というとまたしても大袈裟かもしれませんが、『巴里マカロンの謎』で犯人当てからハードボイルドまで、様々なプロットの作品を配置したことや(もちろん未収録の短編でもその企みは続いていると思います――なぜなら、私が「羅馬ジェラートの謎」に感動したその核心は、「そのテーマ」を「この形」に仕立てたことそのものにあったのですから)、倒叙(あるいは「小さな犯罪」小説)である「シャロットだけはぼくのもの」(『夏期限定トロピカルパフェ事件』収録)や『九尾の猫』を思わせるようなミッシングリンクもの(『秋期限定栗きんとん事件』)など、シリーズを振り返ると様々なミステリー上のサブジャンルがずらっと並んでいることを考えると、満更大袈裟でもない気がします。いや、もちろん、〈古典部〉シリーズにその趣向がないとは言いません。例えば、「やるべきことなら手短に」『遠まわりする雛』収録)の真相は、折木奉太郎というキャラクターの性格なしには成立しない。逆に、真相がキャラクターの性格を引き立てる効果を持っているとさえ言えます(アニメ「氷菓」において、シリーズ第四作の短編集に収録された「やるべきことなら~」は第1話Bパートのエピソードとして再編され、シリーズ第一作『氷菓』の事件が本題に入るよりも前に解決してしまいます。もちろん、作中の時系列から考えれば自然な事ではありますが、そのシャッフルにより、事件がキャラクターを描き、視聴者に印象付ける、という効果はより鮮明になりました)。

     なのですが、〈小市民〉シリーズにおいては、もっと積極的に、キャラクターがミステリーの趣向に奉仕しているとさえ感じられるのです。根っこを同じくしつつ、さらにミステリーとしてレベルの高い試みをしている、というか。「そのために」創られたキャラクターの不自然さなど一切ないのに、彼らならこうするだろう、こう振る舞うだろう、という想像とミステリーとしての意外性が完全に一致する地点に真相がある。この美しさは、並大抵のことでは辿り着けません。私がこの感覚に辿り着いたのは、『夏期限定トロピカルパフェ事件』の結末を読んだ時です。とあるジャンルのミステリーであることを前面に出しておきながら、その裏面にぴったりと、別の企みが潜んでいる。『秋期限定栗きんとん事件』も同様の想像力に基づいています。もちろん、その着地点はまったく別のところにあるのが、すごいところですが。

     さて、そんな感覚を持っていたところに迎えた『冬期限定ボンボンショコラ事件』ですが……これがまた、すごい。「あるジャンル」のミステリーであることはあらすじでも巧妙に伏せられており、これ自体、シリーズ読者への贈り物として紡がれたものであり、「配慮」なのだと思うので、そこは私も伏せますが、まずはこれが非常に稀有な「交通事故ミステリー」であることを述べておきたい。

     交通事故の因果関係を捜査する課だってこの世にはあるのですから、題材になってもおかしくはないのですが、案外作例は少ないのです。もちろん、米澤自身に「ねむけ」『可燃物』収録)という作例があり、午前三時に発生した交通事故について、複数の証言が奇妙にも一致している……という謎を描いてみせている、のですが。本書と同じように、「準密室状態の道路から車が消失する」という謎だけ取り出せば、ヒュー・ペンティコースト「子供たちが消えた日」(『短編ミステリの二百年〈3〉』収録)と同様ですが、トリックやアプローチはまるで異なっています。

     交通事故が主題になる、という点では、東野圭吾『天使の耳』(単行本刊行時のタイトルはそのものずばり『交通警察の夜』でした)、愛川晶『夜宴 美少女代理探偵の事件簿』、短編ですが夏樹静子「三分のドラマ」(『乗り遅れた女』収録)などが思い出されるところ。『天使の耳』はトリッキーで謎解きとドラマのバランスが良く、交通事故ミステリーの可能性を総覧した感がある名著ですし、『夜宴』は「死んだ男」が運転した車が空を飛び事故を起こしたという大胆な謎が扱われる作品。それでいうと、「死んだ男」が運転したという点では、ジョン・ディクスン・カーの『絞首台の謎』も車ミステリーと言えるのか(カーだけに)。夏樹静子「三分のドラマ」は、轢いてしまった男が道路に倒れていた、というのが発端のシチュエーションで、死亡にかかわる因果関係が不明瞭なシチュエーションが見事です。あるいは、変わり種として、台湾の作家である凌徹「幽霊交叉点」(「ミステリーズ!vol.29」所載)を挙げてみてもいいかもしれません。バイクに乗っていたライダーが、左手の道から現れた自動車に轢かれた――と思った次の瞬間には、その自動車が右にいた。自分をすり抜けていったとしか思えない。あれは幽霊なのではないか、というのが発端の謎なのですが、どのような事態が起こって不可思議が生じたかを解きほぐす謎解きは、まさしく「不可能犯罪」の魅力であると同時に、優れた交通事故ミステリーである証左です。

     また、漫画「ハコヅメ」は泰三子による優れた警察ミステリーですが、その10巻には、第81話「事故防衛本能」という交通事故ミステリーが収録されています。わずか16ページの中に仕込まれたツイストの数々にはため息が漏れるようです(タイトル回収も見事)。交通事故×漫画という点では、「交通事故鑑定人 環倫一郎」(原作・梶研吾、漫画・樹崎聖)も見逃せない。舞台がアメリカなので日本と少し事情は違いますが(しかし、漫画の形で次々登場するアメ車を楽しむことが出来るとも言えます笑)、全18巻、ひたすらに交通事故の裏に隠された真実を暴き出して行く珠玉の交通事故ミステリーです。最後に、全編がその趣向で貫かれているとはいえませんが、小島正樹『扼殺のロンド』も、扉の開かない事故車の中で二体の死体が見つかるという事件のトリックが衝撃的な作品でした。

     閑話休題。『冬期限定ボンボンショコラ事件』の「交通事故ミステリー」としての特徴は、避け得ない事故として、あるいは企まれた事件として、どちらの可能性もある事件として常にスリリングに描かれ続けるところにあります。その宙ぶらりんの構造がキャラクターの行動や思考そのものに影響を与え、物語を駆動している。それ以上のことを言えないのが歯がゆいのですが、真相そのものよりも、ある人物の特異な反応が疑問を生むところなど、細かな処理の巧さに感嘆します(加えて、「交通事故ミステリー」というキーワードで一つ付け加えておくなら、「情報密度」の交通整理の仕方も『冬期~』は巧みです。交通事故ミステリーでは専門用語や「開けた空間」における事故の細かい状況など、どうしても事件の情報量が過密になる傾向があるのですが、その情報の切り分けと整理が巧みで、読んでいて一切混乱しない。さらに――この「情報密度」は、読者の心理にある「陥穽」を作るためにあえて選択されたのではないか、とさえ思ってしまいました。交通事故に関わる細かい情報を読者に「読ませる」ために。他の情報〈伏線〉については目に留めてもらいつつ「流させる」ために)。

     そしていよいよ真相に辿り着いた時――私の頭をよぎったのは、ある推理小説家の名前でした(その推理作家、日本の作家の名前は、松浦正人の解説における「ネタばらし」部分に明確に刻印されていますので、ご参照を)。その作家が自家薬籠中の物としていた「ある趣向」が、米澤の筆によって完全に再現されている――それも、私の主張では、「キャラクター小説」として。なぜなら、ここではキャラクターと事件が、読者に与える「情報密度」の処理速度に対して、適切な負荷をかけさせるような配置がされているからです。特に驚かされるのはあるアイテムの使い方です。徹底的なまでにキャラクター小説的に書かれた「それ」が、ミステリーの企みに奉仕してしまう。私が言ったのはこれのことです。キャラクターに対する想像力とミステリーの意外性が完全に一致するところに、真相がある。それが「ある趣向」のために使われた。それだけで、私にとってこの小説は「事件」とも言える破壊力を秘めていたのです(あるいは、このシリーズと比較して面白いのは、むしろ宮部みゆきの〈杉村三郎〉シリーズかもしれません。名探偵であることを辞めて小市民をめざす「元探偵」の小鳩と、第一作から第三作までの事件を受けて「私立探偵」となる杉村三郎。一方は挫折により探偵を捨て、他方は挫折により探偵になる。〈小市民〉シリーズの各編の中に、ハードボイルドの骨法を意識したような作品があることも見逃せません)。

     傑作だ――という紛れもない思いを、ここまでしたためてきたつもりです。しかし――どうしてか――この原稿において、米澤穂信の話をするのはここまでになります。いや、実際には同じ話なのですが、決して同じ話には見えないでしょう。

     私はこの本を読み終えた瞬間から、正確には、松浦正人による解説を読み終えた瞬間から、ある疑問に憑りつかれてしまったからです。これからするのはその話です。その話だけです。その疑問というのは、

     ――蓮沼尚太郎って、誰だ?

    〇「第四の推理小説」について

     先に言えば、私はこの先の文章を書くべき人間ではないのかもしれません。もっと「事情通」の人がいるのだろうし、ここで私が調べるようなことは、「事情通」の人にとってはあえて改めて粒立てるようなことでもないのかもしれない。なので、私は1994年生まれの、何も知らず、この記述に行き当たった人間の話として、少なくともこの二カ月蓮沼の名に憑りつかれた一人の若造の話としてしか、これを書くことが出来ません。

     加えて言えば、『冬期限定ボンボンショコラ事件』のレビューにおいては伏せた、「ある推理小説家」の名前を、ここから先では明かします。明かさないと、話にならないからです。その名前を目にしたところで、『冬期~』の真相に直結するとは到底思えないのですが、念のため、同書についてなんの予断も持ちたくないという場合は引き返してください。

     松浦正人の解説の末尾には、このような記述があります。

    〝参考文献 蓮沼尚太郎「第四の推理小説 ―第二稿―」《蒼鴉城》第六号(一九八〇年/京都大学推理小説研究会)所載〟(『冬期限定ボンボンショコラ事件』、p.431)

     おいおい、またしても京都大学推理小説研究会かよ、という思いが即座に湧きました。小説家だけでなく、こと日本のミステリー界の中にいると、どんなタイミングでも突き当たります。でも、この参考文献の記述がやけに心に残ったことも事実。どのタイミングかは分からないけれど、おそらく、学生が書いた文章が、参考文献として挙げられているという不思議。もちろん、同会の出身者である巽昌章法月綸太郎などの評論活動を思えばさほど不思議なことでもありません。あるいは、学生として活動をしていた人たちに目を向けるなら、京都大学推理小説研究会出身のとある編集者から、会員が書いたという「初期クイーン論」連作のコピーをもらったことがあり、その内容に恐れをなした経験もありますし、先日文学フリマで購入した久納淳生『ダンガンロンパFF 雨の記号、そしてハッピィ・バースデイ』というダンガンロンパの二次創作犯人当て小説は、もちろん、「ダンガンロンパ」文脈の犯人当てとしても高い完成度を誇りつつ、「ダンガンロンパ」論としても出色の出来栄えだったのです。そうした、外部からでも分かるレベルの高さを知っていたからこそ、学生が書いた評論がこうした形で参照されることもあり得るだろう、不思議ではない、と思ったのでした。なんとかして読んでみたい――国会図書館で調べてみて、《蒼鴉城》はまだ書誌情報の整理中、という記述を見かけたので、『冬期限定ボンボンショコラ事件』を読んだその日の夜は、これで考えるのをやめたのでした。

     次に動きがあったのは、5月のある日のこと。この日は、ある目的のために、東京創元社の会議室に籠って、東京創元社の雑誌(「創元推理」「ミステリーズ!」「紙魚の手帖」)をひたすらめくり、とある目的で書誌情報を作るという楽しい(苦しい)仕事をさせてもらったのですが(※完全に自分の意志で申し出たものですので、ご心配なさらず)、そこで大きな発見をすることになったのです。

     それが、「創元推理17」に掲載された蓮沼尚太郎の「第三の推理小説―ホワイダニットWhydunit-について 名探偵システムの完成」という評論でした。第4回創元評論賞において佳作を射止めた作品です。思いがけず目にした蓮沼の名前に驚くと同時に、「第三」「ホワイダニット」という文字列にも衝撃を受けました。その瞬間、私は完全に確信したのです。「第四の推理小説」とは、恐らく「ホワットダニット」に関する論考に違いない。だからこそ、松浦正人は今回の解説において「第四~」を参照したのだ。そして、その主題とは恐らく、泡坂妻夫なのだ、と。事後的に答えを知ってしまった私が、いくらここでこんな「推理」を書いたところで、その衝撃は伝わらないでしょう。太字にしてみせたところで同じことです。しかし、その瞬間の私にとっては、まさに雷に打たれたような衝撃だったのです。なぜならば、「第四の~」の「第二稿」が書かれたという「1980年」と言えば、泡坂妻夫がまだ『11枚のとらんぷ』『乱れからくり』『湖底のまつり』『亜愛一郎の狼狽』しか本を刊行していないはずだからです。1980年に単行本になった『花嫁のさけび』『煙の殺意』『迷蝶の島』にこそ目を通していたかもしれませんが、ネットで確認すると、『亜愛一郎の転倒』さえ1982年だという。泡坂流ホワットダニットの一種の象徴的作品(純粋にそれ以外に謎を含まないようにみえる、という点において)であるはずの「歯痛の思い出」(『亜愛一郎の逃亡』収録)さえ、まだ出ていない。1980年? あまりに早すぎる。

     私は東京創元社の会議室で、ほとんど妄執に憑りつかれたようになって、「創元推理」のページを繰ったのです。すると、他にも二つの評論が見つかりました。「第四の~」も含めてまとめると、次のようになります。

    ・1980年「第四の推理小説 ―第二稿―」《蒼鴉城》第六号(京都大学推理小説研究会)所載
    ・1997年「第三の推理小説 ―ホワイダニットWhydunit―について 名探偵システムの完成」創元推理17号 ぼくらの愛した二十面相(東京創元社)所載 ※第4回創元推理評論賞佳作
    ・1998年「第二の推理小説 ―ハウダニット Howdunit-について ―HowdunitからWhendunit、Wheredunitへ―」創元推理18号 丑三つ時から夜明けまで(東京創元社)所載 ※第5回創元推理評論賞佳作
    ・1999年「第一の推理小説 ―フーダニット Whodunit-について ―謎から矛盾へ―」創元推理19号 夢のような探偵小説について(東京創元社)所載

     この時点で、私の手元にはまだ「第四の~」がありません。しかし、「第三の~」を読んで、そのテーマが連城三紀彦のホワイダニットであったのを見た瞬間、「第四の~」が同じく幻影城出身である泡坂妻夫の話であることを確信します(評論の末尾においては、いよいよその証拠が現れます)。しかも「第三の推理小説」は極めて卓抜した連城三紀彦論だったのです。『飾り火』という「恋愛小説」として書かれた作品の分析を経由して、「推理小説」として書かれた〈花葬〉シリーズの特質を炙り出していく筆もさることながら、都筑道夫のいう「ホワイダニット」と連城三紀彦作品の「ホワイダニット」を切り分けてみせるあたり手さばきに惚れ惚れとするようです。連城作品とは無縁に思える副題通りの「名探偵システム」という語に辿り着くあたりもユニークで、とにもかくにもこれが読めたことが嬉しいと思える評論でした。

    「第二の~」はハウダニット論として、精緻化した形での密室分類にも挑んでいる内容ですが、新保博久「高木彬光『刺青殺人事件』はアリバイ崩し小説である」(連載エッセイ「シンポ教授に訊け!」内の一回)について言及するのも面白い。密室とアリバイの距離の近さについて、私は東川篤哉作品を読むうちに自分の中で精緻化したのですが、ここに明晰に語られていてシャッポを脱ぎました(古い表現……)。「第一の推理小説」はほとんどがクイーン論、法月綸太郎論とでもいっていい内容で、これまた垂涎。『一の悲劇』土屋隆夫のある作品を……というのをこれほどハッキリ言った例は初めて見たかも。四、三、二、一と、学生時代から足掛け20年にもわたる論が、「フーダニット」のもとに収斂していく結末は、見ていてため息が漏れるようです。

     こうなれば、「第四の~」を読みたくなるというもの。ですが、すぐには読みだせなかった。というのも、私は7月に刊行される泡坂妻夫の『乱れからくり[新装版]』(創元推理文庫)の解説を引き受けていたからです。もし「第四の~」を読んでしまえば、私が書こうと思っていることは、きっともう出力できなくなるだろう。それでいいと言えばいいのかもしれませんが、『乱れからくり』を再読(実をいうと、四回目)した時の感覚は、自分の中できちんと形にして届けておきたい。そこで、解説の原稿を書き終えてから、そのタイミングで「第四の推理小説」ってお持ちでないですか? と担当編集さんに聞くことにしました。結局、『冬期限定ボンボンショコラ事件』の解説者である松浦正人さんがコピーを送ってくださり、遂に読むことが出来ました(松浦正人さん、その節はありがとうございました)。

     読んでみると、予想通り、泡坂妻夫のホワットダニットについて論じた文章であり、さらに驚くべきことには、『狼狽』『転倒』『逃亡』の三作で二十四編ある〈亜愛一郎〉シリーズについて、「全十七篇のうち」という記述があります。短編の初出誌の名前まで、丁寧に書いてあります。やはり、『転倒』刊行前なのです。「歯痛の思い出」のタイトルも、その列挙の中にはありません(しかし、この「第四の~」を読むまで「紳士の園」『煙の殺意』収録〉のことを失念していたのは、我ながら迂闊すぎました。そうでした、あれはまさにホワットダニットです)。泡坂以前のホワットダニットの作例について、様々な例を挙げながらも、それぞれが別の主題を含んでいることを指摘していくあたりの手際などもさすがです(チェスタトンならアレとアレ、という指摘にも唸りましたが、より深く頷かされたのは、ケメルマンから「九マイルは遠すぎる」ではなくアレの題名を挙げているところ!)

     ホワットダニットとは、「第四の~」にある通り、「何が行われたのか」が主題となる小説といえる。そこでは犯罪そのものの存在さえ隠蔽され、種明かしにおいて、伏線によって導かれることになる――。これが蓮沼の論の大枠ですが、感覚的な話を付け加えるなら、私が泡坂妻夫のホワットダニットに衝撃を受けたのは、一見ナンセンスな不条理劇に見えた出来事が「伏線」として立ち現れ、首尾一貫した「論理」があったことが見えてくるという、その絵解きの面白さにありました。一瞬だけ本論に立ち返るなら、〈小市民〉にはまさに、それがあったのです。そして、米澤が使う「論理」は、キャラクター(たち)の行動原理そのものなのでした。そこにこそ、私はシビれたのです。思えば、米澤穂信「夜警」『満願』収録)における伏線の切れ味と、それによって「導かれ」た事件の真実を読んだ時にも、私の脳裏には泡坂妻夫の名がよぎりました。

     米澤はたびたび泡坂への敬愛を示し、私の手元にある創元推理文庫の『煙の殺意』第6版(2017年)には米澤穂信による推薦文が掲載されていますし、同文庫の『奇術探偵曾我佳城全集』では解説を執筆しています。その解説には、こんな表現があります。

    〝――佳城が奇術を演じるのではなく、カード自身が勝手に変化したり、消えたりしているとしか見えない。それには大変な技術を使っているのだと想像されるが、もう一つの佳城の芸は、その技術を完全に消し去っているのだ。従って、佳城の奇術にはいささかの嫌味もなく、ただ見ていて不思議で楽しい限りだ。(「シンブルの味」)
     まさに、そうなのだ。この一文が泡坂ミステリの魅力を過不足なく説明しているのは、偶然ではない。ここで描かれている芸の在り方は、泡坂妻夫にとって一つの理想だったのだろう。そして泡坂は練磨し自らの小説を理想に近づけて、「技術を完全に消し去って」、「ただ見ていて不思議で楽しい限り」の小説を書いていったのだ。なんときれいなことだろうか。私は泡坂妻夫を敬愛している。こんな作家はほかにいないと思う。何を読んでも嬉しいばかりだ。〟(同書下巻、p.502~503)

     そう、「シンブルの味」の件の文章が魅力的に映るのは決して「偶然ではない」。なぜなら「シンブルの味」こそは、佳城の、ひいては泡坂の奇術観、あるいは「トリック」に対する感覚がミステリーの形を取った名品であるからです。佳城と対置されたカール岡野という奇術師のキャラクターと、佳城が披露する「トリック」についての昔話が、巧妙に「芸」というものの本質を描き出していく。そういう短編の一節に目を留めて、限りない敬愛の念を表現したのが、今引いた一節です。

    「なんときれいなことだろうか」。この言葉は〈小市民〉シリーズに対する私の感動とも響き合っているように思います。「きれい」としか言いようがない。言いようがないからこそ、この文章は米澤穂信への敬愛の念を示す文章としてしか存在出来ない。キャラクターの「論理」と真相の意外性が一致するところに、泡坂が拓いたホワットダニットという小説形式の特異性として、真相が存在する。だからこそ、この小説は「きれい」なのです。たとえそのキャラクターたちの「論理」に、ゾッとするような意地の悪い悪意が覗く瞬間があるとしても。蓮沼尚太郎の評論を通じて、その「きれい」さへの解像度が一つ、自分の中で高まったような気がしたのでした。

     というわけで、長い長い旅はこれにて終了。今回の冒頭で紹介した私の短編のタイトルが「山伏地蔵坊の狼狽」だったことを思えば、これで「狼狽」という出発点に帰ってきたと言えなくもない、ですね(そうだろうか?)。

    (2024年6月)

第82回2024.06.14
「トゥルー・クライム(実録犯罪)」ものの隆盛 ~話題は蛇行しながら~

  • 「トゥルー・クライム(実録犯罪)」ものの隆盛 ~話題は蛇行しながら~

    ダニエル・スウェレン゠ベッカー
    『キル・ショー』
    (扶桑社文庫)

  • 〇告知から

     6月12日に講談社から『ミステリーツアー』が刊行されました。MRC(メフィスト・リーダーズ・クラブ)のLINEを通じて配信していた書評企画を書籍化したもので、執筆陣は青崎有吾、伊吹亜門、似鳥鶏、真下みこと、そして私の五名。それぞれ書評が15本で計75本が掲載され、「カーテンコール」という書き下ろし部分もあります。私の書評では、次に書評して欲しい本を3〜4択のアンケート形式で読者に投票してもらい、次の選書を行っていたため、そこで最多得票とならず、書評を書けなかった計31冊を「カーテンコール」でまとめて紹介しました。ということで、ぜひ読書日記ともども、よろしくお願いいたしますね。

    〇雑誌の話題から

     ハヤカワミステリマガジンの7月号は「令和の鉄道ミステリ」特集。注目したのは霞流一「スティームドラゴンの奇走」! タイトルから、霞の傑作鉄道ミステリーである『スティームタイガーの死走』(角川文庫)を思い出す人も多いでしょう。そう、この二作には幻の蒸気機関車である「C63」が共通して登場するのです。かたや、玩具メーカーの社長が会社の宣伝のために完全再現させたもので、探偵役は鍼灸医師である蜂草輝良里(スティームタイガー)、かたや、中古車販売会社で成功した社長とその二人の息子が鉄オタの夢として再現したもので、探偵役は私立探偵の紅門福助(スティームドラゴン)という設定の違いはあるけれども。

    『スティームタイガーの死走』は、診療所の人体解剖図みたいに、全身の筋肉や骨がむき出しになっているために「アカムケ様」というあだ名がついてしまう、奇っ怪な死体を巡るトリックや、鉄道ミステリーらしい趣向の盛り込みが素晴らしく、文庫本で250ページ弱という短さに楽しさがてんこ盛りにされた傑作でした(大胆なトリックや犯人指摘の意外性だけでなく、「額縁」にも企みがあるところがニクい)。「スティームドラゴンの奇走」は短編サイズながら、またも密室、それも首切り死体という趣向で、意外な鉄道トリックで魅了してくれます。ほんと、この一編のために買ったといっても過言ではない。

     令和の鉄道ミステリーの名手・山本巧次『開化鐡道探偵』『急行霧島』などでは昔の鉄道を扱って鉄道ミステリーを仕立てていますが、今回の短編「幸運の境界 線路上の死角」では「令和十X年」を舞台としています。雑誌内の「解説」も自ら筆を執り、令和の防犯システムのおかげで単純な犯罪が難しくなってきたことに言及し、「防犯システムを回避するか、逆手に取る」ような仕掛けを「捻り出」す必要があると述べています。なるほど、この短編でも、犯人の計画性の問題をきちんと考慮に入れたうえで、そうしたシステムに対する「抜け道」を考案しているのです。「令和の鉄道ミステリ」には海外からの短編紹介もあり、コーネル・ウールリッチ「無賃乗車お断り」ジョン・チーヴァー「五時四十八分発」が掲載されています。特に後者が素晴らしい。チーヴァーってどうしてこんなに小説がうまいんだろうね。

    「小説新潮」6月号の特集は「生まれたての作家たち2023」。『ノウイットオール あなただけが知っている』中の一編において優れた漫才小説を書いた森バジルが、ここでは「演じろ、櫛田」という演劇小説を書いていて、軽妙で歯切れの良い文体をまたも堪能しました。著者コメントによると6月に刊行される第二作『なんで死体がスタジオに!?』はテレビ業界が舞台ということで、こちらにも注目しています。特集外ですが、浅倉秋成「臆り億り人」も大いに楽しみました。こちらはスーパーマーケットのしがない店長を務める「僕」が、料亭で偶然耳にしてしまった会話がインサイダー情報ではないかと気付き、株取引に臨む――というのがあらすじなのですが、わずか14行程度(雑誌の3段組で)の短い会話に、いくつか意味不明の単語が混じっており、その単語の解釈を二転三転させる展開が、まるでハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」のパロディーのようで、大いに笑わされてしまったのです。でもねえ、この小説の良いところは、その二転三転する推理じゃなくて、心に爽やかな風が吹き抜けるような最後のスカッとした書きぶりだと思うんですよね。

    〇日本推理作家協会賞翻訳部門の話題!

     去る5月に、第77回日本推理作家協会賞の翻訳部門「試行第二回」受賞作がジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』(新潮文庫)に決定しました。ということで、ノックスさん、訳者の池田真紀子さん、おめでとうございます!

     同作については読書日記第64回で取り上げていますが、ノックスが完成させた「犯罪ノンフィクション」という「体裁」で書かれた作品で、女子学生ゾーイが失踪してしまった事件について、関係者へのインタビューとノックスとイヴリンという女性とのメールのやり取り、ノックスが読者に対して語り掛けるパート、などによって構成されたモキュメンタリー風の構造になっています。インタビュアーを務めつつ、その原稿をノックスに売り込むイヴリンと、そのイヴリンに対して冷淡な態度を取り続けていたにもかかわらず、いつのまにかこの本の出版にこぎつけているノックス……というメタレヴェルの謎にも興味を掻き立てられていると、作者自身が思わぬ形で登場したりする。まったく油断がならない本なのです。

     以前、この本を「作家小説」という切り口で紹介してみました。小説家が、作家を主人公にして書いた小説で、現代においてはモキュメンタリーとも近接する……というぐらいの意味合いで書いていました(並べて紹介したギヨーム・ミュッソ『人生は小説ロマン最東対地『花怪壇』と合わせるために適切な切り口だった、とも言えます)。あるいは、その前年に邦訳されたジャニス・ハレット『ポピーのためにできること』と「記録のみで構成されている」「謎解きにも注力している」といった特徴が共通していることから、並べて論じたくなる誘惑も強かったのを記憶しています。

     しかし今回、選考のために改めて再読してみると、「実録犯罪もの」についての文脈が力強く立ち上がってきたのです。それは端的に言って、ノックスの作品が邦訳刊行された2023年9月以降の翻訳ミステリーのいくつかに、「実録犯罪もの」に対する共通のトーンが感じられたからなのです(あるいは、23年9月「以前」の邦訳作品にも)。より正確に言うなら――『トゥルー・クライム・ストーリー』を再読した瞬間、ここ数カ月に読んだ翻訳ミステリーが「実録犯罪もの」というキーワードで一つに繋がり出し、一つの本流と傍流がくっきりと見えたので、それについて言語化しておこうといった試みが今回の目的です。

     まずは、23年12月に邦訳されたキャサリン・ライアン・ハワード『ナッシング・マン』(新潮文庫)から取り上げてみましょう。『遭難信号』『56日間』などのサスペンスで日本にも知られるようになったハワードがこの作品で書いたのは、まさに「実録犯罪本」を巡るサスペンスでした。

     一切の証拠品を残さないことから「ナッシング・マン」と呼ばれるようになったかつての連続殺人鬼は、しがない警備員として暮らすようになった。しかし、彼はある日、勤務先のショッピングモール内の書店で、ある「実録犯罪本」を見つけてしまう。『ナッシング・マン 生き残った者による真実を求める調査』。それは、彼が過去にたった一人だけ取り逃した女性が執筆した本だった……。

     2018年、アメリカでは「黄金州の殺人鬼(ゴールデン・ステイト・キラー)」と呼ばれる連続殺人鬼が逮捕されました。1970~80年代に米国・カリフォルニア州を震撼させた連続殺人・強姦事件であり、手口が違うために同一犯の犯行とは考えられず、長らく未解決でした。この事件の解決には、ミシェル・マクナマラという犯罪ジャーナリストの功績が大きい。彼女は執念を持って犯人を追いかけ、原稿を執筆中の2016年に亡くなってしまいますが、夫が原稿を整理して刊行したのが、日本でも邦訳刊行された『黄金州の殺人鬼 凶悪犯を追いつめた執念の捜査録』(亜紀書房)です。一冊の実録犯罪本が、それを書く執念が、本当の犯人の喉元に迫り、追い詰めた。これはそういう「現実」の「物語」です。

     ハワードはあとがきにおいて、この一連の騒動から一週間も経たない間に同書を読み、『ナッシング・マン』の構想を得たことを明かしています。「現実」においては、犯人が本に目を通していたかは分かりませんが、もし目にしていたとしたら、その心理にどんな葛藤が生まれ、作家と犯人との間でどんな心理戦が繰り広げられるか――そんな想像の翼を広げたのが『ナッシング・マン』というわけです。事実、作中作である『ナッシング・マン 生き残った者による真実を求める調査』への凝りようも半端ではない。「生き残った」被害者の人生から話を立ち上げていくその筆致は、まるで本物の実録犯罪本を読んでいるかのようです。設定が先に立っているがために、「自分に繋がる何かが書かれていないか気になっている」にもかかわらず、律儀に頭から本を読み通す犯人の姿には苦笑させられてしまうのですが、そこも含めて、当時の一連の出来事に対する衝撃の強さが伝わってくるようです。

     海外においては、こうした騒動やポッドキャストなどにおいて、「実録犯罪(トゥルー・クライム)もの」に対する興味が日本よりも強いのではないかと思いました(日本がモキュメンタリー〈フィクションをドキュメンタリーのように演出する手法〉やホラーに対してよりその傾向が強いように感じられる理由については私には知識が足りず仮説を立てられません)。そうでなければ、ホリー・ジャクソンの『自由研究には向かない殺人』『優等生は探偵に向かない』『卒業生には向かない真実』(創元推理文庫)のような想像力も生まれ得ないのではないでしょうか。一作目『自由研究~』こそ、五年前の殺人事件について、無実の人間が疑われていると信じる主人公・ピップがインタビューにより真実を明らかにする……という内容ですが、二作目『優等生は~』において、このピップが解決した一作目の事件の顛末が「犯罪実録ポッドキャスト」として配信され、ピップは一躍「時の人」となり、リスナーがついているという設定が披露されます。そして友人の兄が失踪すると、その行方を捜すために、彼女はこのポッドキャストで友人の家の事情を配信するようになる……。私は解説を執筆するために『優等生は~』のゲラを受け取り、初めてこの設定に触れた時、まずは抵抗を感じ、倫理的に問題はないのかなどの思考がぐるぐると頭を渦巻いてしまったのですが(上手く言葉にすることが出来ず、解説では呑み込みました)、海外における「実録犯罪もの」の隆盛を見せられると、事後的にその設定の「源泉」に触れることが出来たような気がします。よりかみ砕いていうなら、これを「あり得そうなフィクション」として呑み込み得る素地が本国にはあるのだな、と思わされた、といいますか(加えて言うなら、ホリー自身も倫理的な問題や衝突などには自覚的であるからこそ、三作目『卒業生は~』の衝撃の展開にも辿り着いたのではないかと感じられます。ポッドキャストが、決して作中で便利な「だけ」には使われていない。原動力が司法制度への怒りなのだとしても)。

    「実録犯罪もの」が隆盛を誇るということは、そこに反発する流れも生まれてくる、ということになります。そうしたカウンターパンチの一環として、23年11月に邦訳されたダニヤ・クカフカ『死刑執行のノート』(集英社文庫)と、24年3月に邦訳されたジャクリーン・バブリッツ『わたしの名前を消さないで』(新潮文庫)を取り上げてみましょう。前者は死刑執行まで残り12時間という状況である死刑囚アンセル・バッカーを二人称の視点で記述し、加えて、彼に関わった三人の女性(ラヴェンダー、ヘイゼル、サフィ)の視点からアンセルの人物像を浮き彫りにするという結構の作品で、『トゥルー・クライム・ストーリー』と同じく、翻訳部門「試行第二回」の候補作となりました。その訳者あとがきには次のようにあります。

    〝著者クカフカが本書のもとになるアイデアを得たのは、シリアル・キラーを扱う犯罪ドラマやトゥルー・クライム(実録犯罪)ものの過熱した人気ぶりだった。クカフカ自身もティーンエイジャーのころからこのジャンルの番組を熱心に観ていたが、やがて疑問を抱くようになった。シリアル・キラーものの主人公の多くは男性犯罪者だが、異常者と一律にくくられ、視聴者や読者はその異常性を自分とはまったく無関係のエンターテインメントとして消費する。それまで目立たなかった男性が女性に危害をくわえたとたんに注目されるわけだ。一方で、被害者の女性たちはかえりみられることがない。彼女たちにも家族や友人がいて、被害にあわなければ生きられた人生があったのに、やはり消費され、忘れ去られる。このジャンルに潜在するそのような視線には問題があるのではないか? クカフカは、その視線のベクトルをはじいて変えたかったと述べている。〟(同書、p.435)

     だからこそ、『死刑執行のノート』は二人称で記述されるのです。この物語が、読者にとって「他人事」にならないように。いわゆるミステリー的な趣向や意外性には乏しくとも、この作品が人の心を打つ理由はそこにあります。反対に言えば、こうしたカウンターパンチ作品が出てくるほど、本国での過熱ぶりはすごいということになります。

     ニュージーランド出身の作家であるジャクリーン・バブリッツが書いた『わたしの名前を消さないで』については、ここまでに挙げた英米の作家と同列に並べるわけにはいかないかもしれませんし(実録犯罪ものに対する現況が違うと思われるため)、ここまで名指しするような形で「実録犯罪もの」へのカウンターとなっているわけではありませんが、犯人の人生に対する言及を徹底的に排除する姿勢には共通したものがあり、言及しておきたいのです。ここでは、殺害されたアリスの視点(魂)から物語が記述されていくことになりますが、そこで、アリスについて何を語り、何を語らないかは、アリス自身の自己決定権として保持されます。

    〝わたしのことはもうだいたいおわかりですよね。
     こちらには亡くなった女性がたくさんいます。そういう女性たちの物語は、遠目には同じように見えるでしょう。第三者がその人のことを語ると、どうしてもそうなります。〟(同書、p.7)

     被害者たちの人生は、後追いの人物たちに「再構成」されることでしか存在しえない。まるでグロテスクなパッチワークのように。だからこそ、「彼女たち」自身の視点から物語を記述する。ここには、クカフカと同じ問題意識が存在していると思うのです(犯人の人生を徹底して書かない――という点については、日本の作品も満更遅れているとは思えません。野木亜紀子脚本の連続ドラマ「アンナチュラル」を思い出してください。作中のある人物の過去に関わる殺人鬼については、「その正体が明かされる瞬間」〈それも、前のエピソードの真相を残酷に反転させてまで!〉と「その人物をいかに追い詰められるか」という部分にのみ物語上の力点が置かれており、「犯人がどんな人生を送ってきたか」「なぜこんな犯行に手を染めたか」については、ハッキリとシャットアウトしてみせます)。

    〇「実録犯罪もの」の最新事例

     そんな「実録犯罪もの」に新たな系譜が登場しました。いや、根っこは『トゥルー・クライム・ストーリー』と同じと言っていいのです。その作品はダニエル・スウェレン゠ベッカー『キル・ショー』(扶桑社文庫)。本国での刊行は2023年、邦訳は24年5月です。

     アメリカの田舎町で16歳の女子高生が失踪した。その行方を追うために、家族の同意を得て、大手テレビ・ネットワークによってその事件をリアルタイムで報道する連続リアリティー番組が制作された――というのが本書の根幹の設定です。「んな馬鹿な」と言いたくなるような大ボラですが、その番組そのものを記述するというよりは、番組から十年経った現在において、26人の事件関係者の証言を集め、当時の騒動について再構成する、というプロットを取っているのが面白い。つまり、『トゥルー・クライム・ストーリー』と同じく、モキュメンタリーの手法なのです。

     一つのイベントについて、複数の事件関係者の証言を次々と紹介していき、出来事を点描していく、という構成までそっくりです。思うに、ドキュメンタリー番組と同じ見せ方を意識しているのでしょう。次々にインタビュー相手の映像が切り替わり、「私にとっては素晴らしい日々だったね」と老齢の男が言った次のカットで、「いや、実際そんなもんじゃなかったよ」と当時は彼の下で働いていた青年が述懐する……というような、映像的娯楽としての見せ方。一つのイベントや出来事への解釈を次々と示し、互いに対する反応や表情などの描写は都合よくカットしていく。複雑そうに見えますが、映像が発送元だと考えると、脳内再生にも困りません(『トゥルー・クライム・ストーリー』と比較して『キル・ショー』についてもう一つ褒めておきたいこと――それは、各証言者の名前の下に(父親)(母親)(地元テレビ局のニュースリポーター)など肩書を示す工夫を、初出以降もずっと続けているところ。『トゥルー~』では、初出にだけあって、二回目以降はなくなっているんですよね。肩書がずっと書かれているおかげで、登場人物が多すぎても混乱しない)。

     さて、『キル・ショー』ですが、真相の意外性や、次々に訪れるツイストの魅力は素晴らしい。この内容の密度で400ページ台というのも嬉しい事実。そして、この本は結末において、とある露悪的な趣向を明らかにします。テレビを題材に取ったこと、「実録犯罪」と「リアリティーショー」をテーマにした問題意識が、ラストシーンにおいて噴出するのです。こうした「見世物」を楽しんでしまう人間の品性そのものに、唾を吐きかける。それは決して上品なやり方ではありません。ここまで読んできた読者に唾を吐きかけることと同義であるからです。しかし、「実録犯罪もの」に対する本国での捉え方――特に、「小説家」たちの捉え方を見せられると、この露悪的な指弾にも「義」があるとさえ思わされてしまいます。決して、珍しいオチではないのですが、こういう文脈でとらえてみるとやけに重く響いてくる、という意味。

     で――ここで話は『トゥルー・クライム・ストーリー』に戻ってくるわけですが、少なくとも私の中では、この『キル・ショー』の存在が、また一段と『トゥルー~』の印象を深めてくれたと思うのです。どちらが良くて、どちらが悪い、ということではありません。というのも、『トゥルー・クライム・ストーリー』においては、『キル・ショー』がひたすら露悪的に行った、「実録犯罪ものを楽しむ人々」に対する指弾を、何層にも重ねた「皮肉」によって行っているのではないか――そう、思わされたのです。作者自身が顔を出し、自ら「信頼できない語り手」を演じてみせ、自らイヴリンという女性から送られてきたメールを一方的に黒塗り処理し(いわば、検閲――その女性の「声」を握り潰し)、露悪的な男性を演じてみせるのも、作中で起こる女子学生ゾーイを巡る事件の真相の一部がとんでもなく下世話なものであることも、全てが、「実録犯罪ものを楽しむ人々」と「実録犯罪ものの構造」を茶化し、相対化する試みに見えてきたのです。こうしたドキュメンタリーものにおいて、唯一読者が寄り添える存在であるはずのインタビュアーでさえ信頼できない、という趣向の尖り方も含めて、この作品自体が、すべての「実録犯罪もの」を過去にしてしまうほどのインパクトに満ちていると言っても過言ではありません。

     ここ一年のいくつかの事例を挙げただけでも、これだけ多くの翻訳作品で「実録犯罪」が言及されているのですから、今後もまたポツポツと見かけるような気がしています。そういう時に、今日ここに書き留めて置いたことが、何か役に立つといいのですが。

    (2024年6月)

   

第81回2024.05.24
S・A・コスビーにまたも注目 ~今回は捜査小説の王道か~

  • S・A・コスビー『すべての罪は血を流す』

    S・A・コスビー
    『すべての罪は血を流す』
    (ハーパーコリンズ・ジャパン)

  • 〇『レーエンデ国物語』、次なる物語!

     多崎礼『レーエンデ国物語 夜明け前』(講談社)が出ました。心待ちにしているシリーズの続きなので、嬉しい限り。これでシリーズも第四弾。新刊が出るたびに感想を書いていて、第一巻は第59回、第二巻『月と太陽』は第64回、第三巻『喝采か沈黙か』は第68回で取り上げています。

     さて、第四巻となる『夜明け前』では、いよいよ「レーエンデ国」成立前夜(といっても十数年前、ではあります)、成立のきっかけとなった一組の兄妹が描かれます。一人はレオナルド・ペスタロッチ。嫡男である彼は友人たちと共に何不自由ない暮らしを送っていましたが、こっそり家を抜け出して夏祭りに行った際、劇場に出会い、やがて、自分の家の真実の姿を知ってしまいます。一方、妾腹の皇女ルクレツィア・ダンブロシオ・ペスタロッチは銀妖精と時折会いに来る母親をわずかな楽しみとする少女でしたが、ある事件をきっかけにシャイア城を追われ、レオナルドのいるボネッティで暮らすことになります。

     それぞれの視点からそれぞれの出自を描くのが第一章と第二章で、ここまでで全体の五分の一ぐらい。多崎礼、さすが、登場人物に背負わせる業が深い。高貴な生まれの青年が義憤に燃える第一章のレオナルドの方は、それでも英雄譚的な楽しみ方が出来ますが、六歳にしてとんでもない宿痾を背負わされてしまう第二章のルクレツィアは本当に胸が詰まる。気持ちが重くなり、一旦栞を挟んでしまったほどです。

     おまけに序章が完璧。ちょっと引用します。

     〝生前、彼は言っていた。
    「妹を愛していた」と。「心から信頼していた」と。「彼女も俺を理解し、信頼してくれた。自分がどう行動すれば、俺が何を選択するのか、彼女にはすべてわかっていた」と。愛おしげに、誇らしげに、血を吐くように独白した。「だから殺すしかなかった」と。〟(『レーエンデ国物語 夜明け前』、p.13より)

     予告された悲劇。豊穣に展開するファンタジーの沃野に身を浸しながらも、読者は結末を知らされてしまっているのです。おまけに、あえてミステリーに引き寄せて言うなら、ここに描かれているのは情念のホワイダニットであるともいえるでしょう。どうして、「だから殺すしかな」いと言えるのか。これは、一発の銃弾の真意を知るための物語でもあるのです。

     第三章、第四章では、またしても多崎礼の恋愛小説パートにドキドキさせられながら、革命の物語もいよいよ佳境に入っていきます。まるでクライマックスへ向けて、忍ばせるように、遂に「レーエンデ国」という言葉が本文の中にそっと置かれてもいます。面白い、あまりにも面白い。そして、「哀しい宿命を抱えた一組の兄妹」という主題が、あまりにも私の趣味に刺さり過ぎたことも付言しておきましょう。正直、ずっと泣いていた。

     いよいよ第五巻『レーエンデ国物語 海へ』を残すのみとなりました。帯には「今冬刊行予定」の文字が躍っています。早く続きが読みたいようでもあり、もう終わってしまうのが寂しいようでもあり。いずれにせよ、心待ちにしたいと思います。第五巻が出るまでに、ぜひこの傑作シリーズに追いついておきましょう。

     なお、6月3日には『レーエンデの歩き方』(講談社)という公式ガイドブックも刊行される模様。すごい、この速度でガイドブックが出るのか。こちらも注目ですね。

    〇告知も一つ

     5月22日に中央公論新社から『ミステリー小説集 脱出』が刊行されました。全編新作書き下ろしのアンソロジーです。参加作家は、井上真偽、空木春宵、織守きょうや、斜線堂有紀、そして私の五人。それぞれが「脱出」をテーマに書いています。私の作品は「屋上からの脱出」。天文部員たちがひょんなことから真冬の屋上に閉じ込められてしまい、手元にあるもので、どうにかこうにか屋上から脱出しなければいけなくなる……というあらすじです。アイテムをリストアップし、そこから手段を考えるシーンは、『都会のトム&ソーヤ』のオマージュで入れました。「脱出」テーマの短編は「第13号船室からの脱出」(『透明人間は密室に潜む』収録)でやってしまったので、少し目先を変えたものになります。同作が好きだった人には、気に入っていただける、かな。よろしくお願いいたします。

     各編も軽く紹介してみましょう。織守きょうや「名とりの森」は、森に入ると名前を忘れてしまい、その名を奪われてしまう、という設定を使ったホラーミステリー(ジュブナイル風味もあり)。森を「脱出」するための攻防が見所。

     斜線堂有紀「鳥の密室」は、魔女狩りが横行する街を描いた一編で、著者の作品で言えば『本の背骨が最後に残る』の系譜といえる「異形コレクション」風ホラーの一作。核となる発想に驚きます。エグい。

     空木春宵「罪喰の魔女」は、人を喰う巫女が棲む神社を描く物語で、著者の『感応グラン=ギニョル』が好きな人には文句なしにお薦め出来る作品(逆も然り)。伝奇小説の味がしますね。文体が凄い。

     井上真偽「サマリア人の血潮」は、見知らぬ研究所で目覚めた男は記憶喪失になっていた……という発端の物語で、まさに「脱出」の王道を往くような中編。モザイク状に記憶と設定が明らかになっていく構成に感嘆。どこか著者の『アリアドネの声』を思わせる「脱出」劇です。

     以上全五編、いずれもそれぞれの角度から「脱出」を描いたアンソロジーとなっています。何か一編でも気になった方は、ぜひお手に取ってみてください。面白いですよ。

    〇S・A・コスビー、またしても傑作

     昨年、2023年に『頬に哀しみを刻め』で「このミステリーがすごい!」海外編1位を獲得した S・A・コスビーの新刊が今年も出ました。『すべての罪は血を流す』(ハーパーコリンズ・ジャパン)がそれです。そしてこれが……またしても、やってくれたなあ、という一作。

     ヴァージニア州の小さな町が舞台となる本作では、はやくも冒頭で、高校での銃撃事件が起こる。教師であるスピアマンが銃撃され、容疑者の黒人青年が、白人の保安官補に射殺されてしまう、という悲劇的な事件だ。元FBI捜査官で、郡初の黒人保安官タイタスは捜査を開始するが、容疑者の青年は殺される前に奇妙な言葉を残していた。「先生の携帯を見ろ」。果たしてスピアマンの携帯電話を探ると、そこにはスピアマンと狼のマスクを被った男たちによる、凄惨な殺人の写真が遺されていたのだった。

     この殺人の記録が、実に唾棄すべき犯罪であるがゆえに、小さな町は更なる混乱に巻き込まれていきます。黒人青年を白人の保安官補が射殺した、という事件自体も、混乱の要因です。ブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter、通称 BLM)運動も一つのキーワードになるでしょう。タイタスは郡初の黒人保安官であり、人口二万人のこの小さな町においては、ほとんどの人間と顔見知りであるという状況ですが、彼の行動原理は「黒人としての行動/保安官としての行動」の間で常に引き裂かれており、その葛藤こそが本書の最大の読みどころになっています。教会の牧師と活動家たちの間で板挟みになり、両者から汚い言葉を投げ掛けられながら、あくまでも保安官として騒動を鎮圧しなければならないというシーンは、実に巧くて胸が詰まる。

     保安官が主人公であり、連続殺人の捜査がプロットの要諦をなすあたりは、いわゆる警察小説の読み味もありますが、もっと強く思い出すのは、ダシール・ハメットの『血の収穫』だったりしました。これは、中盤以降に築かれる死体の山と、幾つも用意されたアクションシーン、そして最後に残る荒涼たる地平に、共通点を感じたからだと思います。他には、スティーヴン・キングの「キャッスルロック」もののように、一つの地方都市を丁寧に描き、崩落させていく小説の面白さにも似たものがあります。街そのものが主人公である、というような。「チャロン郡」と題された章が複数回挿入され、街とそこに生きる人々(多くは脇役級?)の様子を点描してくれるのが、より「街が主人公である」という印象を強めているのだと思います。

     S・A・コスビーは様々な「犯罪小説」のテンプレートを用いて、黒人としてのアイデンティティを描く試みを続けているのかもしれない、と思います。『黒き荒野の果て』では、ありがちな「最後の仕事」ものの犯罪小説のテンプレートを用いながらその試みを行い、『頬に哀しみを刻め』では最愛の人を奪われた父親たちの私的な復讐劇としての犯罪小説を起ち上げてみせました。その意味では、いわゆる「警察小説」「捜査小説」のテンプレートに則っている『すべての罪は血を流す』は、基本プロットが「捜査小説」であるがゆえに、かなり手垢のついた物語にも感じられます。しかし、だからこそ、コスビーの人物描写と筆の巧さが見えてくる、ともいえます。

     一つの作品としての密度、物語としての熱さは、正直言って『頬に哀しみを刻め』に譲りますが、『すべての罪は血を流す』も読み逃せない作品です。ぜひご一読を。

    (2024年5月)

   

第80回2024.05.10
『両京十五日』は、今年最高の冒険小説だ! ~中国冒険小説の面白さを満載して~

  • 馬伯庸『両京十五日 Ⅰ 凶兆』、書影
    馬伯庸『両京十五日 Ⅱ 天命』、書影

    馬伯庸
    『両京十五日 Ⅰ 凶兆』
    『両京十五日 Ⅱ 天命』
    (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

  • 〇カッパ・ツー第三期受賞者、信国遥に注目せよ!

     信国遥『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』(光文社)が刊行されました。新人発掘プロジェクト「カッパ・ツー」の第三期作品。第三期は、信国遥さんと真門浩平さんのお二人が選ばれたので、これにて出そろった形になります。これまでの選出者をあらためて整理すると、

     第一回:阿津川辰海『名探偵は嘘をつかない』
     第二回:犬飼ねこそぎ『密室は御手の中』
     第三回:真門浩平『バイバイ、サンタクロース ~麻坂家の双子探偵~』
         信国遥『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』
     (刊行順、版元はいずれも光文社)

     このようになります。ガチガチの本格ミステリー賞、という性質になってきましたね。いいぞいいぞ。それぞれにそれぞれの探偵像/名探偵像が提示されているところも個人的には推しポイントです。

     さて、そんなわけで満を持して登場の『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』ですが、これがすこぶる面白い。劇場型犯罪×本格ミステリーという発想だけで嬉しくなってしまいますが(アガサ・クリスティー『ABC殺人事件』であり、エラリイ・クイーン『九尾の猫』だ!)、設定、展開、解決いずれも巧みで、唸らされます。

     若い女性ばかりを殺害し、その様子をインターネットラジオ「ラジオマーダー」で実況する殺人鬼ヴェノム。その正体を突き止めてほしいと、探偵・鶴舞に依頼したのは、オッドアイと真っ黒な服装が特徴のジャーナリスト・桜通来良だった。鶴舞たちは「ラジオマーダー」に対抗して「ラジオディテクティブ」を起ち上げ、ヴェノムの放送に入り込んだノイズから、その殺害場所や法則を割り出そうとする……。

     相手が「劇場型犯罪」なら、こちらは「劇場型探偵」とは、帯にある東川篤哉の推薦文のフレーズ。この設定が絶妙で、しかも、抑制の効いた文体で書かれているために、実にスリリングに演出されているのが見事です。そのスリルに、「音」がもたらしている効果は絶大でしょう。映画「ギルティ/THE GUILTY」では、コールセンターの職員が電話の音声のみから、今まさに危機に瀕している女性を救おうとする推理行が描かれますし、島田荘司の短編「糸ノコとジグザグ」(『毒を売る女』収録)では、ラジオ番組の中でリスナーからの電話に応えるコーナーがあるのですが、そこでリスナーが自殺を仄めかしたため、彼の言葉から推理を進めて、自殺を止めようと奮闘します。これらの先行作や『あなたに~』に共通するのは、「音」という少ない手掛かりから少しずつ犯人/対象者に肉薄しようという過程の演出であり、そこに推理小説としての興味が生まれているのです(ちなみに、本書の成立にヒントを与えていそうなのは、むしろ別の映画なのですが、それを仄めかすタイミングなどもニヤリとさせられます)。

     300ページ台の長さでこのスケールの劇場型犯罪を捌き切った手際も見事ながら、解決編の精妙さにはますます唸らされます。構図の一部が見通しやすくなっているのは確かですが、全体像を言い当てるのは難しいのではないでしょうか。もちろんネタバレは出来ませんが、作中序盤の出来事に対する解釈と、探偵の使い方には膝を打ちました。凝りに凝りまくった本格推理として、大いにオススメします。

     ちょっと紹介が長かったのは、同時受賞の真門浩平さんを第72回と第78回で2回取り上げているから。カッパ・ツー受賞の『バイバイ、サンタクロース』だけでなく、東京創元社から『ぼくらは回収しない』も刊行したので、そうなったんですよね。紹介した字数を足したら同じくらいな気がします。改めて、真門浩平さん、信国遥さん、デビュー作の刊行、おめでとうございます!

    〇『両京十五日』、凄すぎる。

     凄すぎるんで読んでくれ、とだけ言って終わりたい。だってもう、凄すぎるんだから。

     馬伯庸『両京十五日 Ⅰ 凶兆』『両京十五日 Ⅱ 天命』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)に対する偽らざる本心です。この作品の魅力を言い尽くせる気がしない。作中にも登場する長江のように、雄大で汲めども尽きない冒険小説。『両京十五日 Ⅰ 凶兆』はハヤカワ・ポケット・ミステリの2000番作品であり、記念すべき一作ですが、その特別な番号にも恥じない大傑作になっているのです。

     簡単にあらすじを紹介しましょう。舞台は中国、明の時代。1425年、明の皇太子・朱瞻基は遷都を図る皇帝に命じられ、首都の北京から南京へと遣わされる。しかし、南京に到着した直後、朱瞻基の船は爆破される。これはクーデターなのか? 皇帝危篤の報も間を置かずに届き、皇太子は命を狙われる。彼は切れ者の捕吏(罪人を捕らえる役人)・呉定縁、才気迸る下級役人・于謙、秘密を抱えた女医・蘇荊渓らと共に、北京への帰還を目指す。その距離、1000キロメートル。しかも敵が事を起こすまで、わずか十五日しかない。朱瞻基は北京へ帰れるのか? そこで待ち受けるものとは?

     こんなあらすじを書いているだけでもう、面白い。A地点からB地点へ行くことが作品の最大の目的になる点は、ギャビン・ライアル『深夜プラス1』月村了衛『土獏の花』といった冒険小説の王道プロットです。しかし、こうしたアクション・活劇中心の冒険小説は、どうしてもパリッとした文体ときびきびした展開で書かれるところ、『両京十五日』はちょっと違う。もちろんアクションシーンもキレキレなのですが、それ以上に、ストップモーションやスローモーションの使い方も絶妙で、読んでいるだけで、自分の感覚が何倍も引き延ばされていくような感じがする。そういう巧さなのです。たとえば、序盤、朱瞻基の船が爆破されるシーンを、「第一の刹那」などと場面ごとに記述し、その瞬間のドラマを2ページもかけて記述するところなどが代表例でしょう。中国の歴史小説ならではの文体も、その感覚に一役買っています。ゆっくりと、雄大な大河の流れのように、事物を説明し、それを解釈し、説諭していくふくよかな文体が、実に心地よい。これは翻訳者(斎藤正高、泊功)の功績も大きいのだと思います。ともすれば大仰に感じられてしまう文体と人間ドラマですが、それがこの時代の「命の軽さ」に見合っているんですよね。命が軽いからこそ、瞬間瞬間に命を懸け、大見得を切る文体が似合う、というか。

     だから、実は『深夜プラス1』よりも、むしろ私は『水滸伝』『三国志』を想起したのです。小学生から中学生の頃、夢中になって読んでいた中国の大河小説の面白さ。『両京十五日』で、新キャラクターが出るたびに、その来歴や代表的なエピソードなどを歯切れよく紹介していく場面は、まさに『水滸伝』で武将たちが紹介されるシーンの面白さと同じ。政変や白蓮教徒の思惑に翻弄されながら戦うところは『三国志』の興奮が思い出されました。読書をするようになって、あえて背伸びして大人向けの本を読んで、分からないところや難しいところもあるけど、圧倒的に面白くて、何度も何度も読み返した、あの頃の感動が蘇ったのです。こんな本には、そう出会えない。あえてとうかいすれば、ジャンルの書き手/読み手として長く生きすぎたせいで、分析癖だったり(プロットを見て「ああ、『深夜プラス1』のアレね」と思っちゃうのもそう)、そもそもミステリーを読むことへの義務感だったりが染みついてきて、そういうのが鎧のように身についている状態で、普段は本を読んでいるというイメージがあります。その鎧の存在を忘れさせてくれるような面白い本に出会うと、うわあ、これは面白かったなあとここで採り上げているわけなんですが、『両京十五日』には、鎧どころか、もう、丸裸にまでされたという感じ。だって、読み始めの頃の興奮そのままなんですもん。

     私がグッと心掴まれたのは、Ⅰ巻の序盤で、蘇荊渓が登場したタイミングです。もちろん、男装の女医というキャラだけでバチバチに強いのですが、呉定縁と二人になったタイミングで、こいつがぶちかます話がもーとんでもなく面白い。エピソードからしてぶっ飛んでいるのですが、初対面でそんな話をするふてぶてしさにグッと来てしまったのです。それで、一気にのめり込んで、あとはもうずっと面白い。私があともう一人好きなのは、敵方ですが、白蓮教徒の〝病仏敵〟の異名を持つ男、梁興甫。信念のある敵役はいつだって好きですが、活躍の仕方がとんでもない。

     全キャラクターが魅力的であるがゆえに(敵方の策士に、いつもおやつを食べながら登場するキャラクターまでいるんだぞ!)、彼らの葛藤も冒険も全て楽しめるのが素晴らしい。朱瞻基とかはねー、今行けよ! みたいな場面で躊躇ってしまうシーンがあり、ヤキモキさせられることも多いのですが、その心理も頷けるので見守ってしまうんですよね。長江を見ながら国の政治について考えるシーンとか、そういうちょっとしたシーンまで全部心に残る。

     しかもね、これは「謎解きミステリーとしての興趣もある冒険小説」なわけです。無敵でしょう? プロットと展開があまりにも強く、波乱万丈の冒険譚を楽しめるにもかかわらず、最後の最後に見事な謎解きが待ち構えている。そのシーンの意味合いには惚れ惚れとするよう。なるほど、だからこそ、この謎解きはこのタイミングで行われなければならなかったんだ……と、茫然としながら膝を折るしかない。すごいぞ、これは(すごい、しか言っていない)。

     ちなみに、本作は明の時代を扱った歴史小説でもあるのですが、「史実がどうなのか」「どのように史実が生かされているのか」「どの登場人物は実在し、どの登場人物は創作なのか」という点については、一切気にせずに物語を楽しんでOK。なぜなら、Ⅱ巻の巻末には、作者による「物語の周辺について」という解題がついているからです。歴史小説としての面白さについては、この解題だけでも十分に補完出来ます。というかね、本文を読んでいる間は、細かいことを気にしている暇もありません。面白すぎるから。

     それにしても、今まで紹介されてきた華文ミステリーって、新本格直系のハードな本格推理が多い印象でしたが、最近、そのイメージも変わってきているというか、本格以外の物も紹介されるようになった気がして、楽しいです。紫金陳『悪童たち』『検察官の遺言』は、前者は秀逸な犯罪小説、後者は大上段に構えた捜査小説で、それぞれ東野圭吾の〈加賀恭一郎〉シリーズを思わせるような味わいがありましたし、陳漸『大唐泥犁獄』のように中国の馥郁たる歴史と物語を活かした歴史推理小説もある。歴史小説の枠は、文体まで含めると、ちょっと『両京十五日』が圧倒的すぎるのだけれど、こういう方向性の作品はもっと読んでみたいな。

     普通に「傑作」というと、「今年度のベストミステリー」とか「今年を代表する一作」というニュアンスになるのですが、これはもう、生涯単位の傑作に挙げてもいいくらい。だって、ちょっと圧倒的なまでの面白さだもの。Ⅰ・Ⅱ巻合わせて1000ページ超、しかもポケミスなので二段組という、手を出すのに躊躇うレベルの分量かもしれませんが、それに見合う大いなる価値がある大部です。ポケミス2000番の記念でもありますし、ぜひ買って挑みましょう。はぁぁ、しかし面白かったな。それにしても、これを読むと無性に漫画『キングダム』も読み返したくなりますね。時間の吸われ方がエグい。でも幸せだ

    (2024年5月)

第79回2024.04.26
ぼくの盛岡・仙台・神戸紀行 ~作家ゆかりの地を訪ねる~

  • 陳舜臣『昭和ミステリ秘宝 三色の家』、書影

    陳舜臣
    『昭和ミステリ秘宝 
    三色の家』
    (扶桑社文庫)

  • 〇まずは告知から

     4月25日発行の「季刊asta vol.11」に、「失恋名探偵」シリーズの第二話「キミが犯人じゃなければ」が掲載されています。惚れた相手が全員犯人、という不幸体質に生まれた男子高校生を、名探偵を夢見る女子高校生が使役するコンビ探偵物ですが、今回のシチュエーションは「『想い人』は現場近くの密室の中に閉じ込められた女性のはず。他の人物が犯人なら密室の謎など存在しないのに、なんといまいましいことか!」というものです。エラリー・クイーンの某長編の変奏曲ですが、そこまで本格的なものでもない、かな。このシリーズは設定をどこまでひねれるか勝負なので、これからもこんな感じでやっていきます。

    〇盛岡・仙台紀行編

     三月前半に、盛岡に行く用事があったため、そこに仙台への取材旅行をくっつけてみました。盛岡に行く日の前日は、とあるイベントのために横浜に行っていたので、横浜飛び出し盛岡、取って返して仙台、そこから東京へ帰還という、どうかしているスケジュールを断行することに。さすがに疲れました。

     さて、旅行の一冊目は風見潤『スキー場幽霊事件』(講談社X文庫)。少女文庫レーベルから発表されていた〈幽霊事件〉シリーズの一作で、以前、50冊以上揃ったセットを古書店で購入したため、いつ読もうか悩んでいたところ。で、タイトルを眺めているうち、日本の地名が多いことに気付き、旅行の時に持ち歩いて、その土地で読もうと決めました。『スキー場~』はタイトルにこそ地名が入っていませんが、パラパラしたら、岩手は遠野の近くにある架空の村が作品の舞台と分かったので、持っていくことに。ティーンズ文庫らしいカップルの雰囲気に気恥ずかしくなりながらも、足跡のない殺人と、スキーのリフトからの人間消失の謎に魅了され、どちらの謎にも一定程度の満足感。文体も平易ですんなり読めてしまうし、これは旅行にうってつけかも。ちなみに、本書で最も驚いたのは、作中に出てくる暗号の作成に、新井素子が協力したという「あとがき」で披露されたエピソード。

     この「旅行に合わせて〈幽霊事件〉を読む」縛りの難点は、『バリ島幽霊事件』『香港幽霊事件』を読むのが大変なことでしょうか。パラパラしてみないと地名が分からないパターンもあるので、見逃してしまうことも多そう。そして、最大の難関があります――『ヤマタイ国幽霊事件』。まいったな、これはどこに行く時に読めばいいんだろう?

     二冊目は高田崇文『QED 河童伝説』(講談社文庫)。こちらも岩手県遠野が舞台なので持参。なんとなく、旅行の時には一冊は『QED』を持っていこうという意識があるので、まさしくうってつけでした。河童伝説はなぜ現代まで伝えられる形になったのか? という部分の読み解きが面白く、アニメや漫画での受容のされ方も相まって、なんとなく可愛らしいイメージすら抱いていた「河童」の裏に隠された、薄ら寒い物語にぞっとしてしまいました。

     ここまで読んだところで、東北新幹線は盛岡駅に到着。ちらつくぐらいの雪は降っていますが、基本的には天候に恵まれ、歩きやすい。まあ、寒いのは間違いないですが……。この日は昼・夜と盛岡で用事があるため、動きはほとんどそれに制約されます。見られた観光名所も石割桜くらいでした。盛岡冷麺を食べるために夜は焼肉店へ。翌朝はじゃじゃ麺の店に開店凸。一泊二日の滞在ながら、かなり食べてしまった。

     東北新幹線で仙台に移動。盛岡までは友人と二人旅でしたが、友人は仕事があるというので、ここからは一人旅になります。三冊目は井沢元彦『義経はここにいる』(講談社文庫)。宮城県といえば義経伝説ということで持参しました。作者の作品では『本廟寺焼亡』『六歌仙暗殺考』『欲の無い犯罪者』などにも登場する名探偵・南条圭による推理を堪能できる歴史本格ミステリー(なお、井沢は『義経幻殺考』でも義経伝説の一つを検証する物語を書いており、そのことについて本書の作中で触れている)。歴史本格は、歴史解釈か、現代で起こる本格ミステリー部分のどちらかが弱く感じられることがあるのですが、本書はどちらもなかなかの強度。平泉の金色堂にまつわる絵解きの面白さや、「宮沢賢治が義経の秘宝を発見し、日記に書き残していた」というハッタリの効いた説の提示は、歴史ミステリーの面白さに満ち溢れていますし、現代部分も、首のない死体の使い方が結構面白い。やはり、井沢元彦、いいなあ。ちなみに、井沢元彦では『修道士の首 織田信長推理帳』『五つの首 織田信長推理帳』(いずれも講談社文庫)はかなりの本格度を誇っており、オススメです。

     仙台に着いて荷物をホテルに預けたら、仙台旅行のメインイベント——古本旅へ(なんでだよ!)。まずは、仙台駅からバスで三十分ほど行った鈎取バス停の近く「萬葉堂書店」へ。十万冊がずらりと並び、地下にまでみっしりと古本がある店で、遠方から訪ねる人も多い名店です。しかし、これは車が必須だなあ。広い店内を二時間ほど彷徨した後、①・②ディーン・R・クーンツ『逃切』『ストーカー』(いずれも創元推理文庫)、③ハーバート・レズニコウ『ゴールド1/密室』(創元推理文庫)、④・⑤・⑥陳舜臣『虹の舞台』『神戸異人館事件帖〈夏の海の水葬〉』『影は崩れた』(いずれも徳間文庫)、⑦陳舜臣『昭和ミステリ秘宝 三色の家』(扶桑社文庫)、⑧陳舜臣『割れる 陶展文の推理』(角川文庫)、⑨辻真先『銀座コンパル通りの妖怪』(双葉文庫)、⑩司城志朗『街でいちばんの探偵』(光文社)、⑪ルース・レンデル『ハートストーン』(福武書店)、⑫アキフ・ピリンチ『猫たちの森』(早川書房)、⑬野崎六助『煉獄回廊』(新潮社)、⑭黒川博行『雨に殺せば』(文藝春秋)、⑮法月綸太郎『頼子のために』(講談社ノベルス)。私が古書店で探すのは品切重版未定の本(ついでにいえば電子書籍化もされていないこと。正確に言えば、『三色の家』の収録長編二本〈『三色の家』『弓の部屋』〉はKindle化されていますが、扶桑社文庫版には、ここでしか読めない短編と杉江松恋の解説がついている)で、ここでしか読めないものが中心ですが、⑭、⑮の毛色が違うのは、いずれも初版帯付きだから。特に『雨に殺せば』の帯は素晴らしい。「浪速のポワロ」という呼び名が、この当時から与えられていたことが分かる(今ちょうど、黒川博行にハマっていて、創元推理文庫に入っている初期作品は全て新品で買い直したばかりなのです。『キャッツアイころがった』『雨に殺せば』『八号古墳に消えて』『ドアの向こうに』が特に好き!)。①・②・⑪・⑫はいずれも再読なのですが、状態が良いのと、帯付きなのが嬉しくて購入。特に、⑪はレンデルの中でもひときわ短い作品ながら、猫の表紙が可愛いゴシックな装いの佳品なのでオススメ。④~⑧は今回の後半でお届けする「神戸旅行編」に向けて買ったところ。正直、家の中を探すよりも、古書店で探した方が早いんですよね。

     萬葉堂が遠いので、時間のほとんどをそこで使い果たしてしまったのですが、なんとか仙台駅まで戻ってきて、牛タンを食べ、駅の東側へ抜けたところにある古書店「あらえみし」へ。玄関でスリッパに履き替えて、室内にみっしりと並べられた本を見るアットホームな雰囲気の古書店で、こちらもじっくりと堪能。ずっと探していた本があったけれど、かなりの美本&お値段だし、運ぶ最中に帯を破ってしまったらと思うと怖くて手が出せず、ここでは⑯南條範夫『連鎖殺人』(双葉社)を購入する。著者の「推理短編傑作集」だというので、興味津々。著者の作品に初めて触れたのは、『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー1』に収録された「黒い九月の手」という作品で、これに頭をぶん殴られたのです。なんというか、ヘンな論理を用いた作品なのです。有栖川さんの選出、だったかな。

     店を出ようとしたところで、店員さんに、近くに2号店があって、そこにはミステリーがたくさんありますよと言われたので、な、なんと、と尻尾を振ってついていく。そちらもスリッパを脱いで上がる、一般の住宅のような雰囲気ながら、創元推理文庫やハヤカワ・ミステリ文庫、ポケミスがずらっと並び、読売新聞社の「フランス・ミステリー傑作選」まで六冊中五冊は置いてあるという充実ぶり。国内ミステリーの見たことがないところなども置いてあり、頭を悩ませる事態に。旅先なので買う冊数は絞らなければと思いつつも、⑰ジャック・ヒギンズ『サンタマリア特命隊』(河出文庫)、⑱F・W・クロフツ『ポンスン事件』(創元推理文庫)、⑲カーター・ディクスン『一角獣の殺人』(創元推理文庫)、⑳マーク・マクシェーン『雨の午後の降霊会』(創元推理文庫)、㉑カトリーヌ・アルレー『大いなる幻影 死者の入江』(創元推理文庫)の五冊を購入。⑰、⑳、㉑は、いずれも川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション』きっかけで読みたいと思った本の拾い残し。特に⑰は内藤陳の推薦帯がちゃんとついているので、めちゃくちゃ嬉しい。⑱は既読のクロフツ作品なのですが、黒い表紙のクロフツで揃えたくて、見かけたら集めることにしているのです。⑲は文庫で持っていなかったので、ぜひとも持っておきたかった。

     ミステリマニアはぜひ、店主に声をかけて、2号店に連れていってもらうと楽しいことでしょう。私はまるで知らなかったので、声をかけられなかったら、きっと出会えていなかったと思います。その節は皆さん、ありがとうございました。

     さて、旅行中の四冊目は伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』。こちらは仙台駅中のくまざわ書店で購入。というのも、仙台駅に降り立った瞬間、ペデストリアンデッキを見て――あ、これ『アイネクライネナハトムジーク』の表紙で見たやつだ! と思って、読み返したくなったから。現地で読むと、冒頭のシーンの臨場感とか嬉しい。確かにペンギンの群れのように人々があちこちを向いて立っている感じ。しかし、読み返してみると、なんて優しい小説なんだろう。一人旅の最中に読んでいると、なんだか無性に目頭が熱くなってきます。伊坂作品を読みながら、ふと思い立って、帰りの新幹線までの間、伊坂作品ゆかりの地を歩いてみることに。勾当台公園は、『ゴールデンスランバー』の青柳が無実を訴えた野外音楽堂があるところですが、アニメ「Wake Up, Girls!」の聖地でもあります。チェックアウト前の朝の散歩で行ったので、近隣の官庁街に通うサラリーマンたちが、そこかしこで煙草をふかしていて、旅情はあまり湧かないのでサッと見学して退散しました。その後は、あまり時間もないので、せめて仙台駅でコインロッカーを探そうと思い立ちます。『アヒルと鴨のコインロッカー』のラストで登場する、アレを閉じ込めたコインロッカーです。しばらく探し回って見るものの、調べたら、東西連絡通路の開通とともに、問題のロッカーは撤去されたと知り、断念。一応、作中の描写的にこのあたりかなー、というところまで行って、現代的な、交通系ICがそのままカギになるタイプのコインロッカーを見てきて、あのシーンがこのコインロッカーだったら、と空想したところでタイムアップでした。なんだか、ちょっと間が抜けたシーンになってしまいそう。ガチャ、という音の代わりに、ピッ、ですからね。

    〇三月後半 神戸紀行編

     さて、神戸編です。光文社の担当編集に同行してもらい、取材旅行です。このタイミングで決行したのは、神戸文学館で開催中の「陳舜臣生誕100周年 神戸が生んだ名探偵 陶展文の事件簿」も見に行けるから(会期は2024年4月14日までなので、更新の時には終了してしまっています)。

     東京駅から新幹線に乗り込み、一冊目は J・L・ブラックハースト『スリー・カード・マーダー』(創元推理文庫)を。出発直前に献本がきたというのもありますが、紀行編ではその土地の作家や作品を優先するので、海外物をあまり読めていないな、ということに気付いたため。今回は土地にこだわらずに読んでみました。『スリー・カード・マーダー』は2023年にイギリスで発表された作品ながら、密室殺人、それも複数の密室に挑んだ直球勝負の本格ミステリー。作中にはジョン・ディクスン・カーの『魔女の隠れ家』や『三つの棺』、おまけに『三つの棺』作中で展開される密室講義に関する言及まであるという始末(ちなみに、作中で密室トリックの一つが引き合いに出されていますが、これは『三つの棺』のネタバレではないので気にしないで大丈夫ですよ)。ではマニアックな味わいなのかといえば、そうでもない。警官の姉と詐欺師の妹、というアンビバレントなバディーものとしての味が立っていて、思いもよらない問いを突き付けられるクライマックスまで含めて、むしろ現代サスペンスとして読んだ方が吉という感じ。水準以上には楽しんだので、次回作も楽しみ。

     二冊目は陳舜臣『昭和ミステリ秘宝 三色の家』(扶桑社文庫)。今回の神戸旅の目的である「陶展文の事件簿」に合わせて持ってきたもの。内容自体は再読になります。「陶展文」が登場する作品は、長編が四つ、短編が六つあります。長編はデビュー作である『枯草の根』に続いて、『三色の家』『割れる』『虹の舞台』の四作品で、今回の旅行には、『三色~』『割れる』『虹~』の三冊を持参しました。

     扶桑社文庫版の『三色の家』には、表題となっている『三色の家』の他、陳舜臣の第三長編である『弓の部屋』、短編「心で見た」が収録されています。いずれも神戸の異国情緒を活かした作品であるのはもちろんなのですが、『三色の家』は密室もの、『弓の部屋』は毒殺もので、いずれもトリッキーな作品です。派手なトリックというよりは、観察と巧みな伏線配置に基づく、心理の陥穽を突くような作品で、濃い味付けの現代ミステリーに食傷した心を癒すのにうってつけです。特に『弓の部屋』で使われるトリックは、実にシンプルで、漫画などでも作例を見たことがあるほどなのですが、作品年代的には相当早い。しかし、ここで重要なのは、むしろ、探偵役がなぜそのトリックに気が付いたか、という「気付き」の伏線の巧さだと思うのです。

    『三色の家』というタイトルは、海岸通りに立つ家が、フランス国旗のような三色に塗り分けられていて、「三色の家」と呼ばれているというところから。倉庫である一階が赤レンガ、二階と三階は白のモルタルだけれど、海岸通りに面した三階の表側だけが青色に塗られている。青、白、赤で「三色の家」というわけ。この家が密室殺人の舞台となるわけですが、昭和八年の神戸の雰囲気を活写し、その中に巧みに伏線を埋め込んでみせる手際にあらためて感嘆しました。むしろ再読の方が楽しめるというもので、最後の最後に回収されるトリックの小道具が、こんなにも序盤にさりげなく置かれていたのか! という点には感心しきり。

    『割れる』(角川文庫。徳間文庫版もある)は、陳舜臣マイベスト3に入るほどの作品なので、読み返すのも三回目。あらすじはこう。日本に滞在しているはずの兄を探すべく、林宝媛は陶展文を訪ねる。兄の行方を探り始めた陶展文の前に現れる死体。その兄が泊まっていたとされるホテルの部屋から、中国人の撲殺死体が発見されたのだ……。

     かなりシンプルな状況設定かつ文庫で250ページ弱という短さの作品ですが、中心となる構図が明らかになった時の衝撃が素晴らしいのです。海外の有名作家のあの作品を、裏側から書いた作品だったのか……というのは、ちょっとネタバレを気にしすぎて分かりづらいですが、たった一つの発想をもとに真相が明らかになっていく解決編の興奮はかなりのものです。特に、物証の扱いが見事で、細かな矛盾を拾い上げていく手つきが面白いのです。自分の作品でも参考にしました。18節の「真っ二つに」と19節の「割れる」という章題の付け方もニヤリとさせられますし、タイトルの意味が明らかになるところにも膝を打ちます。

     と、陳舜臣の思い出に浸ったところで、新幹線は新神戸駅に到着。所要時間は約三時間。そのまま元町へ。春休みということもあってか、かなりの人出で、学生と思しき人々もたくさんいます。中華料理屋でフカヒレ麺と炒飯、天心のセットを食べる。そういえば、張國立『炒飯狙撃手』(ハーパーコリンズ・ジャパン)を読んだので、美味い炒飯も食べたかったのだった。美味い。

     ここからは、「ジャーロ」掲載の佳多山大地「〈名作ミステリーの舞台を訪ねて〉第14回」(「ジャーロ」vol.93に収録)を参考に神戸を歩いていく。商船三井ビルディングまでは、元町駅から大体歩いて十分くらい。周囲のビル群と比べるとひときわ古く、歴史を感じさせるビルで、確かに、これなら昭和八年から陶展文が店を開いていてもおかしくはない。味のある感じの建物です。元町・中華街からも少し離れているので、余計にキャラに合っているように見えるのかも。陶展文の店はこのビルの地下にあった設定ですが、今は一般客が地下に降りることは出来なさそう(地下への階段は、職員の通用口の方にしかない)。そこまで見るのは断念して、港の方へ。神戸第二地方合同庁舎は、かつて陶展文が何度も訪れた水上警察署の跡地。そこから道沿いに行けばメリケン波止場の方へ辿り着きます。陶展文が推理をするために何度も歩いたであろう道を歩きながら、何か霊感でも得られないかと期待してみるものの、メリケン波止場に立つスターバックスを見て、「あ! ここ『相席食堂』で見た!」と思った瞬間に脳内の風情は雲散霧消。この旅の一つの重要な目的である「陶展文展」を目指します。

     元町から電車に乗って灘駅へ。灘から坂道を上がって十二分ほど歩いたところに神戸文学館があります。神戸らしい赤煉瓦の雰囲気が良い建物で、入ると左手にラウンジ、右手の大部屋に展示があるという感じで、規模は小さめ。企画展「陶展文の事件簿」も、じっくりと全ての文字を読んでも三十分あれば見切れる感じでした。しかし、陳舜臣ファンとしては、内容は充実。四つの長編と六つの短編の紹介はもちろん、「三色の家」の模型や、作中で陶展文が遊んでいる「象棋(シャンチー)」の実物もあります(象棋については、HUNTER×HUNTERに出てくる「軍儀」の原型と考えられるアレといったほうが伝わるかもしれないですね)。神戸ゆかりの作家たちについての常設展もじっくりと堪能。横溝正史はいいとして、翻訳者である西田政治の訳書カーター・ディクスン『プレーグ・コートの殺人』まで展示されていたのにはびっくりしたのですが、そういえば、お二人がカーに出会ったのは、神戸に輸入される本が理由だったんですよね、確か。横溝正史を読むという手もあったなあ。主要な長編はもう読み切ってしまっていますが、再読ならいくらでも楽しめるし。好きなのは『蝶々殺人事件』『獄門島』『悪魔が来りて笛を吹く』『夜歩く』『悪霊島』で五選、という感じかなあ。

     ちなみに、陳舜臣作品についてもベストを挙げると、『炎に絵を』がダントツのマイベスト、次に『方壺園』『影は崩れた』『月をのせた海』『黒いヒマラヤ』などが続きます。『炎に絵を』なんかは、300ページにも満たない作品の中に、ミステリーに求める衝撃と、小説に求める滋味が全て入っていて、何度読んでも本当に素晴らしい。短編集では『紅蓮亭の狂女』が素晴らしい出来栄えですし、いかにも著者のお得意の歴史小説の領分っぽい『漢古印縁起』なども美術ミステリーの良作なので侮れない。いずれもオススメですし、最近ではちくま文庫で『方壺園』が復刊されたのが喜ばしいのですが、あとが続かないのがちょっと寂しい。

     夜は神戸牛焼肉とマジックバーへ。肉が美味い。肉が美味いから何を食べても美味い。脂が美味い。マジックバーなんておしゃれなところ、入ったこともないので怖かったけど、関西圏なのもあってか、お客さんの反応がテンション高めで楽しめました。マジックも近くで、しかもお客さんの反応込みで見てみると、勉強になるなあ。必要以上に酔っ払った頭で、ホテルに帰ってから、陳舜臣『虹の舞台』(徳間文庫)を開いてみる。四つの「陶展文」長編の中では十年ほど発表時期が開いているからか、謎解きミステリー度はやや低めながら、チャンドラ・ボースに関する挿話が楽しく、ボースの本を陶展文が読み耽ってしまうシーンがやけに心に残る。これも実に楽しい一冊。

     翌朝は姫路に移動し、姫路城観光を決行。神戸駅から姫路駅までの道すがらは、風見潤『ミナト神戸幽霊事件』(講談社X文庫)を読む。神戸で殺された女の人が、同じ頃、横浜の元町で目撃されていた! という謎が出てくる作品で、いわゆるアリバイトリックものですが、「ひねった時のアリバイ物の王道」みたいなオチがつくところはご愛敬か。とはいえ、サクッと読めるところも含めて、やっぱり旅のお供にはうってつけ。大事なカレとの旅行♡的なのを大事にするから、旅情的な部分も程よいしね。

     桜の季節一歩手前で、まだ桜は咲いておらず、残念。しかし城内に入り、天守閣へ至る道すがら、少しだけ咲いている桜の木を見つけて嬉しい気分になりました。肝心の天守閣は……もちろん世界遺産なので、見られたという感動や、こんなにでかい木造建築ってすげえなあという感慨もあるにはあるのですが、それ以上に、とにかく上って下りるのが大変だったという気持ちが強い。昔の階段、細くて高くない? 光をあまり取り入れない構造になっているからか、外は快晴なのに、中が薄暗かったのも階段への恐怖を掻き立てられました。いや、すごく楽しかったけれど。

     姫路城を脱出(笑)してから、城の目の前にある料理店で播磨の魚介を食べる。ウナギ科の魚であるハモのかば焼き風丼を食べたのに触発されて、姫路駅のジュンク堂に寄り、ヤーン・エクストレム『ウナギの罠』(扶桑社文庫)を現地調達。旅行の時、まさに発売した直後くらい、だったかな。東京に戻ってから買えばいいものを、読みたい気持ちになったので買ってしまいました。これは読書日記第29回で松坂健・瀬戸川猛資『二人がかりで死体をどうぞ』を取り上げた時に、松坂健が紹介していた作品として言及していたもので、「スウェーデンのカー」による幻の密室ものです(原著刊行年は1967年。なお、松坂健による紹介文は、『ウナギの罠』の「解説」として収録されています)。読んでみたいとはかねてから思っていたのですが、はてさて、どんな作品だろうと思ってみたら、ウナギをとるための罠の中で起きる密室殺人というユニークな状況設定もさることながら、「一つ一つの構成要素・原理は見たことがあるのに、全体としては見たことがない」感じの密室トリックにびっくり。人によっては苦笑の作品でしょうが、個人的には、第二の事件とのリンクを含めて技あり一本という感じでかなり楽しみました。作者のもう一つの邦訳である『誕生パーティの17人』(創元推理文庫)はもう中身を覚えていないんですが、こんなに面白い作家だったか。一つこうやって訳されてみると、もう一つ、二つぐらいは読んでみたいなあと思ってしまうのがマニアのどうしようもなさですが、さて、この夢はどうなることやら。

    (2024年4月)

第78回2024.04.12
犯罪小説への愛、物語への愛 ~スティーヴン・キングの最高到達点~

  • スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』、書影
    スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』、書影

    スティーヴン・キング
    『ビリー・サマーズ』
    (文藝春秋)

  • 〇カッパ・ツー第三期受賞者に新たな動き

     カッパ・ツー第三期に選ばれた二人のうちの一人、真門浩平さんの二作目――というよりも、「もう一つのデビュー作」が刊行されました。『ぼくらは回収しない』(東京創元社)がそれ。帯に推薦文を寄せております。「ミステリーズ!」新人賞最後の受賞作である「ルナティック・レトリーバー」を収録したノンシリーズ短編集です(「ミステリーズ!」新人賞と同じ座組や条件で、現在は「創元ミステリ短編賞」と名前を改めています)。一言でいうなら、多彩なプレゼンテーションにより作家としての技巧の幅を見せつけた作品集になっていると思います。冒頭の「街頭インタビュー」からして、テレビで放映された数十秒のインタビュー映像から、意外な真相を読み解く「日常の謎」ものになっていますが、最後まで油断のならない構成が曲者。続く「カエル殺し」では、お笑い芸人の殺人事件が描かれますが、核となる発想はなかなかユニーク。「速水士郎を追いかけて」のトリッキーさも好みかな。先んじて刊行された、カッパ・ツー第三期受賞の『バイバイ、サンタクロース 麻坂家の双子探偵』(光文社)は、ダークな剛腕といった感じの連作短編集になっていましたが、こちらは一転、爽やかでほろ苦い衣を纏わせた、達者な短編揃いで、その振れ幅に驚いてしまいます。共通するのはミステリセンスの確かさ、でしょうか。併せて楽しんでいただきたい二作品です。

     さて、カッパ・ツー第三期受賞のもう一人、信国遥さんの『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』も、いよいよ今月、4月下旬に光文社から刊行されます。ぜひこちらにもご注目ください。この読書日記ではタイミング的に、5月前半の日記で感想を書かせていただくと思います。

    〇自分の告知

     間に挟み込むように、一応自分の告知を。3月22日発売の「小説新潮4月号」に、〈迷探偵・夢見灯の読書会〉の第三話「モザイク岬の謎」を掲載しております。大学サークルの読書会を描いて、課題本に似た事件が夢で起こるという趣向の連作です。第一話「第三の短剣」ではカーを、第二話「そして誰にも共感出来なかった」ではクリスティーを題材とし、今回はいよいよエラリー・クイーン。『スペイン岬の謎』が課題本です。全裸死体の謎に新たなパターンを加えてみようという試みが、ヘンな形で形になった作品ですが、連作として、御三家を並べることは出来たので、ほっと一息。第四話からは趣向を変えて、国内作家にも挑んでいこうと思うのですが、はてさてどうなることやら。

    〇『ビリー・サマーズ』はマイベストキングだ!

     さあ、とにかく今回はスティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』(文藝春秋)の話だ。もう思い切って言ってしまうが、これは「今年のマイベスト」確定だし、圧倒的に「マイベストキング」です。いわゆるホラーではなく、恐怖小説の要素はカケラもないにもかかわらず、「マイベストキング」だと言い張ってしまいたくなる強さ。だって開いた瞬間からビリーのことが好きになって、たびたび涙腺がギュッと締め付けられて、物語巧者ならではのクリフハンガーに鼻面を引き回されて、最後には声を上げて泣いたんだから。もう、今年はこれに勝る読書体験をするのは無理だよ、無理。それほどまでにこの本は愛おしくて、切なくて、そして明るい光に満ちている。

     あらすじを書きましょう。本作の主人公は、殺し屋であるビリー・サマーズ。彼は引退を決意し、「最後の仕事」を引き受けるが、収監されているターゲットを狙撃するためには、ある一瞬を狙うしかない。狙撃地点となる街に潜伏するため、エージェントたちはある筋書きを考え出した……それは、小説家だ。ビリーは小説家に扮し、街で生活を始める。時には、ご近所付き合いまで。小説家はあくまでも偽装の身分だから、小説を書く必要はない。内容について聞かれたら、事前の打ち合わせ通りのことを答えればいい。それなのに、ビリーは自分の体験を小説に書き始めてしまう……。

     序盤は信じられないほど何も起こらない。「殺し屋小説」と聞いて、派手なアクションや展開を期待して開いた読者は面食らうでしょう。しかし、このスロースタートぶりがキングだなあと思わされるところ。あとに『11/22/63』の話もしますが、近年のキングはこのどうでもよいはずの日常描写がどんどん巧くなっている気がして、ビリーがご近所付き合いの一環としてモノポリーをするシーンなど、すごく良い。序盤は、ディティールの積み上げ方の巧さをじっくりと味わいながら、キングのスローな語りにゆったりと身を預けるのが吉。そうしている間にも、エンジンはしっかり温まっているのですから。

     このディティールという部分が、また嬉しい。ビリーは、エージェントには「狙撃以外に能のない愚鈍な男」だと思われようとしているので、アメコミを読むポーズをとるのですが、実際の愛読書はカバンに忍ばせたエミール・ゾラ。この描写からしてニヤッとしてしまうのですが、肝心の小説を書く時も、パソコンが監視されている可能性を考えて、あえて下手に、暴力的な文体で記述しようとする。その書き方が……これもまた、すごく良い。ウィリアム・フォークナーの南部小説的な荒涼たる世界観を書いているし、子供の頃の体験から始まるので、粗雑な文体が妙にマッチするのです。こういう、ディティール選択の理由付けとそれによる小説上の効果が、無理なく一つ一つ読み取れるところに、ひたすら感心するばかり。

     あらすじであえて「最後の仕事」とカッコ書きしたところで、ははあ、と思った犯罪小説ファンも多いでしょう。犯罪小説の世界では、『「最後の仕事」モノ』と名付けられるような作品群があって、殺し屋や運び屋が「最後の仕事」を引き受けると、それがキッカケで最悪のトラブルに巻き込まれたりするものなのですが(最近の映画だと「ベイビー・ドライバー」などを思い出してもらえば良いかと)、ビリーが引退を決意しながら「最後の仕事」を引き受けた時に、犯罪小説ファンはニヤニヤしてしまうことでしょう。しかし、キングの意地の悪いところは、そういう視線すらメタに皮肉ってしまうところ。ビリーにあえて『「最後の仕事」モノ』というフレーズを使わせてまで、評論家の視点を先回りしてしまうという始末。このあたりは「読書家」キングの面目躍如といった感じ。

     犯罪小説とキングの取り合わせが、実は一番好きなので、キングが殺し屋を書くというだけでワクワクしてしまう自分がいます。ホラーで怪人による恐怖とそこから生き残った人々の人生を書ける(『IT』など)作家は、人がどういう時に犯罪の側へ転がっていくか、どういう偶然が人を犯罪に導いてしまうかを見つめ、あるいは、犯罪・暴力の荒涼たる酷薄さも描けるのではないかと思うのです。ここで引き合いに出すのはちょっと違うかもしれませんが、ホラー作家・貴志祐介の犯罪小説『青の炎』『兎は薄氷を駆ける』を読んだ時の感慨に似ているでしょうか。『悪の教典』は展開こそホラーに近接していますが、起こる事件や犯人に着目した構成は犯罪小説のそれといってもよさそうです。

     そういった点で、スティーヴン・キング諸作の中でかなり印象に残っていたのが『ダーク・ハーフ』です。のちに「好きなキング作品の話」で詳しく取り上げようと思っているのですが、リチャード・バックマンという別名義が明らかになった時の騒動からヒントを得た作品で、注目すべきは、作中の作家の設定。文学作家、サド・ボーモンドとして知られる作家が、別名義、ジョージ・スタークで犯罪小説を書いていた、というものなのです。まあもちろん、「表の顔」がホラーではなく文学で、しかも、「表の顔(文学)では売れていない」という点も含めて、現実と全く違うのはもちろんなのですが、「裏の顔」にあえて犯罪小説家を選び取ったところに、ニヤリとしたのです。そして、愛読者の中の一人が、「実はジョージ=サドに気付いていた」と言い出すシーンが面白い。その読者はジョージの犯罪小説の方がむしろ好きなのですが、すこぶる退屈なサド作品の中に、ひときわ光る描写があったと話す。それは、殺処分しなければいけない馬を射殺しながら、牧場主がマスターベーションをする、というシーン。そこに描かれた暴力性が、ジョージ・スタークの作品そのものだった、と語っているのです。

     肝心のシーンがお下劣なのはキングらしいところですが、この描写を読んだ時に、なんだか、ジム・トンプソンの自伝的な作品を読んだ時と同じような、奇妙な感慨に捉われたのです。「そういうこと」をしてしまう人々、暴力的な行動・犯罪に流れてしまう人々の、荒涼たる心の中を抉り出すような筆致に、うわぁ、キングってこれを書かせても巧いんだな、と実感しました。

     ビリーが綴る小説は、キングがこれまでのキャリアの中で描いてきたどれよりも素晴らしい犯罪小説たり得ています。ビリーの小説は、「これまで」の自分が、なぜ殺し屋になったのか、なぜそのような生き方を選択しようと思ったかを綴るものであると同時に、「これから」の自分が、なぜあんな行動を取ったかを、読者に悟らせる役割も果たしています(それを読者だけが気付く、という構成も愛おしい)。「作中作」を含むキング作品といえば、やはり『ミザリー』が思い起こされるところでしょう。あちらではメタフィクショナルな仕掛けを全開にして、トリッキーな密室劇の中に読者を引きずり込む役割を果たしていますが、私が思い出したのはむしろ、中編「スタンド・バイ・ミー」です。映画の方が有名な作品ですが、小説の魅力は何より、作中に登場する作家、ゴーディ・ラチャンスの習作短編を二つ読めるところです。ここではメタフィクショナルな仕掛けなどは先鋭化していませんが、書くことそのものが喜びだった頃の情動が閉じ込められているような気がして、なんだかほほえましくなってしまうのです。

     ビリー・サマーズの小説(作中作)は、作品外にいる私たちやキングにとってみれば優れた犯罪小説であると同時に、ビリー自身が自分の体験を抉り出すことによって生まれた自伝でもあります。そして、ビリーは自らの体験を小説にしていくことに、いつの間にか没頭していきます。ここの描写が、めちゃくちゃ良い。任務のためであった行動が、いつの間にか自分のための時間になり、自分を見つめ直し、描き直す行動になる。この、作品を書くものなら誰にでもあったはずの、黄金色の瞬間が閉じ込められている――それだけで、この本には読む価値がある。何よりも強い価値があるのです。

     さあ、しかし、ビリーの小説には最後のピースが足りない。それは読者です。ある一つの出会いがビリーを、思いもよらなかった結末へ導いていく……この流れまで含めて、全てが素晴らしい。いまは作中作まわりの話しかしていませんが、「外枠」にあたる殺し屋の「最後の仕事」部分のサスペンスだって、上巻の後半からギアを上げて加速していきます。こちらも鳥肌が立つほど巧い。スロースタートに見えた前半も前フリにして、完璧にして感涙の下巻へなだれ込んでいく。多くを語れず、作品の周りをうろうろするように話すしかないのが心苦しいですが、この下巻は絶対に物語読者の心を掴むでしょう。犯罪小説への愛、物語への愛が、これ以上ないほど綺麗な黄金色の輝きに結実した作品――それがこの、『ビリー・サマーズ』です。とにかく、今年はこれを読んでくれ。

    〇好きなキング作品の話 ~なんとか十作に絞って~

     さて、ちょっと先走るようにして、過去作の話も色々出しましたが……ここからは、自分の好きなキング作品の話をあれこれしていこうと思います。『シャイニング』や『IT』は、自分の原体験に刺さり過ぎていて、もはや「別格」の扱いになってしまっているので、それらを除いて選んでみます――主に、大学生の時期以降に読んだ作品群です。記憶もかなり鮮明だし、じっくり書けるラインかな、というあたりから。

    1、『死のロング・ウォーク』(扶桑社ミステリー) 1979年

     いきなり、キングの別名義であるリチャード・バックマン作品から一冊。十四歳から十六歳までの少年百人が、アメリカ・カナダの国境から出発して、ただひたすら南に歩く競技に参加させられるのですが、歩行速度が時速四マイル以下になると警告が発せられ、一時間以内に三回以上警告を受けると射殺される……という、すこぶる異常な設定で書かれた最強の青春小説。この設定がとにかく強い! のは言うまでもないのですが、番号を与えられた少年たちが繰り広げる群像劇があまりにも見事で、避けようのない死へと一人一人呑み込まれる過程にどうしようもなく引き込まれます。語り手はレイ・ギャラティに固定されているのですが、それぞれの理由でこの競技に参加した参加者たちのキャラクターや物語が、一つ一つ心に残るんですよね。生き残ったら本を書くために、一人一人にインタビューしてる奴、大好き。

     恩田陸『夜のピクニック』高見広春『バトル・ロワイヤル』に影響を与えた作品としても知られていますし、歩きながら行われる対話によって物語を駆動するテクニックは、米澤穂信『ふたりの距離の概算』、ピーター・ラヴゼイ『死の競歩』なども思わせます。スティーヴン・キング作品のマスターピースとして復刊してくれないかな。これはただのデスゲームではなくて、青春小説であり、ヒューマン・ドラマなのです。そう言うと甘っちょろい物語に聞こえるかもしれませんが、死が約束されていることもとても大事なんですよ。

    2、『ミザリー』(文春文庫) 1987年

     作家ポール・シェルダンが自動車事故で半身不随になり、元看護師のアニーに助けられる。しかし、アニーはポールの愛読者であり、病院には全く連れていってもらえず、監禁されてしまう。ポールが書いていた長編『高速自動車』を燃やし、ポールの人気シリーズであるミザリーものの新作を書かせようとする――というのがあらすじ。

     ここにきて大ベタ。50周年記念帯の時に買ったので記憶が鮮明なのです。つまり、作家になってから読んだのですが――作家だからこそ、怖いんじゃないの? と言われそうですが、とんでもない。途中まで、アニーにはイライラさせられ通しです。『高速自動車』を燃やされるくだりではこっちの方がキレそうになりました(笑)。それが恐怖に取って代わったのは、「N」の文字が欠けたタイプライターという小道具が、小説全体の中で暗喩として意味を持つことに気付いてからです。そして、第三部に入ってからは、いよいよ絶望。怖すぎる。スーパーナチュラル要素のない犯罪小説・密室劇・メタフィクションとして、ある意味最も広くミステリー好きにも薦められる作品です。

     本書と『ビリー・サマーズ』には一つの共通点があることを、キングは明かしています。『スティーヴン・キング大全』から『ビリー・サマーズ』に言及したくだりを引用すると、以下の通り。

    〝本書(注:『ビリー・サマーズ』)はまた、書くという行為を探求した作品でもある。「これまで書いた本の中には、書くことをある種の中毒性とみなす作品がある。しかし2冊だけは異なる。ひとつは『ミザリー』で、もう1冊が『ビリー・サマーズ』だ。それらの作品では、書くことが救いとなることが語られている。プロの作家でなくても、そういうことはときおりあると思う。書くことは自分自身の感情や世界線への入り口となる。だから、それはいいことなんだ」〟(『スティーヴン・キング大全』、p.216より)

    「なんてこった、キング、あなた、『ミザリー』を救いとして書いていたのか!」とハリウッド映画風に天を仰ぎたくなるような記述ですが、そう思って、一編の傑作として、それも、ポールにとっての「極めて私的な傑作」として作中で書かれた「ミザリーの新作」を振り返ってみると、その閃光のような輝きが胸に迫ってきます。自分の作品世界に縋るポールの姿も。とてつもなく怖く、感情を揺さぶられる作品ですが、ただ怖いだけではない。その多面的な魅力を、未読の人はぜひ体験してみてほしいです。

    3、『ダーク・ハーフ』(文春文庫) 1987年

     実は、『ビリー・サマーズ』が出る前は、これが私のキング偏愛作ナンバーワンでした――というのも、これは犯罪小説に関する物語であり、失われた半身を描く物語であり、飛び切り不気味なシーンが最後に現れる怪奇小説でもあるからです。

     売れない文学作家サド・ボーモンドは、犯罪小説家としての裏の顔を持っていた。その名はジョージ・スターク。サドはある日、すべてを公表し、ジョージ・スタークの名前を葬り去ることを決意する。しかし、ある殺人事件が身近に発生し、事態は急変する。ただの別名義だったはずの「ジョージ・スターク」が血肉を得て、人を殺した、というのだ……。

     スティーヴン・キング=リチャード・バックマンが明らかになった騒動に着想を得て書かれた小説で、「転んでもただでは起きない」創作姿勢には感服するしかありませんが、作中の「ジョージ・スターク」が書いた犯罪小説の概要が、とにかく面白そうなんですよねえ。「スターク」という名前から明らかな通り、ドナルド・E・ウェストレイクの別名義「リチャード・スターク」から取ったもので(ちなみに、「リチャード」・バックマンの由来も同じらしい)、著者の犯罪小説観が窺える記述も興味深いですし、そういった記述の数々から「読書家」キングの肖像が立ち上がってくるのも面白い。もちろん、話の筋も絶妙に面白い。サスペンスフルな展開も良ければ、最後に現れる、ゾッとするようなビジョンもさすが。

    『ダーク・ハーフ』にも登場する架空の地方都市「キャッスルロック」は、キングの複数の作品で出てきますが、私は「キャッスルロック」が出てくる作品が大好き。能力者ゆえの苦悩を描き、「喪失」の物語としての凄まじい強度を備えた傑作『デッド・ゾーン』、狂犬病にかかった犬に襲い掛かられる恐怖が素晴らしい『クージョ』(車の中に閉じこもるシーンの厭さときたら!)、手塩にかけて育てた街を、丁寧に丁寧に破壊していく『ニードフル・シングス』など(蜘蛛の足を嚙み千切るシーンとか、未だに忘れられないんですが……)、10選をこれで全て埋めてしまえるほど。『骨の袋』も物悲しいゴースト・ストーリーでいいですね。エモいし。

    4、”Four Past Midnight“→『ランゴリアーズ』『図書館警察』(文春文庫)の二分冊 1990年

     キング中編集の中で最も好きな作品――と、まあ、「中編」と言いましたが、文庫で300ページクラスの作品二つで一冊、分冊されてもその総ページ数は約1400ページという大容量なので、日本作品の感覚で言えば「長編が四つ読める」といった方が正しいかも(笑)。私が ”Four Past Midnight“ を勧める理由は、ここに、キングが展開する「恐怖」のパターンが総覧のように並べられているからです。

     まず冒頭「ランゴリアーズ」は、ジャンボ機の中で眠ってしまい、目を覚ましたら、11人だけを残して乗客全員が消えていた――という、有名な事件「メアリー・セレスト号事件」を遭難者の視点から覗いたような「厭な」物語。乗客たちを襲う怪異のビジュアルからしてサイコーですし、11人を群像劇のように動かし、駆動していく手さばきには、マルチ・キャラクターを得意とするキングの手腕が遺憾なく発揮されています。中編「霧」や長編『アンダー・ザ・ドーム』と同じように、「大いなる理不尽」に襲い掛かられる恐怖を描いた傑作。中核のアイディアはSFでもある。

    『ランゴリアーズ』に同時収録の「秘密の窓、秘密の庭」は、映画「シークレット・ウィンドウ」の原作。自分の作品を盗作したのではないか、と疑いをかけられる作家の心理を描いたサスペンスで、真相の意外性もなかなか。『ミザリー』や『ダーク・ハーフ』好きには堪えきれない逸品ですし、新刊『ビリー・サマーズ』にも連なる、「キングの作家小説」としても読ませる作品。

     二分冊の二冊目『図書館警察』の表題作では、不気味な図書館と、借りた本を返さないと現れる「図書館警察」の恐怖を描き、リアルな描写を積み重ねることにより、日常の中にぽっかりと開いたファンタジックで不気味なビジョンを際立たせるキングお得意の骨法が存分に発揮されています。恐怖という点では、四つの中で一番怖いかな。世界観の作り込み方も好み。

    『図書館警察』に同時収録の「サン・ドッグ」は、『ダーク・ハーフ』の項で述べた町・キャッスルロックが登場する物語。破滅編である『ニードフル・シングス』への橋渡しをする役割を果たしています。異界を写すカメラがもたらす破滅を描いた作品――なのですが、冒頭にキングが置いた献辞にある通り、「ジョン・D・マクドナルドへの追慕」として書かれた作品なのが特徴。ジョン・D・マクドナルドというのは、私立探偵の〈トラヴィス・マッギー〉シリーズなどで知られる作家で(『濃紺のさよなら』など。ちなみに私はそのシリーズではない『夜の終り』が好き)、そのジョンに捧げたためか、犯罪小説としての切れ味も素晴らしい作品になっています。

     ちなみに、『図書館警察』の巻末には翻訳者+装幀者座談会が収録されており、翻訳者の白石朗、小尾芙佐と装幀者の藤田新策の三人が収録作とキングについて語り倒しています。『IT』が優れた恋愛小説であると言及する藤田氏の指摘には首がもげるほど頷いてしまいますし、キングの各作品の繋がりなどを続々と読み解いて指摘していく白石氏の熱量に脱帽です。また、これは小尾氏も含めて、三人共通の特徴ですが、キングについて話す時、全員、微に入り細を穿って、ディティールや細かな表現の巧さを騙っているので、キング作品のディティールがいかに人を魅了するかが分かって面白い。

    5、『ドロレス・クレイボーン』(文春文庫) 1993年

     取調室でのやり取りのみで構成された、真正面のミステリー作品。「キングは女性が書けない」という批判に応えるために書かれた〈虐待される女性〉三部作の第二作(第一作は『ジェラルドのゲーム』、第三作が『ローズ・マダー』。この三部作の命名は風間賢二『スティーヴン・キング論集成 アメリカの悪夢と超現実的光景』で知ったもの。なんて命名だ)。設定の奇抜さが際立つ『ジェラルド~』、絵の中の世界というファンタジー要素も掛け合わせた『ローズ~』に比べると、本書『ドロレス~』には、派手さはなく、スーパーナチュラル要素もなく、「ないない尽くし」に思えますが、その代わり、キングの「語り」の魅力が横溢し、ミステリーとしての構築性も高い傑作になっています。

     30年前に夫を殺したと噂される女性に、新たな殺人の容疑がかかる。共に暮らし、生活の世話をしていた女性が亡くなったのだ。二つの殺人の真相は? 過去の殺人の日にあった皆既日食は、彼女の秘密を見ていた……。

     同書は「黙秘」というタイトルで映像化もされており、こちらはキング映画の中でも屈指の傑作となっています。「ミザリー」以来の主演キャシー・ベイツによる熱演も見事ですし、皆既日食と秘密のコントラストは、映像で見た方が映えているような気さえします。また、原作では問わず語りのようにドロレスが話をまくしたて、時系列を頭の中で整理するのが大変なのですが、映画は分かりやすくするため巧みに再構成されているので、「副読本」的な扱いをする場合でも大変優秀です。もちろん、原作も読んでほしい。文章を読みながら、頭の中で再生される「読者それぞれのドロレスの声・ドロレス像」にこそ、この作品の本質があるのですから。

    6、『回想のビュイック8』(新潮文庫) 2002年

     倉庫に眠る謎めいた車、ビュイック8を巡って、息子が亡き父の同僚たちをインタビューし、父の意外な過去を知っていく……という筋の物語で、車を描いたホラー『クリスティーン』のような話と思いきや、あれよあれよと意外なところに導かれる、語り部の才を味わえる佳品。名作『グリーン・マイル』を思い起こさせる要素もあり、それぞれの語りが響き合いながら、クライマックスに向かっていく下巻の展開でその印象は最高潮に。語ることで物語を駆動し、語ることで世界を変えていく。その構成にグッときました。

     ちなみに、この作品、帯裏の文言が良い。チェックボックスにはチェックがついています。

    〝本書はこんな方にお薦めです
    □『スタンド・バイ・ミー』が好き。
    □『グリーン・マイル』には感動した。
    □『アトランティスのこころ』は傑作!
    □『骨の袋』の愛の切なさに涙した。〟

     こうして挙げられているタイトルを見ると……うーん、まさに思うつぼというか。私はキングの「エモさ」が好きなのだなあと、改めて再認識させられた帯です。

    7、”Full Dark, No Stars“→『1922』、『ビッグ・ドライバー』(文春文庫)の二分冊 2010年

     原題が象徴する通り、とにかく暗く、陰鬱で、厭な後味が残る作品が集まった中短編集。特に犯罪小説×ホラーとして出色の中編「1922」が素晴らしい。息子と共に妻を殺し、古井戸に捨てる犯行シーンの書きぶりからして堂にいっていますが、なぜその罪を告白したのかが明らかになっていくパートの薄ら寒さときたら。読んだ後しばらく具合が悪くなるくらい厭な話。告白・語りによって話を駆動していく点は、『ドロレス・クレイボーン』の再演ともいえるのですが、「1922」はむしろ、虐げていた側の男性の視点から書いているからこそ、これほどの「厭」さを表現し得ているともいえます。『ジェラルドのゲーム』『ドロレス・クレイボーン』『ローズ・マダー』で、女性の視点から男性を書いたキングが、あえて男性にもう一度帰ってきた時に、これほど暴力的で、最悪の犯罪小説が産み落とされるのかと、ゾッとしてしまったのです。

     復讐譚の「ビッグ・ドライバー」、夫が殺人鬼であることを知ってしまった妻の心理描写に暗澹とする「素晴らしき結婚生活」など、どれも引き込まれます。しかし、厭な話であるということは共通している(笑)。読者は選びそうですが、どうしても挙げたかった。

    8、『11/22/63』(文春文庫) 2011年

     邦訳が2013年ということで、私が大学に入った年に日本で刊行されたキング作品。これが面白いんだよなあ。何回読んでも面白い。ケネディが暗殺される1963年11月22日にタイムスリップし、その暗殺を阻止しようとする――というあらすじだけ聞けば、陳腐そのものなのですが、移動手段をタイムトンネルとしたうえで、行ける年代を「1958年」に設定するアイディアが天才的。タイムトンネルを使えばリセットは出来るものの、1958年から5年間の人生を過去で過ごさなければならず、肉体は年を取るので、簡単にリセットボタンを押せない。ここが、便利なタイムトラベルとはまるで別なのです。

     そこで、『11/22/63』は、物語上最大のXデーである1963年のケネディ暗殺の日をよそに――1958年の世界で「日常」を生きる物語として立ち上がっていきます。ここを退屈なスローテンポと捉えるか、物語巧者の圧倒的な余裕と捉えるかで、本書の評価は百八十度変わるでしょう(事実、大学のサークルではそんな雰囲気だった気が)。私は肯定派で、円熟期の今のキングは――今回の新作『ビリー・サマーズ』も含めて――さりげない日常描写が実は一番面白いと思うのです。心に沁みるし、そんな描写の中にきっちり伏線を張り巡らせている。ラストシーンの、憎たらしいほど巧いこと! エモいこと!

     タイムトラベルそのものの物珍しさがなくなった今、「タイムトラベラーの悲哀」「割を食った人生の悲哀」というものが、胸に迫ってくるようになったというのもあります。佐々木譲『図書館の子』に収録の短編「遭難者」とか、真相の明かし方にグッとくるんですよね。オススメ。

    9、『ジョイランド』(文春文庫) 2013年

     キングの中でもミステリー度の高い一冊。というか、直球のフーダニットですからね。海辺の遊園地、ジョイランドで殺人を繰り返す殺人鬼を追う物語で、青春時代を描くエモさとミステリーの骨法がコンパクトにまとまった一作(文春文庫で360ページぐらい。キング長編の中では圧倒的に短いですね)。本国では、「Hard Case Crime」という、復刊なども積極的に行っているレーベルから出た作品で、ミステリー度が高いのも頷けます(同レーベルはマックス・アラン・コリンズやローレンス・ブロックなどを一昔前のアメリカのペーパーバックみたいな表紙で出してくれるので、かなり好きです)。最後の一行がとてもいいんですよねえ。エモい時のキングは無敵。

     ちなみに、キングは同レーベルで、第一弾に「コロラド・キッド」、第二弾が本書、第三弾が “Later” という作品で、今回の「スティーヴン・キング50周年記念ラインナップ」で、第一弾・第三弾も読めるようになるので、ありがたいことです。特に「コロラド・キッド」は、日本では新潮文庫版『ダーク・タワー』の全巻購入特典でしか手に入らず、古書店等での市場価格は数万円だったので、どうしても読めなかった。50周年、様様ですね。

    10、『アウトサイダー』(文春文庫) 2018年

     キングのミステリー作品としては、〈ビル・ホッジズ〉三部作を欠かすことは出来ない――『ミスター・メルセデス』『ファインダーズ・キーパーズ』『任務の終わり』、いずれも素晴らしく、特に『ファインダーズ・キーパーズ』がお気に入りですが、やはり三部作で読んでほしい気持ちもあります――ですが、ここはあえて外して、『アウトサイダー』を。

     キング作品の特徴として、怪異・恐怖の世界へと足を踏み込む前段としての、「現実・リアルの描写の確かさ」を重んじることが挙げられると思います。描写されている世界が、私たちの世界と全く地続きの世界であることを、描写のリアルさ、確かさが保証してくれるだけに、その後に描かれる恐怖が際立つ――自分の生きている現実を、侵犯されている気分になるからでしょう。その一手法としてここで使われているのが、警察小説の骨法なのです。警察小説としての描写がリアルを保証し、ホラーへの飛躍をも可能にする。〈ビル・ホッジズ〉三部作とはそういうものだったと思いますし、『アウトサイダー』には、そちらでは三作かけてやったことを、一作の中で実現したような面白さがあります。

     事件の発生→捜査→検証のプロセスによって、「どこからどう見てもある人物が犯人であると考えられるにもかかわらず、同時に完璧なアリバイが成立している」という奇妙な現実を徹底的に描き、それを恐怖により解体する。この手際の巧さには感心するほかありません。下巻のチェンジ・オブ・ペースが素晴らしく、ここで「ある事実」を掘り出すことによって、ミステリー的に大きなヒントが与えられると同時に、「この事件ってもしかして……」という恐怖が襲い掛かってくるところが巧み。まあ、ヘンな小説であることは間違いないですし、本格ミステリーが読みたいとか思って読むと激怒しかねないですが、エンタメ作家・キングの力量を堪能するにはうってつけの一冊でしょう。

    〇まとめ

     ということで、新刊『ビリー・サマーズ』を入り口に、ホラーにとどまらない巨匠の魅力について好き勝手に書き散らしてみました。ビビリで怖がりの人間がこれほど楽しめているのだから、海外作品やホラーへの苦手意識がある人でも、楽しめるものが見つかるはず。今では、『ミザリー』の項で取り上げた『スティーヴン・キング大全』が初心者からマニアまで嬉しいガイドブックになっていますし(各作品について、証言録や作品を取り巻く状況、映画化作品のスチルなどをまとめているのもさることながら、キャッスルロック、デリーが舞台となる作品についてまとめたり、作家が主人公になっている作品をリスト化したりと、芸が細かい)、風間賢二『スティーヴン・キング論集成』の巻末についた「スティーヴン・キング全作品(1974~2020)紹介」も大いに参考になるでしょう(なお、ビリー・サマーズの原著刊行は2021年なので、こちらの紹介はなし)。そのリストでは、キングの全作品について、怖さ、難易度、お薦め度の三つのパラメータを使ってレビューされているのです。読むべき作品が分かるのも良いですし、何より、「怖さ」「難易度」という項目の立て方が良い。私のようなビビリは段階を上げて怖さに慣れることが出来るし、海外作品に尻込みしている読者には「難易度」が大いに参考になるはず(たとえば、メタフィクショナルな趣向が立ち過ぎた『ミザリー』は、もちろんお薦め度★5ながら、難易度の採点は★5になっています。『呪われた町』も同じくお薦め度は★5ですが、難易度は★3。入り口としては、こちらのほうがいいかもしれませんね)。作家活動50周年を迎えるキングだからこそ、今から追いかける人のためのケアも充実しているのです。

     さあ、しかし、何はともあれ『ビリー・サマーズ』です。なぜなら『ビリー・サマーズ』は物語を愛する全ての人のための本なのですから。

    (2024年4月)

第77回2024.03.22
ぼくの山形紀行 ~もはやただの旅行記録~

  • 松本清張『殺人行おくのほそ道』、書影

    松本清張
    『殺人行おくのほそ道』
    (光文社文庫、上下巻)

  • 〇雑誌の話題を少しだけ

    「小説宝石」2024年3月号からは、奥田英朗の新連載エッセイ「あなたと映画と音楽と」に注目。奥田が好きな映画と音楽について語るもので、第一回のテーマは「ニューヨーク」なのですが、「フレンチ・コネクション」「タクシー・ドライバー」「ホット・ロック」など往年のクライム・フィクションの名前が続々挙がり、楽しいことこの上ない。さらに嬉しいのは、末尾に「今月のプレイリスト」と称した音楽リストと、Spotifyに飛べる二次元コードがあることだ。こういうのは楽しいし、作者が奥田英朗というのもいい。

     新潮社から砂原浩太朗『夜露がたり』が刊行されました。著者初の「江戸市井もの」ですが、これがもうとても面白い。一編30ページほどの短い小説なのに、そこに人々の生活のありようと、胸を抉られるような心理描写が息づいています。「小説新潮」掲載時から、いつも短編を楽しみに読んでいたので、まとめて読めて大喜び。「帰ってきた」「幼なじみ」など、見事なツイストが決まった作品もあり、ミステリー好きも読み逃せない作品集。「小説新潮」2024年3月号は「春の歴史時代小説特集」で、酒井順子×砂原浩太朗による「「裏ごのみ」な私たち」という対談も掲載されている。『夜露がたり』に関するもので、特に、武家ものと市井ものの書き方の違いなどは、時代小説については門外漢なので勉強になりました。やっぱりいいなぁ、砂原浩太朗。一作ごとに、しみじみと好きになっていく。

    「小説新潮」誌上においては、酒井順子による「松本清張の女たち」もついに完結。今までにあまりなかった視点から描かれる清張像が面白く、毎月楽しみに読んでいたので、ちょっと喪失感がある。読んだ時、ただ嫌な味だけが口の中に残った「黒地の絵」について、ここまで腑に落ちる取り上げ方を見たのは初めてかも。

    〇ぼくの山形紀行編

     そんな清張の話から繋がって、今月の本は松本清張『殺人行おくのほそ道』(光文社文庫、上下巻)。2月に山形に行く事情があり、山形の酒田が出てくるという本書をチョイスし、旅に出ました。まあ、結論から言うと、松尾芭蕉の「おくのほそ道」がモチーフになった作品なので、別に山形旅行の時に限ることはまったくなく(なんなら、今回の旅行はイベント合わせで行ったので、山形駅周辺からほとんど離れることはなく、酒田に行くことも出来なかった)、全国どこに旅行に行く時も、お供として読めそうな作品でした。作品冒頭に掲載された地図を見ていただければ分かる通り、東北から北陸までしっかり行くし、地図にはないが、九州旅行の描写まであります。

     この『殺人行おくのほそ道』を読んだのには、先ほど取り上げた「松本清張の女たち」も絡んでいます。当該連載の中で議論された「お嬢さま探偵」というワードがやけに印象に残っていたのです。上流階級に生きる両親の娘が、自分ならではの視点で事件に首を突っ込んでしまう、というパターンが清張には多いという趣旨の指摘でした。

     そう思って読んでみると、確かに、そもそも取っ掛かりとなる謎は、「お嬢さま」である麻佐子が叔父との旅行中、所有していた山林を叔母が売却していたことが分かるが、その時の叔父の態度が不審だった……というもので、そりゃあ「お嬢さま」の視点からしか出てこない謎である。そのせいもあってか、どこかゆったりしたような空気が全編を覆っていて、それだけに、叔父と芭蕉ゆかりの名跡を巡る序盤の描写を読んでいるだけでも旅情気分に浸れるし、調査を進めていくうちに、少しずつ、叔母を巡る怪しげな人間関係が見えてくる手つきなども、どこか海外のオールドカントリーミステリーを読んでいるような味わいがあります。なので、謎解きの要素が薄いとはいえ、好ましいし、800ページの分厚さも不思議と苦になりません。

     今回、初めて乗った東北新幹線の車窓からの景色も堪能して、山形駅に到着。目的のイベントまでは時間があるので、少し町を散策します。霞城公園内にある山形城跡を見て、山形市立郷土館を見学。前に、「ミステリーの舞台みたいな館」という情報を見かけて、ちょっと気になっていたところです(文中に他の写真を挟んで、前に画面がおかしくなったことがあるので、写真は貼らずにおきます。検索してみてください)。ということで、試しに行ってみたところ……おお、本当だ。十二角形の塔のような形状をしていて、真ん中にはでかい中庭があり、螺旋階段がある。この館は、確かにミステリーに出てきそうだし、なんなら回転するでしょう。「昔は病院だった」というおまけつき。展示も見たのですが、もはや建物の方が記憶に残ってしまっている始末。反省。

     山形市立郷土館に置かれていたラックに、藤沢周平作品の朗読会の知らせがあり、そういえば、山形に行くなら藤沢周平を持ってくるのも良かったな、と後悔しました(藤沢周平は山形にゆかりがある)。私が好きなのは『暗殺の年輪』『闇の歯車』です。と思っていたのに、八文字屋という書店に着いた頃にはすっかり忘れて、西村京太郎『つばさ111号の殺人』(講談社文庫)を購入。旅をしたら、その土地の西村作品を買うのを習慣にしようかと思っていまして。ちなみに、この作品は山形からの帰り道に読んだのですが、東北新幹線に乗った後の方がピンとくるトリックが使われていて、やっぱり旅をしながら読むのにうってつけだなぁと思いました。作者の勘所は、むしろ殺人事件全体の構図の方な気がしますが。

     霞城公園の近くに香澄堂書店という古書店を見つけ、思わず店内へ(かすみ、で掛けているのかな)。その土地の古書店で思わぬ出会いを探すのも、旅の楽しみです。すると、店内には古めのミステリーや海外文学がたくさんあり、探していた作家のノベルスがごっそりと。二十冊ぐらいあるので、これを全部買ったら大変なことになるし、帰れなくなるな……と思い、泣く泣く冊数を絞ることに。試みに、買った本のリストを載せてみると、種村直樹『長浜鉄道記念館』、岩崎正吾『探偵の夏あるいは悪魔の子守唄』『探偵の秋あるいは狸の悲劇』(いずれも創元推理文庫)、辻真先『紺碧は殺しの色』(双葉社)、野坂昭如『三味線殺人事件』(講談社ノベルス)、大谷羊太郎『御神火殺人事件』(ベストブック社)、ジェイムズ・マクヴェイン『血の臭跡』(サンリオ)、アーウィン・ショー『ザ・ニューヨーカー・セレクション』(王国社)、マウリ・サリオラ『ヘルシンキ事件』(TBS出版会/ワールド・スーパーノヴェルズ)と全九冊。『紺碧は殺しの色』は既読・既所持ですが、入手困難となってしまっている傑作なので、一応布教用に購入。『ヘルシンキ事件』は帯付美本で1500円だったので、帯のために買い、所持している帯なしの『ヘルシンキ事件』は友達にあげる予定。あとは未読です。こんな買い方をしているとあっという間に本棚に入らなくなるから、皆さんは絶対にやめましょうね。

     目的のイベントを終え、運よく入れた日本酒バーで山形の芋煮や山形牛の炭火焼を堪能し(何を食ってもうまい!)、翌朝は早々に東京に帰るも、大満足の旅となりました。帰り道の読書では、長岡弘樹『血縁』(集英社文庫)を再読。作者が山形出身であることと、好きな短編集であるためにセレクト。「文字盤」のように、人の視線の動きに着目した推理の鮮やかさが映える作品もありますし(読んだ人は気付かれるかもしれませんが、『星詠師の記憶』の謎作りをする際に参照した作品です)、「オンブタイ」のように、かなりトリッキーな趣向が盛り込まれた作品まであって、本格ミステリーマニアにも強く薦められるノンシリーズ短編集になっています。

     そんなわけで、旅行感の少ない紀行編をお送りしました。この原稿が出る頃には、また次の旅に出て帰ってきているの、なんかペースがおかしい気がする。

    (2024年3月)

第76回2024.03.08
作家たちの忘れ物 ~芦辺拓、新たなる偉業~

  • 芦辺拓・江戸川乱歩『乱歩殺人事件 ―「悪霊」ふたたび』、書影

    芦辺拓・江戸川乱歩
    『乱歩殺人事件
    ―「悪霊」ふたたび』
    (KADOKAWA)

  • 〇またやってくれたぞ、芦辺拓!

     KADOKAWAから芦辺拓・江戸川乱歩『乱歩殺人事件 ―「悪霊」ふたたび』が刊行されました。恥ずかしながら、江戸川乱歩に「悪霊」という中絶作があるのは知っていたものの、テキストにあたったことはなく、どんな作品なのかも知らなかったので、今回初めて触れたことを最初に述べておきます。というのも、芦辺拓が「合作者の片割れによるあとがき」で述べている通り、「犯人が誰かはミステリファンの常識となるぐらい知れわたっているのに、それ以外のことはほぼ何もわからない」(同作、p.205)というのが、『乱歩殺人事件』が書かれる前の状況だったようなのですが、私はその「犯人が誰か」についても、全く知らないまま読むことが出来たからです。だから多分、すれっからしのマニアの人よりも、驚きのポイントが一つ多い、幸運な状態で読むことが出来ました。

    「ミステリファンの常識になっている」とまで言われたような状況を知るためには、例えば光文社文庫の江戸川乱歩全集第8巻『目羅博士の不思議な犯罪』に収められた、新保博久の解説を読むのが手っ取り早い。そこには、江戸川乱歩と横溝正史の「悪霊」をめぐる関係や、正史が犯人にまつわるキモの部分を乱歩から聞いており、それを都筑道夫との対談で明かしたことなどがまとめられています。そのうえで、当該人物が犯人だったとすると……という検討までさらりと書かれているという至れり尽くせり。とはいえ、この犯人に対するキモの部分は、それを聞いてしまうと、一切の驚きが損なわれるようなものなので、何も知らないのであれば、この解説を読むのは後回しにするのをオススメします。私は今回『乱歩殺人事件』を読むにあたり、「さすがに原文にいったんあたっておかないと」と思い、『目羅博士の不思議な犯罪』に収録された「悪霊」を読み、解説を一旦置いておき、すぐに『乱歩殺人事件』を手に取ったので、またまた運よく、ネタバレを免れたというわけ。

     とはいえ、『乱歩殺人事件』はそれ単体で楽しめるよう、見事に設計されています。私が言った「原文にあたっておかないと」みたいな心配も無用で、乱歩が書いた「悪霊」は全文がそのまま掲載されています(作中に、連載版の形式に揃えて掲載された「悪霊」の第三回までが乱歩で、最終回にあたる第四回は芦辺の手によるもの)。原文にあたっておくメリットを強いてあげれば、『乱歩殺人事件』に掲載された「悪霊」は総ルビかつ黒っぽい紙に印字されており、目が疲れるので、いったん白い紙で読めるのがありがたかったことくらいでしょうか。しかし、その程度のものです。

    『乱歩殺人事件』では、奇しくもネタバレされてしまった真犯人にまつわる趣向だけでなく、土蔵の密室殺人、現場に残された不可解な記号の謎、謎めいた形をした血痕など、種々の謎が丁寧に解かれています。その手つきだけでも、パスティーシュ・贋作をお手の物とする作者の面目躍如といったところですが、この作品がさらにすごいのは、「乱歩が「悪霊」を中絶した理由」にまで踏み込んでいくところ。そのため、連載「悪霊」の全三回分と、芦辺の書いた第四回は作中作になっており、作品の額縁部分では、乱歩が連載をしていた当時の時代が描かれます。一種のメタミステリーとして、「悪霊」が蘇っているのです。不可解な記号の謎をも絡め、さながら『孤島の鬼』の頃の乱歩のようなどこか耽美でねっとりとした企みの中に、作品全体がからめとられていくところは、妙な酩酊感もあり、絶妙の味わいです。

     全体が202ページに及ぶ中、乱歩のテキストは64ページ、残りの136ページは芦辺拓が書いたということになるので、6割以上を芦辺拓が補完したという形になります。今回の読書日記では、こうした「未完の作品」を他の作家が完結させた例を色々と探っていくのですが、やっぱり、「問題編」にあたる未完作品のテキストが長ければ長いほど、構想のヒントが多くなり、「解決編」の見通しが立ちやすくなるという特徴があると思います(『復員殺人事件』のように、むしろ解けない謎を抱え込む例もあるわけですが)。乱歩の「悪霊」を完成させようと思った時に、頭が痛いのは、テキスト全体が短いわりに構成要素が多く、しかも、その要素がどういう全体像をなすのか分からないという点です。おまけに、最も大きなパズルのピースであるはずの「犯人」が外部事情で明かされてしまっている。考えれば考えるほど、「悪霊」を一つの作品として完成させつつ、作品の成立事情の謎まで解こうとするという剛腕ぶりには頭が下がります。

     乱歩執筆部分の「悪霊」を含めて、わずか200ページほどの薄い体の中に、みちみちに筋肉が詰まったパワフルな快作になっています。「悪霊」のことが分からない、読んだことがない、という人でも大丈夫。ここに、「常識とされる」犯人を一切知らないまま、最高に楽しんでしまった人間がいます。芦辺拓の新たなる偉業、ぜひ見届けましょう。

     ちなみに、電子版では電子版特典として「芦辺拓+江戸川乱歩特別対談 ~「悪霊」の九十年ぶり完結を記念して~」という対談が収録されています。法月綸太郎の評論本などでみかける「架空対談」というやつですね。思わずクスッと笑わされてしまいました。

    〇せっかくなので、「未完の作品」を読み潰し ~国内編~

     さて『乱歩殺人事件』に大いに触発され、せっかくなので、本棚にある「書き継がれた」「未完の作品」を読んでしまおうと思い立ちました。やはり、その作家自身に強い興味や思い入れがあって、全部読破するくらいの勢いでないと、「未完作品」にまで手を出そうと思わないので、幾つも宿題が残っているのです。既読の中で印象に残っているのは、やはり、北森鴻の絶筆を公私にわたるパートナーであり自身も作家である浅野里沙子が書き継いだ『邪馬台』(新潮文庫)です。残された構想ノートをもとに完成させたもので、作中に登場する古文書の解読方法はメモがほとんどなかったようなのですが……そんな経緯が信じられないほどハイレベルに謎が解かれることに感動しました。〈蓮丈那智〉シリーズ、のみならず、北森作品全体の中でも最重要作とさえ思える完成度・充実度を誇る『邪馬台』を、完成させてくれたことに、とにかく感謝しかありません。

     そんなわけで未読作を本棚から探して、読んでいくのですが……ここで参考になるのが、前回も紹介した探偵小説研究会編『妄想アンソロジー式ミステリガイド』(書肆侃侃房)です(同作は第24回本格ミステリ大賞評論・研究部門にもノミネートされています)。こちらに収録された横井司「墓場へ持ちこまれた謎を解く」では、ミステリー作家が未完のまま終わらせたものの、他の作家が書き継いで完成させた例が幾つも紹介されているのです。このリストを参照しながら、未読を潰していきました。なお、作者名については「原作者&完成者」というような表記で統一しようと思います。

     まずは「悪霊」つながりで、小栗虫太郎&笹沢左保「悪霊」。こちらは扶桑社文庫〈昭和ミステリ秘宝〉版の小栗虫太郎『二十世紀鉄仮面』で読むことが出来ます。小栗虫太郎が長編として構想していた「悪霊」には、構想の一端を示すメモ書きがあり、そちらは海野十三の「遺作「悪霊」について」という文章の中でまとめられています(こちらも『二十世紀鉄仮面』に収録)。笹沢による解決編は、さすがに文体の点で虫太郎の迫力はないものの、読みやすい文章で、虫太郎らしく「顔のない死体」を二重に捻ったトリッキーなプロットと、戦争を通じて描かれる人物たちの悲喜劇を味わうことが出来るので、これはこれで面白く読めました。

     山村美紗&西村京太郎『在原業平殺人事件』(中公文庫)は、山村が一九九六年に急逝した際、途中で終わってしまった連載を、西村が書き継いだもの。同様の経緯で成立したものに、『龍野武者行列殺人事件』(ジョイ・ノベルス)がありますが、古書店で見つからなかったのでそのうち読むことにしました(Kindle版はあります)。『在原業平~』は全十二章の構成で、第九章までが山村の手によるものであり、第十章からは西村にバトンタッチしますが、第十章の冒頭には「未だに、明子には、今回の事件の性格が、はっきりしないのだ」という文章があり、そこから事件の整理が始まります。まるで、故人の遺した謎に挑む、西村の声がそのまま聞こえてくるかのようなパートです。実にスリリング。愛憎劇や在原業平についての学説まで広げた風呂敷を、手際よく畳んでみせています。

     続いて天藤真&草野唯雄『日曜日は殺しの日』(カドカワ・ノベルス)。こちらは、天藤真による同題の中編「日曜日は殺しの日」について(この中編は創元推理文庫『背が高くて東大出』などで読むことが出来ます)、天藤自身が長編化する構想があり、原稿も半分ほど出来ていたものの、作者逝去により完成が叶わなかったもの。天藤の遺言により、その親友である草野が作品の完成を請け負った、という経緯です。冒頭で示される「交換同時殺人」というハッタリの効いたアイディアが魅力的なサスペンスとなっています。日曜日に妻が病気になり、「近在の医師は全部休診、救急車をたのめばどんな医師に当るかわからず、不安と焦燥で一日を過ごした」(『背が高くて東大出』、p.267)天藤自身の暗い体験から生まれた作品であるだけに、シリアスな筆致になっているというのは、カドカワ・ノベルス「あとがき」における草野の言。それには違いないのですが、中編版には、解決編直前に刑事たちが事件にまつわる「三つの疑問」を傍点付きで挙げる場面があり、見逃していたポイントを掬い上げるその手つきには、パズラー作家らしい折り目正しさが感じられます(長編版にも同様の指摘はありますが、粒立てて強調はされず)。出来れば草野による長編完成版だけでなく、中編版も読み比べてほしい一作です。

     国内編の最後に坂口安吾&高木彬光『復員殺人事件』(高木彬光の続篇のタイトルは『樹のごときもの歩く』)。こちらは再読。色んな判型で手に入りますが、今一番手に入りやすいのは、2019年に刊行された河出文庫版でしょう。安吾の傑作『不連続殺人事件』でも活躍した巨勢博士が登場する本格編であり、堂々たる本格ミステリーの興奮を味わうことが出来ますが、新たな死体が登場した瞬間に安吾の作品が終わってしまい、なんとも寂しい気持ちになります。高木彬光による解決編は、一応ドラマの面では納得のいくもので、作者らしいケレン味は効いていて、神津恭介ものの水準作を読んだぐらいの満足感はあります。そういう意味で、個人的には大きな不満のある作品ではなかったのですが、高木彬光自身は「あとがき」で述べている通り、忸怩たる思いがあったよう。高木は安吾の逝去後、その妻に会って、彼女が聞いていた範囲の「構想」について四箇条のリストをまとめていますが、そのうちの一つについては「無理を通せば何とかならないことはないとしても、私の力では書きこなせそうにもなかった」と述懐しています。つまり、ある意味でこの「完結篇」は未完成だったといえるのです。

     今回私が『復員殺人事件』を再読したのは、とある事情で読み返したくなっており、タイミングをうかがっていたからでした。その事情というのが、「ジャーロ」誌上で連載している新保博久と法月綸太郎の両氏による往復書簡「死体置場で待ち合わせ」です。この二人による『復員殺人事件』の謎解きが、往復書簡内で試みられているのです。ジャーロNo.89に掲載の第7回に収録の第二十一信(新保→法月への手紙、二〇二三年六月十二日)からNo.91に掲載の第9回に収録の第二十七信(新保→法月への手紙、二〇二三年十月九日)まで、『復員殺人事件』の解決について論じていて、約四カ月の間、色んなアプローチでその真相に迫っています。『復員殺人事件』を再読してから読むと、とても楽しい往復書簡で、ぜひとも『復員殺人事件』と併読してほしい。ちなみに、ジャーロは小説の冒頭試し読みと評論の全文が読める「ジャーロDASH」というものを電子で無料販売しており、「死体置場で待ち合わせ」は、この「DASH」でも読めます。ちなみに、この往復書簡は現状の最新号であるNo.92で、ようやく「多重解決」にテーマを移しましたが、その俎上にあがったのはロナルド・A・ノックスの『陸橋殺人事件』。激渋ですね。この往復書簡もまた、奇妙な「合作」ということで、今回の特集に挙げておきたかった次第。

    〇「未完の作品」潰し 海外編

     お次は海外編、なのですが、他の仕事もしながらだったので、あまりテキストは手に入らず、読めたのは二作品のみでした。『エイプリル・ロビン殺人事件』も本棚から見つからない始末。どうなっているんだ、我が家は。「墓場へ持ち込まれた謎を解く」に挙げられている、コーネル・ウールリッチの遺作を戸川昌子が書き継いだ「負け犬」とかも、すごく興味があったのですが、二月中には古書店で見つけられませんでした。悔しい!

     まず読んだのはレイモンド・チャンドラー&ロバート・B・パーカー『プードル・スプリングス物語』(ハヤカワ文庫)。レイモンド・チャンドラーの手が入っているのは冒頭の四章のみで、あとはそれを素材にロバート・B・バーカーが膨らませたという経緯。『長いお別れ』で出会ったリンダ・ローリングと結婚して、プードル・スプリングスの豪邸に移り住むことになったフィリップ・マーロウを描写する最初の四章だけで、何か不思議な気分になってしまう作品なのですが、続く五章で依頼人が登場し、いつも通りのハードボイルドに。解説の権田萬治が「会話に知的な閃きが乏しい」とバッサリ切り捨てているのには、そこまで言わないであげてよ、と苦笑してしまうのだけれど、私があんまり気にならないのは、やっぱり根本的にチャンドラーのマニアじゃないからなのかな。

     コーネル・ウールリッチ&ローレンス・ブロック『夜の闇の中へ』(ハヤカワ・ミステリ文庫。私の手元にあるのは早川書房の「ミステリアス・プレス」版)は、コーネル・ウールリッチのタイプ原稿をもとに、欠落した箇所をローレンス・ブロックが補ったもの。併録されたフランシス・M・ネヴィンズJr. の解説に、元原稿の欠落箇所が丁寧に書いてありますが、ざっくり言うと、全体が300ページほどあるうち冒頭20ページと終盤3ページが欠落していて(ページ数はミステリアス・プレス版、つまり邦訳に準拠)、あとは中盤にぱらぱらと合わせて約20ページ分の欠落があったようです。要するに、ほとんどがウールリッチの作品、というわけです。この点を捉えて、訳者の稲葉明雄は、「ローレンス・ブロック=補綴」というクレジットの仕方をしています。

     拳銃自殺しようとしていた時に、誤って撃ち殺してしまった女性に執着し、やがて彼女のための復讐劇に身を投じていくという昏い情熱に満ちたプロットは、まさしくウールリッチそのもので、会話劇も「ならでは」のものを楽しむことが出来ます。誤って女性を撃ち殺し、その存在に執着していく過程を描いた冒頭20ページなどは、ウールリッチならもっと饒舌に、読者がのめり込んでしまうように(ついでに、めちゃくちゃ長く)書いたでしょうし、結末が甘すぎるというフランシス・M・ネヴィンズJr,の指摘も頷けますが、総じてウールリッチ作品として楽しめる一作。

     ではローレンス・ブロックの功績は少ないかといえば、そうではない、と言っておきたい。解説において、結末が甘すぎるといったフランシスは、タイプ原稿の消し忘れに、奇妙な記述があるのを発見し、それがウールリッチの勘違いではないとしたら、こういうダークなエンドが想像出来る、という趣旨のことを述べています(ネタバレになるので、圧縮して書いています)。しかし、ローレンス・ブロックはそちらの結末は採らず、やや御都合主義的すぎたとしても、主要登場人物二人が互いの罪を赦し合い、手を取り合うような、優しいラストを択び取ったのです。この選択を、ひとまず私はウールリッチという作家への愛と捉えたいですし、消し忘れたタイプ原稿という形で、ハッピーエンドの裏面に張り付くバッドエンドの陰を想像することは、それはそれでゾクゾクするではありませんか。

     そんなわけで、結論らしい結論もないまま、「未完の作品」読み潰し回を終わろうと思います。まあ、実作者として一つ気を付けることがあるとすれば、後世にこういう宿題を残さないように、精一杯仕事を終わらせて、少しでも長く生きることでしょうか。

    (2024年3月)

第75回2024.02.23
この罪だけは見逃せない ~ルー・バーニーの小説世界~

  • ルー・バーニー『7月のダークライド』、書影

    ルー・バーニー
    『7月のダークライド』
    (ハーパーコリンズ・ジャパン)

  • 〇告知関連

     2月15日に『黄土館の殺人』(講談社タイガ)が刊行されました。〈館四重奏〉の第三作にあたり、第一作が山火事、第二作が洪水をテーマにしておりましたが、今回は地震をテーマにしております。作品成立の経緯等につきましては、作品のあとがきにも詳しいことを書いておりますので、そちらを参照していただければと思います。3年も空いてしまって、すみません。

     2月25日に発売される「野性時代」において、連載「バーニング・ダンサー」が完結しました。特殊な能力を使える「コトダマ遣い」という存在がいる世界観で、警察小説のパロディーめいたことをやらせてもらった作品です。自分にとって初の長編連載ということもあり、悩むことも多かったですし、反省も多々ありますが、まずは走り切れて安心しています。単行本作業はこれから。

     ホッとしたのも束の間、2月27日に発売される「小説幻冬」において、次の長編連載「ルーカスのいうとおり」がスタートします。こちらは一応ホラー×本格ミステリーという触れ込みでプロットを書き、幻冬舎の担当さんに提出したものですが、どうなることやらといったところです。モチーフは映画「チャイルド・プレイ」美内すずえの漫画「人形の墓」など……というと、どんな話か想像がつきますね。こちらも頑張って走っていこうと思います。

     と、告知関係が溜まってしまい、駆け足での紹介になりました。諸々、何卒よろしくお願いいたします。

    〇評論本のトピック

     ここで少しだけ、評論本の話題に寄り道。大矢愽子『ミステリの女王の名作入門講座 クリスティを読む!』(東京創元社)は、クリスティの入門に最適の一冊。どのあたりがうってつけかといえば、作品の話や、クリスティを語るためのワード(「見立て」「回想の殺人」などのベタなミステリー用語から、海外もの読み始めの頃は私も知らなかった「メイヘム・パーヴァ」という言葉まで)を解説してくれるのはもちろん、作家の周辺情報も丁寧に拾ってくれるため。『スタイルズ荘の殺人』の図面に関する指摘などは、思ってもみなかったもので、思わず「おっ」と唸らされたりもします。

     白眉は「第5章 読者をいかにミスリードするか」で、ここではネタバレ解説を解禁し、クリスティのノンシリーズ作品『シタフォードの謎』『殺人は容易だ』の二作についてその「騙しのテクニック」を繙いています。霜月蒼による『アガサ・クリスティー完全攻略[決定版]』(ハヤカワ・ミステリ文庫)においては、五つ星を満点とした評価がついているのですが、『シタフォードの謎』『殺人は容易だ』は二作とも星三つ。霜月によれば「読んで損なし」のラインです(星二つになると「クリスティーが好きならば問題なし」と、ちょっと濁した言い方です)。『シタフォードの謎』や『殺人は容易だ』も、他の作家に比べれば一段、二段よく出来たウェルメイドな作品ですが、ハイクオリティなクリスティの作品群からするとアベレージな出来と評されるのも頷けます。ところが、その「アベレージな出来」の作品ですら、これほど堂々とした「騙しのテクニック」が盛り込まれているのです(ちなみに、私が解説を書き、その伏線をネタバレ解説で拾ってみた『雲をつかむ死[新装版]』も、霜月の評価では星三つでした)。傑作でなくても、評論の俎上に載せればこれだけの成果が見つかる。クリスティという作家の底知れなさを感じると同時に、そのテクニックを解説する著者の明朗な文体に胸がすくようです。

     評論本の話題に、もう一つ寄り道。探偵小説研究会編の『妄想アンソロジー式ミステリガイド』(書肆侃侃房)は、「ジャーロ」誌上に掲載されていた企画の書籍化。小鷹信光「続パパイラスの舟」のように、架空のアンソロジーを組み上げ、収録作品の内容や「編集意図」を語っていくという趣旨の企画で、それぞれの作品への偏愛ぶりやミステリーを読む視点の「角度」が窺われて、面白い内容でした。短編によるアンソロジーを構成したもの(巽昌章「死のカードあわせ――可動式アンソロジーのすすめ」や円堂都司昭「ベスト本格ミステリ21世紀」など)から、全〇巻の長編全集のような内容(千街晶之「戦争ミステリ傑作選」や諸岡卓真「『そして誰も』系ミステリの世界」など)まで、盛りだくさんの内容で楽しめます。法月綸太郎「パリンプセストの舟――メタハードボイルド全集(第一期)」は、元ネタ(元ネタ?)である小鷹信光を意識したようなタイトルでありながら、そこでは拾い切れなかったハードボイルド観を丁寧に拾っているアンソロジーですし、佳多山大地「鉄道ミステリー選集(二巻本)」や荒岸来穂「「陰謀論的想像力」とミステリ」のように、後の仕事のプロトタイプのような企画を読むことも出来ます(佳多山はこの後、双葉文庫から鉄道ミステリアンソロジーを三冊刊行し、作品セレクトは大部分が重なっていますし、荒岸は現在「ミステリマガジン」誌上において「陰謀論的探偵小説論」を連載しています)

     とはいえ、内容は全て妄想で、手に入らないので、見果てぬアンソロジーへの夢が膨らみ、実際に読んでみたくなるのも仕方のないところ。ということで、今私は、末國善己「歴史時代小説作家ミステリ傑作選【戦後篇】」に挙がった作品を探して読むことにしています。どういう作品が挙がっているかは、実際に読んでいただくしかないのですが、目次だけ引用してみます。

    〝第一巻『山本周五郎集』
    第二巻『柴田錬三郎集』
    第三巻『司馬遼太郎集』
    第四巻『平岩弓枝集』
    第五巻『ポスト隆慶一郎の時代集』
    第六巻『宇江佐真理とその後の作品集』
    第七巻『文庫書き下ろし傑作選』
    第八巻『酒見賢一・佐藤賢一集』
    第九巻『青山文平・岡田秀文・幡大介集』
    第一〇巻『二〇一〇年代デビュー新鋭集』〟(『妄想アンソロジー式ミステリガイド』、p.136)

     このうち、私は一巻・二巻・四巻は元々好きで読了済、第九巻・第十巻も時代小説に興味を持った頃以降の作品群なので読了済ということで、第五巻~第八巻がごっそり抜けてしまっている状況だったのです(ちなみに、第三巻の司馬遼太郎は、元々好きなのでかなり読んでいるのですが、選ばれたのが『豚に薔薇』『古寺炎上』なので読めていない! 二つとも古書価が高騰していて、まだ手に入れていないのです……)。つまり、既読の巻のラインナップから「あっ、絶対に自分が好きなやつだぞ」と確信できたのが大きく、今はこのガイドを指針に本を集めているところです(そうじゃなくても、創元推理文庫の選集が面白すぎて、アンソロジストとしての末國には信頼しかないですが……横溝正史『名月一夜狂言 人形佐七捕物帳ミステリ傑作選』〈創元推理文庫〉も素晴らしかった。この系列で特に好きなのは、笹沢佐保『流れ舟は帰らず 木枯し紋次郎ミステリ傑作選』柴田錬三郎『花嫁首 眠狂四郎ミステリ傑作選』〈いずれも創元推理文庫〉)。

     ひとまず一冊読んでみたのは、第六巻『宇江佐真理とその後の作品集』の中の一冊、澤田瞳子『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』(光文社文庫)。うわぁ、これは面白い! 奈良時代が舞台、東大寺の大仏造営事業がテーマというところで、お堅い作品なのかと思いきや、大仏造営という大事業に振り回される人間たちの悲喜こもごもと人間模様を、お食事ミステリーの形で(!?)紡ぎあげる、絶妙な時代ミステリー作品でした。大事業の中で、名前は残らないけれど偉大なことをした人々……という主題は、現代でも重なる気がしますし、一編一編がどうにも心に残るんですよね。一編目「山を削りて」で、主人公が「ある心理」に困惑する瞬間にもう心を掴まれましたし、二編目「与楽の飯」も巧すぎる。主人公が一旦探偵役を疑う流れが巧い。私のお気に入りは五編目「巨仏の涙」。幕切れの余韻に浸ってしまう。

     いやいや、先月の『本格ミステリ・エターナル300』(行舟文化)や『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』(東京創元社)に引き続き、また面白い遊びを見つけてしまったという気分です。読む本が増えて大変だぁ……。

    〇ルー・バーニーが面白い!

     ルー・バーニーってどんな作家? と聞かれると、非常に答えるのが難しい。会話劇が魅力的な犯罪小説家だし、軽妙さの中でも熱を放つ文章が魅力的な人でもあります。

     女性キャラクターの魅力も素晴らしい。2014年に『ガットショット・ストレート』(イースト・プレス)が邦訳刊行された時、私が心掴まれたのは、ジーナという女性キャラが最高だったからですし、『11月に去りし者』(ハーパーコリンズ・ジャパン)のシャーロットの造形も素晴らしく、目を離すことが出来ませんでした。そうした、キャラクター描写の巧さにも、惹かれています。『11月に去りし者』は、追う者/追われる者の二つの視点に加えて、ごく普通の主婦であるシャーロットが配置され、この三つの視点を切り替えながら進む小説なのですが、どのキャラクターも絶妙に惹かれる造形なので、ページをめくる手が止まらなかったことを覚えています。ケネディ大統領暗殺について「あること」を知っているために追われることになるフランクももちろん、殺し屋であるポールの徹底的なまでの非情さにもシビれました。

     展開は型破りで、定型を知り尽くしているがゆえに、一切先が読めない。そうした驚きも、魅力の一つです。『ガットショット・ストレート』はギャング小説かと思いきや、〇〇を巡る秘宝の物語に姿を変えますし、『11月に去りし者』も視点人物三人のもつれ合いは予想を超えます。ケネディ大統領暗殺という史実の使い方も絶妙です。

     推せるポイントはこのように幾つも浮かびますが、「どういう作家」か一口で言おうとすると、悩んでしまいます。『ガットショット・ストレート』の杉江松恋による帯文や、『11月に去りし者』の加賀山卓朗による訳者あとがきでは、エルモア・レナードカール・ハイアセンといった先人の名前が挙がっています。私はどちらも、二、三作読んだだけでピンと来ず、数は読んでいないのですが、そのせいでルー・バーニーという存在がとてつもなく新鮮に感じられるのでしょうか。それも含めて、ルー・バーニーは私の中で、ずっと大きな宿題であり続けているような気がします。この作家を咀嚼しきるには、自分の中の何かがまだ足りていない、という感覚でしょうか。

     ただ、一つだけ確実に言えるのは、どの作品も圧倒的なまでに面白いということです。

     ルー・バーニーの新作『7月のダークライド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)は、過去邦訳の二作とはまた違った世界を見せてくれる作品です。あらすじはこんな感じ。主人公である23歳の青年、ハードリーはある日、幼い姉弟の足首や襟元に、煙草の火傷跡があるのを発見してしまう。すぐさま母親が出てきて二人を急き立て、連れていってしまうが、ハードリーは彼らを見捨てることが出来なかった。当局に虐待を通報したり、ケースワーカーに事情を訴えたりもするが、助けてはもらえなかった。ハードリーは素人探偵まがいの調査を開始し、姉弟の父親のドス黒い裏の顔を探っていく……。

     後ろ盾がない弱い立場である主人公が、自分の生い立ちが理由で子供たちに執着し、調査行を繰り広げるプロットは、まさにハードボイルドのそれです(いわゆるタフガイではまったくありませんが)。ところが、バーニー独特の熱が籠もった文章や、圧倒的なカタストロフィになだれ込んでいく終盤の味わいは、徹底的なまでにノワールのそれ。この指摘さえ上滑りしていると感じてしまうほど、バーニーの作品世界はどうにも分類不能で、ただ圧倒的に面白い。どうしてこんなに執着してしまうんだろう、という疑問こそ湧いてくるのですが、使命感に突き動かされて、孤独な戦いを挑んでいくハードリーの姿はどうしようもなく感動的で、ページをめくる手が止まらないのです。

    〝ぼくが人生で有意義なことをしたのは、これが初めてなんです。ぼくが有意義になったのは、人生で初めてです。ぼくはいま、なりたかった人間になってる。(後略)」(同書、p.300)

     このセリフの、なんと熱く、爽やかなこと! こうした胸を打つセリフや、主人公が何をも持たない、等身大の青年であるがゆえに抱く懊悩――もう見て見ぬふりをするべきじゃないかとか、命の危険を冒してまでやるべきことなのかとか――が、この作品を見事な青春小説に高めています。

     目の前にいる女性を助けたい。その主題自体は、『ガットショット・ストレート』のジーナや、『11月に去りし者』のシャーロット相手に向けられた感情と同じものかもしれません。しかし、ジーナは助けられるようなタマではなかったし(ほんと、びっくりさせられるようなシーンばかりなのだ!)、シャーロットの夫も、酒浸りではあるけれども、今回の父親ほどの「ヤバさ」は感じさせません。『7月のダークライド』は、主題としてはこれまでのバーニー作品と重なりながらも、最も切実で、のっぴきならない事態を描いていると言えます。だからこそ展開から目を離せない。

     しかし、かと思えば、この主人公は事件が縁でエレノアという女性と出会い、恋に落ち、溺れたりする。こういうあたりの匙加減もアンバランスな気がします。社会的な主題を書いているようで、徹底的にこの小説は「ハードリー」という男の個人的なものでしかない。虐待に対する怒りも、恋人との性愛も、全て同列に描かれる。だからこそ訪れるラストシーンの鮮烈さには息を呑みます。

     もちろん、バーニー作品の例に漏れず、今回の展開も予想がつきません。終盤の展開を読み切れる人はいないんじゃないでしょうか。S・A・コスビーの『黒き荒野の果て』を読んだ時も、「犯罪小説への愛情がほとばしりすぎるあまり、全てを放り込んだうえで、崩落寸前でまとめあげた」という印象を持ったのですが、『7月のダークライド』を読んだ時の、最初の感情をなんとか言語化してみると、「ハードボイルドのプロットとノワールの熱の中で引き裂かれそうになるギリギリのところで作品が着地した」という感じ。うまく言えているかどうかは分からないのですが、そんな風に、破綻寸前の熱に満ち溢れた作品が私は好きなのだと思います。

     ハッキリ言うと、『11月に去りし者』の方が構築性・完成度が高いと思うのですが(ちなみにこちらの作品のラストシーンも震えるほど素晴らしい)、全編にみなぎる熱量と面白さ、そしてラストシーンのカタストロフ感では、やはり『7月のダークライド』に軍配が上がるという感じです。歪ではあるけれども、圧倒的に面白い。そんな小説だと思いました。

    (2024年2月)

第74回2024.02.09
歩き、踏みしめる確かな道 ~私の愛する土屋隆夫~

  • 土屋隆夫『推理小説作法 増補新版』、書影

    土屋隆夫
    『推理小説作法
    増補新版』
    (中公文庫)

  • 〇ポプラ社で新シリーズ、はじめます

     1月25日発行の「季刊asta」において、新シリーズを始めます。連作のタイトルは「失恋名探偵」。高校生の瀧花林と幣原隆一郎のコンビが謎に挑む連作ミステリーになっていますが、趣向としては、「この隆一郎という男が惚れた相手は全員犯人」というもので、TVドラマの「キミ犯人じゃないよね?」「うぬぼれ刑事」、ドラマ化もされた『婚活刑事』シリーズなどをモチーフに、これを名探偵の世界に持ち込もうとしたものです。花林は隆一郎の特異体質に気付き、高性能レーダーとして利用しているという設定。第一話「ライターは知っていた」では、学校で起きた殺人事件の謎に挑みます。「季刊asta」は、年四回、1・4・7・10月に発行予定なので、テンポよくいきたいですね。

     本当は「失恋探偵」という語感を最初に思いついた後、これって、何かあったな……と記憶を探ったら、岬鷺宮『失恋探偵ももせ』(電撃文庫、全三巻)なる傑作を思い出しました。ちょうど、私が大学生の頃の作品。懐かしい。こちらは「失恋の真相を探る」という設定のライトノベルシリーズであるため、もちろん趣向は違うのですが。

    〇土屋隆夫の創作指南

     1月の新刊案内を見ていた時、うわぁ、と声が出ました。土屋隆夫『推理小説作法 増補新版』(中公文庫)の文字を見つけたからです。うわぁ、と言ってしまったのは、本書は大学生時分からの私の宿題で、いつか通読しないといけないと思っていたため。

     というのも、この『推理小説作法』、創元ライブラリ版で所持しているのですが(その版は……今は手元にありません。書斎の膨大な山の中に埋もれていることでしょう)、大学時代に読んだ時は、一旦読むのをやめてしまったのです。というのも、「第四章 創作メモの活用」の部分が理由。土屋隆夫が書いた創作メモを示し、そのメモからこんな作品を書いた、というのを延々と示していくパートなのですが、ここで短編も含めて大量の作品のネタバレが行われているため、「あっ、こりゃあ色々読んでから戻ってくるべきだぞ」と思ったからです。『危険な童話』は高校生の時に読んだので、凶器消失トリックのネタバレは喰らわずに済みましたが、核心に触れているメモが載っているんですよね。

     あれから十年近く経って、幸い、全長編+創元推理文庫の「土屋隆夫推理小説集成」に収録された短編集+αくらいは読んだので、まあ、今回はいよいよ気にせずに読んでいいだろうと思い、手に取りました。そのうえで言えることは……ネタバレは、そんなに気にしなくて良さそうでしたよ、ということです。

     というのも、土屋隆夫の長編では、トリックがたった一つということはなく、複数のトリックが有機的に組み合わされて、それが水平的に解かれていくからです。この「水平的」というイメージは、確か、「土屋隆夫推理小説集成4 妻に捧げる犯罪/盲目の鴉」(創元推理文庫)に収録された麻耶雄嵩の土屋隆夫論「間断なき対決」で頭に植え付けられたものだと思います。麻耶の論の冒頭では、『盲目の鴉』既読者なら「ああ」と思わず声が漏れるような、しかし、未読者なら全くその意味には気付けないほど些細な伏線がポンと引用され、その伏線の佇まいを語っています。未読者がもしこの論から先に読んでしまっても、『盲目の鴉』の魅力が損なわれることはないでしょう。それは土屋隆夫の推理小説においては、一つの重要な鎖の輪ですが、言ってしまえば、一つの輪に過ぎないからです。

     だから、『推理小説作法』も同じように楽しめると思います。むしろここでは、作家がどのように日常生活からヒントを得て、メモを残し、それを実作にあてはめていくか、という実践のありようを観察するのがおすすめです。でも短編は一つネタが分かるだけで致命的じゃないの、と思う方もいるでしょう。ですが、きっと大丈夫。ここで読んだ短編の一ネタくらい、実際に作品にあたる時には忘れてしまっていると思います。それほど、土屋隆夫のメモは短いものなのです(解説の円居挽は、「あなたが新しい土屋隆夫になってみるのはどうだろうか?」と投げかけていますが、そのためのヒントになるのもこの第四章かもしれません。なぜなら、土屋隆夫が結局作品に使用しなかったメモまで引用されているからです。言語学にまつわるそのメモを読んで思い出したのは柄刀一『サタンの僧院』(原書房)なので、ハードルは高いかもしれない)。

     土屋隆夫の推理小説観を知るのにうってつけの一冊ですが、中でも白眉は「第七章 実作篇「三幕の喜劇」」。短編「三幕の喜劇」を素材として用い、どのようにこの短編の着想を得て、書いていったかを明かしていくパートです。第68回で取り上げた『都筑道夫の小説指南 増補完全版』(中央公論新社)でも、都筑の短編「風見鶏」の改稿過程を示したパートに興奮したことを示しましたが、やはりこうした実作込みの解説パートの味わいは無類です。なお、この第七章では、三幕ものの短編小説であるこの作品を分割し、間に解説を挿入するという形をとっているため、順番に通読しようとすると、頭に入りにくい。そこで、まずは「三幕の喜劇」だけを通読し、頭に戻って再度、第一幕→その解説→第二幕→その解説→……と読んでいったのですが、こちらの方がより味わえた気がしました。とりあえず、老婆心ながらのオススメということで。

    〇土屋隆夫の話 ~オススメ作品など~

     2020年から連載しているこの読書日記ですが、土屋隆夫の話をしたことはまだありません。第24回で、好きな昭和ミステリー作家として名前を挙げたくらい、でしょうか。まあ、それもそのはずで、作者は2011年に逝去していますし、新装版の刊行や復刊などもなかなかなく、言及する機会がなかったからです(正確には、2019年に行われた講談社の「発掘ミステリー」という企画で『影の告発』が復刊されています。この時、仁木悦子『猫は知っていた』泡坂妻夫『花火と銃声』などと共に書店に並んでいて、ウキウキしたのを覚えていますが、まだ読書日記の開始前でした)。正直に言って、最近言及している人も少ないと感じます。唯一強く覚えているのは、澤村伊智でしょうか。

     ここでちょっと寄り道すると、澤村は2019年に発表した『予言の島』(KADOKAWA→角川ホラー文庫)を、「白上矢太郎へ」という献辞で結んでおり、これは土屋隆夫『天狗の面』に登場した探偵役(作中では弁護士)の名前です。土俗の息づく島が舞台の『予言の島』では、登場人物の一人が「まさに三津田、まさに京極、まさに横溝獄門島」という露悪的なセリフを吐いており、土俗ホラーやそれを利用したミステリーをもてはやすマニア心理の気持ち悪さを抉っているように思えます。つまり『予言の島』という作品自体が、ミステリーの歴史を斜めに見るようなメタ性を有しているのですが、『天狗の面』もまた、似たような一面を持つ作品です。そこで早くもイジられているのは、「横溝正史的」なミステリーの骨格と登場人物たち。その感覚を明晰な言葉で語っているのが、『土屋隆夫推理小説集成1 天狗の面/天国は遠すぎる』における、飛鳥部勝則の土屋隆夫論「エロティックな船出」で、この論では『天狗の面』作中における「なつかしき人々」という言葉の引用が絶妙でした。土屋隆夫の時代で既に、横溝的な構造が「なつかしき」ものであることを抉ったセリフだったと思います。そこを捉えたうえで、作品そのものを「白上矢太郎へ」捧げてしまう澤村もさるものです。

     閑話休題。解説の円居挽は、学生だった2000年頃の推理研内での土屋作品の捉えられ方を振り返って、「鮎川作品のようないわゆる本格ミステリを好む会員からの評価は高かったが、熱心な読者が生まれるほどではなかった」(『推理小説作法 増補新版』解説、p.316)と述べていますが、私が学生だった2013年頃はもっとひどい状況で、そもそも新刊で手に入る土屋隆夫作品はなく、古本屋を巡って探すしかありませんでした。そんな中でもどうにか探して長編全作を読んだのは、2000年代前半に、光文社の新装版文庫や東京創元社の「土屋隆夫推理小説集成」が刊行されて、読むべき作品の交通整理が済んでいたからですし、何より、『針の誘い』が面白いと差し出してくれた先輩がいたからでした。だから、私が土屋隆夫を好きだというのは、世代的なものではなく、個人的な体験でしかありません。会内の同期に読んでいる会員はおらず、全日本大学ミステリ連合に出向いて、ようやく、土屋隆夫の話が出来る同期を見つけた記憶があります。

     なんでこんな経緯にもかかわらず、土屋隆夫が好きなのか……トリックの一つ一つは時にチープなことも多く、そのトリックを瓦解させるロジックの切れ味も、同種の本格ミステリーとしてなら鮎川哲也の方が学ぶことが多い気がする(『死のある風景』の〇〇とか、『黒い白鳥』の△△とか。どっちもたまたま二文字ですね)。それなのに、どうしてか、読んでみるとどうしようもなく面白い。誤解を恐れずに言うならば、私が土屋作品に惹きつけられるのは、作品世界のどこかヘンないびつさと、にもかかわらず、現実の足場を踏み固めていく足取りが堅実であるところなのです。

     この「ヘンな歪さ」について語るには、恐らく、私が土屋隆夫に大いにハマるキッカケになった『妻に捧げる犯罪』という作品の話をするのが良いでしょう。交通事故で男性機能を失い、妻に裏切られ、挙句にその妻に愛人と共に死なれてしまったという悲しい過去を持つ男が、イタズラ電話を夜ごとの楽しみにしている……というのが発端の作品です。既に、この設定がヘンではないですか。それも、イタズラ電話をかけて、その家の妻との不倫をほのめかしてみたり、小さい子供が電話に出ても、母親との情事を示唆するメモを書き取らせたり、といったどうしようもなさです。これを「夜の童話メルヘン」と彼は呼んでみせます。思わず苦笑してしまうのですが(このあたりの、「昭和」感のある描写が多いのも、人に薦めづらい理由です)、ある電話が状況を一変させます。この男、電話番号を記憶に留めると、「夜の童話」が損なわれるので、暗闇の中で、でたらめに番号を回すのですが、そうして適当にかけた電話が、殺人現場に繋がってしまうのです。共犯者と思しき男を現場で待っていた女性は、主人公からの電話を取り、謎めいたワードや、殺人を示唆するフレーズを発しますが、番号が分からないので、殺害現場すら不明なのです(この頃の電話には、まだリダイヤル機能がありません)。その内容に興味を持った主人公は、電話の会話の内容(わずか4ページほど!)を分析して、被害者も、殺害現場も不明なこの事件を推理によって解き明かそうとするのです。

     後半こそサスペンス風味の展開になだれこんでいくとはいえ、この設定のスリリングなこと! そして、会話の内容から少しずつ推理の輪を狭め、その現場へと一歩一歩足を進めていく過程は、やはり本格推理そのものなのです。その高揚と共に思わず忘れてしまうのです――「あれ、そういえば設定、ものすごくヘンじゃなかったか?」ということを。この頃には、「夜の童話」という言葉も素晴らしく感じられてきます。主人公が全てを喪った人物であることも、終盤のサスペンスに向けて効いてきます。ことここにいたって、「どうしてこんなにも歪なバランスで、全てが成り立っているんだろう」というところに、大いに惹かれてしまったのでした。とはいえ、これが凄まじくヘンな読み方であることは否定できないところ。だから『妻に捧げる犯罪』を最初の土屋隆夫体験にすることは、絶対にオススメしません。

     じゃあ、何がいいのということになると、一つの答えとして『針の誘い』を挙げておきます。誘拐事件を主軸に大小のトリックを見事に掛け合わせた作品で、300ページの間、常に緊迫感に満ちた逸品です。動機の着想も素晴らしい。もし、『妻に捧げる犯罪』の変態性に惹かれる場合は、推理作家が女性に監禁されるというシチュエーションの『ミレイの囚人』を薦めておきます。創元推理文庫の「土屋隆夫推理小説集成」の六巻にも収録されていますが、この六巻の挿画は飛鳥部勝則が担当しています。ちなみに、先に引き合いに出した飛鳥部の論「エロティックな船出」は、エロティックな描写に耽溺する作者の姿を強調したもので、これまでに読んだどの土屋に対する論よりもしっくりきました。これだけのために、創元推理文庫の集成の一巻を探して買った方がいいレベルです。ミステリーという枠だけでは捉えきれない土屋の姿を、飛鳥部は「エロティック」な描写からひもときましたが、私は同じようなところに「歪さ」を感じているから、しっくりきたのかもしれません(なお、土屋隆夫論としては、『土屋隆夫推理小説集成2 危険な童話/影の告発』に収録された巽昌章「肉体の報復」も出色です。これも、このためだけに2巻を買う価値があるレベル。しかし、土屋論そのものよりも、横溝正史『本陣殺人事件』に対する読み解きの方に痺れた記憶が強いです)。

    『妻に捧げる犯罪』から顕著に感じられた歪さは、例えば、週刊文春ミステリーベスト10において第一位を獲得した『不安な産声』という傑作にもあります。四部構成からなるこの長編は、第一部、第二部が犯人から探偵役である千草検事にあてた手紙になっており、第三部に至って千草検事がようやく登場。謎めいた強姦殺人と、容疑者が主張するアリバイの謎に挑む、という構成になっています。こうした構成自体は、倒叙ミステリーを読み慣れた読者にとっては珍しいものではなく、書簡体形式を採用するという手法も今となってはよくある型の一つになっている気がしますが、私が「歪」だと思っているのは、この手紙の内容。もちろん、『不安な産声』の最大の主題である動機の謎に深く絡んでくるから……なのですが、人工授精に対する議論と描写の量がえげつないんですよね。医大教授である犯人がラジオに呼ばれ、そこで人工授精について話をする箇所とかは、さすがの上手さを感じさせるのに、人工授精が絡んだ殺人事件の事例を書いたパートは、「ここまでやらなくても」と思わされるような生臭く、陰湿な描写に満ちています。男性のセリフが厭すぎるんですよね。しかし、その事例紹介そのものが、書簡体形式による、どことなくロマンチックで感傷的な文体に挟まれているので、なんだか酷く歪に思える。こんな手紙を書くこの犯人は、一体どんな奴なんだろうと思わされてしまう。

     それでも、現実を踏みしめる足並みは確かなのです。土屋隆夫作品を読んでいると、「歩く」という描写の上手さに惹かれます。

    〝そして、私はまた歩き出していました。あてもなく、行き先も定めず、私はただ歩きつづけました。どこまでも、地の果てまでも、私は歩いて行きたかったのです。(中略)
     私は殺人に向かって歩いていました。あなたは、事件に向かって歩いていたのでした。〝(『不安な産声 新装版』〈光文社文庫〉p.246-247、第二部より。犯人から探偵役である千草検事に宛てた手紙の一節)

    〝私は検事さんの足ですよ。これも、酒席で彼がよく口にすることばだった。検事の足であることを誇りにしている男、野本利三郎。
     現代の事件が複雑化し、捜査に科学や機械の力を借りるようになっても、犯罪の真相を見抜くのは人間の目であり、犯人に近よっていくのは、生きた人間の足であった。着実に大地を踏みしめて行く、動く人間の足であった。〟(『不安な産声 新装版』〈光文社文庫〉』p.307、第三部より)

    〝久野は歩き出した。心がおどった。足どりが早くなった。いつか走り出していた。オーバーの裾が、膝にまつわりついた。
     若松町の、信濃演芸館の前まで引き返したとき、息をハアハアさせていた。彼は、自分が、ゴールの前に立ったことを、ハッキリと知った。勝利の充足感で、心がふくらんでいた。〟(『天国は遠すぎる 新装版』〈光文社文庫〉p.181)

     よく「詩情」とか「ロマンチシズム」という言葉が土屋隆夫の解説やあらすじには書いてありますが、個人的には、そうした「詩情」を求める作風と、あくまでも泥臭く現実を描く堅実な足並みがもたらす生臭さとの間で鳴る軋みのような音に、どことなく惹かれているのだと思います。だから、「未来の土屋隆夫」にどうやったらなれるのかということは、全然分からない。同時代的な事柄に広くアンテナを張り巡らせ、メモを残し、そこから作品を紡ぐことによって、少しは肉薄出来るのでしょうか。

     今引用した『天国は遠すぎる』もまた、一個の自殺事件と一個の失踪事件の謎を、たゆまぬ推理によって一枚ずつ解きほぐしていく、推理の名品ですし、千草検事シリーズ(『影の告発』『赤の組曲』『針の誘い』『盲目の鴉』『不安な産声』)はどれも一定の水準を保った佳品揃いです。長編は全部で十四作という寡作ぶりですが、一作ハマれば、どれもある程度の水準は超えてくるという安心感もあります。短編集なら『粋理学入門』『九十九点の犯罪 ―あなたも探偵士になれる』がオススメでしょうか。

     とまあ、こんな風に長々と語ってきましたが、実は、この作家を愛するのはたった一つの理由によるのです。それは、『天国は遠すぎる』という長編第二作に寄せられた、作者による「初刊本あとがき」です。「―わが子へ―」という副題がついたこの文章の名調子に、私は惚れこんでしまい、以来、この作家を追いかけることを決めたのでした。最後にそれを引用し、この回を締めくくろうと思います。円居挽の言う通り、『推理小説作法』が、「未来の土屋隆夫」になるための足掛かりの一つになり得るのだとしたら、ここで呼びかけられている「わが子」という言葉の響きを、後進世代である自分への問いかけとして受け取ることも出来るのではないでしょうか?

    〝(……)推理小説が文学たり得るか否かについては、多くの議論がある。あるものは、謎の提出とその論理的解明のみが、この小説の使命であると称し、あるものは、それを児戯に類するとして、謎を生み出す人間心理の必然性をこそ、まず考えるべきであると主張する。
     トリックか。人間か。議論の高潮する所、一方は文学精神を無益なものとして排し、他方は文学を尊重するのあまり、謎の面白さを捨て去ろうとする。
     わが子よ。
     私は不遜にも、この両者の全き合一を求めて歩み出したのだ。常に、私の机辺を離れない江戸川乱歩先生の「随筆・探偵小説」の中にある「一人の芭蕉」と題する一文が、私の歩みを決定したといってもよい。
     もとより、私に、芭蕉の才を認めたからではない。ただ、その道が、先生の言われるように、至難であり、永遠の夢であるが故に、私の心を誘うのだ。(中略)
     わが子よ。
     お前達が大きくなった日に、私の歩んだ道の嶮しさを、理解してくれるだろうか。〟(『天国は遠すぎる 新装版』〈光文社文庫〉、p.450-451)

    (2024年2月)

第73回2024.01.26
評論を読もう! ~後半戦・海外ミステリー叢書の海に溺れる~

  • 川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』、書影

    川出正樹
    『ミステリ・ライブラリ・イン
    ヴェスティゲーション 戦後
    翻訳ミステリ叢書探訪』
    (東京創元社)

  • 〇アガサ・クリスティー評論本が目白押し

     なぜだか、2023年はアガサ・クリスティー関連の評論本が目白押し。7月にはサリー・クライン『アフター・アガサ・クリスティー 犯罪小説を書き継ぐ女性作家たち』(左右社)が邦訳刊行、12月だけでも、ルーシー・ワースリー『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』(原書房)、カーラ・ヴァレンタイン『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(化学同人)の二冊が登場。どれも特徴が違うので色とりどり楽しめます。

    『アフター・アガサ・クリスティー~』はクリスティー以後の100年、犯罪小説を書き継いできた女性小説家に対するインタビューから、この100年の歩みを振り返ろうとする本ですが、一人一人にじっくり聞くというよりは、共通のトピックに対する複数の小説家の反応を切り貼りしていくという構成で、目当ての作家の情報を探すのはなかなか大変。とはいえ、いつか重要な情報を拾いに帰ってくることになりそうな気がする、何かオーラのある本です。

    『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』は、クリスティーの伝記ですが、今まであまり目を向けられてこなかった、「望まれた顔を演じてしまう一人の女性」アガサという肖像を紡ぎ、その本当の顔に迫ろうとする一作になっています。かなりスリリングな大部で、読み応えは抜群。二作目の作品の刊行を巡り、当時の一般的な見方として「家計を助けるために書いていた」という像を押し付けられてきたクリスティーについてまず描写したうえで、当時の手紙から「せっせと働きたがっていた」クリスティーの姿を描出するところなど、胸がすくようです。

    『殺人は容易ではない~』は、今まであまりなかった「マニア本」で、アガサ・クリスティーが法科学にも高い関心を持って、それに精通し、作品の中に取り入れてきたことを淡々と語る一冊。情報密度が他の二冊とはまるで別で、法科学の勉強本としても楽しめる本です。今は刑事ドラマでも当たり前と化している、「鑑識キットを持ち歩く探偵・捜査員」の描写を初めて行ったのがクリスティーであり(『スタイルズ荘の怪事件』のポアロ)、現実にも先駆けていたというくだりには驚き。こういうレベルの、普段は注目しない細部を延々と拾っていく作業がまるで鑑識作業のようで、楽しめる一冊です。

    〇『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション』が面白い!

     昨年末に川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』(東京創元社)が刊行されました。以前から楽しみにしていた本なので、届くなり夢中になって読んでしまいました。「叢書」という宇宙に分け入っていくことで、戦後の翻訳ミステリーの受容史を辿るという一冊で、「クライム・クラブ」や「フランス長編ミステリー傑作選」など、なかなか全部集めるのは難しい叢書を辿ってくれるのはもちろん、「ゴマノベルス」や「イフ・ノベルス」など、なんだか手を出しにくくて出してこなかった叢書まで、とにかく概括的・徹底的に紹介してくれるのが面白い。翻訳ミステリーの紹介者や編纂者にもスポットライトを当てることで、「受容史」を繙いていくところが「プロフェッショナル」でも観ているかのようでユニーク。叢書について語ることは、本について語ることであると同時に、人について語ることでもある。この二面性を同時に捉えているところが、本書を類書のない、唯一無二の傑作にまで高めているといえます。道先案内人の川出正樹の語り口も、どこか胸に沁み込んでいくような名調子です。

     中でも白眉といえるのは、【世界秘密文庫】編。およそ聞いたことのない「世界秘密文庫」という叢書に対するレビューがなされるだけでも衝撃的なのですが、その内容たるや、昭和の作品ならではのグレーゾーン感満載で、抄訳だったり濡れ場ありの改変があったり原作者名のクレジットもなかったりといった無法地帯ぶり。もはや真面目に考える気さえなくしそうな叢書なのに、その特徴に着目したうえで、一作一作について、原作を突き止め、どこを改変したかを明らかにしていく過程が、まるで一編の探偵小説を読んでいるかのよう。叢書名探偵・川出ですら二作の宿題が残るという驚異の叢書。怖いもの見たさで探したくなってきました。

     ちなみに本書の冒頭には、紹介された叢書の背表紙がカラーページでずらっと並んでいます。すごい光景です。このカラーページは、「まえがきにかえて」の冒頭に書かれた「色」のイメージに繋がるもので、著者の原体験に読者を接続するための重要な役割を果たしていますが、古本者としては「背表紙」の情報が得られるのがこの上なく嬉しい。なぜなら、古書店で探すのは本棚にずらっと並んだ「背表紙」なので、この叢書の、狙っている巻の色が何かを覚えておくだけでも、本棚の視認性が格段に上昇するからです(案外、馬鹿にならないんですから! 好きな作家が講談社文庫では何色で光文社文庫では何色かを覚えておくようなもの。どこかでそういうクイズ大会開かれないかな)。そんなところまで含めて、何度も読み返したくなるような名著です。古本巡りをする時は、いつもカバンに忍ばせています。

     さて、本書の最も素晴らしいところは、その叢書や作者の作品を「読みたい」と思わせる紹介の妙。『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション』に紹介されていた本を古書店で買い集め、12月後半に15冊読むことが出来たので、その中から、特におすすめの作品を紹介していきます。本を読みたくなるのは、良い本である証拠なのです。

    〇紹介された本を読んでいこう!

    ・『クライム・クラブ』から

     こちらからはカトリーヌ・アルレー『わらの女』(創元推理文庫)を読みました。2019年刊行の新訳版です。恥ずかしながら初読で、理由は、中学生の時に旧訳で読んで挫折して以来、再挑戦の機会を持たなかったから。今回は新訳版で読んだのですが……これはまた、なんとも面白い。ヒルデガルトが大富豪から出された「良縁求む」の新聞広告を見つけ、面接に赴き、そこで思わぬ計画を持ち掛けられる冒頭から、とあるアクシデントが起きて坂道を転げ落ち始める中盤、そしてやるせない終盤と、まさに巻を措く能わずといった面白さ。サスペンスとしては、当の大富豪の視点に切り替わり、彼の目から秘書の人物描写がされたところでニヤリとしました。人間関係が立体的に立ち上がってくるんですよね。そう思うと、秘書パートの記述なども実に堂々としていて、惚れ惚れとするようです。

    『ミステリ・ライブラリ~』では川出正樹オススメのアルレー作品が幾つか挙げられているので、それを参考に読み潰していくことに。カトリーヌ・アルレー『理想的な容疑者』(創元推理文庫)は、口論の果てにミシェルの妻が車から姿を消し、翌日、車で轢かれ顔の判別もつかない女性が死体で発見される……というあらすじで、主人公であるミシェルは一夜にして「理想的な容疑者」になってしまうのです。彼には一切心当たりがないのに、全ての状況証拠は彼が犯人だと示している……というあたりのシチュエーションや、ミシェル自身のやや露悪的な振る舞いはギリアン・フリン『ゴーン・ガール』の先取りを見るかのよう。中盤の意想外な展開も含め、読み逃すには惜しい一作だと思いました。

    ・『イフ・ノベルス』から

     こちらの叢書からはジョン・ブューアル『暴走族殺人事件』(イフ・ノベルス/番町書房)を読みました。というのも、以前からオススメされていたものなので、これを機に読まなければと思ったのです。主人公であるグラントが車に家族を乗せて高速道路を走っていると、三人組の暴走族に襲撃され、妻と娘を殺された……という悲しい事件から始まる本作は、平凡な幸せを踏みにじられた男が、復讐を決意するノワール……と進めばまだ爽快さがあるのかもしれませんが、ストレートには向かわないところがキモ。システムの中でしか人を救えない警察や、証拠がなければ助けてくれない裁判。作者はグラントを巡る現実をシビアに描きながら、とんでもないところまでグラントを追い込んでいきます。この過程が実に物悲しい。裁判後の衝撃の展開から、実に奇妙な味わいの「共同生活」が描かれるくだりは本書屈指の面白さ。寂しい風が心に吹き抜けるような読み心地がたまらない、犯罪小説の逸品でした。

    ・『ゴマノベルス』から

     ノベルスより背が高く、単行本よりも寸詰まっている不格好な「ゴマノベルス」。存在こそ知っていましたが、『ミステリ・ライブラリ~』を読むとちょっと持っていたくなるような叢書に。ゴマノベルスの四作は全て改題して創元推理文庫に収められているので、たとえばディーン・クーンツの『もう一つの最終レース』は創元推理文庫の『逃切』でもう読んでいるんですけどね。そんなわけで、今回は未読のものを選ぼうと、スティーヴ・ニックマイヤー『殺し屋はサルトルが好き』(ゴマノベルス/ごま書房・『ストレート』と改題して創元推理文庫)を購入。サルトルが好きな殺し屋とその相棒を、私立探偵コンビが追いかける私立探偵小説ですが、もうこの「サルトルが好き」をはじめとして、私立探偵の相棒も「女好きなのにいざ付き合うとストレスで胃が痛くなる色男」とか、めちゃくちゃヘンな奴らが揃っていて、このオフビートで笑える味わいが、フランク・グルーバーやら伊坂幸太郎やらを連想させて楽しい限り。私立探偵としての観察力を見せつける冒頭の「つかみ」もバッチリ決まっているし、真犯人指摘もかっこいいしね。ゴマノベルスには片岡義男の推薦文が載っていて、その名調子も楽しい限り。引用して終わりにします。

    〝本書は型破りなミステリーだ。サルトル、ニーチェを愛読し、チャイコフスキーに耳を傾けるという殺し屋から、ギャンブルに目のない私立探偵、暇さえあればテレビの修理に余念のない町長、はては密室の鍵をあけてのける黒猫まで、登場人物のだれ一人(一匹?)をとっても、型にはまった連中はいない。
    (中略)スコッチでもブランデーでもない、バーボンを飲みながら楽しむにうってつけのミステリーである。〟

    ・『フランスミステリー傑作選』から

     読売新聞社から発売の「フランスミステリー傑作選」からは、フレデリック・ダール『蝮のような女』(フランスミステリー傑作選/読売新聞社)を。ダールは心理サスペンス的なフランスミステリーの中でも、その心理描写の巧みさと、結末の衝撃度でお気に入りの作家なのですが(最近邦訳された『夜のエレベーター』も良いし、入手困難だけど『絶体絶命』がとにかく素晴らしい。どこか復刊してくれないものか)、『蝮のような女』でもその本領は発揮されています。車の中でたった一夜を共にした女性を追いかけて、ある姉妹に出会った男。あの夜を共にした女性はどちらなのか? 美しい謎に彩られた心理サスペンスは、最後の最後、唖然とするような容赦のない結末を迎えます。

     同叢書からはジョルジュ・シムノン『メグレと死体刑事』(フランスミステリー傑作選/読売新聞社)も読了。これも実に良い。中期メグレの傑作でしょう。田舎町で事件の捜査を依頼され、警察官としての後ろ盾がない状態で事件に挑まなければいけなくなる……という田舎ミステリー×メグレの読み味もさることながら、メグレが「死体刑事」というあだ名をもつ同僚の動きに着目するのがポイント。独特の存在感を持つこの「死体刑事」は、一体何を企んで、メグレの周りをうろつくのか? その謎が開けた瞬間、メグレは自分が何をするべきか決断する。驚いたのは、当時の帯文にほとんど全てのネタバレが書いてあること。これはひどい。今なら古本で探すでしょうから、帯まで揃っていることは稀かもしれませんが、どこかで新訳して出してくれないものか。

    ・『シリーズ 百年の物語』から
     瀬戸川猛資による同叢書からはデイヴィス・グラップ『狩人の夜』(創元推理文庫)を。こちらも名作ですが、恥ずかしながら未読だったものです。サイコスリラーの祖ともいえる作品です。左手に「H・A・T・E」(憎悪)、右手に「L・O・V・E」(愛)の刺青を掘った伝道師が、死刑囚が遺した財宝を巡って少年を追いかけて来る……というのが大体の筋ですが、この刺青の設定を見て、「ONE PIECE」のトラファルガー・ローじゃんと思ってしまいました(ローの右手の指には親指から順に一本ずつ「D・E・A・T・H」の刺青がある)し、左手と右手の闘争という独特の世界観による説話を何度も繰り返す辺りは、まるで「ジョジョの奇妙な冒険」の登場人物のよう。そのあたりの描写が視覚的・音声的に立ち上がってきて、怖がるよりもむしろ面白がってしまったというのが正直なところ。少年の視点から描かれているのも瑞々しく、今読んでもなお楽しい名作です。

    (2024年1月)

第72回2024.01.12
評論を読もう! ~前半戦・本格ミステリーの最前線~

  • 探偵小説研究会・編『本格ミステリ・エターナル300』、書影

    探偵小説研究会・編『本格
    ミステリ・エターナル300』
    (行舟文化)

  • 〇カッパ・ツー第三期が来たぞ!

     光文社の新人発掘プロジェクト「カッパ・ツー」から第三期作品が登場です。私が第一期としてデビューしたプロジェクトですね。第三期はお二人入選されているのですが、第一の刺客として放たれたのは、真門浩平『バイバイ、サンタクロース 麻坂家の双子探偵』(光文社)。12月に刊行された作品ですが、まさにクリスマスにうってつけの赤い表紙が目印。小学生の双子探偵を主人公にした連作短編集で、名探偵コナンも真っ青のロジック推理合戦をほぼ全編にわたって繰り広げる贅沢な作風です(コナンよりは、麻耶雄嵩『神様ゲーム』の鈴木君が推理を捏ねているという超然とした感じ……といったほうが近いですかね?)。二人の推理や人間に対するスタンスの違いから、解決が分岐する構成も見どころ。マイベストは「黒い密室」でしょうか。密室トリックに対するアプローチのひねくれ方が好み。子供の世界ならではの駆け引きが描かれる「誰が金魚を殺したのか」もユニークです。

     作者は東京創元社の「ミステリーズ!」新人賞を「ルナティック・レトリーバー」で受賞しており、東京創元社からはそちらを収録した短編集も出る見込みとのこと。こちらの受賞作も、人間心理の陥穽をついた逆転の発想が見所の作品で、単話でKindle販売もされているので、ぜひ注目してほしいところ。また、カッパ・ツー第三期ではもう一作、信国敦子『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』(入選時タイトル)も入選しているので、こちらについての続報も心待ちにしております。

    〇『本格ミステリ・エターナル300』の話

     2023年の末に探偵小説研究会・編『本格ミステリ・エターナル300』(行舟文化)が刊行されました。探偵小説研究会が刊行してきたガイド本シリーズで、『本格ミステリ・クロニクル300』(2002年刊行、原書房)、『本格ミステリ・ディケイド300』(2012年刊行、原書房)に続くシリーズ第三弾ということになるようです。一冊につき十数年の区切りを設け、その各年について本格ミステリーの注目作を丁寧に挙げ、ガイド本として紹介してくれるこのシリーズは、高校生・大学生の頃の私にとってかなりありがたい本でした。一作一作読み潰していくためのガイドとして有効に使っていたのです。遂にその第三弾が出て、しかも自分の作品が三つ(『名探偵は嘘をつかない』『透明人間は密室に潜む』『蒼海館の殺人』)も取り上げられているのですから、感無量というもの。

     映像作品、コミック、ゲームに関するコラムも充実していて、今回も非常に読み応えがあります。とはいえ、高校・大学の頃と違い、ガイド本に頼らなくても色々読むようになったので、かなり既読作が多かった印象。ということで、せっかくなので何冊読んでいるか数えてみました。すると……取り上げられていた300作品中、読んでいたのは242作品。8割は読めていますが、58作品は未読という計算になります。こういうのがガイド本の楽しみですね。

     せっかくなので読み潰そうと思い、12月前半に18冊を読んだのですが、今日はせっかくなので、その中からおすすめの作品を5作品選んで簡単に紹介します。

    〇おすすめ作品

    ・麻見和史『虚空の糸 警視庁殺人分析班』(講談社文庫)

     まずは人気警察小説シリーズから一作。刊行点数が多く、どこから読めばいいか二の足を踏んでいたので、こういう形で読めるのはありがたい。『虚空の糸』では、都民一千万人を人質に取り、一日一人ずつ殺していくと警視庁を脅迫する連続殺人鬼を描いています。犯人視点の記述を入れてサスペンス感を高めたり、細かな物証や発言から事件の構図がぐるっと反転してしまうあたりは、さながらジェフリー・ディーヴァーを思い出す仕上がり。中でも、犯人視点の記述に仕組まれた、堂々たるダブル・ミーニングに膝を打ちました。作者の会心の笑みが目に浮かぶよう。

     ジェフリー・ディーヴァー的といえば、佐藤青南『ヴィジュアル・クリフ 行動心理捜査官・楯岡絵麻』(宝島社文庫)にも言及しておきたいです。相手の仕草から嘘を見破る、行動心理学、キネクシスなどのキーワードから、ディーヴァーの〈キャサリン・ダンス〉シリーズを思い出す作品ですが、ダンスもまだやっていない、「主人公に行動心理学を手ほどきした『師匠』が敵」というシチュエーションで燃えます。

    ・家原英生『(仮)ヴィラ・アーク設計主旨』(書肆侃侃房)

     第62回江戸川乱歩賞最終候補作を書籍化したもの(佐藤究『QJKJQ』の年!)。一級建築士が書いた「館もの」ということで、冒頭の図版からしてものが違いますし、物語の舞台である「ヴィラ・アーク」を訪れてからは、普通の「館ミステリー」ではお目にかかれない専門用語と解説のラッシュ。それだけでも独自性がありますが、やはり最終的に立ち上がってくる「そんなの、あり?」と言いたくなるような「ビジョン」が強烈。見たことのない本格ミステリーが読みたい、という人には挑んでみてほしい一冊。

    ・浦賀和宏『デルタの悲劇』(角川文庫)

     読み逃していたのを恥じ入る傑作です……。この作品については多くを語ることが難しいのですが、著者独特の文体と展開、本文となる「デルタの悲劇 浦賀和宏」をプロローグ・エピローグにあたる二通の手紙と「解説」でサンドイッチしたメタフィクショナルな構造など(「解説」の後にエピローグがきていることからも分かる通り、「解説」も作者の仕掛けの一部)、あらゆる要素が収まるべきところに収まる快感が凄まじい。作中作「デルタの悲劇」は浦賀和宏の「遺作」として扱われますが、本作を発表した2019年の翌年に浦賀和宏は病死したため、今になって読んでみると、何か悲愴な覚悟のようなものを感じ、本の前に立ち尽くしてしまいます。

    ・鳴神響一『猿島六人殺し 多田文治郎推理帖』(幻冬舎文庫)

     恥ずかしながら本当にノーマークの作品だったので、慌てて購入して読んでみました。すると……なるほど! 探偵役の文治郎が猿島で起きたという連続殺人の現場に見分に向かうと、猿島に渡った六人が全員死んでおり、そのうちの一人が書いた手記が発見される……という冒頭で、これはアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』の時代ミステリー版だと納得しました。『そし誰』型のミステリーは数多く書かれていますが、クローズド・サークルの内側にべったり入り込んでしまうパターンが多い気がするので、実地検分の形で「何が起こったか」を明らかにしていく読み味が快調です。思わぬ拾い物。

    ・藤崎翔『おしい刑事』(ポプラ文庫)

     ドラマ化もした連作短編集のようですが、ドラマも未見で、知らなかったのが恥ずかしい限り。推理力が優れてるのに、最後の最後で詰めが甘くて、手柄を横取りされてしまう「押井刑事」の物語で、様々なパターンで「間違える」名探偵のファルスを味わえます。「おしい刑事参上」で大体のパターンが分かるのですが、「おしい刑事のテスト」の「ミス」については「そんなのないよ」と言いたくなるほど細かいポイントから全てが瓦解してしまいますし、「安楽椅子おしい刑事」は安楽椅子探偵ならではの豪快な反転が面白い。個人的には某番組風の「密着・おしい刑事」にゲラゲラ笑ってしまいました。

    (2024年1月)

第71回2023.12.22
ぼくの福岡清張紀行 ~松本清張記念館に行ってきました~

  • 或る「小倉日記」伝、書影

    松本清張
    『或る「小倉日記」伝』
    (角川文庫)

  • 〇あの対談集の続編登場!

     11月に光文社から若林踏編『新世代ミステリ作家探訪 旋風篇』が発売されました。2021年に刊行された『新世代ミステリ作家探訪』の第二弾にあたる本です(第一弾では、私もインタビューしてもらいました)。第二弾では、2022年1~10月にオンラインで開催された全十回のイベントの模様が収録されており、対談作家は浅倉秋成、五十嵐律人、櫻田智也、日部星花、今村昌弘、紺野天龍、白井智之、坂上泉、井上真偽、潮谷験(収録順)の十名。ブラウン神父への敬愛を語った櫻田智也や、『バトル・ロワイヤル』で忘れられがちな要素を掬い上げて『スイッチ 悪意の実験』を書いたと語る潮谷験など、本格ミステリーの作家のインタビューもその創作理念を伺わせて面白い内容ですが、児童ミステリーの分野について掘り下げた日部星花と、警察小説の分野を語った坂上泉の回がかなり勉強になりました。特に坂上泉の『渚の螢火』佐々木譲『笑う警官』を意識しているというくだりには驚きましたし(同時に、なぜ気付かなかったのかとも思いました)、横山秀夫について語った部分が白眉でした。日部作品は小説の既刊を即座に全て購入。

    ○貴重な「文庫初収録」

     11月に光文社文庫から鮎川哲也『クライン氏の肖像 鮎川哲也「三番館」全集第4巻』が刊行されました。鮎川哲也の安楽椅子探偵シリーズである「三番館」シリーズを、光文社独自の編集で全集4巻に収めた文庫シリーズで、一巻から順に、『竜王氏の不吉な旅』『マーキュリーの靴』『人を呑む家』が刊行されました。発表年代順の編集も素敵でしたし、それぞれ「三番館」短編の原型となった作品を収めるなど、「オマケ」の部分も充実した全集になっていたと思います。「人を呑む家」などは、今までの「三番館」短編集で表題作になったことのない、一見地味な作品ですが、こうして年代順に通読してみると、「三番館」シリーズの中期・後期には「人間消失」テーマの短編が多く、その傾向を代表する作品として表題作に上り詰めても面白いのかも、と思いました。

     初めに「三番館」シリーズの話をしておくと、私がこのシリーズに触れたのは大学生の時、読んだのは創元推理文庫から刊行されていた全六巻の文庫でした(『太鼓叩きはなぜ笑う』『サムソンの犯罪』『ブロンズの使者』『材木座の殺人』『クイーンの色紙』『モーツァルトの子守唄』)。鮎川哲也の鬼貫ものを読み終わってしまい、鮎川作品に飢えていた時期に通読したのです。私立探偵による足の捜査と、推理によって事件をあっという間に解決する「三番館」のバーテンの頭脳、という役割分担の按配がツボで、鮎川哲也の推理小説はこうじゃないと……と大いに楽しんだのを覚えています。創元推理文庫版は解説も印象深く、エラリー・クイーンと鮎川哲也の手法について共通点を見出していく『クイーンの色紙』の飯城勇三もさることながら、『サムソンの犯罪』の霞流一解説は絶対に忘れられない。なぜなら、霞は解説で作中に出てくる料理の名前を列挙し、鮎川の食事描写の話を深く掘り下げていくからです。他の作品も含めて、「料理」だけを拾っていく鬼気迫る様子もたまらないし、霞自身の「美食描写」の源流を辿った感があって強烈な印象がありました(霞作品の美食描写は、それはもう、よだれが出るような素晴らしさで、『火の鶏』の焼き鳥やオムライス、『サル知恵の輪』の焼きうどんの描写などをぜひ見てほしい)。

     閑話休題。ここで光文社版の全集に話を戻すと、『クライン氏の肖像』の文庫を手に取った時、少し違和感があったのです。というのも、これまでの全集三巻に収録された分を除くと、収録作はあと九編のはずで、いずれも長い作品ではない。それなのに、ページは500ページ以上ある。どうしてこんなに分厚いんだろうと、上の空でレジに通し、家に持ち帰って帯を見て、初めて気付きました。なんと、この文庫には絶筆である「白樺荘事件」を収録しているというのです!

    「白樺荘事件」とは、ファンの間で長らく幻とされてきた未完長編で、鮎川哲也の作品『白の恐怖』を改稿しようとしたもの。2017年に論創社から刊行された『鮎川哲也探偵小説選』に『白の恐怖』「白樺荘事件」が併録された時に話題を集めましたが、それまで「白樺荘〜」は単行本未収録だったのです。今回はいよいよ文庫で読めてしまうということで、ありがたい限り(なお、『白の恐怖』も2018年に光文社文庫に入っていますので、比較的簡単に読むことが出来ます)。

    『白の恐怖』は遺産相続をテーマにしたクローズドサークルもので、主人公の弁護士「私」が書いた日記をもとに、鮎川のシリーズ探偵である星影龍三が快刀乱麻に全ての謎を解いてしまうという趣向ですが、中編のボリュームなので、確かに長編化出来そうな按配。「白樺荘事件」では、弁護士の代わりに、「三番館」でお馴染みの私立探偵が出馬しており、遺産相続の対象になる親族の数も膨れ上がっています。しかも、なかなかクローズドサークルには突入しないという形。バーテンによる推理はお預けなので、「白樺荘事件」の結末は夢想するしかありませんが、思わずニヤリとしてしまったのは、フィリップ・マクドナルド『ゲスリン最後の事件』(後に改題され『エイドリアン・メッセンジャーのリスト』)への言及があるところでした。飛行機事故で死んだ男が持っていたリストを唯一の手がかりに、徹底した推理によって真相に辿り着こうとするこの長編は、確かに鮎川哲也が好みそうなところですし、「白樺荘事件」のようなテーマの作品に、あえてネタバレをしてまでこの挿話を入れているところは、何かしら意味深長な感じがします。まあ、単に好きで言及したのかもしれませんが……(同じくだりで他にJ・J・コニントンとS・A・ステーマンに言及しているのも面白い)。

     とまあ、光文社文庫版の全集は、この嬉しいボーナストラックも含めて、他のバージョンで持っていても買い直す意味がある全集だと思いました。全編再読して相当楽しめたなあ。

    ○松本清張の話

     11月初旬。ある用事があって二泊三日、北九州の小倉まで行ってきました。小倉といえば松本清張、ということで、持っていく本は全て松本清張にしました。ライブが主目的なので、バタバタしながらにはなりますが、せっかく行くのだから松本清張も楽しみたい。

     一冊目に読んだのは『渡された場面』(新潮文庫)。四国と九州・博多が舞台だというので、ちょうどいいかと思ってセレクト。同人誌で原稿を書いている男が、プロ作家の原稿をひょんなことから盗作してしまい、それが同人誌の書評で取り上げられた。それを見た警察官は、男に目をつける。なぜなら、その原稿の風景描写が、ある殺人事件の被害者宅の周辺の様子に酷似していたからだ……というのが大まかなあらすじ。

     この「ひょんなこと」が大いにツボで、プロ作家が旅館に泊まっている時に、旅館の女中がその6枚分の原稿を書き写し、恋人である同人誌男に渡した、というプロセスなのです。そして、同人誌男は恋人の前では散々描写が古臭いだのなんだのこき下ろしたにもかかわらず、自作にその風景描写6枚を盗作する。これだけでもアイタタタ、といった感じなのに、同人誌の書評では、「この作品の内容は平凡というよりは水準にも達していないが、その中の六枚くらいの文章が実に美事である。荒筋は省いて、そこだけを引用する」と書かれてしまう始末。その引用箇所が、警察官の目に止まった、という次第なんですね。もちろん、盗作元であるプロ作家がどうも問題の殺人事件と関わっているのでは、と読者はわかっているのですが、同人誌男の方は、自分の都合で恋人を殺しているので、自分の殺人と盗作、二重の隠し事をしないといけないことになるのです。

     こうして、ズルズルと罠に落ち込んでいってしまう展開がたまらないし、問題の描写と実際の風景を比べて証拠を列挙していくところなどは鬼気迫るところがあります。また、書評欄の話などから当時の文芸誌や同人誌界隈の雰囲気などが窺えて、耳の痛いところもありつつ、かなり楽しめる一冊でした。

     と、一冊目を読んでいるうちに、飛行機が福岡空港に到着、昼飯はとにかく適当に入った店で水炊き定食を食べ(適当に入ったのに、なんでこんなに美味いんだ!)、そこから新幹線で博多―小倉間を行き、小倉に到着です。新幹線に乗っている間に、二冊目に切り替え。『或る「小倉日記」伝』(角川文庫)に。再読になります。やっぱり表題作を小倉で読みたいと思ったので。

     短編「或る「小倉日記」伝」は、田上耕作という男が、小倉に住んでいた時の森鴎外の十年分の足跡を辿る短編で、昭和二十六年に森鴎外の「小倉日記」が発見される前に年代を設定した一作。森鴎外の史伝小説『渋江抽斎』は、その書き振りが渋江抽斎その人に迫っていく推理小説のようにも読めると思っているのですが、森鴎外について辿っていく「或る「小倉日記」伝」もまた、足跡を辿っていく推理小説に違いないのです。ただ、再読してみると主人公である田上の人生、その屈託が厚みをもって描かれているのが注目されてきて、それゆえに結末の寂しさが胸に迫ってきました。慣れない土地で読んだから、余計にそう感じたのかも。

     森鴎外を巡る作品なので、森鴎外旧居なども訪れて、とにかく小倉を満喫する。この日はライブの一日目なので、荷物をホテルに置いたらライブへ。夜は友人と鉄鍋餃子の店を満喫して、ホテルに戻る。「或る「小倉日記」伝」を読んだらあまりに寂しくなったので、お笑い芸人のラジオを聞きながらベッドに横になりました。

     二日目も午後はライブだけれど、午前中は自由行動。友人が朝は部屋で休むというので、一人で小倉観光へ。西小倉の方まで歩いて、小倉城、八坂神社、そして松本清張記念館を見物する。二階建ての清張の家を再現した空間で、仕事場や応接間よりも長い時間、書斎の本棚を眺めてしまいました。芥川賞受賞時の火野葦平の手紙は、Xで伊吹亜門も言っていたけど、本当に良い手紙なので実際に目で見てほしいですね。特別企画展は「清張福岡紀行」というもので、清張作品に描かれた九州の描写をエリアごとにひたすら並べたもので、清張作品の描写が好きな私にはたまらない展示でした。当然、パンフレットも購入。

     松本清張記念館の売店は、おそらく現在流通している清張文庫は全部あるだろうなと思わせる品揃えでしたが、何よりも目を引いたのは、過去の企画展のバックナンバーでした。一番好きな長編である『時間の習俗』について、『時間の習俗展 「和布刈」発、ミステリーの旅』という企画展があるのを発見。昭和三十年代の風物や清張愛用のカメラなどを紹介するのみならず、犯人の供述に基づく「アリバイ」と、推理に基づく「実際の行動」を比較した見開きのページに目を惹かれ、迷わず購入しました。この企画展は1999年に行われたもののようで、こうした資料が今も手に入るのが嬉しいですし、お金と鞄のスペースが許せば全バックナンバーを買いたくなったほど。

     他に、『E・A・ポーと松本清張』の特別企画展パンフレットと、文庫からは『黒の様式』(新潮文庫)を購入。松本清張で「黒」とつく作品にはハズレがないという印象があるので(『黒い画集』『黒い福音』『日本の黒い霧』など)、選んでみました。これが旅行中の読書の三冊目。そうしたら、これもなんとも面白い! 『黒の様式』には「歯止め」「犯罪広告」「微笑の儀式」という三つの中編が収められているのですが、「黒の様式」というタイトルは作品の題名ではなく、1967年1月から1968年10月まで「週刊朝日」に連載された中短編のシリーズタイトルだというのです。つまり「黒い画集」と同じ経緯ですね。「黒い画集」連作には、清張短編のあらゆるパターンが含まれていると同時に、謎解きミステリーとしてもハイレベルな作品群であり(山岳ミステリーの傑作「遭難」や、意想外の仕掛けで最後まで読者を翻弄する「紐」など)、私の偏愛作であるだけに、『黒の様式』への期待も高まります。

     で、読んでみると、最初の一編目「歯止め」こそ、息子である男子中学生の性への目覚めに困惑する母親の描写が中心となるサスペンスですが、ほか二編は『黒い画集』を思い出すような堂々たる謎解き編。二編目「犯罪広告」は、冒頭から母親を義父に殺されたと告発するチラシが提示されて面食らいますが、母親の死体を探すために義父の家の床下を掘り返す段になっても、依然としてふてぶてしい態度を取り続ける義父の描写にたどり着くと、死体探しを巡るスリーピング・マーダーものとしての力強い骨組みが見えてくるという次第。トリックもちゃんとあります。三編目「微笑の儀式」は、仏像のアルカイック・スマイルを巡る講釈が古代史好きの清張らしい面白さですし、それを受けて、死体が微笑みながら死んでいるという不気味な謎が秀逸。こちらも謎解きに注力した作品です。

    「黒の様式」の連載は、この三編のほか、「二つの声」「弱気の蟲」「霧笛の街(改題・内海の輪)」と三つ続いたようです。このうち、「内海の輪」については、第69回の読書日記で広島旅行の際に読んだと書きました。その時は駆け足だったので細かく内容を書きませんでしたが、「内海の輪」は考古学助教授が兄嫁と不倫関係にあり、瀬戸内海の旅行中に妊娠を告げられたため、殺害を決意する、という筋立ての作品であり、徹頭徹尾身勝手な男の態度にヤキモキさせられる作品です。ただ、不倫関係がバレないように知人の前で咄嗟に他人のふりをするシーンなど、サスペンスとしての読み味は十分で、古代史関連の発掘シーンも読みごたえがあり、楽しめる作品でした。

     残りの二編については、東京に帰ってきてから、光文社文庫の松本清張プレミアム・ミステリーの一冊『弱気の蟲』を手にいれ、ようやく読めました。「二つの声」は俳句仲間と野鳥の声を録音しにいった先で起こる殺人事件の話で、俳句趣味も清張作品の特徴なので嬉しくなってしまいますが、何より素晴らしいのが、謎解きのポイントを録音された音声に絞ってみせたところ。どうしてもアリバイが崩せない、と思ったところに、シンプルながら効果絶大の謎解きが描かれて唸ります。「弱気の蟲」はどちらかというとサスペンスに振った作品で、公務員である主人公が麻雀仲間に連れられて麻雀にハマっていき、しかし弱いのでカモられてしまう、という状況をまず描き、彼が借金を抱えてからいよいよ殺人事件が起こるという筋立て。麻雀好きは身につまされるような話で、かなり嫌な後味の作品です。

     11月に光文社文庫に清張の新刊があったので、これもいい機会だと思い購入。時代ものの『紅刷り江戸噂』です。時代ものなので、そんなに謎解き要素は強くないのかなと思いきや、一編目「七草粥」で驚愕。これ、直球のミステリー短編集じゃないか! 「七草粥」は新年の大店で、通りにやって来たなずな売りから七草を買い、七草粥を作ったところ食べた者が苦しみだした。あのなずな売りから買った草の中に、「とりかぶと」が混ざっていたからではないかと思われる――という設定の作品で、帝銀事件や農薬コーラ事件など、昭和の犯罪を思わせるどこか陰惨な悪意を描いていてゾクゾクさせられます。事件の構図が分かってくるうちに、冒頭のさりげないシーンの冷たさが効いてきて、最後にはまるで本格ミステリーのようなトリックまで登場する作品。この一編ですっかり魅せられてしまい、残り五編も大いに楽しみました。サスペンスが横溢する「虎」なども見事ですが、なぜ首を斬られた死体の顔が穏やかなのか、という謎を扱った「術」は構成そのものがトリッキーな逸品ですし、短編集の中で最も短い「役者絵」は倒叙ミステリーで、ラスト、犯人が口を滑らせる仕掛けが鮮やかな一編。もちろん、時代小説らしく、季節ごとの江戸の風物の描き方も面白くて、「七草粥」でも、爪の剪り初めの際に、七草の余ったものを水に入れて、手をつけておくと、たとえ怪我をしても傷にならないという信仰があるとか、こういうさりげない描写がやけに心に残る作品です。

     そんなわけで、11月はほとんど清張漬けの日々を過ごしました。今月は清張作品の中でも偏愛の『ガラスの城』講談社文庫から新装版で刊行されて、何かと思えば、来年1月4日放映のドラマの原作だから復刊した模様。二夜連続企画で、第一夜は「顔」かあ。これも見ちゃうかもなあ。そうなると、来年も清張から始まることになりそうです。

    (2023年11月)

第70回2023.12.08
御無礼、32000字です ~『地雷グリコ』発売記念、ギャンブルミステリー試論~

  • 地雷グリコ、書影

    青崎有吾
    『地雷グリコ』
    (KADOKAWA)

  • 〇今年最高の新刊が出たぞ!

     さあ、まずはこの話をしないわけにはいきません。青崎有吾『地雷グリコ』(KADOKAWA)! ロジックの名手・青崎有吾が仕掛けた五つの頭脳戦。全てが子供の遊びをアレンジしたオリジナルゲームになっており、そのルールだけでもわくわくさせられますが(宮内悠介による帯文「ルールを聞くだけでわくわくする。それはきっと、いいゲームであることの証左」はまさに言い得て妙)、特筆すべきは、詰将棋の手順を一手一手解説するかのような、徹底したロジックによる絵解きです。ギャンブルものとしてのケレン味、ハッタリも十分。

     内容を簡単に紹介しましょう。第一話「地雷グリコ」では、高校生の射守矢真兎は、高校で行われる屋上の使用権を賭けた《愚煙試合》に挑みます。生徒会代表の椚先輩が対決する相手で、審判は江角先輩が務めるという構図。行われるゲーム「地雷グリコ」とは、じゃんけんを行い、勝った手(グー・チョキ・パー)に従って階段を上っていくゲーム「グリコ」に、オリジナルの要素を加えたもの。双方のプレイヤーはゲーム開始前に、任意の段を三つ指定し、「地雷」を仕掛けることが出来るのです。「地雷」を相手プレイヤーが踏むと、それが炸裂して十段下がることになる、というルール。

     このシンプルかつ強力なルールが面白いのです。作者の素晴らしいところは、このルールからプレイヤーが思いつくはずの「定石」を丁寧に書いて、それによる駆け引きを描いたうえで、読者と相手プレイヤーの予想を超える更なる「奥の手」を用意する、その手際の良さです。ギャンブル物に求める全ての魅力が、ここには備わっているといえます。「地雷グリコ」はシンプルなルールであるとはいえ、わずか45ページに収まっているというのも驚愕に値します。

     全体的な雰囲気は(この作品については後の特集で詳述しますが)漫画「嘘喰い」からの影響が多分に感じられます。大きな類似点としては、①プレイヤーの他に審判(「嘘喰い」においては「立会人」と呼ばれる)を立て、ルール説明、進行、裁定、賭けの結果の回収を行わせる。②双方のプレイヤーはルール説明から初めて聞くため、戦略の組み立てや実行もその場で全て行う必要がある。③実際にあるゲームや遊びをアレンジして、オリジナルのゲームを作っている。この三点に求められるでしょう。これらの特徴は、ギャンブルをテーマにした作品――「カイジ」や「LIAR GAME」などを見ていれば――当たり前に聞こえるかもしれませんが、実は重大な特徴になっています。このことはこの後の項「ギャンブルミステリー総論」で述べていこうと思います。

     ここで②の点から特異的といえるのは、第二話「坊主衰弱」です。ゲームのルールは百人一首の札を利用した「坊主めくり」と「神経衰弱」を掛け合わせたもので、③の特徴通りですが、ここでは真兎の相手となる「かるたカフェ」のマスター=胴元が仕掛けるゲームに挑むことになるのです。つまり、ゲームの理解度においてそもそも差がある状態であり、イカサマなどを仕掛けられる点において、そもそも出発点に開きがあるのです。これは「カイジ」シリーズで多用される構造であり、「胴元=敵の仕掛けたトリック(イカサマ)を見破り、その裏を取って勝つ」というギャンブル物の一つの王道をいく展開をみせてくれるのです。水も漏らさぬ行動によって築き上げられた真兎の仕掛けに唸る逸品。

     第三話「自由律ジャンケン」は、グー・チョキ・パーに加えて、双方のプレイヤーが指定する「独自手」を加えた、五種類の手で行うジャンケン。「独自手」の形は開示されますが、「効果」は開示されないため(効果というのは、例えば「グーには負けて、チョキには勝つ」など。ネタバレにならないように思いっきり馬鹿な例を挙げましたが)、これによって「読み合い」が深化することになります。「ジャンケン」でギャンブルをするとなれば、「ジョジョの奇妙な冒険」第四部「ダイヤモンドは砕けない」の中の1エピソード「ジャンケン小僧がやってきた!」を思い出しますが、あの作品にも通じる、熱量MAXのジャンケン描写の中に、怜悧な計算が潜んでいたことに気付かされる「解決編」が素晴らしい。

     第四話「だるまさんがかぞえた」は、「だるまさんがころんだ」に「入札」要素を追加したゲーム。「だるまさんがころんだ」は、鬼役が振り向いた時に、プレイヤーが動いていたら負け、というゲームですが、本作のゲームでは鬼役もプレイヤーも動きますし、さらに互いに歩く歩数を「入札」によって決めるという趣向。

     作者の巧妙なところは、このゲームが膠着状態になってしまうパターンをルールの追加によって潰して、ゲームバランスを整えたうえで、真兎が持ちかける「もう一つの条件」によって駆け引きの方向性を定めているところ。この二つのさりげない「逃げ道」潰しが、作者がギャンブル小説に本気である証拠。「振り向くことで相手を殺す」という要素は、後に語る漫画「嘘喰い」の最終章「ハンカチ落とし」編の構図を思わせますし、「だるまさんがころんだ」をモチーフに頭脳戦をやるという部分では、ドラマ「イカゲーム」で行われた「だるまさんがころんだ」ゲームが、ビジュアル的にはかなり面白いとはいえ、一皮むけばただのデスゲームに過ぎなかったことによる渇を癒された感じがします。

     ここまでの四話は、「小説屋sari-sari」「カドブンノベル」「小説 野性時代」掲載時から夢中になって読んだ作品ばかりだったので、私の期待は書き下ろしである第五話「フォールーム・ポーカー」に注がれていました。そして、その期待は一切裏切られなかった! 『地雷グリコ』連作の最高傑作であると同時に、青崎作品の最高傑作をも更新するような大傑作です。ざっくりいえば四つの部屋を巡ってカードを引き、自分の手を作るというポーカーなのですが、シリーズ最強の敵に対して、一手ごとにしのぎを削る展開がとにかく読ませますし、最終的な到達点にもため息が出ます。漫画「嘘喰い」には、「エア・ポーカー」編という、ポーカーを基盤にした素晴らしいオリジナルゲームがあり、全49巻にも及ぶ「嘘喰い」の中でも、そして全ギャンブル漫画の中でも最高到達点ともいえるような駆け引きが繰り広げられるのですが、「フォールーム・ポーカー」はそれにも比肩する充実した作品なのです。「エア・ポーカー」の話は、あとでじっくりしますよー。

     短編が一つ進むごとに、真兎を巡る状況や賭けの対象も変わっていくなど、連作短編集を読む楽しみはしっかりありますし、第五話の最終対決に向けてボルテージが高まっていく構成も見逃せないところ。ルールを理解し、定石を頭の中で組み立て、答え合わせをし、さらにその先の展開を読もうとし、裏切られる――350ページの間、ひたすらに頭を使い続ける凄まじいミステリーですが、読み通した後には、心地よい脳疲労がもたらされるでしょう。

     実を言えば、拙作『午後のチャイムが鳴るまでは』において、「消しゴムポーカー」なるオリジナルのゲームを使った「賭博師は恋に舞う」という中編を書いたのは、この『地雷グリコ』がキッカケでした。正確には、第一話「地雷グリコ」が2017年11月号の「小説屋sari-sari」に掲載されたことに端を発します。もともと、後に語る「カイジ」や「嘘喰い」には世代的な思い入れがあり、「ギャンブル物の面白さは、本格ミステリーにも通じる、だからこそ、自分でもそうした作品を作ってみたい」と思っていたのですが、小説で表現することの難しさを感じてもいました。そんな時に、「地雷グリコ」を読んで頭を殴られたわけです。もちろん、それまでもギャンブルをモチーフにした小説作品はいくつも書かれているのですが、感動したのは、学園ものとギャンブルを掛け合わせるその手際と、普通のギャンブル物にはない「清涼感」でした。ギャンブルの世界は、どうしても陰惨だったり、残酷だったり、とにかく暗い世界になりがちで、「負ければ底に堕ちる」という構造があるからこそ、物語が盛り上がります(負けた場合に何億もの借金を負うとか、指を切られるとか、ペナルティーも陰惨なものです)。だからこそ、そうした雰囲気の無いギャンブル物――いい意味で、勝負にただ熱中する「だけ」の、陰惨でないアプローチ――が出来ないだろうかと思っていたのですが、そこに現れたのが短編「地雷グリコ」だったといえば、衝撃の程は伝わると思います。もちろん、真兎にも賭けているものがあり、負けられない理由があるわけですが、全体が纏う雰囲気は怜悧でありつつポップであり、「明るい熱」なのです。

     というわけで、青崎有吾の最新にして最高傑作、おまけに「オリジナルゲームギャンブル本格ミステリー」の2023年版最高峰『地雷グリコ』。どうかお見逃しなきよう。

    〇ギャンブルミステリー総論 ~より公正に、より独自に~

     さあしかし、ここまでも「カイジ」「嘘喰い」の名前をたびたび出してきましたが、分からない人にとってはこのあたりの話が全然理解できないと思います。そこで、ここからは「ギャンブルミステリー特集」を組んでみたいと思います。まずは作品群全体の特徴を洗ってみたうえで、「小説編」「漫画編」「映像編」に分けて、それぞれの代表的な作例について語ってみたいと思います。

     この記事をまとめてみようと思ったのには理由があります。それはやはり、私自身が、こうした「ギャンブル」を取り入れた作品に学生時代から多く触れており、そこには本格ミステリーに通底する魅力がたくさんあると感じていたからです。これは何も私に限った話ではなくて、たとえば福井健太『本格ミステリ漫画ゼミ』(東京創元社)においては、「思考ゲームとしての漫画」という項において、頭脳戦・ギャンブルを扱った漫画が紹介されており、その冒頭では次のように述べられています。

    〝探偵や犯罪などの装置がなくとも、理知的なゲーム空間を築くことはできる。ルールを伴う頭脳戦を軸にしたエンタテインメントは、本格ミステリに通じるゲーム性を備えている。語弊を恐れずにいえば、型に嵌まった本格ミステリ以上に、柔軟かつ純粋なそれを扱いうる形式なのだ。〟(同書、「思考ゲームとしての漫画」より)

     ギャンブルを扱った本格ミステリー的作品に魅せられる、と同時に、自分でも中編一つ書いてみたことからも伝わるであろう通り、こういう作品を取り入れてみたいという欲が私にはずっとありました。少し世代を下ったり、あるいは上ったりすると「分からない」と思われるかもしれないこの「欲」が、なぜ生まれてきたかを記録に残すために、一旦全部書き出しておこうと思うのです。

     さて、まずはギャンブル物の特徴についてです。最初に見ていくのは、プレイヤー間の関係性です。ここには大きく分けて三つのモデルがあると思っていて、一つは「単純型」。二つ目は「カイジ型」。三つ目は「立会人型」です。①の「単純型」からいくと、全プレイヤーが対等であり、賭けの胴元はあくまでも賭博の「場」と「機会」を提供するのみというシンプルな構図です。麻雀漫画などは代表的にこの構図で、金の取り合いは当事者間でのみ発生します。この時互いに使えるのは「技」に近接したイカサマの数々です。阿佐田哲也の名作群はもちろんこの型ですし、多くのギャンブル作品はここに属することになります。こうしたギャンブル物は、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』やそこから派生した傑作『ドサ健ばくち地獄』が「ピカレスク」と謳われる通り、基本的には、勝負の世界に生きる男たちを描く作品であり、ゲーム「そのもの」を描くことが目的にはなっていない印象があります(「コンゲーム」と呼ばれる作品群も同様です)。しかし、二つ目の型以降、ゲームのルールの部分に凝っていくことによって、時にはゲームに淫するような複雑なルールを課したギャンブル作品が数多く生まれていくことになります。

     ②の「カイジ型」では、基本的に胴元=敵という等式が出来上がっています。ゲーム(ギャンブル)を仕掛けるのは胴元側であり、プレイヤーはそれに挑んでいく、という構図です。もちろん、胴元側も組織ではなく、代表者を一人立てるわけですが、胴元側なのでゲームの内容もルールも全て知り抜いていますし、そのルールに応じたイカサマを行って「常勝の仕掛け」を作り上げています。この時、プレイヤー側が行うべきことは①相手の行っているイカサマを見抜くこと、②相手が絶対的な優位に油断している状況を利用して、そのイカサマの裏を取ること、の2つです。イカサマが分かってもすぐに告発せず、それをあえて利用するというところにポイントがあり、それによって①:胴元=犯人側のトリックと②:プレイヤー=探偵側の逆トリックの両方を味わえるのがこの型の特徴です。「カイジ」やその影響を受けた作品群の多くはこの型に属しています。絶対的な上位者を智略によって打ち負かし、その鼻を明かす――という成り上がり物語の構図をもっているからこそ、この型は書きやすいのでしょう。後に紹介する作品では、漫画「カイジ」シリーズだけでなく、福本伸行「銀と金」の誠京麻雀編や「賭博覇王伝 零 ギャン鬼編」の「100枚ポーカー」編、カミムラ晋作「マジャン ~畏村奇聞~」、円居挽『今出川ルヴォワール』などがこれに該当し、パーシヴァル・ワイルド『悪党どものお楽しみ』にもこの型の作品があります。胴元=敵でなくても、イカサマの解明→その逆用というパターンは青山広美「バード―砂漠の勝負師―」でもなぞられています。

     ただ、②の型には大きな問題点があります。胴元=敵である以上、プレイヤーが勝ったとしても、その「勝ちの回収」に大きな不安が残るのです。究極的に言えば、相手が実力行使に出てしまえば、殺されてしまう可能性もありますし、手に入れた金を奪われるかもしれません。もちろん、胴元側にも「フェアに見せかけなければいけない」という体面上の問題もあるとはいえ、です。「カイジ」ではこの問題を、敵の上位者に裁定させることによって無効化しています。ゲームをプレイする際、カイジ自身も実はこの不安から解き放たれることはないはずですが、シリーズ第一弾で帝愛のトップである兵藤と対峙してからは、「兵藤は勝ち負けの解釈はフェアだ」という信頼感をもって、この「勝ちの回収」の問題を巧妙に棚上げしています(ただし、シリーズ最新作「賭博堕天録カイジ 24億脱出編」〈現在25巻、連載中〉においてこの問題が再発生していることも言い添えておきます。兵藤和也とのワン・ポーカーギャンブルに勝ったカイジは、24億もの大金を抱え、帝愛から逃げ回らないといけないのです。今までカイジが棚上げにしてきた「勝ちの回収」という問題が、約20年越しに再燃したのです)。

     この「勝ちの回収」に目を向ければ、③「立会人型」の道が出てきます。この「立会人」というのは、漫画「嘘喰い」においてギャンブラー同士の戦いに立ち会い、ルール説明、ゲームの進行、勝敗の裁定、債権の回収までを行う存在を意味する用語ですが、「嘘喰い」に敬意を表してこの型は「立会人型」と名付けることにします。この型のポイントは、プレイヤー二人の他に中立な裁定者を配置する点です。これによってゲームへの中立性が保たれるだけでなく、「双方のプレイヤーが今、この時初めて、ゲームのルールを聞く」というスタートラインの同定も出来るのです。勝負としてかなりフェアな作りであることを強調することが出来ますし、互いのプレイヤーがしのぎを削り合う熱量も自然と高まっていきます。この型に属するのは漫画「嘘喰い」を代表として、「LIAR GAME」「ジャンケットバンク」、そして『地雷グリコ』になります。

     一見、「立会人」を置くことによって②で指摘した「勝ちの回収」の問題は解消されたようにみえます。立会人がきっちり裁定を行ったうえで、債権も回収してくれるのですから。事実、「LIAR GAME」ではルールによって暴力行為が排除されており、大金がかかったゲームであるにもかかわらず、静謐で怜悧な頭脳戦の世界を実現することに成功しました(付言すれば、「LIAR GAME」において敗者に課せられるペナルティーは負債のみ。しかし、借金の苛烈な取り立てなどの描写もないことから、その数字は無機質なデータのように動いていきます。言ってみれば、過去のギャンブル作品において、よく敗者の代償として描かれた「人体損壊」や「大事な女性の身柄」などの「血と色」が巧妙に排除されているのです。これが同書の想定読者層を広げたと思います)。

     しかし、「嘘喰い」ではあえて「勝ちの回収」という問題を「暴力」を描いたアクション漫画の形で先鋭化させました。一方「ジャンケットバンク」では、「勝ちの回収」の問題は「生死を分かつ罠」という「知」の領域で立ち上げました。どちらも問題を潰したうえで、独自の味をつけているのです。

     こうした三分類に加えて、ゲームそのものも分類してみましょう。これは「A:元からあるゲームのルールを変えずに行うギャンブル」「B:元からあるゲームにオリジナルのルールを追加するギャンブル」「C:オリジナルのゲームで行うギャンブル」の三つの型に大きく分類出来ます。

     は簡単ですね。麻雀漫画の多くはこのパターンに属し、ギャンブル要素として強く立ち上がってくるのは元のゲームが持つ「駆け引き」と、そのゲームにおいて現実でも行われる「イカサマ」の要素です。こうしたAのパターンでは、それぞれのプレイヤーによる技量・器として「イカサマ」が立ち上がってきます。つまり、ここでのイカサマとは、技と技とのぶつかり合いである、ということが出来ます。元からそのゲームのルールを知っていれば、その世界にすぐ入り込んでいけるのが特徴です。

     については、例えば福本伸行の麻雀漫画「天 ~天和通りの快男児~」における「二人麻雀」を代表例に挙げておきましょう。基となるルールは麻雀そのものですが、麻雀は通常四人、もしくは三人で行うものであり、二人で行うために作者が独自のルールを付け加えた……というものです。ここでは、「元のゲームのルール」+「追加されたルール」の二つを理解する必要があります。この特殊ルールにおける「定石」は、プレイヤーと共に、読者も読み解いていかなければなりません。

     の代表例は漫画「LIAR GAME」でしょう。現実には存在しないゲームのルールを一から作り上げ、その「定石」整理やゲームバランスの調整までを自分で行い、作品の形で供する。最もハードルが高いけれど、やりがいのある形です。しかし、ここではゲームそのものを「一から全て理解する」必要性が生じます。読者と作者の間にシミュレーション量のギャップが如実に出て来るわけです。

     そこで、このギャップを解消するためによく行われるのが「C―1、オリジナルゲームではあるが、現実にある遊びやゲームを基に作られている」です。BとC―1との差異は程度問題ということになってしまいますが、元々はギャンブルではない「グリコ」を、アレンジによって「地雷グリコ」というゲームに作り替えた……という経緯は、このC―1型の代表例と理解してもらえるのではないでしょうか。

     反面「C―2、どこから生えて来たのか分からない完全オリジナルゲーム」も存在します。「LIAR GAME」で扱われるうち、「密輸ゲーム」感染パンデミックゲーム」などはこの型に属するといっていいでしょう(なお、同じ「LIAR GAME」にもC-1の型に属する「17ポーカー」「回らないルーレット」「入札ポーカー」などがあります)。

     野球×頭脳戦漫画「ONE OUTS」と、オリジナルゲームによる頭脳戦漫画「LIAR GAME」をどちらも著した甲斐谷忍は、映画「LIAR GAME The final Stage」のパンフレットに掲載された原作者インタビューにおいて、「『LIAR GAME』という作品を書こうと思ったキッカケ」を問われ、次のように述べています。

    〝この作品の前に、やはり騙し合いの勝負を描いた「ONE OUTS」という漫画を描いていたのですが、野球漫画という形を取っていたために、野球のルールを知らない方にはなかなか読んでもらえませんでした。それで割と近いテイストで、創作したゲームで騙し合って戦うという話に挑戦してみたというのが、きっかけです。〟(同書、【原作】甲斐谷忍インタビューより)

     ある意味で現実のルールに即した型:①、Aの「ONE OUTS」(連載:1998~2006年)が、特殊なルールを導入した型:③、C―2の「LIAR GAME」(連載:2005~2015年)へと変遷する――この流れそのものを、本格ミステリーから「特殊設定ミステリー」への変遷と重ね合わせることも出来るかもしれません。ですがここでは、一つ大きなメッセ―ジを取り出してみましょう。すなわち、「AやBの型は読者の知識(そのゲームを知っているか、やったことがあるか)に依存してしまうが、Cの型は読者とプレイヤーの出発点を揃えることが出来る」ことです。Cの型は、複雑になりすぎると誰もついてこない可能性が出てきますが、絶妙なバランスを見付けさえすれば、AやBよりも広い読者層を獲得する道が見えてきます(事実、「LIAR GAME」はドラマ化・映画化までされ、2011年3月時点で累計500万部を突破しています)。そういう意味で、C―1のように、「誰もが子供の頃にやったことのあるゲームを、オリジナルゲームに改造する」という手法は、読者の知識・経験を利用したかなり上手い手です。

     では、ざっくり分類したところで、各論に移ります。この総論に述べたのは概略なので、細かい話は、作品の具体的な話をしながらまた掘り下げていきます。重複する個所もありますがご容赦を。

     注意事項としてここでは二つ。一つ目は用語についてです。この日記で扱うのは、麻雀やポーカーなど「実際にやったことがないとルールが分からない、難しい」と思われるゲームについて扱った作品がどうしても多くなります。そうした麻雀、ポーカーなどの用語については、適宜説明を加えようとは思いますが、説明が難しく(もしくは不必要に長くなるため)、そのまま使う場合も多々あります。ご容赦ください。ただ、その作品独自の語法や用語については丁寧に説明していこうと思います。

     二点目です。以下では、ゲームそのものへの興味も持っていただきつつ、ギャンブル作品の様々なパターンを掘り下げるために、極力、ゲームのルールについて詳しく書いていきます。「ゲームのルールそのもの」をネタバレと捉える人は少ないとは思いますが、ギャンブル作品において、独自ルールが開示される瞬間というのは得難いワクワク感があります。そうしたワクワク感は作品で味わいたい! という方は、ルール説明のくだりは適宜飛ばしながら読んでください。「ルールは以下の通り」「ルールはこんな感じ」という表現が頻出するのと改行が多いのはそのためなので、サクッとスクロールしてください。なお、こちらは既読者への注意ですが、未読者へのネタバレ(こちらは大ネタの方)を避けるため、あえてルールの細かい部分は避けて記述しています。あれがない! と思われることもあるかもしれませんが、ご容赦ください(対戦相手なども、漫画全体の展開を明かしてしまう恐れがあるので、適宜省いたりしています)。

     ではこれから、「小説編」「漫画編」「映像編」の三段階にわけて紹介します。……しかし、どうしても「漫画編」の厚みがすごくなるなぁ。大変な文字数だ。

    〇小説編

     まずは小説編から。冒頭に挙げるのは円居挽『今出川ルヴォワール』(講談社文庫。型:②、C―1)。著者による〈ルヴォワール〉シリーズの第三弾。ゲーム「逆転裁判」を思わせる丁々発止の法廷劇が見所の「双龍会」が魅力のシリーズですが、本書は前半の三分の一にあたる第一部で、この「双龍会」パートを終わらせてしまいます(もちろん、二転三転する推理の魅力はそのままで、このパートだけでも十分面白い)。では残りの三分の二は何をやるかといえば、オリジナルゲームによるギャンブルが行われるわけです。種目は「鳳」と呼ばれるもの。

     ルールを見ていきましょう。1~16までのカードを使い、親と子の間で勝負をするもの。数字の大きい方が基本的には勝ちますが、足して17になる組み合わせ(1と16、2と15など)が出来てしまった場合は、小さい数字が勝つ一発逆転が起こって、おまけに負けた方のポイントが全て相手に奪われてしまう「大取」というルールが追加されているのがミソ。

     このように、シンプルで、小説の形で描くにもやりやすい設定でありながら、大逆転を仕込むことも可能……というルールになっています。円居本格ならではの大掛かりなトリックや、漫画ネタのくすぐりなども含めて、自信をもってオススメ出来るギャンブル本格になっているといえるでしょう。

     円居作品には随所にギャンブルを思わせる要素が登場しますが、もう一つ明瞭に、ギャンブルの結構を備えた作品が短編「ペイルライダーに魅入られて」(『京都なぞとき四季報 町を歩いて不思議なバーへ』〈角川文庫〉収録。型:①、C―1)でしょう。シリーズそのものは、バー「三番館」を舞台にした「日常の謎」連作ですが(バーの名前は鮎川哲也を思わせますが、探偵役は「御神酒はいかが?」と口にするため、エドワード・D・ホックの〈サム・ホーソーン〉シリーズも連想させます)、第四話にあたる「ペイルライダー~」では、ある「賭け」が描かれます。

     ルールはこんな感じ。三杯のカクテルのうち、一杯がペイルライダーで二杯がペイルホースになっていて、この二つのカクテルは見た目では区別がつかない。これを二人のプレイヤーが飲むのですが、Aが先に一つ選び、この時点では飲まず、次にBが残った二つのうちからハズレだと思う方を除外する。そしてAは、最初に取ったものか、Bが残した方を選ぶ……というルール。

     この短編の冒頭でも示唆されている通り、数学の「モンティ・ホール問題」をモチーフにした作品で、確率論の裏をかく結末が印象的な一編となっています。

     同じように「モンティ・ホール問題」を鍵とした作品が、有栖川有栖「ロジカル・デスゲーム」(『長い廊下がある家』〈光文社文庫〉収録。型:①、C―1)。火村とある人物の賭けを描くこの作品では、三杯の盃のうち、一つに毒が入っているという設定。火村の編み出した必勝法とは? 文庫版で50ページ弱という短めの作品ではありますが、常識の枠をついた意外な手段が印象的な作品。

     優れたギャンブル小説を書き継いでいるのが宮内悠介。11月に文庫化された『黄色い夜』(集英社文庫。型:(ギャンブルによって異なる)、A)は、巨大なカジノ塔が聳え立つアフリカE国で、イタリア人のピアッサを相棒に、カジノ塔の最上階を目指す日本人ギャンブラー・ルイの活躍を描いた作品ですが、文庫で160ページという短さの中に、聖書のページ当て、セキュリティコンテスト、ポーカーなど幾つものギャンブルが凝縮された作品になっています。文庫版では短編「花であれ、玩具であれ」も収録されており、こちらもシャープな良作。

     宮内悠介には「スペース蜃気楼」(『スペース金融道』〈河出書房新社〉収録。型:②、A)というポーカー小説の傑作もあります。太陽系外の星、通称二番街で債権回収担当者として生きる「ぼく」が、アンドロイドから借金の取り立てをするという連作短編集なのですが、取り立てのためなら宇宙のどんなところでも行く! という主人公がこの短編で巻き込まれるのはカジノでのポーカーゲーム。自分の臓器さえチップとして賭ける極限の状況下で、「ぼく」はいかに勝利するか。経済小説的な大ボラまでキマって、抱腹絶倒の一編に仕上がっています。

     小説編の最後に紹介するのが、パーシヴァル・ワイルド『悪党どものお楽しみ』(ちくま文庫。短編によって異なるが基本的に型:②、A)という作品。こちらは1929年の作品ながら、改心した元ギャンブラーが、その知識や経験をもとに、イカサマ野郎たちが張り巡らせたイカサマの仕掛けを見破り、その仕掛けの裏を取って逆転する……という、後に紹介する「カイジ」などと全く同じ構造を持ったギャンブル本格ミステリーの逸品なのです。今でもそのまま成立しそうな仕掛けを使った「火の柱」や、負けないルーレットのトリックを見破る「赤と黒」など、名作が目白押しですが、ただ「イカサマのトリック」だけでなく、より探偵小説的な小技も効いた「ビギナーズ・ラック」などの好編もあり、隙のない作品集になっています。何より、元ギャンブラーで今は農夫として暮らすビル・パームリーと、彼に泣きついたり、ビル宛ての依頼を受けてしまい困り果てたりする「愛すべきワトソン役」トニー・クラグホーンとのコンビが素晴らしく、スイスイ読めてしまいます。ちくま文庫版には、『世界推理短編傑作選3』に収録されているために、国書刊行会のハードカバー版では削られていた名作「堕天使の冒険」を収録しており――こちらもブリッジをテーマにしたギャンブル小説の傑作で、フーダニット要素まで追加した隙のない逸品――今から探すなら断然、文庫版でしょう。

     海外編に目を向ければ、ロアルド・ダール「南から来た男」(『あなたに似た人』〈ハヤカワ・ミステリ文庫〉収録)やポーカー勝負のシーンが印象深いイアン・フレミング『007/カジノ・ロワイヤル』(創元推理文庫)なども見逃せないところですが、ギャンブラーの世界と師弟関係を描いた作品としてレナード・ワイズ『ギャンブラー』(早川書房)の名前も挙げておきます。とはいえ、オリジナルゲームなどを用いたものはやはり日本独自なのかも。

    〇漫画編

    *福本伸行の話から

     どうしても、ここの層は厚くなります。長くなりますが、ご容赦を。まず世代的に名前を挙げなければならないのは福本伸行。中学2年生の頃、2007年10月~2008年4月まで「賭博黙示録カイジ」(型:②、C―1)を原作にしたアニメが放映されていたこともあり、「カイジ」の名前は独特な絵柄と「ざわ……ざわ……」というエフェクト、ネットミームとして必須教養のようになっていて、それで見ていたというのが入り口(なお「アカギ」のアニメは2005年放映開始なので、こちらは大学生になってから見ました)。同世代の友人はみんなギャンブルものとして見たり、名言を真似したりというのが主な楽しみ方でしたが、その頃から一人だけ「これって本格ミステリーじゃん!」と一人孤独に言い続けていたのが私でした。この原稿で挙げたような全てのギャンブル物に興味を持つキッカケになったのが「カイジ」なので、福本伸行の影響力は絶大、というわけです。

     総論のところで、「カイジ」においては敵=イカサマの主体=胴元であるという構図の話をしましたが、これには「ゲームを知悉している敵」「一からゲームを理解し戦略を組み立てなければいけないカイジ」の不均衡があると述べました。〈カイジ〉シリーズでは、その「胴元」というのが帝愛グループという闇金融になっており、彼らが仕掛けるゲームや、彼らが運営するカジノに勝負を挑んでいくというストーリーになっています。シリーズ第一弾「賭博黙示録カイジ」(以下、「黙示録」と表記)の9巻から12巻まで展開される「Eカード」編でこの構造は確立しますし、シリーズ第三弾「賭博堕天録カイジ」(以下、「堕天録」と表記)も(当初は帝愛の関連施設とは分からないままですが)「通し」によるイカサマをしているカジノのオーナーに挑むことになります。

     一方で、プレイヤー同士の戦いを描くのがシリーズ第一弾の「黙示録」の冒頭、1~5巻で展開する「限定じゃんけん」編です。

     グー、チョキ、パーそれぞれ四枚のカードを支給され、そのカードを使ったじゃんけんを行う、というシンプルなルールながら、枚数が限られていることによる「読み」の要素が色濃くあり、「カイジ」の代名詞の一つといえるゲームになっています。

     ここでは未知のルールに対抗し、即興で戦略を組み立てていくプレイヤー同士は対等に見えますが、ここで「リピーター」という設定が重く効いてきます。「限定じゃんけん」を金儲けの機会と考え、何度も参加しているプレイヤーがいて、実際にカイジは、このリピーターの男に最初に騙されることになります。この「リピーター」という設定を読み直すと、策(イカサマ)を弄する敵(上位者)を倒す、という構造そのものを「カイジ」が徹底して貫いているのが分かってきます。

    「カイジ」には名品が多いので駆け足で紹介。まずは「黙示録」から。「限定じゃんけん」編は、相手の「手」のロジカルな一発特定や、枚数が限られていることを利用した戦略の面白さなど、プレイヤー同士の戦いだからこそ映える要素が幾つもあります。「Eカード」編は「皇帝」「市民」「奴隷」という三竦みのカードを使ったシンプルなゲームであるのに、そこにイカサマの仕掛けを加えることでドラマチックに演出された展開が何度読んでも見事です。福本は「血」の表現が素晴らしい。12~13巻で行われる「ティッシュくじ」編は、「Eカード」の後に行われるゲームとしてはかなり地味ながら、現在のところ、唯一カイジが相手に勝負を持ち掛けるゲームであり、それだけに対峙するラスボス・兵藤会長の手強さを裏付けるエピソードになっています(しかし、このラスボスは現在連載中の「24億脱出編」においては、息子・和也を想う子煩悩エピソードばかりが溜まっており、この時のリベンジをカイジが果たすことはもはや期待出来なさそうな気がします)。

     シリーズ第二弾「賭博破戒録カイジ」は、帝愛が経営する地下施設にカイジが放り込まれてしまった後の話で、地下施設内でのチンチロ賭博を描いた前半(1~4巻、型:②、A)と、チンチロで通貨(ペリカ)を貯め「一日外出券」を手に入れたカイジが外の世界で帝愛の運営するカジノが擁する一玉四千円のパチンコ「沼」に挑む後半(5~13巻、型:②、A)に大きく分かれます。ここでの白眉はなんといっても「沼」編。ここで紹介する漫画の中でも、唯一「パチンコ」を使ったギャンブル物というだけで価値がありますが、パチンコの当たりを阻む壁――敵サイドから見れば「常勝の仕掛け」――を「釘の森」「玉を弾く番人」「3段クルーン」の三つに分け、それぞれにトリックを仕掛ける丁寧な策略は、まさに「困難は分割せよ」を地で行くような「不可能犯罪」ものの謎解きにも似た興奮を味合わせてくれます。

    「堕天録」は全13巻がすべて、麻雀を使った特殊ゲーム「地雷ゲーム「17歩」」(型:②、B)の攻略にあてられたシリーズ第三弾。

     そのルールはこんな感じ。二人で行う麻雀として組み立てられたゲームで(通常、麻雀は四人、もしくは三人で行う)、一山34枚の牌を使い、13枚でテンパイ形の自分の手牌を作り、残り21牌を捨て牌候補として、それぞれが21牌から順に切っていくというゲーム。地雷原を踏破するようにして17牌を捨てる、という意味で「地雷ゲーム」と名付けられています。

     ここでは先に紹介した通り、胴元が部下を使って「通し」(相手の手を覗き、サインで味方に伝えること)のイカサマを行っており、その裏をいかにとるか、というところが見所になっています。一つのゲームに13巻使っている分、これまでのシリーズよりは間延びした印象が強くなってしまうとはいえ、最終的な決着の前、9~10巻に使われるトリックがとても好み。カイジが仕掛けたウルトラC的トリックだけでなく、それを見抜く「気付き」のロジックが綺麗です。

    *福本伸行の麻雀漫画(福本作品、まだ続きます)

    「堕天録」の名前が出たところで、福本伸行「天―天和通りの快男児」(全18巻、完結済・以下、「天」と表記。型:①、Aで「二人麻雀」のみB)の話をしておきましょう。主人公は天と彼に魅せられる井川ひろゆきですが、後にスピンオフ「アカギ」が描かれる天才・赤木の姿もここで初めて描かれます。「堕天録」における「地雷ゲーム「17歩」」は世にも変わった二人で行う麻雀ですが、「天」にも二人麻雀が存在します。こちらは単に「二人麻雀」という名前で、この漫画で行われた関東と関西勢の戦いである「東西戦」の最終局面となる12~15巻に収録されています。

     大まかなルールは以下の通り。大きく分けて二つのステージに分かれた麻雀で、Aステージでは通常通りに牌をツモっては切りテンパイを目指し(二人なのでチーは対面からも行えるとか、細かい取り決めはあり)、どちらかがテンパイを宣言するまでこれを行う。つまりテンパイ競争。その後のBステージでは、宣言した方がツモり続け、された方は相手の待ちと思われる牌を指定して防御し続けるというもの。防御側が二つ、牌を指定し、それが外れていた場合は攻撃側が五回ツモる権利を与えられます。

     この特殊ルールに基づいて、定石や策略を巡らせる序盤・中盤もさることながら、本格ミステリーの興奮を感じさせるのは、最終局である第17回戦。主人公側である東代表の天が満貫を達成しなければ勝てない、という状況下で、天がテンパイを宣言。西代表の原田は点数リードの状況なので、天のアガリ牌を突き止め、アガリを阻止すれば勝てるという状態です。ここで展開されるのは、「満貫条件」+「天は鳴き(チー)を入れている」+「天の捨て牌」という三重の縛りによる、徹底的な消去法推理。決着にあたる15巻では、ほぼ1冊丸々、この消去法推理が行われているのです。ひたすらロジックによって候補を絞っていき、最後の最後に残されたか細い光のような可能性。イカサマなどない、ただ純粋な勝負の世界だからこそ成立する、麻雀漫画ならではの本格ミステリー編といってもいいでしょう。

    「天」はミステリー読みの琴線に刺さるに違いない麻雀漫画であり、特に東西戦が本格的に開始する4巻からは、赤木をはじめ、ガン牌の達人・銀次(「ガン」とは牌に目印をつけ、伏せた状態でもどの牌か分かるようにすること)などといった強者たちがそれぞれの策やトリックを披露しあう、山田風太郎の忍法合戦のような面白さで(奇しくも赤木しげるが「まあ 忍法みたいなものさ 原田くん」と口にする場面もある)、特に銀次が披露する異例のガン牌トリック(8巻)とひろゆきが決勝の椅子を手にするに至った返し技(7巻)が好み。「天」16~18巻は赤木しげるの最期を描いたパートで、よく福本伸行漫画の名言として引用される箴言・格言は大体この三冊が出自ですが、このパートはギャンブル漫画から離れてしまいます(ただ、私はすごく好きですし、気持ちが弱くなるとこの三冊を読み直しにいきます)。

    「天」から派生した「アカギ—闇に降り立った天才」(全36巻、完結済。型;①、A)は後半に描かれた透明な牌を使う「鷲巣麻雀」が特に有名になりました。8~36巻まで描かれるこの凄絶な勝負は、終盤こそ引き延ばしが多く間延びした展開になったきらいはありますが、序盤はナイフのような鋭さの駆け引きが特徴でした。

     同書における白眉は4~6巻で描かれる「対浦部戦」。かなりのところを偶然に頼った最終盤までの展開は、赤木の才気に酔いしれるしかないところですが、最終局、赤木が浦部から満貫を討ち取らないと逆転しないという場面で、赤木は鳴きを繰り返し、自分の手牌が残り一牌(その牌の単騎待ちのみというこの状況を「ハダカ単騎」と呼びます)という状況になるとこう言います。

    〝決着はつくよ あのハダカ単騎には魔法がかけてある…… 浦部は手中の14牌から 必ず… この牌を選び… 振り込む……!〟(『アカギ』6巻、47話)

     ミステリー風にいえば「読者への挑戦状」とでもいうべき宣言です。つまりこの時アカギは、浦部の手の中を読み切ったうえで、彼の心理まで掌握していると宣言しているのです。なぜそんなことが言えるのか? その解明を行う48~50話では、赤木がどういう戦略を積み上げたのか、そのロジックが淡々と語られるのですが、このシーンはまるで本格ミステリーの「解決編」のよう。何度読み直しても惚れ惚れするような名シーンです。

    「銀と金」(全11巻、完結)はあらゆるタイプのギャンブルが満載された傑作で、3~4巻ではブローカーを相手にした絵画詐欺、4~5巻ではポーカー、そして10~11巻ではなんと競馬編が収録されていて、特に競馬編のトリックが好み。「なぜこんな気弱な青年を、手間のかかる仕掛けまで弄して仲間に引き込んだのか?」というホワイダニットが良い手掛かりとなっています。そして「銀と金」の麻雀編は、5~7巻で展開される「誠京麻雀」編(型:②、B)で、こちらも傑作。

     この麻雀は大企業・誠京が主宰するギャンブルで、牌を一つツモるごとに金を出し、最終的にトップを取るとその金を総取り出来るというルール。ツモる時の掛け金はアップが出来ますし、これに加えて、気に入らない牌を引いた時に、倍の金を出せば隣の牌をツモり直すことが出来る、というルールが入っています(引きたい牌を引くチャンスは二倍ですし、相手に振り込みたくない牌を引くリスクは二分の一に出来る)。

     つまり、金を持っている方が圧倒的に有利で、主催者側(胴元)はその点でも有利に立っているという、挑戦者からしてみればどうしようもなく不利なギャンブルです。このルールの中に潜む罠を突き、逆転を目論む森田たちの策略は、ギャンブル漫画ならではの熱量も備えていて、どうしようもなく読ませます。呆気に取られるようなラストの一コマの威力がピカイチ。大胆な「あらため」のふてぶてしさが見事。

     最後に短編も挙げておきましょう。短編集「銀ヤンマ」から短編「ガン辰」(型:①、A)です。ガンの名人であるガン辰が末期がんにかかってしまったが、息子を救うために最後の麻雀勝負に挑むという短編です。ガンを封じられているうえ、死期が近く視界がかすんできて、牌も指で触らないとどれがどれだか分からないという状況。この状況をいかに脱するのか。漫画という形だからこそ表現できる鮮やかなトリックと、ラストシーンの寂しさが素晴らしい逸品です。

    *オリジナルゲームの世界① ~LIAR GAME~

     オリジナルゲームをモチーフにしたギャンブル……その急先鋒であり、里程標ともいえる作品が甲斐谷忍「LIAR GAME」(全19巻、完結済。型:③、C―1ないしC―2)です。プレイヤーに一億円を貸し付け、プレイヤー同士をゲームで戦わせ、敗者は貸し付けられた金と負け分の負債を負うことになる……これが「騙し合いのゲーム」である「ライアーゲーム」の大まかな構造です。「バカ正直」なカンザキナオと、詐欺師としてマルチ集団を潰し、服役した経歴を持つ男アキヤマシンイチのタッグが活躍するのが特徴で、このアキヤマが「このゲームには必勝法がある」と喝破するところが一種のカタルシスになっています。序盤から2回戦「少数決ゲーム」2回戦敗者復活戦「リストラゲーム」など、オリジナルのルールを用いたゲームで楽しませてくれるのですが、いよいよ真価を発揮するのは3回戦「密輸ゲーム」(4~6巻収録。型:③、C―2)。個人戦からチーム戦に移行する最初のゲームになります。

     ルールはこんな感じ。「北の国」と「南の国」に分かれ、相手の国にあるATMから自分の資産を引き出し、自国まで密輸する……というのが大まかなルール。ここに、トランクの中に引き出した資金を入れて、相手チームの「取調官」と対峙するという要素が加わります。取調官は、密輸人がトランクの中に金を入れていると思ったら、「ダウト〇〇万円」とコールし、実際に入っている金額が〇〇円より下だったらダウト成功で資金ダッシュ、入っていなかったら慰謝料としてコールした金額の半額を密輸人に支払う、というルールです。

     オリジナルゲームはオリジナルであるがゆえに、ゲームバランスや定石などを丁寧に整理しておかないと、細かい取り決め(細則)ばかりが増えて大変なことになります。細則にもフェアなゲームだというニュアンスをにおわせないといけませんし、「ゲームを理解する難しさ」と「どんでん返しの快感」のバランスを上手く取らないといけないわけです。「密輸ゲーム」はルールこそ複雑であり、50回のタームを繰り返して1ゲームという驚異的な長さですが、今後の重要な敵役となるヨコヤを登場させ、「アキヤマVSヨコヤの頭脳戦」という構図を強く押し出し、情報整理を巧みに行ったことで、ダレることなく見事などんでん返しを演出しています。アキヤマが提示する「必勝法」のポイントを自分で気付けなかった時に、絶妙に「思いつけたはず! 悔しい!」となるのです。これは、良いギャンブル漫画の条件であると同時に、良い本格ミステリーの条件でもあります。

    「LIAR GAME」で他に好きなのは、4回戦予選の「感染パンデミックゲーム」(9~10巻、型:③、C-2)における意想外の展開とか、4回戦本選の「イス取りゲーム」(10~13巻、型:③、C―1)のつるべ打ちのようなどんでん返しです。特に「イス取りゲーム」は、広い島の中に隠された椅子に他のプレイヤーより早く座る……という、どう考えても体力勝負としか思えない勝負が、次第に頭脳戦としての形を明らかにし、意外な勢力の登場によって事態が急展開するなど驚きの連続。最終的な到達点については、ルールや定石が整理されていくごとに「もしや……」と気付いてしまったのですが、気付いただけに、その剛腕というべき着地点には頭が下がりました。

     なお、「LIAR GAME」は松田翔太、戸田恵梨香のW主演によりフジテレビ系列でドラマ化(2クール)、映画化(「LIAR GAME The final Stage」「LIAR GAME REBORN -再生-」)されており、ドラマで上記「感染ゲーム」までが映像化(ドラマでは名称がアレンジされ「天使と悪魔ゲーム」と命名されましたが、内容は一緒です)、映画の「final」はオリジナルですが、「REBORN」では「イス取りゲーム」編が映像化されています。ドラマが大ヒットを記録するなど、この複雑なルールや展開に多くの視聴者がついていっていた状況は圧巻ですが、ドラマは力の入った美術や劇伴によって映像的な快楽が強くなっていて、おまけに、簡略図などを利用したルールの説明などの手際が良かったため、放映当時も全くストレスなく家族みんなで楽しんでいたのを覚えています(第1期は2007年放映で、当時6歳だった妹まで覚えているのですから、相当なものです)。「REBORN」において、原作では大事な敵役であるカルト宗教の教祖・ハリモトのキャラ付けや、彼を嵌めるためのトリックが追加されるなど、細かい変更点は色々ありますが、アレンジしつつ原作をかなり高いレベルで再現しているという印象です。では、オリジナルの「final」は? ……これについては、実は超オススメ作品。詳しくは、本稿の最後「映像編」でお話ししましょう。

    *オリジナルゲームの世界② ~嘘喰い~

     今ギャンブル漫画を語るにおいて欠かせないのが、迫稔雄による漫画「嘘喰い」(全49巻、完結済。外伝に「嘘喰いと賭郎立会人」があり。型:③、C―1ないしC-2)。「総論」でも代表的作例として言及していますが、この作品の最大の特徴は「賭郎」というシステムにあります。ギャンブルのゲームを提供したうえで、その勝敗を見届ける立会人。進行、取り決め、取り立てを一手に担う立場です。零から百までの「號」が決められており、號の低い立会人は號の高い相手に「號奪戦」を仕掛けることも出来ます。勝負の裁定者であるのはもちろんですが、勝負を最も近い距離で見届けることが出来る「立会人」たちを巡るドラマが、本作の太いサブプロットになっているのは間違いないところです。

     また、「嘘喰い」の特徴的なところは、この「立会人」というシステムを含めて、多くのギャンブル漫画が棚上げにしてきた「勝ちの回収」の観点を前衛化させたところにあるのではないでしょうか。ただゲームに勝つだけではだめで、相手が実力行使に出てきた時に、自分が得た金品や自分の命を守れないと本来は意味がないわけです。

     たとえば「カイジ」では、胴元=敵という世界線で描かれているために、この「勝ちの回収」は困難なように思えますが、ゲームの勝利者が確定したタイミングで、必ず胴元側の帝愛の「上司」が現れ、「カイジの勝ちだ。お前がつけいる隙を与えたのが悪い」と裁定させる手順を経ています。「LIAR GAME」では、「これは騙し合いのゲームであり、暴力行為は厳禁。行った場合は罰金一億円」というルールが課されており、ギャンブルの世界であるにもかかわらず、どこか静謐な雰囲気が漂った作品になっています。

     ところが「嘘喰い」はどうかというと、よくSNSの感想などでも「「知」パートと「暴」パート」という言い方がされる通り、アクション・格闘シーンにも凄まじい筆力が割かれているのです(事実、作者の迫稔雄は、『嘘喰い』の完結後、カポエイラを題材とした『バトゥーキ』を連載中。こちらも滅法面白い)。例えば、19~24巻で展開される「業の櫓」というゲームは、ゲームそのものは、1~10の数字が書かれた珠を、双方のプレーヤーが二つずつ取り、二つの珠の合計値がそれぞれのパスワードになる。塔の頂上にある端末に、相手のパスワードを入力すれば勝ち……というものなのですが、ここで「暴力行為あり」という取り決めが追加されることで、智略と暴力が入り乱れる凄まじい攻防が展開されます。

     また、紙とペンを使用したボードゲームである「ラビリンス」を用いたギャンブル迷宮ラビリンス」(8~14巻収録)は、実際にあるゲームの通り、紙とペンで行う前半と、ボード上の光景を現実に再現した地下施設で行う後半に分かれており、前半は胴元=敵の仕掛けたイカサマを見抜いてその裏を取る、というシンプルな頭脳戦ですが、後半はまさに知×暴。たとえていうなら、前半が「基礎編」、後半が「応用編」のようになっているのも面白いところです。

     嘘喰い・斑目獏とマルコのペアと、対立する二人の敵、合計四人で行うチーム戦で、三十六個ある部屋のうち、それぞれのプレイヤーが別の場所から出発するという設定ですが、もし同じ部屋でかち合ってしまうと「Mタイム」というベットタイムが発動(Mはこのゲームにおけるポイントを指し、一部屋通過するごとに1Mが加算される)。このベットで負けてしまうと、30秒の間、一方的に蹂躙されることになります。

     嘘喰いとマルコは、そのまま「知」と「暴」をそれぞれ担当していますので、嘘喰いが相手プレイヤーとかち合うとその場で殺される可能性がある……という制約下で行われるゲームはスリル満点。紙の上の世界ではなく、地下のリアル世界で行うからこそ実現する大仕掛けが見所です。

    「嘘喰い」のもう一つ大きな特徴は、「実際にあるゲームをギャンブルにアレンジする巧さ」です。これは『地雷グリコ』にも直系で受け継がれている要素でしょう。前述の「ラビリンス」は、日本ではあまりなじみがないものの、実際にあるゲームですし、序盤で行われる「ハングマン」(4~7巻)は相手の考えた単語を当てる「ハングマン」というゲームに「ババ抜き」をミックスしたゲームになります。他にも、「四神包囲」(31~32巻)は「あっち向いてホイ」がベース、「矛盾遊戯」(34巻)は「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」がベース、「ハンド・チョッパー」(36巻)は「割りばし」などいろいろな呼び名があるようですが、「両方の指を一本ずつ立てて、入れ替わりに相手の指を叩き、一本で叩かれたら自分の立てている指を一本増やす、二本で叩かれたら二本増やす、のようにして、五本指が立ったら負け」という子供の手遊びをモチーフにしたギャンブル。身近なもので、誰もがやったことのある遊びだけに、「どのように逆転するのか」という興味が一段と高まるのです。

     この傾向の最高傑作は、「嘘喰い」の最終ギャンブルである「ハンカチ落とし」編(45~49巻、型:③、C―1)でしょう。

     ルールは以下の通り。この「ハンカチ落とし」は二人で行うギャンブルで、プレイヤーはハンカチを落とす「D側」(Drop側)と、椅子に座って振り向く側「C側」(Check側)に分かれ、この役割を交互に入れ替えます。ルールは簡単で、一分間の制限時間の間に、Cが振り返った時、Dが落としたハンカチがあればCの勝ち、Cが振り返った時、Dがハンカチをまだ手に持っていたらCの負けです。一分間の間に、Dは必ずハンカチを落とし、Cは必ず振り向かなくてはなりません。この時、ハンカチを落として、発見されるまでの時間(秒数)が「座視の際」と呼ばれ、ゲームの行方を左右する重要な要素になります。すなわち、Cがチェックに失敗した時、これまでに溜めた「座視の際」の秒数+一分間分の臨死薬を体に注射、一度死ななければならないのです。この臨死薬は、五分を超えた場合、蘇生は困難になるという設定です。いかに長くハンカチを落としていられるか、いかに早くハンカチを見つけられるか。見慣れたゲームが、生死を賭けた「読み合い」に変貌してしまうこのスリルこそが「嘘喰い」の魅力です。

     プレイヤー二人もスーツなら、立会人もスーツということで、椅子に座った顔の良いスーツの男と、ハンカチを握った顔の良いスーツの男の対決を、顔の良いスーツの男が裁定するという、一種異様かつ贅沢な緊張感を持ったギャンブルです。誰がどう見ても、これで「殺し合っている」とは思えない、静謐で濃密な時間。登場人物と共にその時間を味わうという唯一無二の体験を与えてくれる傑作です。最終的な着地点も見事ですが、それまでの駆け引き・攻防がドラマチックに描かれているのも素晴らしく、まさにギャンブル漫画の最高到達点の一つ――といえるでしょう。

     一つ、と言ったのは、「嘘喰い」にはもう一つ「最高到達点」があるからです。それは40~43巻に展開される「エア・ポーカー」編(型:③、B)

     ルール……つまり、最初に開示されるルールは以下の通り。ベースとなっているのはタイトル通り「ポーカー」なのですが、二人のプレイヤーに配られるのは数字が書かれた5枚の鉄のカードのみ。全部で10枚だけで行われるポーカーで、勝負は5回戦。つまり、互いに出すカードは1枚ずつなのです。プレイヤーは中に水を満たしたガラス張りの部屋の中で、中に酸素の入ったボンベを「チップ」としながら、このポーカーを行います。この勝負に勝つには、そもそも、カードの数字の法則性を推理しなければならない、という状況です。

     このゲームが素晴らしいのは、段階的な謎解き・絵解きが行われることで、少しずつゲームの全貌が明らかになっていく、そのスリリングな過程です。最初に提示された謎は、今書いたように「カードの数字の法則性」ですが、この後も段階的に情報が提示されていき、少しずつ「謎」そのものが形を変えていくのです。最初に読んだ時最も感動したのは「駆け引きのすべてが分かる」ことでした。予想出来る、ということではありません。これだけ複雑な構造と、二枚も三枚も裏があるゲームだというのに、今必要な情報が何で、ここまで情報が明かされたからプレイヤーはこの行動を取っていて、そうなってくると次にはこの要素が気になってくる……という展開が、凄まじくクリアーに整理されているのです。最も感動するのは「天災」という事項の扱いです。ゲームのルール説明の際、「ある特殊な負け方をすると、「天災」が発生し、賭けたチップの倍額を支払わなければならない」というルールが明かされるのですが、その「ある特殊な負け方」はその時点では全く分かりません。しかし、ゲームが進んできた時、読者が「そういえばあれってなんだったんだろう」と思ったその瞬間に、見開きコマでその真相が開示されるのです。この情報提示のリズムが圧倒的に巧いからこそ、置いて行かれずについていける……何度読んでも惚れ惚れしてしまうような技術です。作者は読者の思考を制御する点において、アガサ・クリスティーに完全に比肩するといっていいでしょう(なんだその比喩は)。

    *オリジナルゲームの世界3 ~ジャンケットバンク~

     さて、次は現在連載中の漫画です。田中一行「ジャンケットバンク」(現在13巻まで。連載中。型:③、C―2)。カラス銀行中央支店は地下で「賭場」を経営しており、銀行員・御手洗暉は、ギャンブラー・真経津晨に魅せられ、ギャンブルの世界に足を踏み入れていく……というのが大まかな設定で、この「賭場」ではギャンブラーの戦績によって「ランク」が上昇するため、少しずつ敵が強くなっていくという仕掛け。胴元は銀行であり、銀行内のそれぞれの班がギャンブラーを擁し、互いのギャンブラーを戦わせるという構造で、これは「嘘喰い」と同様の「立会人モデル」といっていいでしょう。「嘘喰い」と異なるのは、大抵の場合、ゲームには「罠」が仕掛けられており、その「罠」を見抜かないと勝つことが出来ないという部分です。

     この「罠」ですが、実は作品によって扱いが違います。例えば「LIAR GAME」にも「罠」があり、主人公・カンザキナオはたびたびゲームの冒頭でそれを見抜くのですが、ここでいう「罠」とは「各人が利得を最優先すると、事務局(胴元)が得をする仕掛けになっている」というものなのです。たとえば10枚のチップをプレイヤーの2人で奪い合う時、プレイヤーの中で奪い合っていればそれはその中での「勝ち」「負け」ですが、このチップが「流れる」というルールがあって、この「流れ」があるとプレイヤーにわたるはずの金を胴元が得てしまうではないか――というようなもの(「LIAR GAME」における「24連装ロシアンルーレット」のシーン)。「LIAR GAME」でいう「罠」とは「ギャンブルは胴元が必ず儲かるように出来ている」という根本原理を突くもので、カンザキの信条である「プレイヤー同士団結しましょう」という主張に繋がる飛び石に過ぎません。「嘘喰い」ではどうか。「エア・ポーカー」編に顕著ですが、立会人はルール説明の段階で堂々と「このルールには罠(「天災」というルール)があります」と宣言します。彼らの態度は、徹底してフェアであり、「罠」もまたルールの一部に過ぎないのです。

     さて、では「ジャンケットバンク」はどうかというと――ここでいう「罠」は、その存在に気付けなければ命さえ失うような危険なものなのです。この構造が、実にスリリング。こうした「罠」の存在が盤面外の返し技のような鮮やかさで行われるのも、本作の魅力になっています。プレイヤーは説明されたルールだけでなく、その裏の裏まで完璧に読み切らなければ勝てないのです。先ほど説明したギャンブラーのランクは、賭ける命の度合いを示すもので、死なないまでもかなりのダメージを負う「1/2ライフ(ハーフライフ)」や、負けたら死亡必至の「ワンヘッド」などはかなり危険を伴うゲームです。漫画では3巻以降がこの「1/2ライフ」になっています。「嘘喰い」はギャンブルにおける「勝ちの回収」という側面をアクション漫画の「暴」として先鋭化させた――と指摘しましたが、「ジャンケットバンク」でも「勝ちの回収」という鍵が「罠」という形で現れています。そういう意味では、ここでは「勝ちの回収」まで含めて「知」の領域で表現されているといっていいでしょう。

     まず特筆すべき傑作として挙げたいのが、その3巻から4巻にかけて展開されるゲーム「ジャックポット・ジニー」

     ルールはこんな感じ。六枚のカードを使ったゲームで、カードの効果によって、プレイヤーの頭上の金貨が増えていくというものです。6枚中4枚は「黄金」。自らの金貨を4倍に増やす。1枚は「盗賊」。相手の金貨を半分奪います。1枚は「魔人」。これは守備のカードで、相手の「盗賊」を無効にしたうえで、相手の金貨を90%奪うものです。金貨は「黄金」によって等比級数的に増えていきますが、「魔人」の使い方を誤らなければ一発逆転が可能、というなかなか「そそる」ルールです。

     ゲームの展開は序盤から中盤にかけても意外なものですが、真経津に寄り添って読む読者からすると「拍子抜け」といった感じの意外さ。それに油断していると、終盤、予想外の方向から襲い掛かる――しかし主人公のパーソナリティーが見事に活かされた――とんでもない「罠」の正体には驚愕必至。それも、冒頭から完璧に伏線が張られているのです。

     また、「ライフ・イズ・オークショニア」(10~11巻)も素晴らしい。真経津のかつての敵であった村雨と獅子神のタッグが挑むゲームです。

     ルールは以下の通り。1~4の数字が書かれた札を使って競売を行い、重複した数字は無効とし、残った数字の中で最大数を提示したプレイヤーの勝利となりますが、勝利したプレイヤーは提示した数字の強さの電流を受けなければいけないというルール。提示額の合計が16を超えると死に至る、という設定です。

     いかにもシンプルなルールですが、このエピソードが素晴らしいのは、「理論上の勝ち」と「「罠」を利用した盤面外の勝ち」、二つの勝ちパターンをどちらも見せてくれることでしょう。特に「理論上の勝ち」が出てくる回は、連載を通勤前の朝の気怠い状態で読んでいたのですが、「見たい」と思っていた戦術があまりにも見事に決まったので、思わず立ち上がってしまったのを覚えています。

     現在完結済の12~13巻「シヴァリング・ファイア」は、ジャンケンによって室温を操作するというルールのゲームですが、史上最強の敵が真経津に立ちはだかる回で、最後まで結末を読ませない。結末を目にした時、思わず「マジで?」と声が出ました。

     また、田中一行には、「エンバンメイズ」(全6巻、完結済。型:③、B)という過去作があります。こちらは世にも珍しい、ダーツを主題にしたギャンブル漫画で、ルールはダーツの「カウントアップ」を基にしていますが(単純に点数を競うもので、20のトリプルである60点が一投で出せる最高点)、そこに様々なルールを掛け合わせてギャンブルにしています。2巻の「VS華原清六」編(もしくは「実験体と博士」ゲーム? 作中で正式な名前は提示されていません)では、毒ガスを使ったゲームに挑みます。

     ルールは以下の通り。このゲームには「博士の矢」と名付けられた白い矢と、「実験体の矢」という赤い矢の二本を使います。「博士の矢」で的を射てば、10点につき1分間、そのプレイヤーのいる部屋に入る毒ガスを止められます。「実験体の矢」を射てば、的に当てた点数をそのまま得ることが出来ますが、10点につき1分間分の毒ガスが追加で流れ込みます。この時、1080点を獲得するか、相手プレイヤーが死亡すれば勝ちになります。「エンバンメイズ」世界では、「絶対に狙ったところに射てる」という設定で行われるため、基本的には3投=180点の計算で話が進みますが、ルールはシンプルに見えるのに、二転三転の駆け引きがあって読ませます。

     私のフェイバリットは4巻における「VS志道都」編(もしくは「早投げカウントアップ」編)。1000個の的を使った「早投げ」勝負で、各プレイヤーは1000個の的を広い空間に配置し、相手を「迷路」に誘うことが出来ます。「エンバンメイズ」の主人公・烏丸煌は「迷宮の悪魔」と呼ばれているので、その悪魔が実際に作る迷路とはどんなものか――というのが、読者も気になる所ですが、まずここで作者は見事に読者の予想を外してきます。そのうえで、意外な展開と駆け引きを連鎖させ、最後には見事な返し技まで決まるという逸品。絵面としては完全にアクション漫画なので、ギャンブル物という文脈からはやや外れるかもしれませんが、心に残る名勝負の一つです。

    *スポーツ×ギャンブル?

     スポーツ漫画も実はギャンブルと相性が良い。これは何も、野球賭博とかサッカー賭博とかそういうグレーな話ではなく、「ド素人同然のプレイヤーが策略によっていかにしてプロプレイヤーに勝つか?」という見せ方が出来る、という意味です。この分野においても福本伸行に作例があり、「零」を主役にしたシリーズ第二弾の「賭博覇王伝 零 ギャン鬼編」の1~2巻には、零とプロプレイヤーによるゴルフ対決が描かれています(型:③、A)。1ホール(パー3)のみの勝負で、零が勝てたら、このプロの練習場建設のために立ち退きさせられようとしている高齢者たちをそのまま置いてやってほしい、という条件で行われる勝負。1ホールのみとはいえ、クラブも握ったことのないド素人の零が、一体どうやってプロに勝つのか? かなり狡い手を使いながらも、幾つもの仕掛けを打ってこの状況を逆転してしまう手数の多さが魅力です。

     スポーツ×ギャンブルの代表的作例は、先にも紹介した甲斐谷忍の「ONE OUTS」(全20巻、完結済。型:①、A)。沖縄で1ピッチのみの賭博野球を行っていた渡久地東亜は駆け引きのプロであり、賭博野球では負けなしだったが、プロである児島との勝負に負けて、リカオンズというチームのピッチャーとしてプロ野球の世界に足を踏み入れることになる。しかし、彼が投げられるのはストレートのみ。にもかかわらず、彼はリカオンズのオーナーと「ワンナウツ契約」という奇妙な取り決めを結ぶ。それは「試合でワンアウトを取るごとに500万円もらい、1失点するごとに5000万を支払う」というものだった。この無茶苦茶な契約を軸に、彼がいかにプロたちに勝っていくか、というのがストーリーの大枠。

     私自身は野球がすごく好きというわけではなく、ルールも詳しいところまではよく知らないのですが、この「ONE OUTS」はそんな私でもすごく面白く読めた漫画です。というか、たとえば4巻では、リカオンズが16失点してしまった試合で渡久地が「ウルトラC」を使い状況をひっくり返す、という展開なのですが、ここで行われるのは「野球マイナークソルール選手権」みたいな抱腹絶倒の泥仕合で、野球好きでもこんなの見たことないんじゃないの、という超展開が繰り広げられます。

     また、7~10巻においては、「ブルー・マーズ」という球団との連戦が描かれますが、ここでのテーマは「イカサマを使ってくる球団相手に、いかに立ち向かうか?」という「イカサマの解明→その逆用」という②の公式を大胆に使った騙し合い。渡久地はブルー・マーズの球場を「トリックスタジアム」だと喝破し、彼らが仕込んだトリックの数々に迫っていきます。まさに「詐欺師VS詐欺師」の頂上決戦ともいえる大一番。

     この後、ワンナウツ契約そのものの新展開に潜んだ少年漫画的「覚醒」エピソードの連鎖や、「なぜ80キロ~120キロ台のストレートしか投げられない渡久地の球を打てないのか」というそもそもの疑問に対する謎解きが行われ、その対策をする敵チームの姿が描かれる終盤など(漫画「巨人の星」における、星飛雄馬の「消える魔球」の謎を解明しようとする終盤の展開をなぞっているかのようです――あれだって、構造は本格ミステリーだもんなぁ!)、見所満載。野球が分からずとも楽しく読める野球漫画として、大いにオススメです。

     この傾向の作品で、今も続いているのが原作:渡辺ツルヤ、作画:西崎泰正による『神様のバレー』(既刊32巻、連載中)。「バレーの神」を自称する天才アナリスト・阿月は、相手の弱点を見つけ、それを突く「嫌がらせの天才」であるという設定で、彼が「万年1回戦負けのチームを全国優勝させる」という難題に挑む漫画となっています。ギャンブルというと大袈裟かもしれませんが、阿月が仕掛ける人を人とも思わないような(自分のチームに対してすら!)策略の数々は、ここに紹介した作品群に比肩する面白さを備えています。

     こうした「スポーツ×ギャンブル」ものの面白さは、それぞれで展開される策略はもちろん、「相手の心理の隙を突く」というギャンブル物のシンプルな魅力が、体を武器とするスポーツの世界に映えることだと思います。この特集の冒頭で取り上げた『地雷グリコ』においても、こうした「スポーツ×ギャンブル」の要素が一つだけあり、それは主人公である真兎が中学生の頃、「運動会のリレーで陸上部にいかに勝つか」という難題に答えたという作品冒頭のエピソードです。真兎の「勝負強さ」を読者に印象付けるためのいわゆる「つかみ」のエピソードですが、ここで真兎が用意した仕掛けは、まさに陸上部部員たちの「心理の隙」を突いたものといえるでしょう。

    *ポーカーの世界

     ポーカーをモチーフにした作品はこれまでも紹介してきました。青崎有吾「フォールーム・ポーカー」、「嘘喰い」の「エア・ポーカー」編、「銀と金」にもポーカー回、小説編の『悪党どもはお楽しみ』も大半がポーカー……ルールを覚えるのは大変ですが、一度覚えてしまえば楽しめるものです。しかし、実はポーカーもののギャンブルにおいて、イカサマを仕掛けている場合は、そのパターンはあまり多くありません。味方が裏から覗いてカードの内容を伝える「通し」や、カードに印をつける「ガン」など、使える手は限られてきます。だからこそ、そうした定石に縛られない、純粋な頭脳戦である「フォールーム・ポーカー」や「エア・ポーカー」が独自性を持って光り輝くのです。

     しかし、もう一つ、こうした定石に縛られないポーカーものがあります。それは福本伸行(またかよ!)の『賭博覇王伝 零 ギャン鬼編』の2~4巻で展開された「100枚ポーカー」(型;②、B)

     ルールは以下の通り。互いに52枚ワンセットのトランプを持ち、制限時間内に10セットポーカーの手役を作ります。この時、5枚×10セット×2人分のトランプを使うので「100枚ポーカー」というわけ。セットを作ったら伏せて置き、先攻から相手の好きなセットを指定して攻撃、開示したうえで、まず勝敗を判断、手役を構成するトランプのうち最も高い数字を勝者の得点としていく……という取り決めです。これだけならただの総力戦のポーカーですが、この後対戦相手のジュンコが仕掛ける「〇〇〇〇タイム」が効いています。資産の差があるので、主人公の零は絶対に負けられない状態で挑むのですが、ここで展開されるのは、まさに「ロジックの鬼」としか言いようのない鬼詰め(笑)。徹底的な読みによって次々に勝ちを挙げていく零のロジックが痛快です。

     また、この「100枚ポーカー」は、敵が提示した条件によって行われる前半パート(2~3巻)と、零が提示したもう一つのルールを追加して行われる後半パート(4巻)に分かれているのですが、この後半パートの面白さも無類です。ルールを聞いた時、「そのルールを追加した方がゲームとしては面白いんじゃ……」と思ったまさにそのルールを零が提示したので、嬉しくなってしまったのです(ジュンコとしては、「常勝」の仕掛けを作るために、自分の普段のゲームでは入れられないルールでした)。

    *麻雀漫画の世界

     麻雀漫画にはギャンブル物の名作が多く、どれを挙げるか迷ってしまいますが、あくまでも「本格ミステリーファン向け」のものを二作品挙げてみましょう。まずは青山広美による「バード ―砂漠の勝負師―」(全2巻、完結済。型;①、A)。「バード」シリーズはこの後も続いていますが、まずは入門編としてこの作品を取り上げます。ここで描かれるのは「全自動卓天和」という大トリック。天和とは、親が最初に配られた14枚の牌でアガリ形が成立していることをいい、役満の一種ですが、手積み麻雀の時代は「サイコロ振り」と「積み込み」の技術があればイカサマで達成できたものです(阿佐田哲也作品では、二つのサイコロで「2」と「2」を出し、その位置の配牌に必要な牌を積み込んでおく「2の2の天和」がよく描かれますし、それとは全く違う技ではありますが、「天」の主人公である天も当初はこの「天和」専門のサマ師として登場しました)。

     ところが、全て自動で牌を設置する全自動卓では絶対に積み込みやイカサマなど出来ないはず……その不可能を可能にしたのが、この「バード」というわけ。「全自動卓天和」を成し遂げるのは「蛇」と呼ばれた雀士で、対する主人公・バードはこのためにアメリカから連れてこられたマジシャン。果たして彼は、トリックを見破り勝負に勝つことが出来るのか? バードが「全自動卓天和」を目の当たりにした際の「ビューティフル…」という言葉は、美しいトリックを目にした時、思わず呟きたくなるような名台詞です。ちなみに、この「バード」はのちに山根和俊の作画により「バード 最凶雀士VS天才魔術師」としてリメイクされています。リメイクでは一部トリックが異なるのももちろんですが、青山オリジナル版はグロに、山根リメイク版はエロに寄っているという特徴もあり、読み比べるのもユニークな作品です。

     青山広美はもともとミステリーセンスが素晴らしい作者で、この〈バード〉シリーズもさることながら、「九連宝燈殺人事件」といった直球の本格ミステリーもありますし、世代的には「少年チャンピオン」にて連載された「GAMBLE FISH」(原作:青山広美、作画:山根和俊)も重要で、こちらは学園×ギャンブル物の傑作として、「賭ケグルイ」(原作:河本ほむら、作画:尚村透)やあるいは『地雷グリコ』に先立つものです。

     閑話休題。数ある麻雀漫画の中で、次に紹介するのはカミムラ晋作による麻雀漫画「マジャン ~畏村奇聞~」(全11巻、完結済。型:②、B)です。父の故郷を訪れた中学生・山里卓次は、村の掟により行われる「マジャン」という遊戯に巻き込まれる。「マジャン」とはつまり「麻雀」のことなのですが、通常の麻雀にはない特殊ルールが一つ追加される仕掛けになっています。しかし、村の住民は卓次のことを敵対視していますし、カモだと思っているので、当然そんな特殊ルールの内容を教えてはくれません。卓次が行うのは、①どんな特殊ルールが使われているかを推理により特定し、②そのルールを利用するか、あるいは裏を取って反撃する、という難題。プレイヤーの間にルールの知悉度という不均衡が生じているうえ、上位者としてのプレイヤーを打ち負かしていくという要素もあるので、「カイジ」型にかなり近い構造であるといっていいでしょう。

     この特殊ルールそのものが面白く、1~2巻で展開される取り決め「バンサン」や、4巻で行われる取り決め「牌叛」など、麻雀のゲームバランスの一部を弄るユニークなものもありますし、5~6巻の「聴用財神」では古の麻雀ルールを蘇らせるなど、バリエーションは多岐にわたっています。そうしたルールが産み出す意想外の「定石」を読むのも楽しく、勝負師として強くなっていく卓次の成長も見どころです。私のお気に入りは、出て来る数字を確かめるだけで頭が痛くなる7~8巻の取り決め「月無」です。いやあ恐ろしいルール過ぎる。絶対こんなので打っちゃダメですよ。

    〇映像編

     映像の世界でも、ギャンブル物の名作は作られています。しかし、ここまでに紹介した作品群に並べられるような、いわゆる「オリジナルゲームを用いた」「本格ミステリーにも通じる魅力を持った」ギャンブル物となると、かなり数は限られてきます。「コンゲーム」まで含めれば、「スティング」を含め数々の名作映画がありますし、日本でも「コンフィデンスマンJP」が傑作を連発していますが(映画「ロマンス編」「英雄編」は、多重どんでん返しと怒涛の伏線回収を備えた、本格ミステリーマニアも大満足の作品。「ロマンス編」なんかは回想の使い方が上手くて惚れ惚れとしてしまう)、「ギャンブル」それ自体が目的であるような作品は、やはり画が動かない分作りにくいのかもしれません。

     そんな中でも、「カイジ」「嘘喰い」は映画化、「LIAR GAME」はドラマ化・映画化されるなど、やはり需要は確かに存在します。中でも傑作として挙げたいのが、「LIAR GAME The final Stage」(2010年)。映画の一本目ですが、こちらは原作にはないオリジナルゲーム「エデンの園ゲーム」を扱った作品。ドラマ「LIAR GAME」は、細かいアレンジを除けばほとんど原作をなぞっており、第二期のラストで行われる「ゴールドラッシュゲーム」だけはドラマオリジナルですが、基となっているゲームは原作の「密輸ゲーム」であり、アレンジといって差し支えない範囲。完全オリジナルといえるのは、この映画における「エデンの園ゲーム」だけなのです。

     でも、邦画オリジナル展開なんて大丈夫なの――と不安になる方もいるでしょう。しかし、この映画には、ドラマ「謎解きはディナーのあとで」「貴族探偵」「ラストマン―全盲の捜査官―」などを書いた脚本家・黒岩勉が参加しており、彼の手によって徹底的にゲームが作りこまれているのです。原作にそのままあっても、不思議ではない程に。また、そもそもが映像作品に合わせて設計されたのもあってか、映像での演出に最適化するように作られている印象があり、見ていてめちゃくちゃ楽しいゲームに仕上がっているのです。

     ゲームのルール、そのあらましはこんな感じ。このゲームは十一名のプレイヤーで行い、「金リンゴ」「銀リンゴ」「赤リンゴ」の三つを使います。プレイヤーは投票室に入って、一つリンゴを選び、投票します。基本的には「多数決」で、結果は以下に整理するパターンのみです。

    ・「赤」が11名全員揃えば、全員が+1億円。
    ・「金」「銀」のみ投票されている場合、「多数派」が+1億円、「少数派」が-1億円。
    ・「金」「銀」のみ投票かつ片方の投票者が「1名」の場合、1名はボーナスで+2億円、残りは-1億円。
    ・「赤」と「金」または「銀」が投票されており、「赤」の票数が1でない場合、「金」「銀」の投票者は全員+1億円、「赤」の投票者は-1億円。
    ・「赤」と「金」または「銀」が投票されており、「赤」の票数が1の場合、「金」「銀」の投票者は+1億円、「赤」投票者は氏名公表の上、-10億円。

     少し長くなりましたが、全員が利得を得る条件が揃いながらも(赤11のケース)、「赤」投票には高い確率でマイナスのリスクがあり(最悪の場合-10億円)、「金」「銀」のみで勝つには多数派になり続ける必要がある――と、「ただリンゴを投票するだけ」のシンプルなルールでありながら、様々なパターンや展開が考えられるゲームになっています。他にもいろいろな細かい取り決めがあるのですが、後に回収する伏線は全て提示されるフェアプレイも見事ながら(投票時間を示す時計盤などなど、後の展開の手掛かりとなるものは全てカメラの画角にさりげなく収められているのが高ポイント)、さらに特筆すべきは「開票結果を提示するごとにどんでん返しがある」というキマった構成。ゲームは全部で13回戦に分かれるわけですが、第1回戦の「ああ、はいはい、カンザキが『みんなを信じましょう!』って言ういつものやつね」からの予定調和的どんでん返しから、全く予想もつかないところから飛んでくる裏切りまで、グラデーションをつけたどんでん返しが次々に連鎖するのです。この、贅沢な構成。しかも、本格ミステリー好きは驚くなかれ。中盤以降、このゲームにはアキヤマの敵となりうるような驚異のプレイヤー「X」が存在することが推理によって判明し――この「X」を、アキヤマが消去法推理によって導き出すのだ! まさにこの設定でしか出来ない堂々たる本格ミステリー。かなり駆け足の展開ながら、犯人を指摘出来る手がかりは十分に提示されているのです。「X」の正体が明らかになってからの、アキヤマ対Xの構図もしっかりまとめ上げていて、これぞ本物の傑作というべき出来栄え。

     ところで、この映画「The final Stage」とうたわれていますが、この時点では原作「LIAR GAME」は完結していません。そこで何をするかというと、映画の結末に至って、「ライアーゲームとはなんだったのか」を語る短いシーンが描かれ、ゲームの終幕が描かれているのです。この真相は、もちろん原作とは違うもの。胴元として金を集める、という目的を廃したうえで、「なぜこんな大掛かりなゲームを仕掛けるのか」という大疑問に挑んだ作品は、やはりスッキリと説明してくれるものは少ないですが(ゲーム「ダンガンロンパ」シリーズも同じ構造があり、そもそもデスゲームものが抱えている弱点であるともいえます)、原作における「ライアーゲーム」の真相は、終盤のヨコヤのハッタリにも効いてくるユニークなもので面白いと思います。なお、映画は「final」を謳いつつも、原作の「イス取りゲーム」を映像化した「再生 -REBORN」でちゃっかり復活。お約束ですね。

     映像編はほとんど「LIAR GAME」の紹介にあててしまいましたが、簡単にもう一作だけ。映画化作品、という枠組みでは「賭ケグルイ」の映画第一弾も見逃せないところです。ドラマに続くオリジナル・ストーリーとして構想された本作は、同作の世界観を生かしながら、「心理の足跡」による鮮やかな謎解きをみせた一作です。

    〇最後に ~ギャンブル物のヒューマニズム~

     以上のように、ギャンブルを扱った頭脳戦を描く作品は、本格ミステリーにも通じる知的快感を与えてくれるものです。だからこそ、ミステリーを中心に取り上げるこの読書日記において、こんなにもとんでもない文字数を使って紹介したわけですが……。

     ここまで書いてきた流れで言えば、ギャンブルミステリーの世界にも変遷があり、それは①単純型から③立会人型への先鋭化、A:現実にあるゲームからCオリジナルのゲームへの「奇妙な一般化」、と大雑把に言うことが出来るのかもしれません。しかし、それは一作ごとにそれぞれの作者が試行錯誤(「勝ちの回収」を「暴力」や「罠」の形で描く、あるいは、現実のゲームを基にオリジナルの物を作るなど)を加えてきたもので一概には言い尽くせない奥深さがあります。今はただ、一つでも多くの新たな傑作を読めることを願うばかりです。

    (2023年11月)

第69回2023.11.24
これがほんとの「読書日記」 ~10月に読んだ本を時系列順にざっくり紹介~

  • 古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿、書影

    『古本屋探偵登場 
    古本屋探偵の事件簿』
    (創元推理文庫)

  • 〇評論本の話題から

     メフィスト・リーダーズ・クラブ(MRC)発信の書籍『ミステリースクール』(講談社)が昨月に刊行されました。十三名の書評家・評論家が参加したMRCのLINE企画の書籍化です。MRCのLINEを友達登録(+企画や対象書評家のお気に入り登録など)をしていると、毎週書評が配信されてくるという、ある意味贅沢な企画だったんですよね。十三名がそれぞれ違ったフィールドの作品を紹介していくというスタイルも面白く、執筆陣とその担当領域を列挙していくと、末國善己(古典)、佳多山大地(本格)、千街晶之(新本格)、円堂都司昭(社会派)、村上貴史(翻訳)、杉江松恋(特殊設定)、栗俣力也(現代/ライトノベル)、吉野仁(冒険)、瀧井朝世(一般文芸)、若林踏(警察小説)、吉田伸子(恋愛)、大森望(SF)、政宗九(短編)となっています。

     このように、ミステリーという共通項はあっても、ミステリーの中の様々なサブジャンルについて基本書・傑作を教えてくれる内容ですし、瀧井朝世の「一般文芸」、大森望の「SF」のように、「本来は別ジャンルの作品だけれど、ミステリー好きが読んでも楽しめる」という視点も提示してくれるのです。ちなみに、私の作品でいうと、短編「二〇二一年度入試問題という題の推理小説」(『入れ子細工の夜』)を、政宗九「短編」の項で取り上げてもらっています(他にも見逃していたら、ごめんなさい)。

     また、MRCのLINE企画では、アンケート機能も利用しています。読者の方にアンケート形式の質問を投げかけ(例えば「月に何冊くらい本を読みますか?」という質問があったら、「A 1~3冊、B 4~6冊……」のように選択肢があるというイメージ)、そのアンケート結果を見て楽しむ、という感じです。「本格」編を担当した佳多山大地は、アンケート機能を使い「次以降に作品紹介を希望する『形式』(クローズド・サークルや顔のない死体など)」を聞き取って選書をしています。そうした、読者とのコミュニケーションの様子を探るのも面白い本です。

     十三人の書評家が、それぞれ十五回の書評を担当したという関係上、500ページを超える大ボリュームの評論本となっていますが、独自の試みという点でも読み応えのある一冊になっていると思います。ちなみに、私は取り上げられた本のうち、36冊(全体は195冊)、未読のものがあったので、気になったものから読んでいこうと思います。

     これはいよいよ余談ですが、MRCでは、この「ミステリースクール」という企画の次に、作家五名が書評を配信する「ミステリーツアー」という企画が立ち上がっていて、参加メンバーは青崎有吾、伊吹亜門、似鳥鶏、真下みこと、私の五名となっています。私が今週配信したのが第13回なので、こちらも終盤ですが、選書にクセがあったり、作家の生活が時折滲んだりするので、読んでいて面白いです。伊吹亜門が小倉に行く用事があった際に、松本清張ゆかりの地だからと読んだ松本清張『球形の季節』(文春文庫)を紹介する回、良かったなぁ。

    〇10月の日記風本紹介

     さて、今回ですが、読書や執筆以外の用事で忙しかったり、季節の変わり目も相まってちょっと低空飛行の体調だったりしたので、いつものように一冊・一作家をじっくり取り上げるというのではなく、日記のように、10月に読んで印象に残った本をつらつらと綴っていこうと思います。これがほんとの「読書日記」ということで、どうか一つ。

     10月の頭は書店訪問で広島、大阪に行き(本当は京都と名古屋にも行く予定だったのですが、途中で体調が悪くなり、断念)、移動時間中にせっせと本を読んでいました。読めたのは①鮎川哲也『黒い白鳥』(創元推理文庫、再読)、②柚月裕子『孤狼の血』(角川文庫、初読)、③松本清張『内海の輪 新装版』(角川文庫、初読)、④西村京太郎『広島電鉄殺人事件』(新潮文庫、初読)、⑤高田崇文『QED 神器封殺』(講談社文庫、初読)、⑥東野圭吾『しのぶセンセにサヨナラ 新装版』(講談社文庫、再読)というラインナップ。①・⑤は日本全国を行き来する話なので、行脚旅行にうってつけとチョイス。②は広島の呉市に行く用事があるので、「呉原市」を舞台にしたこの作品を読むなら今しかないとセレクト。呉→広島間はJR呉線で30~40分ほどあったのですが、広島駅への帰り道に読む本がなくなったので、啓文社ゆめタウン呉店で現地調達したのが③・④。呉線からは瀬戸内海が臨めるので、ちょうど良いと思ったのが③で、書店訪問の時に使った広島電鉄が出て来るからと買ってみたのが④。⑥も現地調達で、こちらは紀伊国屋書店グランフロント大阪店で購入。大阪の雰囲気を味わえる本を選びたかったので。

     中でも感動したのは、鮎川哲也『黒い白鳥』の再読。高校生の頃、まだまだ鮎川哲也の楽しみ方が分からず、『黒いトランク』についていけなくてイマイチな気分で読み終えてしまった……という時、「鮎川哲也をいかに楽しむか」を指南してくれたのが、この創元推理文庫版『黒い白鳥』の有栖川有栖解説でした。鮎川哲也に関する「伝説的なエピソード」他、作品のポイントを14ページにもわたって詳らかにする、「静かな熱量」ともいうべき内容が面白かったからです(創元推理文庫版『死のある風景』の麻耶雄嵩解説も双璧で、こちらはロジックのポイントの美しさを簡明に語っていたので、「そうか、鮎川哲也ってそういう風に楽しめばいいのか」と分かったのでした)。

     有栖川解説を読んだおかげで、その後読んだ鮎川哲也作品はどれも面白く、再読した『黒いトランク』も見違えるほど面白く感じた……という次第。とはいえ、『黒い白鳥』そのものの再読は機会を逃し続けていたので、えいやっと、今回旅行に持って行ったのです。そうしたら、面白いのなんの。橋の上から落ちた死体が、電車の屋根の上に乗って移動し、やがて発見される、という発端からして面白いですし、容疑者が次第に炙り出されていく過程も読み応えがあります。アリバイトリックも二段構え、三段構えになっていて、後半は全編が解決編であるかのような、静かな興奮に満ち溢れています。

     最後のアリバイを突き崩す二つの鍵のうち、先に明かされる一つの方は、作中でも何度も強調されることもあり(章題にも「声優は何を知ったか」とうたわれているほど)、再読時にもはっきり覚えていて、伏線を確認することが出来たのですが、恥ずかしながら二つ目の方は忘れていました。そして、その手掛かりのあまりの鮮やかさに改めて感動してしまったのです。序盤からはっきりと手袋を投げている、その潔さと堂々とした態度にも感服してしまいます。何より新幹線の中で読むというのが良い。

     電車移動だから、という理由で楽しめたのは西村京太郎『広島電鉄殺人事件』(新潮文庫)も同じ。こちらは2018年が初刊なので、かなり新しめの作品ですが、実際に広島電鉄に乗った直後だと、各駅や線路の特徴、路面電車ならではの「あるある」などが巧みに作中に織り込まれていて、妙に楽しい。『広島電鉄殺人事件』で描かれる最初の謎は、運転士の行動を巡る謎で、「毎時40キロメートルの速度制限がある広島電鉄を、20キロオーバーの60キロで走らせてしまい、処分を受けた運転士がいて、彼はなぜそんなことをしたのか」というもの。この謎に対する解答は、中盤で十津川警部が出て来るとすぐ明かされてしまうわけですが、実際に自分が目で見てきた体験を基に解かれたので感動してしまいました。知り合いに一人、「旅行に行く時は、その時乗る路線の西村作品を探して持っていく」というやつがいたのですが、彼がそうしていた理由がよく分かります。こりゃあ楽しいわけだ。

    〇ここまでは元気! だったのですが……

     しかし、X(旧Twitter)をご覧いただいていた方はお分かりの通り、かなりぎゅうぎゅうのスケジュールで動いていたため、旅行三日目で急に体調が悪くなってしまい、その先のスケジュールを断念したという残念な状況に。まいったなぁと思いながら、執筆も一旦止めて、家で静養。昔読んだことのある本の再読しか出来ないぐらいの体調だったので、泡坂妻夫『奇術探偵 曽我佳城全集』(創元推理文庫・上下巻)を引っ張り出してきました。こちらは高校生以来の再読。創元推理文庫版は、発表年代順に収録されているので、一編一編味わうにはこちらの方が嬉しい(講談社で刊行された単行本も発表年代順だったんですが、講談社文庫で分冊文庫にされた時、配列が変わってしまったんですよね)。発表年代順に読むと、あの短編に出てきたキャラがここに出てきて、この店のエピソードはここに繋がっていて、という各編の繋がりがくっきりと見えてくるので良いですね。

     創元推理文庫版の米澤穂信解説にも既に指摘されているのですが、こうして再読すると、ミステリーのあらゆるパターンが総覧のように並んでいることに感じ入ります。上下巻全22編で、不可能犯罪もあれば、アリバイ崩し、顔のない死体、暗号もの、異常心理……「今後何か一冊だけしか本を読めないとしたら?」という質問を投げ掛けられたら、『奇術探偵 曽我佳城全集』がいいと言ってしまいそうです(上下巻はいいのか、と問われたら、講談社の単行本なら一冊だ、と言い返します)。それくらい、ここにはミステリーの愉しさのすべてが詰まっていると言えるのです。

     22編の短編を、体調が悪かったというのもあって、10日間かけてじっくりと読んでいったのですが、再読して特に感動したのは「ビルチューブ」という短編。冒頭のシーンから最後まで、あるアイテムの動きがずっと書き込まれていたことに、再読すると気付きますし、犯人の不自然な行動もめちゃくちゃあからさまに書いてある。あからさまに書いてあるのですが、その後の佳城のセリフでカバーされているので、初読時は全く気付かないんですよね。40ページくらいの中に、伏線と手掛かりが隙間なく埋まっていて……こういう美しさを味わうのが再読の愉しみなのです。あとは、初読時は著者の別シリーズである〈亜愛一郎〉シリーズを思わせるような、犯人の「奇妙な論理」だけが目についていた「白いハンカチーフ」という作品も、あえて戯曲形式を選択したことによる会話劇の妙を楽しめた気がします。また、回文趣味が現れた『喜劇悲喜劇』のような、言葉遊び、語呂合わせの愉しさに満ちた「とらんぷの歌」の面白さも、ゆっくり再読する方が味わえたかも。

     泡坂妻夫を読んで心の元気を取り戻すと、無性に出かけたくなってきましたが、まだまだ体の元気は戻ってきていないので、「出かけたい欲」を誤魔化すために旅がテーマの本を探しました。ユン・ゴウン『夜間旅行者』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)は、旅行は旅行でも、戦争や災害の跡を巡る「ダークツーリズム」を題材にした作品。それだけでもかなり珍しい作品ですが、この作品が恐ろしいのは中盤以降。主人公のヨナという女性が、半ば左遷の前段階みたいな状況で「休暇を取ってこい」と、あるツアーに参加することになり、そこで事件に巻き込まれ……ダークツーリズムをターゲットにした、ある恐ろしい計画に参加することになってしまうのです。これが明らかになる瞬間の、ゾワゾワという気持ち悪さといったら。去年でいうとエルヴェ・ル・テリエ『異常アノマリー』(ハヤカワ書房)みたいな、薄気味の悪い小説です。体調の悪い時に読む本じゃなかったかもしれませんが、まあ妙ちきりんな本は好物なので、これはこれで良し。

    〇古本屋に行きたくなった! 紀田順一郎作品の話

     今度は段々と古本屋を巡って品切本を集めたくなってきたので(探したい資料もいっぱいあるし……)、その欲を抑えるために、紀田順一郎作品に手を伸ばします。9・10月と連続で、紀田順一郎の作品が復刊・文庫化されたのです。①『古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿』、②『夜の蔵書家 古本屋探偵の事件簿』、③『神保町の怪人』(いずれも創元推理文庫)がそれ。①・②は元々『古本屋探偵の事件簿』として一冊組だったのを、三つの中編を収めた①と長編サイズの『夜の蔵書家』を収めた②に分冊したもので、もとがかなり分厚かったので手に取りやすくなりました。③は2000年の刊行以来、初の文庫化となります。

     私自身は、紀田順一郎の評論は読んだことがあったのですが、『古本屋探偵の事件簿』の分厚さに尻込みしてなかなか読みだせずにいました。なので、このように分冊で復刊されて嬉しい限り。そして読み始めてみれば、古本屋や古本蒐集家たちのディティールが面白すぎて、一気に作品世界に引き込まれてしまいました。①の中編「書鬼」に出て来る、ステッキを持ち歩いている高齢者が、ステッキに引いた線の高さまで本を買わないと満足せず、時には女性誌まで買ってノルマをクリアしているという描写には鬼気迫るものを感じつつ、自分自身「リュックがいっぱいにならないと満足出来ない」と大学時代には思っていたなあと苦笑。②の『夜の蔵書家』では、京急デパートで行われる古本市を目掛けて、おじさんたちがデパートの開店と同時に疾走するという場面が描かれていて、抱腹絶倒すると同時に、自分にも思い出すフシがあってアイタタタ、と。

     池袋の西武で行われている古本市は、開場前の時間は、一階の非常階段のあたりから外に順番に並ばせて、開場が近くなったら店内に客を入れ、二階の会場の近くでまた列を形成して開場時間を待つ……という手順なのですが、あの時、二階の無印良品を眺めながら開場を待つ、なんともいえない時間のことを思い出してしまいました。意識してしまうと、なんだか恥ずかしいんですよね。それでいうと、作中に出て来る「古本を買いに行って、掘り出し物を手に入れる夢を見る」というのもめちゃくちゃ「あるある」で、あれは下手な悪夢よりも「なぜ私はあんな夢を……」という羞恥と無念に襲われる分、いやな夢です。

     閑話休題。というわけで、ここに紹介した紀田順一郎の作品群は、登場人物やエピソードのディティールが妙に心に残る良い小説で、じっくりと味わうのにうってつけと言えるのです。「読書の秋」にあえて復刊・文庫化したのはこれが狙いなのかも。①の巻末には、紀田順一郎と瀬戸川猛資による対談が掲載されていて、こうしたディティールを楽しそうに拾っていく瀬戸川の姿にもほっこりします。この対談が行われたのが山の上ホテルというのも良い。神保町を見下ろしながら話したんだろうなぁ、とニコニコしてしまいます(山の上ホテルは2024年2月から全館休館に入ってしまうようです。時代の流れを感じさせます)。

     こんな話をしていると、なかなかミステリー部分に触れられませんが、ミステリーとしてももちろん面白い作品群です。①の「書鬼」で、三つのバラバラに見えるエピソードが繋がり、意外な犯罪が現れ、カタストロフが訪れるところは何かミステリーのお手本を見ているかのようですし、オークションの世界を描いた「無用の人」も面白い。②の『夜の蔵書家』はハードボイルド・ミステリーで、禁書、いわゆるわいせつ文書を戦後期に出版していた人物を探し求める追跡行が読ませますし、主人公の視点をある地点でサッと切り上げて、あとはある人物の独白によって全てを描いてしまう潔さも良い。結末の余韻が素晴らしい。③は①・②で味わったエピソードの面白さを違った形で味わえるのも良いですが、三編目の「電網恢々事件」がインターネットによる電子検索・文献整理を扱っていて、その目の付け所がユニークなのでお気に入りの作品です。

     どうしても世代的に、「ビブリオ・ミステリー」というと、三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』のシリーズを連想してしまい、舞台である鎌倉と、主人公である栞子さんの清浄なイメージをもって受け止めてしまうのですが……ここにあったのは、それとはまったく逆の、どちらかというとゴミゴミとした、しかし古本市の喧噪などを知っているとひどくリアルな世界。紀田順一郎の作品は、誤解を恐れずにいえば「本バカ・ミステリー」といった感じです。つまり、めちゃくちゃ好きでした(このくだりを読むとビブリアは嫌いなのかと思われそうですが、一巻丸ごと江戸川乱歩が題材だった『ビブリア古書堂の事件手帖4 〜栞子さんと二つの顔〜』〈メディアワークス文庫〉は今でも印象に残っていますし、最近では『百鬼園事件帖』〈KADOKAWA〉が内田百間を題材にした怪奇連作で面白いです。今は通常、百「閒」と表記していますが、内田が芥川龍之介や夏目漱石と出会う頃のエピソードなので、当初の百「間」を使うという心遣いも嬉しい)。

    『神保町の怪人』の帯にも引用されていますが、紀田作品には「本集めの極意はね、殺意です」という箴言が何回か出てきます。単なる熱意を越えた、鬼気迫るものが描かれているのです。古本屋に行きたい欲を鎮めるために読み始めたはずなのに、この言葉を読んだら、またあの「殺意」が飛び交う空間に行きたいような気分にさせられて、神保町が古本まつりをやっているうちに、一度は行こうと心に決めました。ここまで思えれば、もう元気、といっていいでしょう。

    (2023年11月)

第68回2023.11.10
書きたい人にも、読みたい人にも ~都筑流小説メソッド、再受講~

  • 都筑道夫の小説指南、書影

    都筑道夫
    『都筑道夫の小説指南』
    (中央公論新社)

  • 〇『レーエンデ国物語』の新刊が出た!

     さて、多崎礼の最新刊『レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』(講談社)が刊行されました。『レーエンデ国物語』『レーエンデ国物語 月と太陽』(いずれも講談社)に続くシリーズ第三弾の刊行です。この読書日記では第59回に多崎礼特集を行い、『レーエンデ国物語』を取り上げ、第64回に『レーエンデ国物語 月と太陽』を取り上げています。このシリーズは、新刊が出るたびに感想を書くという約束でした。

     シリーズ第二弾『レーエンデ国物語 月と太陽』(以下、『月と太陽』と表記)は、本作のテーマである「革命」の物語がいよいよ本格化し、勇壮でありながら残酷でもある、ずっしりと心に重くのしかかってくるような作品でした。絶望の中にも力強さがある結末には、今思い出しても強烈な苦みが込み上げます。その絶望と共に、読者は「テッサ」の名前を脳裏に刻むことになったでしょう。

     そして第三弾『レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』(以下、『喝采か沈黙か』と表記)では、それからさらに時代の下ったレーエンデが描かれます。自由が死んだ暗黒の時代に生きた一組の双子の物語、というだけでわくわくしてしまいますが、ここで演劇文化を主題として、これまでの二作とはガラッと変わったテーマを選択していることに驚かされました。

     双子の兄、リーアン・ランベールは劇作家であり、弟アーロウは俳優。彼らは、歴史から隠蔽された「テッサ」の物語を戯曲にするために、知らなかった歴史を知るための旅に出ることになる――というのが大体の筋ですが、「テッサ」とは『月と太陽』を既読の方はお分かりの通り、第二巻の主人公といえる存在でした。そう、第三巻では、テッサの歴史は葬られてしまっているのです。『月と太陽』で読者が600ページ以上もの間、テッサと共に過ごしたこと、そしてそれゆえに絶望した事実そのものが、第三巻では重く、重く響いてくる。これがもう大変に巧い。物語を隠蔽する国の理不尽への怒り、「語られ直す」テッサの物語への感動に、読者の心は否応なしに揺さぶられることでしょう。『喝采か沈黙か』は、『月と太陽』を読むことなしには、その最大の力を発揮しない、と言っても過言ではないでしょう(なので、必ず順番通り『月と太陽』→『喝采か沈黙か』と読むんですよ!)。

     そして、劇作家であるリーアンを主人公の一人としていることから明らかなように、ここには、なぜ書くのか、何を書くのか、という葛藤が描かれていきます。中盤のシーンですが、中でも心揺さぶられた一節を引用してみましょう。

    “「お前は書かなきゃならない。俺達を信じて秘密を打ち明けてくれた人達のために、弾圧に負けることなくテッサのことを語り継いできた人達のために、パン屋のマウロやレイルのリカルド、春陽亭のペネロペのように、絶望の暗闇の中、それでも夜は明けると信じて戦い続けている人達のために、お前はテッサの戯曲を書かなきゃならない。世界中の人間の心を揺さぶる戯曲を書いて、この世界の在り方を変える。それがお前の使命なんだ」”(『喝采か沈黙か』、p.230)

     この力強いセリフと、直後に続く、「この世界において、テッサの物語を紡ぐことにどんな困難があるか」を一言で表したゾッとするようなセリフに、『喝采か沈黙か』の面白さの全てが凝縮されているといっていいと思います。視点人物が弟のアーロウである理由は、後半のドラマに至っていよいよ際立ってきますし、幕間にそれぞれ挿入されている、戯曲を演じる人々の「第一幕」「第二幕」……の場面の意味も、結末に至って心に沁みてきます。構成まで含めて、完璧といっていい物語です。第一巻『レーエンデ国物語』で読者が気になったこともさりげなく説明されていますし、多崎礼の中には、一体どれだけの物語の沃野があるというのか。

    『レーエンデ国物語』は、2024年に第四巻『レーエンデ国物語 夜明け前』、第五巻『レーエンデ国物語 海へ』が刊行される予定のようです。こちらも引き続き楽しみですし、また新刊が出るたびに、こうして読書日記の冒頭で紹介させていただければと思います。あ、そういえば、多崎礼のデビュー作である『煌夜祭』(中央公論新社)が、11月10日(この日記の更新日ですね!)に決定版として単行本で刊行されますよ。おまけ短編も収録した決定版、ぜひゲットしましょう。私も買います。この作品集はミステリー好きにも大いにオススメです。詳しくは第59回の多崎礼全作レビューを見てください。

    〇3年ぶりの鮎川哲也賞正賞受賞作

     ミステリー好きとしては、第33回鮎川哲也賞を受賞した岡本好貴『帆船軍艦の殺人』は取り上げないわけにはいきません。3年ぶりの正賞受賞作というだけで嬉しくなりますし、しかも、その内容が18世紀を舞台にした海洋冒険小説×本格ミステリーだったのですから。

     主人公の一人である靴職人のネビルは、家族と平穏な生活を過ごしていたある日、強制徴募されて戦列艦ハルバード号に乗り込むことに。乗り込むことに、と書きましたが、その実態はもはや誘拐のようなもので、有無を言わせぬ強制的なもの、しかも脱走すれば家族まで追いかけるぞなんて脅されるものだから、たまりません。おまけに当時の航海は決して楽なものではありませんから、地獄のような生活を味わわされる羽目になります。

     この絶望的かつ危機的な状況を描き、主人公が少しずつ船の生活を知っていくパートが100ページ近くもあるわけですが、ここが既にとても面白いのです。キャラクターが生き生きとしていて、ディティールもくっきり際立っている。まだ殺人事件が起こっていないのに、こんなにも面白い。遂に事件が発生した時は、もっと面白いわけです。事件が起こるまでのテンポと、それが事件にもしっかり関わってくるあたりの緻密さは、同じく海洋冒険小説×本格ミステリーだったスチュアート・タートン『名探偵と海の悪魔』の堂々たる書きぶりを思い出します。

     三つの事件が絡み合う構成となっていますが、三つ目の事件もさることながら(トリックの強度はもちろん、原理がシンプルなのが美しいですよね)、個人的に好感を持ったのは、第一の事件のネタでした。ヴィジュアル的にも、構図的にも面白いネタですし、中盤で解き明かしておくことで事件の構図の見え方が変わってくるのも快い。フランス海軍との戦争もただの背景で終わらず、冒険小説の文脈で書き込まれて、ミステリー的にも生きるので嬉しい。

     単行本が刊行される前にプルーフで読んだのですが、そこには作者の好きな作家として〈フロスト警部〉シリーズのR・D・ウィングフィールドと、〈リンカーン・ライム〉シリーズのジェフリー・ディーヴァーの名前が上がり、参考文献にはジュリアン・ストックウィン『海の覇者トマス・キッド(一) 風雲の出帆』、セシル・スコット・フォレスター『海の男ホーンブロワーシリーズ(一) 海軍士官候補生』が上がるなど、読書傾向を見るのも面白く、なんだか嬉しい気分。いろんな形の本格ミステリーを読ませてほしい書き手が登場です。

     ちなみに、10月20日に共同通信社さんの主催で、青崎有吾さんと新刊『午後のチャイムが鳴るまでは』についてのトークイベントを行ったのですが、その時に出た「今年読んだミステリーのベストは?」という質問で、私と青崎さんが二人とも『帆船軍艦の殺人』を挙げ、かぶってしまいました。イベントでも、上に書いたような作品の話で大いに盛り上がりました。

    〇評論としてもエッセイとしても、面白すぎる小説指南!

     去る10月、都筑道夫『都筑道夫の小説指南 増補完全版』(中央公論新社)が刊行されました。同書は、1982年に講談社から刊行された『都筑道夫の小説指南』に、初書籍化のエッセイや対談など500枚以上を増補したもの。1990年に『都筑道夫のミステリイ指南』として文庫化されたものは、Kindleなど電子書籍で買うことが出来ますが、増補された部分の面白さが素晴らしいので、ぜひともこの「増補完全版」を手に入れてほしいところ。講談社文庫では「ミステリイ指南」とうたわれていますが、怪奇小説やSFなど、その話題が多岐にわたるのがこのテキスト群の特徴なので(冒頭に収録された「エンタテインメント小説の書き方を伝授しよう」は「SFイズム」に掲載されたものだったり、高橋克彦との対談は「SFアドベンチャー」が元の掲載紙だったりします。都筑の幅広い作風を考えれば当然のことではあるのですが、)、「小説指南」とタイトルが戻ったのも嬉しいですね。

     私は小説指南本などで、このやり方だけが絶対に正しい、自分のやり方だけが正義だ、という主張が強かったり、主張が強いわりに技術面の話が少ないものを読むと鼻白んでしまうタイプなのですが、本書では、冒頭に置かれた「エンタテインメント小説の書き方を伝授しよう」の第三講ではやくもこんなことを言っています。

    “僕はこの講座について、「そういった技術レベルのことは枝葉末節で、どうでもよいと思う。小説を書く上で大切なのは、技術テクニックより内容なのではないか」という意味の投書があったそうなので、今回はまずそれにお答えしましょう。
     確かにおっしゃる通り、小説というのは内容がおもしろければそれでいいんですけど、おもしろいストーリイを創る才能というのは、九〇パーセントまでが生まれつきであって、人が人に教えられるものではないんですね。
    (中略)
     極端なことを言えば、へたな絵をうまく見せかける技術とでもいうのかな、絵の方では下塗りの方法とか、日本画では絵の具をどうやって重ねていくかといった、細かい技術の問題がたくさんあるでしょう。小説にもそれがあって、そういうことしか教えられないから、僕は枝葉末節のことしか言わないわけね。
    (中略)
     中身だけでなく、外側も大切なわけです。それでその外側のところは、何とか経験者が未経験者に教えられる部分なんですね。だからそれだけのことしか言わない。言わないんじゃなくて、言えないのね。もしそれを言えるという人がいたら、それはインチキですよ。“(『都筑道夫の小説指南 増補完全版』p.21~23)

     序盤で既に、投書に対してこのハシゴの外しっぷりである。あまりの「らしさ」に苦笑してしまうのですが、この言葉を実践するように、本書には小説を書く際の技術的な側面にかなり多くの言及が割かれている印象です。「エンタテインメント小説の書き方を伝授しよう」第5講では「売れるショート・ショートを書くには」と題して、「添削式SF小説作法教室」への応募者の原稿を講評する都筑の姿を見ることが出来ますし、「都筑道夫の小説指南」パートの第3講「怪奇小説を書く」では、都筑が講師を務める「池袋コミュニティ・カレッジ」で出席者の書いた「首」という短編の二つのバージョンを読むことが出来ます。二段組なので、上段に第一稿、下段に都筑や他の受講者たちの意見を容れて修正を施した決定稿が掲載されているという体裁です。この二つを読み比べる作業だけでも面白いですし、「なぜこのように直してもらったか?」を技術的に淡々と、しかし明晰に語っていく都筑の語り口には、何か感動を呼び起こすものがあります。他にも、「わが小説術」の第14回「会話らしく」で、会話文の書き方と情報整理の仕方を、例を示しながら解説するところも参考になるでしょう。

     こうした実践的な話の中でも白眉は、「都筑道夫の小説指南」パートの第2講「怪奇小説を読む」でしょう。ここでは、都筑自身の作品について、3つの違ったバージョンを提示し、なぜこのように直していったかが語られていきます。題材となっているのは「風見鶏」という短編ですが、この作品はショート・ショート「夜の声」(読切連載「異論派ガルタ」の一編)→SF短編「電話の中の宇宙人」(福島正実・編『SFエロチックミステリ』収録)→怪奇短編「風見鶏」(『十七人目の死神』〈角川文庫〉などに収録)といった経緯を辿っており、そのたびに描写やアプローチが変わっています。しかし、根本のストーリーラインは変わっておらず、結末の薄ら寒い心理とか、展開の面白さといったところは、同じなのです。つまり、なぜ都筑がこのように直していったのかを考えていくことが、都筑のいう「細かい技術の問題」のニュアンスを正確に捉えることに繋がるというわけですね。

     この三編を読み返し、都筑自身の考えを読み込んでいく作業は実に刺激的。「風見鶏」の冒頭の描写の意味合いなどはなるほどと思わされますし、よりミステリーに近接した「風見鶏」の方が、女性がなぜ逃げられないか、いまどういう状況に置かれているかを慎重に検討しているので、緊張感をもって読むことが出来ました。「電話の中の宇宙人」の方も、相手の女が宇宙人だと言い始めるのが、ナンセンスで面白いんだけれども……。

     実はこの「風見鶏」の部分については、元版の『都筑道夫の小説指南』にもあるので、私は高校生の時に読んだことがあるんですね。そしてその時は、こう直すのか、こう考えて動くんだ、というのに刺激を受けはしたのですが、どうも根本のところで腑に落ちていなかった部分がありました。でも、曲がりなりにも6年間、作家としてなんとかやってきて、編集者に送る前に自分で直したり、編集者のアドバイスを容れてより良い直し方を考えたりするうちに、「風見鶏」のことが腑に落ちていったような気がします。話の骨格やアイディア、謎を生かしながら、手を入れられるところはいっぱいあるし、自分の作品なら、入れたくなるよな、というか。もちろん『小説指南』は面白い本なんですが、本当のところは、自分で手を動かしてみて分かってきた気がします。だから今の状態で立ち返ってみると、まだまだ全然自分が意識していないことがはっきり分かったりして、頭の痛くなるようなところがありました。また時間を置いて読み返してみたいですね。

     ちなみに「風見鶏」が収録されている『十七人目の死神』については、怪奇小説集なのですが、巻末近くに収録された高橋克彦との対談「ほんとうに怖い話が好きだ!」において、「あれには、怪奇小説のあらゆるパターンが入っている」(『都筑道夫の小説指南 増補完全版』、p.350)といって、各編の良いところを楽しそうに、しかもリスペクトに溢れた姿勢で語っていくので、めちゃくちゃ読みたくなりました。やっぱり時を経ても、こういう熱意に溢れたリスペクトって響きますねえ。

     そんなわけで、現在新刊で手に入らない『十七人目の死神』を、神保町古本まつりで探して読んでみました。一番ゾッときたのは「はだか川心中」という短編。温泉宿に泊まりに来たカップルが宿泊を断られるのですが、その宿から出てきた宿泊客に話を聞くと、部屋は空いているという。一体、どうして泊めてもらえないのか。二軒目、三軒目と巡ったところで、三軒目の宿の主人が、アッと驚くような解答を述べるわけです。現実的な解釈はもちろん出来るのですが、その一言がポンと出てきた時の気味の悪さは凄まじいですし、結末の味も良い。選集などにはたびたび採られている作品なので、どこかで読んだことはあるかもしれませんが、高橋対談を読んだ後だからこれほど印象が強いのかも。

     他には、手紙と録音テープのみで構成された「妖夢談」、章ごとに少しずつ物語の見え方が変わって、最後に薄気味悪さの残る「ハルピュイア」などがお気に入り。この短編集では、「寸断されたあとがき」が各編のあとに挿入されており(私たちは法月綸太郎『赤い部屋異聞』霧舎巧『新本格もどき』でこの手法に慣れている)、そこで、作品の舞台裏やねらいを自ら解説してくれるのも楽しい一冊でした。

     と、少し脱線してしまいましたが。『都筑道夫の小説指南』は最初に紹介したように、小説を実践的に書くための資料として使うのも良しですが、ざっくばらんな語り口の都筑エッセイを、肩の力を抜いて楽しむも吉。増補で追加された「わが小説術」は、実践集としてよりは、ショート・エッセイとして読んだ方が面白いですし、投書に対する容赦のない打ち返しなども味があります。先に名前を出した高橋克彦との対談の他、佐野洋、鏡明との対談、果てはエドガー・アラン・ポーとの架空対談(!)まで、おまけも充実しているので大満足の一冊です。

     この原稿を書いている10月下旬にはまだ手に入っていませんが、10月末にはフリースタイルから都筑道夫のエッセイ『二十世紀のツヅキです』も刊行される予定。1986年から1999年にわたる13年間のコラム連載を初めて書籍化したものということで、こちらも楽しみにしています。小説にも未読のものが残っているので、まだまだ楽しめるなぁ。

    (2023年11月)

第67回2023.10.27
疲れた時に沁みるもの ~「日本ハードボイルド全集」総括とクロフツの話(なぜ?)~

  • 鵼の碑、書影

    北上次郎・日下三蔵・
    杉江松恋編
    『日本ハードボイルド全集7 
    傑作集』
    (創元推理文庫)

  • 〇短編の告知から

     小学館の雑誌「STORY BOX」は今月発売の11月号より、WEB版に移行します。WEBなので、サイトから無料で読んでいただけるようになります。その11月号に、「特別養護老人ホーム・隅野苑」の第2話「熱室の死角」が掲載されます。紙版最終号となる9月号に、第1話「回廊の死角」を掲載した新シリーズで、紙→WEBの連動企画として、1・2話を続けて掲載するという試みでした。

    「熱室の死角」で殺人事件の舞台となるのは、なんとサウナ! 実は会社員時代の趣味で四、五年前からサウナに結構通っていたのですが、サウナを舞台にした事件のシチュエーションを思い付いてしまったので、安楽椅子探偵もので使ってみました。昔日の「サウナ」のイメージがこびりついてしまっている高齢者たちが、あーでもない、こーでもないと安楽椅子の中で事件をいじくり回す、という形式をとることで、サウナに馴染みのない人でも楽しめるバランスに出来たと思います。多分。もちろん2話からでも楽しめるように書きましたので、ご興味のある方はぜひ。

     ちなみに、「STORY BOX」で私が担当している書評欄「採れたて本!」の海外ミステリー編については、11月号から毎月更新になる予定です。今月はアンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)で書きました。もう後押しの必要もないシリーズかもしれませんが、今回はイギリス演劇界の様子が見えてめちゃくちゃ良かったので。

    〇クロフツの話

     さて、この原稿は9月のうちに書いているわけですが……9月はとにかく新刊ラッシュで……読んでも読んでも終わらず……。前回の読書日記で『鵼の碑』について書き、他にも書きたい本、話題を拾っておきたい本は数え切れないほどなのですが、書評やコメント等で言及したものも多く、今回は思い切って違う視点で選書していきたいと思います。

     まずは、F・W・クロフツ『ギルフォードの犯罪』(創元推理文庫)です。クロフツは今年、読書日記の第57回(5月26日更新)でも読んでいますね。その時にも言いましたが、私にとってまだまだ未読の多い古典海外作家であるクロフツは、現実を忘れたい時の大切な癒し。第57回の内容からも分かると思いますが、そう、私は完全に疲れてしまったのです。

     ということで、これも未読の『ギルフォードの犯罪』を。冒頭3章じっくりかけて、ロンドンの宝石商である「ノーンズ商会」の役員たちの人間関係が描かれ、その中に、経理部長であるチャールズ・ミンターの死と、会社の金庫から紛失した宝石類の謎という、二つの事件が描かれています。ミンターの死は、当初事件性のないものとみられましたが、宝石類の盗難事件が発覚し、一転、きな臭くなっていく……というのが大体の筋。続く4章でおなじみフレンチが登場し、捜査が始まるという流れです。

     本作ではギルフォード市警署長のフェニングが登場し、フレンチの頼もしい議論相手になってくれるのが嬉しい限り。6章「市警登場」から行われる指紋についての議論からして、要領を得ていて鋭いですし、それに応えるフレンチの洞察も気持ちが良い。少しずつ事件を追いかけていき、もつれた糸をほぐしていく捜査行もいつもの安定した面白さがあります。

     ただ、本作で用意されたアリバイトリックは本当にちょっとしたものですし、後半2章の力点は、むしろサスペンス溢れる犯人との追跡劇にあると言えます。いわゆる本格ミステリーを期待すると、第57回で取り上げた『黄金の灰』と同様、クロフツの中ではBかB+程度の出来になるのではと思いました。ただ、追跡劇の点も含めて、「警察小説」として読むなら読み応えは十分で、やっぱりクロフツはいつ読んでも満足できるなあと思いました。今回も癒されたので、良しです。

    〇『日本ハードボイルド全集』について

     2023年9月、『日本ハードボイルド全集』が全七巻で完結を迎えました。ラインナップを見た時から楽しみでしたが、実際に読むのも楽しく、充実した時間を過ごすことが出来ました。まずはリストを以下に掲げます。いずれも、編者は北上次郎・日下三蔵・杉江松恋の三者で、出版社は東京創元社の創元推理文庫となります。

    ・生島治郎『日本ハードボイルド全集1 死者だけが血を流す/淋しがりやのキング』
    ・大藪春彦『日本ハードボイルド全集2 野獣死すべし/無法街の死』
    ・河野典生『日本ハードボイルド全集3 他人の城/憎悪のかたち』
    ・仁木悦子『日本ハードボイルド全集4 冷えきった街/緋の記憶』
    ・結城昌治『日本ハードボイルド全集5 幻の殺意/夜が暗いように』
    ・都筑道夫『日本ハードボイルド全集6 酔いどれ探偵/二日酔い広場』
    ・『日本ハードボイルド全集7 傑作集』

    『傑作集』を除く六作品については、第41回の読書日記において言及しております。結城昌治の第五巻の刊行に合わせて、駆け足でそれまでの六作品の紹介を行ったという経緯です(全集のナンバリングは必ずしも刊行順とは一致しておらず、1→6→2→3→4→5→7という順番でした。結城昌治の巻は2022年7月に刊行されていますので、『傑作集』を1年以上待った計算になります)。これまでの六巻を振り返ってみると、収録作品が全て既読だったのは仁木悦子のみで、ほとんどが初読の新鮮な体験になったと言えます。元々好きな作家である生島治郎、結城昌治、都筑道夫の三人についても、収録作については未読だったため(結城の短編パートはほとんど既読でしたが)、新鮮な気持ちで楽しめました。大藪春彦、河野典生についてはこれが初めての出会いとなり、作家名は知っていたのになかなか手を出す機会がなかったため、ありがたかったです。全集を読んで以来、大藪春彦は『蘇える金狼 野望篇/完結篇』(角川文庫)を読んで、今どき見られないほどの密度の濃いアウトロー小説ぶりに感嘆し、河野典生は光文社文庫の「昭和ミステリールネサンス」で読み逃していた『八月は残酷な月』を読んだり、古書店で『迷彩の森』などを買い集めて、その文章に浸っていました。

     そんなわけで、『傑作集』の刊行も心待ちにしていたというわけです。まずは作品リストを参照してみましょう。参考までに、「既読の作品」には◎を打っておきます。

    ◎大坪砂男「私刑リンチ
    ・山下諭一「おれだけのサヨナラ」
    ・多岐川恭「あたりや」
    ・石原慎太郎「待伏せ」
    ・稲見一良「凍土のなかから」
    ・三好徹「天使の罠」
    ◎藤原審爾「新宿その血の渇き」
    ・三浦浩「アイシス讃歌」
    ・高城高「骨の聖母」
    ◎笹沢左保「無縁仏に明日をみた」
    ◎小泉喜美子「暗いクラブで逢おう」
    ・阿佐田哲也「東一局五十二本場」
    ◎半村良「裏口の客」
    ◎片岡義男「時には星の下で眠る」
    ・谷恒生「彼岸花狩り」
    ・小鷹信光「春は殺人者」

     以上全十六編について、既読は六作品。好きな作家である多岐川恭、稲見一良、高城高、阿佐田哲也、小鷹信光も未読の作品が収録されていたので、個人的にはお得感満載でした。収録作品のうち、高城高「骨の聖母」は、創元推理文庫で全四巻の『高城高全集』から漏れてしまった作品の採録ですし(初出が「農業北海道」という聞いたこともない雑誌であることに驚かされます)、他、三浦浩「アイシス讃歌」、小鷹信光「春は殺人者」も書籍への収録は初となるようです(小鷹作品の方は、初出である「ミステリマガジン」1980年6月号のほか、2016年3月号の「小鷹信光追悼特集」においても再録されていますが)。稲見一良「凍土のなかから」も、光文社の『短編で読む推理小説傑作選50 上』で読むことが出来ましたが、著者の『ダブルオー・バック』(新潮文庫)最終話の原型作品という経緯があるため、こうしたアンソロジー等で読めるのは貴重なことです。そういう意味でも、好事家であれば買い逃すことは出来ない、大充実の巻ということが出来るでしょう。

     そして本作の感想ですが……もう、感無量といったところ。疲れ切った心に染み渡る、素晴らしい一冊でした。実はこの巻、とあるイベントのために名古屋に旅行する前日に届き、なんとなく鞄に詰めて出発したのですが、一編一編、絶妙の文体と語り口からもたらされるデトックス効果が半端ではなく、電車移動の合間でひたすら読み倒してしまったのです。東京へ帰る新幹線に乗る前に読み終わってしまったので、電子書籍で収録作家の別作品を購入し、ずっと読んでいました。それくらい、のめり込んでしまったということです。

     まずは「◎」をつけた既読作品について簡単にいきます。この中で特にオススメなのは藤原審爾「新宿その血の渇き」。これは『新宿警察』の中の一話で、このシリーズは現在比較的入手しやすい形態で言えば、双葉文庫で選集が全四巻、Kindleで全集が全十巻で刊行されていて、私は、双葉文庫分の四冊は全て読了し、今はKindle版をちびちびと読み進めているところです。新宿署の警察官たちが活躍する群像小説ですが、読むたびに、犯罪者たちの心情や、刑事として生きることへの懊悩がサッと滲んできて、ため息がこぼれるような作品群なのです。「新宿その血の渇き」は、町工場で働く男が通り魔をしている、という導入なのですが、捜査ものとしては呆気ない結末の中に、どうしようもない悲哀が滲んでいて、読むたびに心臓が締め付けられます。

     笹沢左保「無縁仏に明日をみた」は、同氏の代表的時代小説〈木枯らし紋次郎〉シリーズの一編。第四巻『暁の追分に立つ』(講談社等)の一編で、私が読んでいるのもちょうど四巻まででした。大学の先輩に「初期『紋次郎』にはミステリーとして切れ味の鋭いものがある」と聞いたので、四冊まで読んだのだと思います。いわゆる「ミステリーとして切れ味の鋭い」ものについては、『流れ舟は帰らず 木枯し紋次郎ミステリ傑作選』(創元推理文庫)で大体読むことが出来るので、今から読まれる方はそれを手に取ると良いでしょう。「赦免花は散った」とか「女人講の闇を裂く」とか素晴らしいのです。で、今回『傑作集』に収録された「無縁仏に明日をみた」は、そちらの『流れ舟は帰らず』の選集には採録されなかったエピソードです。読んでみるとそれも納得で、「無縁仏~」は、ある人物と身代わりに生き長らえた紋次郎を書いた小説で、このシチュエーションを三人称の描写によって淡々と、しかし迫力をもって紡いでいくところに味があるのです。『流れ舟~』の選集が本格ミステリーなら、こちらはちゃんとハードボイルド。

     小泉喜美子「暗いクラブで逢おう」は、店を経営する男・ジョーンジイの視点から描かれる「暗いクラブ」の描写と会話劇が読ませる作品です。作家志望の「友だち」にジョーンジイが声をかけるところなどは、何度読んでも身に詰まされるような気分になります。こちらが収録された作品集『暗いクラブで逢おう』は粒よりの短編集で、同作品集の中では、「日曜日は天国」という短編もお気に入りの一編です。《鉄腕》と呼ばれるボクサーが、息子と一年に一度だけ会える「日曜日」の日を描いた一編なのですが、このタイトルを見るたびに目頭が熱くなってしまうような展開が待ち受けています。息子との会話のシーンとか、もう絶妙に巧いんだよなあ。光文社文庫から刊行の『ミステリー作家は二度死ぬ』などでも読むことが出来ます。

    〇稲見一良について 「凍土のなかから」×「銃執るものの掟」

     特に良かったのが、最前も言及した稲見一良「凍土のなかから」です。『ダブルオー・バック』の第四話「銃執るものの掟」の原型短編ですが、読み比べてみると(この作業を、名古屋から東京へ帰る新幹線で延々とやっていました)、作中で起こる出来事はほとんど同じであるにもかかわらず、全く印象の違う作品になっているのが素晴らしいのです。基本的なストーリーラインは、雪山で犬と共に狩りを行っていた主人公が、雪山で行き会った「男」に犬を殺されてしまい、さらには「男」の逃亡の手助けをするように脅される、というもの。

     以下、「凍土」、「銃」と表記することにしますが、「凍土」は「私」を視点人物とするオーソドックスなハードボイルドの語り口であり、「銃」は「わし」を語り手として「事件が起こった後、『わし』が回想しながら誰かに話を聞かせている」という構成を取っています。「銃」はその語りによって、軽妙さとサスペンスを同時に引き出しているわけですが、反面、事件の後に「わし」が生存していることが明らかとなってしまっています。その分、暗中模索感というか、一寸先も見えない雪中行のサスペンスは「凍土」の方が強くなっているのです。

     もう一つの大きな相違点は、主人公が行き会う「男」の素性についてでしょう。「凍土」では刑務所の看守を殺して逃げてきた「二人の囚人」という設定であり、かなり一面的な「悪」として描かれますが、「銃」では、「男」は単独犯であり、彼自身も「ある組織」から逃げようとしている、という描写になっているのです。「銃」の方が、「男」のパーソナリティーを複雑に描いているということになります。「銃」において、「男」が主人公に料理を振る舞われて、きちんと礼を述べるという、さりげないシーンの巧さは素晴らしい。

     どちらのバージョンでも、「男」が主人公の犬を殺してしまうのは同じなのですが、その出来事の重みも違うものになっています。「男」に関する設定と、その描写の仕方の違いが、結末の違いをもたらしているのだと思います。これはどちらが良い、というものではなく、「凍土」と「銃」、それぞれの設定と語りから考えれば、どちらも必然の選択・結末に思えるというのが素晴らしいのです。作中で起こっている出来事がほぼ同じだけに、この感覚が面白くて、読み比べるのがとんでもなく楽しい作業でした。

     稲見一良については、ハードボイルドの語感があまりよく分からない中学生の時に一度『ダック・コール』(ハヤカワ文庫JA)を読んだのですが、中学生には少し早すぎたようで、そこから稲見作品に入れなかったというのが正直なところでした。そこで、今回「凍土のなかから」にいたく感動したということもあり、『ダック・コール』を再読したのですが……もう、沁みる沁みる。C・J・ボックスを経た後だと、自然描写の美しさだけでも感じ入ってしまいますし、語り口もスッと心に入って来て、スイスイ読めてしまいます。特に第二話「パッセンジャー」の結末の余韻と、第三話「密猟志願」の文章の密度が好きです。しばらくは稲見一良作品を掘っていこうと心に決めた読書体験でした。

    〇「繋がっていく」読書の話

    『傑作集』の中でもかなり好きだったのは、阿佐田哲也の短編「東一局五十二本場」。阿佐田哲也はとにかく『麻雀放浪記』が好きで、原作はもちろん『天牌』の嶺岸信明による漫画化も追いかけていますし、私の新刊『午後のチャイムが鳴るまでは』のオマージュ元にもなっているくらいなのですが、短編はカバー出来ていませんでした。「東一局五十二本場」は、傑作集の中でもとりわけ短い20ページほどの短編ですが、この短さの中に、積み上がる点棒の緊張感がムンムンに立ち込めていて、短編でもこれほど切れ味鋭い賭博小説を書いているのかとひっくり返りました。一体どう落とすのか、とヤキモキしながら読んで、これ以外ないというオチに辿り着くラストが凄まじい。これで惚れこんでしまい、名古屋旅行中に寄った古書店で『東一局五十二本場』(角川文庫)を購入し(旅行中にまで古書店を巡るな)、すぐさま読み始めてしまったほど。人を食ったタイトルと展開が好ましい「麻雀必敗法」や、凄絶な結末に息を呑む兄弟小説「雀ごろ心中」などが心に深く残りました。

     同じように、作家として面白いのは知っていたけど……枠だったのが、石原慎太郎「待伏せ」。戦場にやってきた記者の視点から、戦場の恐怖を描出する短編なのですが、氷の刃のような鋭い描写に感じ入りました。石原作品は、『本格ミステリ・フラッシュバック』というガイド本に掲載されている『断崖』のみ読んでいて、こちらは確かに謎解きミステリーとしても読みごたえのある作品だったのですが、それ以降はなかなか作品を追いかけられず、でした。杉江松恋による解題の中で「素晴らしい」と太鼓判を押されている短編「鴨」が掲載された『密航』(講談社)という作品集をKindleで買い、すぐさま読んだくらいには「待伏せ」に心動かされました(なお、『密航』はロマン・ブックスという叢書の一つで、同叢書は多くがKindle化されているため、こういう時にすぐに読めて嬉しい)。

    〇『傑作集』は解説も凄い!

     全短編に触れているととてもじゃないけど終わらないので、このくらいにしておきますが、『傑作集』の目玉はもう一つ。編者である日下三蔵・北上次郎・杉江松恋のリレーによって紡がれた、「日本ハードボイルド史」です。全部で50ページにもわたる分量もさることながら、圧倒的な書誌情報により[黎明期]の展開をまとめた日下三蔵、あくまでも個人的な体験から出発する議論が実に「らしい」[成長期]の北上次郎、冒頭の一文の切れ味から思わず「うわあっ」と声が出た[発展期]の杉江松恋と、それぞれのスタイルによって一連の「史学」を紡いでいく流れが面白いのです。リレーの良さがこれ以上ない形で出た解説になっていると思います。

     この解説も、「あれもこれも再読したい」となる充実した内容なのですが、実際に再読したのは今のところ、レイモンド・チャンドラーの短編「待っている」。北上次郎パートにおいて、大沢在昌がチャンドラーの「待っている」を褒めた文章が引用されているんですよね。元々チャンドラーに苦手意識があって、なかなか再読出来ていないので、これを機に読み直すか……と創元推理文庫の『待っている』を自宅から発掘(さりげなく書きましたが、発掘、としかいいようのない本の量なので……)。短い短編ですがあえてじっくりと読んで、会話劇や文体を噛み締めることにしたら、以前よりも分かった気がする、でも、まだ核心には辿り着いていない気もします。チャンドラー再読の旅はまだまだ先が長そうです。

    (2023年10月)

第66回2023.10.13
17年ぶり、その威容 ~〈百鬼夜行〉シリーズ長編再読記録~

  • 鵼の碑、書影

    京極夏彦
    『鵼の碑』
    (講談社ノベルス)
    ※単行本も同時発売。
    書影は講談社ノベルス

  • 〇ポケミス70周年の話

     早川書房の「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」が70周年を迎えるということで、「ミステリマガジン」11月号は「ポケミス創刊70周年記念特大号」となっております。普段の倍の定価にはびっくりしますが、「ハヤカワ・ミステリ解説総目録」も収録された永久保存版とくれば、むべなるかなというもの。

     同誌の特集内で、「特別鼎談 ポケミス創刊70周年に寄せて」に参加しております。メンバーは翻訳家の平岡敦さん、評論家の杉江松恋さん、そして私の三人です。テーマはポケミスについて色々話すということで、「初めて読んだポケミス」や「初めて買ったポケミス」「ポケミス、この一冊」などなどのテーマに沿って、ポケミスの話を色々と語っております。

     なお、同誌ではもう一つ、日本推理作家協会の「翻訳小説部門」(プレ第一回)を受賞したニクラス・ナット・オ・ダーグさん『1794』『1795』について、著者への「受賞記念インタビュー」が掲載されておりまして、インタビュアーを務めております。といっても、メールで質問を出して、翻訳家のヘレンハルメ美穂さんに翻訳をお願いしたものなので、いわゆるインタビュアー的なことはほとんど出来ていませんが……。ともあれ、短いながら情報量が凄いので、同誌を手に取ったら、ぜひ読んでみてください。

     ポケミスもいよいよ70周年ということで、「2000番」のポケミスは2024年2月に刊行されるようです。2023年9月刊行の新刊、クリス・ハマー『渇きの地』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)から、「70周年」のロゴが帯に印字されており、70周年特集の第一弾ということになるようです。オーストラリアの作家の紹介であり、閉鎖的なコミュニティーにおける殺人と、オーストラリアの風土ならではの暑すぎる気候の描写などから、以前ポケミスから刊行されたジェイン・ハーパー『渇きと偽り』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、のちにハヤカワミステリ文庫)を思い出す質感だったのが嬉しい限りでした。

    〇〈百鬼夜行〉シリーズの新刊が出た!

     去る9月、京極夏彦の〈百鬼夜行〉シリーズの最新長編『鵼の碑』(講談社/講談社ノベルス)が刊行されました。前作『邪魅の雫』の刊行から17年ということで、当時からのファンは首を長くして待っていたことと思います。私自身は、2008年、中学2年生の時にこのシリーズにハマり、一気に通読して追いついたという経緯ですので、それでも15年待った、ということになるでしょうか。今回、朝日新聞における5段広告にコメントを寄せた関係で、『鵼の碑』の単行本版は献本でいただけたのですが、書店で講談社ノベルス版も購入してきました。「自分で働いたお金で」ノベルス版の〈百鬼夜行〉シリーズを買うのは、これが初めてだったからです。2008年の時点で、まだ『邪魅の雫』は文庫化されておらず、この時は親にねだってノベルス版を買ってもらったので、自分が働いて得たお金で買う――というのは全く別の意味合いを持っていたのです。

     そんな体験込みで追いかけてきたこのシリーズ。新刊の予告を見た時から、正直、気持ちが昂り過ぎていたので、8月頭から全作再読してしまいました。短編2本と長編連載2回と『午後のチャイムが鳴るまでは』の刊行に向けた仕込みをこなしながら、良い息抜きになったと思います。

     さて、そんなわけで、もはや恒例となった全作レビューをやっていきます。今回はあくまでもシリーズの長編に限って、となりますが、それぞれ再読した回数なども違うので、出来る限り、初読時と再読時、それぞれの感想の違いなども、丁寧に拾っていこうと思います。もちろん、ネタバレはなしです。私はこのシリーズについて、背景知識部分まで含めて全部解説出来るわけではありませんし、特定のキャラクターへの深い読みがあるわけでもなく、あくまでも、ただミステリーとして本作に興味がある一読者の視点しか提供出来ません。とはいえ、個人的な体験を書き綴ることに、この日記の意味があると思うので、今日もやっていこうと思います。しかし、今回も長いよ~。

     なお、シリーズ名については『姑獲鳥』『魍魎』のように、初出以降はなるべく妖怪名のみの表記にしていこうと思います。前作や関連作の言及をする必要があるたびにフルネームで引いていると煩わしいからです。サークルの部室で話す時も、大体妖怪名だけで話していたので、その感覚です。

    『姑獲鳥の夏』

     第一作『姑獲鳥の夏』を中学生で読んだ時の興奮、いえ、「困惑」は、未だによく覚えています(2008年のことですので、もちろん読んだのは講談社文庫版)。久遠寺医院の娘が妊娠二十カ月に達しており、その夫は密室状況から忽然と姿を消している。ミステリー的な謎と怪異がミックスされた状況に、わくわくしながら読み進めていくと、京極堂(中禅寺秋彦)による絵解き――「憑き物落とし」が行われる。その解決に、もっと言えば「密室」の部分に、私の「困惑」はあったのでした。そんな解決がまかり通るなら、もうなんでもありになっちゃうじゃないか……中学生の頃の私は、そんな素朴な思いからこのシリーズに出会いました。今から思うと、頭の固い本格信者だった当時の私らしい感想だなあと思いました。

     そこですぐに諦めずに、困惑する頭を捻りながら、「伏線って張ってあったのかな」と、ちゃんと密室の検証を行うシーンに行き、作家・関口巽と名探偵・榎木津礼二郎の会話を読み返しにいった中学生の頃の私を、本当に褒めてあげたい。そのシーンを読み直した私は雷に打たれたようになり(榎木津というキャラクターの能力の使い方、あるいはその「使い捨て」方に感動したからです)、すぐに、初読時は「早く本題に入らないのかな」と思いながら読んでいた1節の関口と京極堂の会話を読み直しにいったのです。すると全部書いてあった。全部書いてあった、というのは大げさにしても、人がどのように認識の陥穽に滑り落ちていくか、という過程の部分が克明に書いてあったのです。ここまで書かれていて分からなかったのだから、これは私が悪いだろう、とすがすがしい敗北感を味わったのでした。

     そんな体験もあって、初読と再読が近いタイミングで行われたのが『姑獲鳥の夏』で、それ以来も、夏になると読み返したくなる一冊です。古本屋「京極堂」に行くまでのだらだらとした坂道を上りたくなる時が、やっぱり夏なんですよねえ。また、600ページというコンパクトな分量も相まって(この文章が成立するのがおかしいんだよなあ)、「京極夏彦」の世界観に帰りたくなった時にちょうどよい一冊でもあります。

     今回の再読はおそらく通算で五回目になりますが、今までの再読では「密室」の部分にだけ意識を取られてきたところを、今回はその後段で明かされる「繰り返される死」への謎解きに快感を覚えました。「密室」のセンセーショナルさがようやく自分の中で薄れて、「繰り返しの構図」を成立させるための、この要素がこう働き、あの要素がこう作用し、だから悲劇が起きたのだ、という丁寧な絵合わせのような謎解きの繊細さに目が向くようになった、ということです。そこまでに五回かかってしまいました。修行のような気持ちです。

    『魍魎の匣』

     第二作『魍魎の匣』は、数多くのメディアミックスのことを考えると、一体何回ストーリーを味わったのか数えきれないほど。私が「京極堂シリーズ」にハマった直後、2008年の10~12月にアニメ化され、2007年から2010年にかけて刊行された志水アキのコミックスも何度も読みました。

     ちなみに、ここで一度脱線すれば、中学生の頃の映像体験というのは凄いもので、未だにこの『魍魎の匣』アニメには強烈な影響を受けている気がします。特に、京極作品を読んでいる時です。ナイトメアが担当していたOP「Lost in Blue」は未だに覚えていますし、京極作品を読んでいる時にいつも脳内で聞こえてくる音楽があって、「これなんだろう」と思って記憶を探ってみると、必ずと言っていいほどアニメの劇伴なのです。それほど耳に沁みついているということですね。まあ、アニメ版については関口と刑事の木場修太郎は美形すぎるので、そこは当時から注文をつけたいところでしたが。

     私は『魍魎』に登場する作家・久保竣公のことが本当に好きで……彼が書いた作中作「匣の中の娘」を読むたびに面白い(作品を読んだ京極堂が、これを評する言葉も面白い)。匣の中に入った娘、胸から上だけしかないのに生きていて、「ほう、」と喋る、という幻想的なイメージが、文字で、漫画で、アニメで、全てで悪夢のように反復し、脳に焼き付いてしまったのです。年齢を重ねるほど私も「何だか酷く男が羨ましくなつて」しまう……読み返すほどに羨ましくなるのは、なんでですかね。現実がひたすらつらい中で、やっぱり作中の「男」が満ち足りているように見えてくるからですかね。正直、心の疲れチェッカーみたいな接し方をしています、「匣の中の娘」。

     そんなわけで、『魍魎』については読み返しすぎ、ストーリーも何度も追いかけ直しているせいで、初読→再読の感慨の変化などを辿ることが難しいのです。少なくとも、アニメや漫画を比較検討する中で、初読の時には発見出来なかった伏線などを幾つも発見し、それも感動の要素だったことをよく覚えています。

    『狂骨の夢』

     ここからは中学2年の初読以来、初めての再読となります。初読の時にあまり楽しみきれなかったので、『狂骨の夢』は再読の折にもなかなか手が伸びなかったのです。四度夫を殺したという宇多川朱美という女性のイメージと、事件の舞台となる逗子の屋敷の異様な雰囲気だけは強烈に脳に残っていました。再読してみると、初読の時にあまり楽しめなかった理由もはっきりと分かり、それも面白い再読でした。

     まず「初読の時にあまり楽しめなかった理由」について説明すると、百鬼夜行シリーズの解決編(憑き物落とし)は大体200ページくらいの分量があって、すごくざっくりと分けてしまうと「妖怪周り・宗教周りの『絵解き』」と「作中現実で起きた事件の『謎解き』」に分かれると思うのです。ここの交通整理が毎回巧いのはもちろんなのですが、中学生の頃の私は、コテコテの本格ミステリーが好きだったので、後者の謎解きにしか興味がなかったんですよね。前者は少し流しながら読んでしまった。で、『狂骨の夢』は、後者の謎解きはすぐに見当のついてしまうもので、前者の絵解きの方が面白い作品だと思うのです。「この事件の真犯人は〇〇です」と京極堂が喝破するのですが、前者のような絵解きに興味のある人間なら、これだけで「えーっ!」と叫んでしまうような大ケレンなんですよ。

     中学から今までの間に、友人の影響で、高田崇史の〈QED〉シリーズを読んだことや、個人的に松本清張の古代史ものなどを読んだこともあって、ようやくこういった「前者の絵解き」に自然と興味が湧くようになって、今回はそこに面白さがあったので興奮できた、という感じです。再読って、初読時からこれまでの読書体験を判定されるというか、「さ、この10年あまり、君は何をやって来た?」と本に問われているような気がするのですが……こういう「前回よりも楽しく読めた」ところをサッと挙げられるだけで、良い再会が果たせたなあという思いになります。

    『鉄鼠の檻』

     冒頭のシーンでの「拙僧が殺めたのだ」の衝撃がやはり第一印象。死体があり、犯人による自白まで行われているのに、視点人物の尾島が盲目なので、誰が犯人かは分からない――という仕掛け。この冒頭は、初読の時にもすぐに読み返しに行ったのですが、ここにほぼすべてが書かれているという大胆不敵さには頭が上がりません。〈百鬼夜行〉シリーズは、この冒頭の引きも素晴らしいんですよね。

     さて、こちらも中学生の初読以来、全体は読み返しておらず、今回が再読になります。初読時点では、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(東京創元社)と近い時期に読んだこともあり、宗教×ミステリーの作品として、脳内で同じ枠にカテゴライズされていました。ここでエーコの話に脱線すれば、当時の私には『薔薇の名前』が本当によく分からず、とにかく気合で読み通したというのと、あとはせいぜい、読書家だったら絶対に嫌な毒殺トリックが心に残った程度で、世評よりも楽しめなくて不安を感じていました。

     翻って『鉄鼠』ですが、こちらは箱根を舞台に、禅の世界が描かれる作品ですが、『薔薇の名前』と同様、宗教的な説明はよく分からずに読み通しました。ただ、そこが『薔薇の名前』と違ったのですが、とにかく、『鉄鼠』には「なんだかかっこいいことがかっこよく語られている」という印象がしっかりあって、それが中学生の私レベルでもとても楽しく読めた要因になったのです。

     さて、そして再読です。今回、宗教的な説明や解説が全て分かったとは、やはりまだまだ全然言えません。間に15年もあったのに全然勉強していないし、見通しが良くなったわけでもない。ただ、説明の中に余念なく伏線が張られていて、初読時には顎が外れるほど驚いた犯人の犯行動機にも、今回は納得させられてしまいました。しかも、宗教対立、論争の丁々発止が巧みに描かれているのがよく分かって、思わずため息をついてしまいました。今回、本筋となる憑き物落としの前にある禅僧と議論を戦わせ、その人物の憑き物を落とす、というシーンがあるのですが、ここの面白さは無類です。これは『狂骨』で言った「絵解き」の面白さが分かるようになった、という話にも繋がる気がします。

    『絡新婦の理』

     これは偏愛作で、今回の再読で四回目になります。実は偏愛作なんです、と宮内悠介さんに言ったら、「そうじゃなかったら『蒼海館の殺人』なんて書かないでしょ」と言われて恥ずかしくなったのを覚えています。大学の同期にも『絡新婦の理』が偏愛作というやつがいて、やっぱり「操りの構図」が……という話をしようと思ったら、「俺は女学園ミステリーに目がないんだ」と返された思い出もあります。その視点を得たのは初めてだったなぁ。いや、彼が「好きな作品は『絡新婦』と綾辻行人の『緋色の囁き』です」って言ってきた時に気付かなかった私が悪いのかもしれないけど。

     閑話休題。今回のポイントは、冒頭のシーン「あなたが――蜘蛛だったのですね」でも仄めかされる「操りの構図」にあるといってもいいでしょう。作中の時系列では最後にあたる「絵解き」のシーンを冒頭に持って来るというだけでも大胆ですが、それを読んでいてもなお全然事件の真相が見通せない、という巧妙さが素晴らしい。最後まで予想を外され続けたのをよく覚えています。

     女学園で行われる儀式により人を殺すという「目潰し魔」と「絞殺魔」。二人の殺人犯を追うパートが交互に現れ、しかし、事件の全体像は読者の目にはなかなか見えてこない……という仕掛け。「操り」の構図が示されているだけに、一体誰がどのような意図で動いていて、あるいは動かされているのか、思考は常に要求されますが、それでも読まされてしまうのがすごいところ。今回なんて四回目なのに、それでも細部は忘れているので、ここはこうしていたのか、あそこはああなっていたのか、などの発見があるのが楽しい。巽昌章による解説も絶品で、何度も読み返してしまいます。

    『塗仏の宴 宴の支度』『塗仏の宴 宴の始末』

     二冊合わせて文庫本でも2000ページ超えという驚異の厚さ。その厚さに恐れをなした、ということもあり、今回の再読まで読み返しませんでした。『宴の支度』は六つの中編に分かれ、「ぬっぺっぼう」「うわん」「ひょうすべ」「わいら」「しょうけら」「おとろし」、各話の繋がりが見えないまま進行します。私は初読時、この『塗仏の宴』に入る前に『百鬼徒然袋』のシリーズを経由したこともあって、中編スタイルに抵抗はなく、むしろ、六つも中編を読んだ先に、それが繋がるのが保証されている(『宴の始末』)のだから贅沢じゃないか、というぐらいの気持ちで読み進めていった記憶があります。私は関口巽が大好きなので、今回の事件で彼が襲われるピンチには、「一体どうしてそんなところまで追い込んじゃうの」とヤキモキする思いもあって、それが読み進める原動力になりました。

     そして今回の再読ですが……いやあ、腰が重かった……。中学生の頃は「まだページ残ってるじゃん!」とむしろ陽気に受け止めていたので、こればかりは、エネルギー、バイタリティーの衰えを痛感するばかり。しかし、今回『鵼の碑』に合わせて行われた「ダ・ヴィンチ」の京極夏彦インタビューで、本作が「フラクタル構造」を意識して書かれたというのを読むと納得する思いがありました。フラクタル構造とは、部分が全体と同じ形になっている、というもので、それを企図したものであれば、『宴の支度』の六つの中編と、『宴の始末』で語られる「ことの真相」の立ち位置が分かります。面白いのは、六つも中編を読まされているのに、全体の構図を想像出来ない、という巧みさでしょうか。

    「陰謀論」的な想像力が、〈百鬼夜行〉シリーズの真骨頂だとするなら、それが極限にまで達し、崩落するギリギリでまとめあげられたのが『塗仏』ではないか……という気がします。崩落するギリギリ、とあえて言ったのは、2000ページも読まされた先にある真犯人の悪意が、きちんと驚ける強度と邪悪さに踏みとどまっているからです。それがやりたいなら、ここまでのことをするよね、と納得出来るレベル、というか。

    『陰摩羅鬼の瑕』

     白樺湖にそびえる洋館、そこに住む由良伯爵が関わる事件を描いたシリーズ第八作。この由良伯爵に嫁いだ女性が、次々と命を落としてしまうので、今回は護衛として探偵の榎木津と関口がやってきた……というのが大体の筋。初読時の印象は、「真相のかなりの部分が分かってしまい、そうじゃないといいなと期待しながら読み進めた」というものでした。なので、再読である今回の方が「そうである」と分かっている分、細部に目を配って楽しむことが出来ました。

     たとえば、本作には関口巽の小説「獨弔どくてう」が登場します。関口巽の小説が読める、というだけで、関口ファンとしては嬉しいですし、この小説が重要な伏線の役割を果たしているのが面白いところ。また、シリーズ中では珍しいことに、「本格探偵小説」に対する自己言及がなされるなか、江戸川乱歩、横溝正史の名前まで登場するのを、さっぱり忘れていたので驚きました。しかも、横溝正史は由良伯爵と会ったという設定で、これがミステリー上も伏線になっているのが面白いのです。再読で奥付を読み、気が付いたのですが、「獨弔どくてう」は『死の本 The Book of Death』に掲載されたもので、件の横溝正史が出て来る章の一部分は、『金田一耕助に捧ぐ九つの狂騒曲』に掲載されたものだったんですね。一度外部媒体に掲載された「使用済みの」、たとえていえば「死んだ」パーツから、この幹が立ったことを思えば、「剥製」が象徴的に登場する今作のテーマにも沿っているのもかもしれません。

     これも再読による発見ですが、京極堂が行うのは「謎解き」でも「解決」でもなく(この読書日記では便宜上そう呼んでいることもありますが)、あくまでも「憑き物落とし」なので、初読時に私が思っていたような「真相が分かった」という不満はそもそもお門違いのようなところがありました。今回で言うと、真相が分かったとしても、じゃあそれをどう明るみに出し、憑き物を祓い、秩序を回復するのか――ミステリーの用語で言えばその「演出」の部分にもこのシリーズの面白さがあり、再読ではそこも楽しんで読むことが出来ました。

    『邪魅の雫』

     再読するまでほとんど内容を思い出せなかったので、初読のような気持ちで読めたのが本作。どうして覚えていないのか、大体二つの理由があって、一つ目はこの作品の章・節の数です。大体〈百鬼夜行〉シリーズは100ページに1章のペースで進行するのですが、この作品はそれよりも短く節が切られていて、一つのシーンが長く続かないのです(前作『陰摩羅鬼』は13章構成、今回は28章で、『邪魅』の方が100ページほど長いとはいえ章の切れ目が細かいことが分かります)。このカット割りのペースが、今までのシリーズと比較しても早いので、リズムに馴染めなかったというのが一つ。

     二つ目は、この作品と近い時期に読んだ『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』と記憶が混ざってしまったこと。私が『邪魅の雫』を手に取ったのは2008年のことで、『ルー=ガルー2』は2011年の刊行です。そして、この二作品が「毒」を巡る話であったために、細かいエピソードが頭の中で混じり合い、どちらがどちらだっけ、とこんがらがってしまったという次第。恥ずかしい限りです。

     ということで再読した『邪魅の雫』ですが、「得体の知れないものが跳梁している感じ」は初読の時よりも強く味わうことが出来、また、榎木津のパーソナリティーが語られる貴重な回という楽しさもあって、初読よりも面白く読むことが出来ました。『ルー=ガルー2』の記憶とも一旦距離を取ることが出来たので、そこで混乱することもありません。このシリーズは、これだけ長大な作品であるにもかかわらず、事件の構図の核となる部分だけはたった一言で言い表すことが出来る、という潔さがあると思うのですが、『邪魅』はそれが出来ないところに良さがある気がします。

     ところで、再読すると、7章で展開される「書評論」にどこか救われるような思いがあります。小説家になったから、余計にこの辺の議論に耳が痛くなって、同時に、京極堂の言葉がスッと心に入ってくるのでしょうね。関口と同じタイミングで私も、諒解したよ京極堂、と心の中で返答してしまいました。

    『鵼の碑』

     さて、長くなりましたがようやく最新刊です。今回は鵼という妖怪の見た目に合わせて「蛇」「虎」「狸」「猨」「鵺」という五つの章立てに分かれ、それぞれが六節の構成で進行していきます。それぞれの章に、関口巽、木場修太郎、榎木津礼二郎とその探偵事務所の探偵・益田、日光にやって来た京極堂、などが配され、それぞれの「事件」を追うことになります(京極堂の妹である記者、中禅寺敦子は今回お休みですが、それは『今昔百鬼拾遺 ―月』で語られた、「鬼」の事件に出馬しているからだそうです。あの作品で敦子成分はだいぶ摂取出来ましたが、ちょっと残念)。

     鵼という妖怪を選択したためか、今回は今まで以上に、事件の「捉えどころのなさ」が際立った作品となっています。これまでの九作は、それぞれの形で、「今、まさに、この瞬間、得体の知れないことが起こっている」という厭な感情を呼び起こしてくれる作品でした。例えば、『魍魎』のバラバラ殺人は現在進行形ですし、「匣」というキーワードが幾重にも響き合うところにも厭らしさがある。『陰摩羅鬼』も、殺人事件の発生までにはだいぶかかりますが、舞台を白樺湖のそばに立つ洋館一つにほぼ絞り込んで、そこに不気味な、異界めいた雰囲気を漂わせることでこの「厭な感情」を呼び起こしてくれると思います。

     翻って今回の『鵼の碑』ですが、作中で言及される「事件」の数々がほとんど過去のものということもあり、なかなかその「厭な感情」が起こるまでに(いつも以上に)時間がかかるところが、シリーズ読者としては不思議な感じでした。何か得体の知れないものが動いてい「た」のは分かるのだけれど、今この時ではないから、どう対処していいのか分からない、この「得体の知れなさ」「正体の分からなさ」が今回の事件のポイントだという気がします。しかし、そこに因果関係を見出し、隠された関係を見抜いてしまおうとするのが人間というもの――〈百鬼夜行〉シリーズで繰り返されてきた、「陰謀論」的な想像力の働きは、本作でも登場人物たちの間をゆっくり行き来しているように見えます。「何かあるのかもしれない」「何かありそうだ」。この想像力に対して、京極堂がいかに回答するか。ここにこそ本作の力点があり、2023年というこの「現代」に読まれる本として、本作が「あるもの」へのカウンターパンチとして書かれたことの意義があるのではないかと考えました。

     また、著者には『百鬼夜行――陰』『百鬼夜行――陽』という作品があり、これは、〈百鬼夜行〉シリーズの関係者たちが、「魔に魅入られた瞬間」を描いた短編集群で、これまでのシリーズ作品のサイドストーリーが描かれていたわけです。この『陽』のほうに、「墓の火」と「蛇帯じゃたい」という短編が二編あり、これはいずれも『鵼の碑』のサイドストーリーであることが明かされていました。「墓の火」では、日光を訪れた寒川秀巳が「光る石碑」を目撃してしまう。「蛇帯じゃたい」では、ホテルのメイドである桜田登和子が蛇を恐れ、それが異常であると指摘される。この二つのエピソードが先行して存在しており、しかも、繋がりがなさそうなエピソードであるからこそ、どのように使うのだろうという興味も搔き立てられました。

     しかし、このエピソード二つを事前に示されていても、何をするつもりなのかまるで分らないのがすごいところで、シリーズ屈指の捉えどころのなさです。『狂骨の夢』の節で言った『絵解き』の部分、今回は、鵼という妖怪についてのことですが、この部分は楽しめましたし、細かい事件の『謎解き』にもなるほどと思わされる箇所がありましたが、一番のポイントは、この小説が〇〇〇に言及した小説であることではないでしょうか。1950年代を舞台に設定した本シリーズでは、例えば『絡新婦』におけるR・A・A(進駐軍特殊慰安施設)に対する議論であるとか、『魍魎』や『邪魅』のように軍が開発した技術や兵器が引き起こす事件であったりとか、現実のものから陰謀論的なアイテムまで、戦争の罪に一つずつ言及していく側面がありました。その意味で、『鵼の碑』が〇〇〇についての小説だったことは必然と言えますし、書かれなければならなかったのだなぁという思いを新たにします。

     ……さて、こんな風に長々と語ってきましたが、実はこういった感情にようやく辿り着いたのは、本作を二回通読した後のこと。二回目は、「蛇」の章だけ(一)~(六)まで通読し、次は「虎」を一気に通読……というように、中編を五つ読んでから解決編を読む、という読み方をしてみました。そうすることで、この作品が『塗仏』の構造に見えてきて、あの作品がああいう作品だとすれば、今回は……と想像を膨らませていった結果、ようやく上記のような感情に辿り着いたという感じです。初読時は、京極堂が繰り返す言葉があまりにも意外で、感情の整理をつけるのが難しかったのです。

     一つだけ、特にこれは良かったなあという場面を挙げておくと、関口巽と久住による会話の場面で、関口がこれまで自分が巻き込まれた事件とそこでの役割を振り返って、「期待」というものにどう接するか、と口にするところです。これは色々な事件を経た関口にしか言えない言葉だと思うので、なんだか感慨深い思いに捉われてしまいました。

     そんなわけで、得難い体験となった、シリーズ最新刊でした。

    (2023年10月)

第65回2023.09.22
私の「神」が、私の「神」に挑む物語群 ~〈柄刀版・国名〉シリーズ、これにて終幕~

  • 或るスペイン岬の謎、書影

    柄刀一
    『或るスペイン岬の謎』
    (光文社)

  • 〇新刊が出ますよ!

     さて、昨日、9月21日に新刊『午後のチャイムが鳴るまでは』(実業之日本社)が刊行されました! 二年前に雑誌「THE FORWARD」において、第1話「RUN! ラーメン! RUN!」を掲載していただいた時から、この連作の最終形を見据えてずっと頭を動かし、心を燃やしていたわけですが、ようやくゴールに辿り着きました。「昼休み」をテーマに、全短編の事件を「昼休み」に起こすという超絶縛りプレイに挑んだ青春学園ミステリーです。どうかお手に取ってくださいませ。

     第1話は誰にもバレないようにラーメンを食いに行くという「完全犯罪」の物語で、ラーメンを食う描写は平山夢明『デブを捨てに』(文春文庫)にインスパイア。第2話は徹夜合宿を行った文芸部を襲う人間消失の物語、物語のノリははやみねかおる『復活‼ 虹北学園文芸部』(講談社)を意識。第3話は消しゴムを使ったポーカーというオリジナルゲームを楽しむ男子高校生たちによる騙し合い化かし合いを描いたコンゲーム、阿佐田哲也『麻雀放浪記』(文春文庫等)への熱い思いを形にしました。第4話は「星占いじゃ仕方がない。まして木曜日ならなおさらだ」という言葉から推論を展開する、ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」の本歌取り。米澤穂信「心あたりのある者は」他このタイプの後続作品の数々も意識しました。第5話は天文台からの人間消失という、ロマンあふれる謎に挑みます。オマージュ元はミシェル・ビュッシなんですけどね。

     今回の「あとがき」では、細かい作品の話はしないと自分でルールを設けたので、ここでまとめて紹介しておきました(笑)。もちろん、ここに挙げたような書名を知らなくても楽しめます。しかし、他の出版社でもまだやらせてもらっていないような、青春ミステリー全開の雰囲気を出しつつ、従来の青春ミステリーで自分が物足りないと思っていた部分を克服するようなものが作れたと思っているので、大いに満足しています。このシリーズは〈九十九ヶ丘学園〉シリーズと銘打って、既に第2弾のプロットは出してありますが、果たしてどうなることやら。

    〇数年後絶対忘れるので、書き残しておきたい「9月21日」の話

     それにしても、この9月21日ですが、同時に刊行された新刊が、伊坂幸太郎『777』(KADOKAWA)、東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)、今村昌弘『でぃすぺる』(文藝春秋)と強豪揃い。数年前から「このミステリーがすごい!」の規定が変わり、奥付が「前年10月~今年9月末」までの本が対象になったので、年末ランキングを狙いたい本が9月に目掛けて出るようになった……という事情はあるにせよ、ちょっとこの重なり方はひどい。

     本当に泣きたい気分ですが、伊坂の〈殺し屋〉シリーズと東野の〈加賀恭一郎〉シリーズは、自分でも毎回楽しみにしているシリーズなので、多分今日にはうっきうきで読んでいると思いますよ(他人事なのは、私がこれを書いているのがまだ8月末であるため)。特に〈加賀恭一郎〉シリーズですが、私は『新参者』(講談社文庫)を読んで触発され、中学生の頃に人形町や水天宮前の界隈を歩き回ってあの世界に浸ったことがあるぐらい好きなのですが、『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』(いずれも講談社文庫)は、当時一度読んだきりで、再読したことがなかったので、今回勇んで再読してみることに。どちらも結末が書かれていない(犯人が誰か明言されない)趣向の作品で、講談社ノベルスで発売された当初は問い合わせが殺到したという話もありますが、講談社文庫版にはいずれも西上心太による「推理の手引き《袋綴じ解説》」が付けられています。

     この二作、犯人当ての定石やら、論理的な考え方やらがまだよくわかっていない中学生の時期に読んでいるため、何が何やら分からず、「推理の手引き」を読んでも「分かったような分からないような……」とモヤモヤしたまま終わってしまっていました。しかし、あれから十五年を経て読み返してみると、描写の端々から「作者がどう解かせるつもりなのか」がくっきり見えてきたので、おお、自分も曲がりなりにも成長したんだなあと思いました。再読するのって、それ自体ももちろん楽しいんですが、「あの時より一つでも多くの要素を楽しめるか」「あの時よりも良い読みが出来るか」みたいなところで、それまでの読書経験を丸ごと裁かれるような気がして、緊張もするんですよね。そういう意味で、この二作品の再読は自分にとって貴重な経験でした。

     特に感動したのは『私が彼を殺した』。何に感動したかというと、解決編前に「では始めるとしましょう。アガサ・クリスティの世界をね」(同書、p.352)と加賀が宣言するんですよね。これは2ページ前に容疑者の一人が、容疑者を全員集めるなんて、クリスティの世界かよ、とあてこするのに応えての言葉です。これは再読するまで全く思い出さなかったセリフで、なぜなら、ここでいう「アガサ・クリスティ」というのは慣用句的なそれだろうと思っていたからなのです。有名な本格作家を代入出来る項にすぎなくて、ここがエラリー・クイーンでも横溝正史でも構わないのだろう、ぐらいに。

     ところが、この解決編、読み返してみるとなかなかどうしてクリスティなのです。三人の容疑者にはいずれも疑わしい行動や疑われる理由があるわけですが、その一つ一つに隠された意味を推理で明らかにしながら、それぞれの容疑者が「自分は犯人ではない」という「あらため」を行う。この手つきが、実にクリスティらしい。というのも、『ナイルに死す』『死との約束』におけるポアロの尋問は、「一度目が状況理解、手掛かり収集のフェーズ、二度目がそれぞれの疑惑を追及していく「あらため」のフェーズ、最後に全員集めて解決編」というシークエンスを取るのですが、『私が彼を殺した』において、「アガサ・クリスティの世界」を始めると宣言された後の解決編70ページは、この「あらため」のフェーズと解決編のフェーズをミックスしたような、圧倒的な面白さがあるのです。

     そして解決編の最後のピースを埋めるのは読者の仕事……となるわけですが、最後のページに登場した手掛かりをどう使うか、というのを考えると、作者が「どう解かせたいか」は分かりやすいと思います(そのあたりは袋綴じ解説に詳しいのでぜひ)。十五年越しに再読して「クリスティの世界」を初読時以上に楽しむことが出来たので大いに満足。ということで、『あなたが誰かを殺した』もとても楽しみ。

    〇「名探偵ポアロ」映画の話
    さて、「クリスティ」繋がりで、映画の話も入れさせてください(本題になかなか入らなくてごめんなさい)。9月15日に「名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊」(2023)が公開されました(8月末に書いている原稿で映画の話が出来るのは、ディズニーより試写会に招待されたからです)。ケネス・ブラナーが監督・主演を務めるポアロ映画はこれで三作目。一作目は「オリエント急行殺人事件」(2017)、二作目は「ナイル殺人事件」(2022)で、それぞれ『オリエント急行の殺人』『ナイルに死す』を原作としていました。ここまではクリスティでもA級の作品を原作に、スーシェ版等々歴代のポアロ映像化とは違う「ケネス・ブラナー流」のポアロ解釈を示してきましたが、今回の原作はなんと『ハロウィーン・パーティ』

     もちろん、この作品もイギリスのハロウィーン・パーティの雰囲気を味わうことが出来、「あたし、前に人殺しを見たことがあるのよ」と口にした女の子が殺される、というクリスティらしい発端と謎解きを味わえる作品です。何より、ポアロ作品の愛すべき準レギュラーキャラ、女性作家のアリアドニ・オリヴァが登場する一作でもあります。とはいえ、『オリエント~』や『ナイル~』に比べれば、一枚か二枚落ちる作品であることは否定出来ないでしょう。だからこそ、ケネス・ブラナーがどのように料理するのか、映画を見るのが楽しみだったのです。

     結果……全然原作と違う! でも結構面白い。

     そもそもタイトルが「ベネチアの亡霊」で、舞台を水上都市ベネチアに移していますし、「この殺人事件の犯人は――人間か、亡霊か。」というキャッチコピー自体かなり不思議だったのですが、当然のように「死者の声を聴く」霊能者が登場し、殺人事件の被害者から証言を得るためにハロウィーン・パーティの日に「降霊会」が開かれるという筋立てが序盤で現れたので、これはむしろジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)の世界観では? と思ってしまった次第。正直、カーター・ディクスン『黒死荘の殺人』の映像化と言われても納得したと思います。撮り方や恐怖の演出も、ぶっちゃけかなりホラー寄り。

     第一の殺人からして内容がまるきり違います。リンゴ食い競争のためのバケツが使われるのは原作通りですが、標的が違います。この捻りも地味に上手い(第一の殺人を原作通りに映像化出来ないのは、13歳の少女が殺される、というシーンが今のコンプライアンスだと厳しいのかな、と思ったりもします)。第二・第三の殺人はオリジナルですし、そもそも降霊会のトリックや演出も独自のものということになります。ベネチアという舞台も、水上都市だからこそ生きる水位と恐怖の演出も、亡霊のシチュエーションから生じるポアロを苦しめる恐怖の数々も、全て原作読者が知らない光景です。

     しかし、クリスティの作品らしさは、きちんと全編に横溢しているのが不思議なところ。一人一人を尋問しながら秘密を暴いていき、真相に迫っていく確かな足取りは見事に再現されていますし、いくら画面がホラー映画のようでも、全関係者を集めて謎解きもちゃんとする。アリアドニ・オリヴァの使い方も面白いし、ラストの謎解きの余韻も快い。正直、ケネス・ブラナー版ポアロは、私にとって解釈違いで、「ナイル殺人事件」の口髭のエピソードは苦い顔をしながら見てしまったのですが(ただし、ポアロの口髭と関連する第三の殺人にまつわるアイディア、そのアレンジ自体は素晴らしいと思います)、今回は原作からかなり距離があったせいか、あまり気にせずに、パラレルな世界線のクリスティ映画として楽しむことが出来ました。

     個人的に好きだったポイントがもう一つ。今回、ポアロは隠遁生活に入っているという設定なので、「名探偵としては死んだ存在」という表現が映画の中でも使われており、「名探偵の復活」を描いた物語だといえるのです。そのうえ、刻一刻と水位が上がって、危機にさらされる屋敷の中で起こる殺人事件が描かれる……ということで、正直、他人事とは思えなかったというか(苦笑)。

    〇〈柄刀版・国名〉シリーズ、完結!

     いや~、遂に〈柄刀版・国名〉シリーズも、8月に刊行された柄刀一『或るスペイン岬の謎』(光文社)で完結となったわけです。2019年に『或るエジプト十字架の謎』(光文社/2022年に光文社文庫化)が刊行された時から――いや、正直な話、雑誌「ジャーロ」63号に、短編「或るエジプト十字架の謎」が掲載された時から――あのエラリー・クイーンに柄刀一が挑む! という興奮で、私は前のめりになっていたのでした。

     シリーズのリストと内容は以下の通り。

    ①『或るエジプト十字架の謎』(2019年5月刊行/2022年文庫化)・短編集
    収録作品:或るローマ帽子の謎/或るフランス白粉の謎/或るオランダ靴の謎/或るエジプト十字架の謎
    ②『或るギリシア棺の謎』(2021年2月刊行)・長編
    ③『或るアメリカ銃の謎』(2022年7月刊行)・中編集
    収録作品:或るアメリカ銃の謎/或るシャム双子の謎
    ④『或るスペイン岬の謎』(2023年8月刊行)・中編集
    収録作品:或るチャイナ橙の謎/或るスペイン岬の謎/或るニッポン樫鳥の謎

     このように見てみると、2018年に短編「或るエジプト十字架の謎」が「ジャーロ」に掲載されてから、足かけ5年で、柄刀一は〈柄刀版・国名〉シリーズを完結させたことになります。原典と違って全て長編というわけではないにせよ、なんという充実度とペース……。しかもドンドン完成度を増していくのですから、素晴らしいのなんの。

     柄刀一の魅力は大きく分けて三つあると思っています。「一、奇跡とさえ見紛う鮮やかなトリック」「二、端正かつ綺麗なロジックの鋭さ」「三、生真面目な文章から時折こぼれだす詩情」の三つです。このうち例えば「一」が強調されたのが、『奇蹟審問官アーサー 神の手の不可能殺人』(講談社ノベルス)における、まさに透明な神の手が首を絞めたとしか思えない鮮やか過ぎる不可能犯罪であったり、『fの魔弾』(光文社文庫)における、カーター・ディクスン『ユダの窓』を現代の住居で再現する、コロンブスの卵のような発想だったりするわけです。「一」と「三」が絡み合えば、SF的な世界観の中で詩情とトリックが絶妙に溶け合う、『アリア系銀河鉄道』『ゴーレムの檻』(いずれも光文社文庫)の〈三月宇佐見のお茶の会〉シリーズが生まれます。

     しかし、「二」のロジックの魅力も素晴らしいことを忘れてはなりません。〈柄刀版・国名〉シリーズでも主演を務める名探偵・南美希風のデビュー戦となった「イエローロード」(『OZの迷宮』〈光文社文庫〉収録)は、被害者のポケットに入っていた五十枚の十円玉という手掛かりから、論理だけで犯人に辿り着くロジック短編のマスターピースですし、『火の神アグニの熱い夏』(光文社文庫)は手掛かりを収束させる端正なロジックが魅力的な長編です(200ページ弱という長さも良い)。「見られていた密室」(『紳士ならざる者の心理学』〈祥伝社文庫〉収録)のように、「密室の中で被害者がダイイングメッセージを書いていることに犯人が気付いてしまったが、密室にしてしまったので入れない、どうするか?」というシチュエーションの中で、「見られていることを意識している被害者」と、「ダイイングメッセージの意味を推理したうえで探偵の解読を防ごうとする犯人」との心理戦を、ロジックだけで読み解いていく凄まじい作品もあります。これはダイイングメッセージ短編のオールタイムベスト。

     そんなわけで、ロジックにも並々ならぬこだわりを見せ、さらに高い完成度を誇る柄刀一が、エラリー・クイーンの〈国名〉シリーズに挑むというのは、私にとっては非常に納得のいくことだったのです。当然、新刊で出るたびに夢中になって読んでいましたが、今回はその完結を記念して、全作レビューを試みたいと思います。そしてこのシリーズ、クイーンの〈国名〉シリーズのどの部分をオマージュして、どこを外すか、という取捨選択が非常にユニークで面白いので、そういう部分の気付きも、ネタバレにならない程度に触れていきます。いずれクイーンと柄刀、両者のネタバレありで語れる場で、もっと精化してみたい気もしますが。以下で「原典」というのは、全て、エラリー・クイーンの〈国名〉シリーズのことを指すとお考え下さい。

    〇各作品の解題へ

    『或るエジプト十字架の謎』(2019年5月刊行/2022年文庫化)・短編集
    収録作品:或るローマ帽子の謎/或るフランス白粉の謎/或るオランダ靴の謎/或るエジプト十字架の謎

     第一弾です。「ジャーロ」での掲載順でいえば、原典の順番と逆に、エジプト→オランダ(64号)→フランス(67号)→ローマ(単行本刊行時に書き下ろし)と書かれていったのがちょっと面白いところ。

    「或るローマ帽子の謎」は、現場がトランクルームである時点で、劇場が舞台だった原典とはもちろん異なりますが、密室と帽子という取り合わせは原典通り。それどころか、帽子と頭部への執拗なこだわりは、原典よりも強烈かもしれません。最後に明かされる「なぜ?」の切れ味が好み。

    「或るフランス白粉の謎」は、白い粉が舞う殺人現場が舞台ですが、原典『フランス白粉の謎』を知っている人間は、恐らく開幕からニヤニヤすることになると思います。ちなみに原典『フランス白粉の謎』は、パートごとにエラリーの推理を少しずつ楽しむことが出来て、全編が楽しいので、クイーン作品の中でもかなり好きな一作です。

    「或るオランダ靴の謎」は、原典のように病院が舞台――というわけではありませんが、スニーカーや木靴、足跡などが入り乱れる点で、原典よりも「靴」に淫した作品であるといえるでしょう。原典『オランダ靴の謎』の魅力は、一足の靴の分析から犯人の属性を割り出してしまうロジックの鮮やかさと、第二の殺人にまつわる「ある物証」に基づく一発限定の鮮やかさにあると思いますが、「或るオランダ靴の謎」では、この段階で既に原典の『ギリシア棺の謎』のような趣向まで取り込んだうえで、かなりひねった一発限定ロジックを見せてくれるので嬉しくなってしまいます。「操りの構図」を作品内に取り入れてしまうと、推理の複雑さがインフレ化して、手掛かりが本物か偽物か判定するロジックを案出するのが難しくなってしまうのですが、この点で何度読んでも唸ってしまうのが麻耶雄嵩『隻眼の少女』(文春文庫)の最後の詰め。それとは別のアプローチで、しかし「操りの構図」における手掛かりの真贋判定の型のうち、有名かつ効果的なパターンを潰しているのが「或るオランダ靴」の靴だと思っています。細かく分類したらもっとあると思いますけど……。

    「或るエジプト十字架の謎」は、原典と同じように、被害者が「T」字型のエジプト十字架の姿勢を取っている、という謎が扱われていますが、その部分の処理については原典以上かもしれません。首の切断によって人を十字架にかけた時「T」の形になる……という点は原典と同じなのですが、原典では極論、首切りだけが必要であって、人を十字架に括り付ける部分は「演出」の一部であると言えます。ところが、「或るエジプト十字架の謎」は、なぜ死体が「T」の形であったか、という点に理屈をつけ、さらにそれをロジックに繋げてしまったのです。器用だなあ、こういうところ。

    『或るギリシア棺の謎』(2021年2月刊行)・長編

     本シリーズで唯一の長編作品。こんなにもレベルが高く、かつ、執拗なまでの論理的推理を構築する人間がまだいたとは……というのが『或るギリシア棺の謎』に対する率直な感想です。正直に言って、読み通すのは相当大変な一冊でした。一週間くらい、メモ取りながら少しずつ読み進めていった記憶があります。

     原典『ギリシア棺の謎』も、若きエラリーの事件、という特性がくっついていることもあり、エラリーが推理を構築し、それが瓦解し、また新しい展開が起こる……という流れを三回繰り返し、四回目にようやく真実に辿り着く「多重解決」の趣向を取り入れている作品でした。「操りの構図」や、それに伴う「真の手掛かり/偽の手掛かりをいかに判別するか?」という問題まで含めて、「後期クイーン問題」を取り扱う際に、必ずマイルストーンとなる一作であるわけです。

     しかし、『ギリシア棺の謎』は、推理の構築→瓦解の瞬間がいずれもダイナミックに描かれるため、なんというか、エラリーも派手にすっころびますし、「多重解決」というものに現代ミステリーのおかげでだいぶ慣れていた中学生時代の私でも、振り落とされずに楽しむことが出来た記憶があります。

     一方、『或るギリシア棺の謎』は推理とその瓦解、再構築がシームレスに、それも複雑に絡み合いながら行われるという印象が強く、それだけに、推理を丁寧に追いかける胆力が求められます。ただ、その構築性の高さから、粘り腰で丹念に追いかける価値のある一作だと思っています。

     それにしても、タイプライターまでオマージュとして登場するあたり、本当に柄刀一はクイーンが好きだなあ……。また、「白」と「黒」の伝承的な力によって、正義と悪、双方が生まれる一族という設定や、とあるものが視える少女・千理愛の設定などに、柄刀一の詩情が覗いている気がします。

    『或るアメリカ銃の謎』(2022年7月刊行)・中編集
    収録作品:或るアメリカ銃の謎/或るシャム双子の謎

     本書については、2022年8月に更新した第41回でも言及していますが、今回は特集なのでさらに突っ込んだことを書いておこうと思います。

    「或るアメリカ銃の謎」は、シチュエーションとして分かりやすい、原典における「ロデオ場での衆人環視下での殺人」であるとか、「二万人の容疑者からたった一人を特定するロジック」という方向性にはまったくいかず、愛知県のアメリカ領事私邸で起きた謎の射殺事件、という一見すると地味な道具立てになっています。しかし、原典『アメリカ銃の謎』の勘所を、「極小レベルの偶然をロジックに組み込む」という部分に求めるとするなら、柄刀のアプローチも、これを意想外の方向に膨らませたものといっていいでしょう。そこに日本が舞台であるからこそ組み込める、意外な手掛かりの妙を織り込んでいるのも面白いところ。

    「或るシャム双子の謎」は、原典における「山火事によって探偵も関係者も全員が危機に見舞われる」というプロットそのものと「ダイイングメッセージ」の要素を生かしています。原典『シャム双子の謎』は、私がクイーンで一番好きな作品で、あんな状況でも名探偵をするエラリーだったり、キレッキレのダイイングメッセージの趣向だったり、未だに何度読んでも面白い作品なのですが、「或るシャム双子の謎」では、クローズドサークルを琵琶湖周辺として、広く設定することによるドラマと、災害による悲劇の重さが強調されています。このクローズドサークルの設定自体が犯人当てにも生きてきますし、この「犯人の条件」の二回転半ひねりみたいな着想の巧さが好きです。原典との距離感と、オリジナリティの付与のバランスの意味では、やはりこの「或るシャム双子の謎」が一番好きかも。

     また、このあたりから顕著になってきますが、〈柄刀版・国名〉シリーズでは、その時々に題材としている原典(今回でいうと、アメリカ、シャム)以外の〈国名〉シリーズ作品の要素を、組み合わせながら巧く使っているという印象があります。このマッシュアップ、リミックスの部分も、どう作っていったのか想像しながら読むと楽しいです。

    『或るスペイン岬の謎』(2023年8月刊行)・中編集
    収録作品:或るチャイナ橙の謎/或るスペイン岬の謎/或るニッポン樫鳥の謎

     さて、最新刊です。最新刊にして最高傑作となっているのは、もうさすがとしか言いようがないでしょう。

     まず「或るチャイナ橙の謎」。原典との(明示された)類似点は、もちろん「部屋の中のものがさかさまにされている」という点と、現場が密室である点です。このうち「さかさま」の謎については、多くの後続ミステリーを生み出していて、法月綸太郎「中国蝸牛の謎」(『法月綸太郎の功績』〈講談社文庫〉収録)、東川篤哉「魔法使いとさかさまの部屋」(『魔法使いは完全犯罪の夢を見るか?』〈文春文庫〉収録)などがありますし、漫画では「名探偵コナン」の52巻にも同様のエピソードがあります(アニメ版のタイトルは「ひっくり返った結末」)。それぞれの作品が、「さかさまの部屋」の謎をアレンジして、「なぜさかさまにしたか?」という点に様々な必然性を付け加えているのですが、柄刀の作品もまた、別の方向性を希求しているのです。結末で殺人現場の謎が全て解き明かされた時に、このエピソードではもう一つ、「チャイナ」原典の本歌取りがなされていたことに、読者は初めて気付く――という仕掛け。粋です。

     次に「或るスペイン岬の謎」。原典の本歌取り箇所はもちろん、「被害者の衣服が全て脱がされていたのはなぜか」という謎です。日本での本歌取り例としてはとりあえず、有栖川有栖「菩提樹荘の殺人」(『菩提樹荘の殺人』〈文春文庫〉収録)、東川篤哉「南の島の殺人」(『中途半端な密室』〈光文社文庫〉収録)などが思い浮かぶところ(また東川作品だ……こうして考えると、やっぱり律儀に色々やってるなあ)。ドラマでは「古畑任三郎」「笑うカンガルー」も『スペイン岬』オマージュでしょう(陣内孝則が犯人の回)。「或るスペイン岬の謎」では、「被害者の衣服を奪う理由」の分類までなされているのがユニークですが、ここの部分の必然性は、原典にも匹敵するほど鮮やか。必然性があるのはもちろんなんですが、犯人当てとも直結しているので、余計に印象が良いんですよね。

     最後を飾るのは「或るニッポン樫鳥の謎」。原典である『ニッポン樫鳥の謎』は、原題では “The Door Between” であり、邦題が国名シリーズのようになっているだけなので、厳密には原典の国名シリーズは九作という向きもありますが(角川文庫の新訳の際には、『中途の家』を含めて〈国名シリーズプラスワン〉という惹句で復刊されました。『中途の家』は、たとえていうなら『スウェーデン燐寸マッチの謎』と名付けられるような、マッチのロジックが綺麗な作品なので、納得ではあります)、まあそういう経緯も込みで、日本人があえて「国名シリーズ」をやるのであれば、経緯込みで押さえておきたい書名の一つ。

     と、前置きが長くなりましたが、ここでは原典と、「或るニッポン樫鳥の謎」に共通するエピソードを丁寧に拾ってみたいと思います。柄刀作品の根本的なネタバレに踏み込むわけではないので、お許しを。

     さて、まずは原典から引用してきます。『ニッポン樫鳥の謎』の13節において、クイーンはある「実験」を行います。月曜日に石を放り込まれて窓が壊れたことが、事件に関連しているのかどうか。格子がついているのに、それをすり抜けて窓を割れるのかどうか。石を何度も投げて実験する、というくだりです。189~192ページが該当のシーンですが、一部を抜粋します。

    〝三たび、石ははねかえり、窓は壊れなかった。四度、五度……。
    「ちきしょう」と、テリーはいまいましそうにいった。「とうていやれないよ」
    「しかもなおかつ」と、エラリーは考えこむような口調でいった。「やれたのだ」
     テリーは上着をとりあげた。「だれかが、あの格子のあいだをくぐり抜けるようにねらって、石をほうったなんて、そんなことは、ぼくには信じられないよ。きみがいい出さなかったら、ぼくはやってもみなかったろう。二本の格子のあいだをうまく石がくぐり抜けるとしても、両側に半インチそこそこの余裕しか残らないものね」
    「そうだ」と、エラリーはいった。「きみのいうとおりだ」
    「大トレーンだって、できっこなしだ」
    「そうだ」と、エラリーはいった。「ジョンソン君にだって、できるとは思えない」
    「ティズにだってできない」
    「ディーン君にだって。そこでだ」と、エラリーはまゆをしかめながらいった。「この実験はあることを証明している」
    「そうさ」と、テリーは帽子をぐいとかぶりながらあざけるようにいった。「石は、こんどの殺人には、なんの関係もないことを証明している。ぼくは、月曜日の午後から知っていたよ」〟(『ニッポン樫鳥の謎』〈創元推理文庫〉、p.191~192)

    「大トレーン」から「ディーン君」までの名は、いずれも当時のメジャーリーガーの名前です。そういう人にだって、あの窓は意図的に割れたわけがない。だから偶然であり、事件とは無関係だ、という論理ですね。このどうってことないエピソードを、私がやたらと覚えていたのには、理由があります。この箇所は、有栖川有栖「四分間では短すぎる」(『江神二郎の洞察』〈創元推理文庫〉収録)において言及されているのです。

     有栖川の短編の主題は、ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」の本歌取りと、松本清張『点と線』における〈空白の四分間〉の謎に対する批評的な視点の提示にあると思われるのですが、〈空白の四分間〉は偶然に過ぎないだろう、不自然だ、という理屈を述べる前に、『ニッポン樫鳥』を引用するわけです。部員の一人、織田が一週間前に読んだ『ニッポン樫鳥』について、学生アリスや望月らと会話するパートです。エラリーが行う石投げの実験の結果はどうだった? とアリスが問われて、答える部分から、

    〝「なんぼやっても、はずれるんです。大リーグのエースが投げても当たるもんやない、というのが実験の結果でした」
    「正解。そこからエラリーが導いた結論は、〈犯人が意図してガラスを割った、ということはあり得ない。ガラスが割れたのは事件と無関係だ〉。実に論理的やな。万人を納得させるロジックや」〟(「四分間では短すぎる」より。『江神二郎の洞察』〈創元推理文庫〉p.204)

     このあと、織田たちはこの理屈を『点と線』にあてはめるわけですが、そこは『点と線』のネタバレにあたるので割愛。これを読んだのは『江神二郎の洞察』単行本刊行時の2012年、高校生の頃でしたが、原典を読むだけでは忘れがちなこの部分を、「実に論理的」と評しているのが妙に心に残って、未だに覚えているという次第。

     さて、ここでようやく、柄刀版『ニッポン』に話が戻ります。この話を踏まえると分かってもらえると思うのですが……実は柄刀版でも、この「石とガラス窓」のエピソードが印象的に登場するのです。

     しかし、その扱いと解釈は、有栖川のものとは真逆をいっているように思えます。「極小レベルの可能性は、偶然として無視して良い――これが論理である」と表現するのが有栖川の解釈であるなら、「極小レベルの可能性が眼前で行われたならば――それは奇蹟である」とするのが柄刀の解釈といえるでしょう。柄刀の魅力として挙げた三つの項目のうち、「生真面目な文章から時折こぼれだす詩情」の部分が、最後にこぼれてくるのです。

     森そのものに抱かれるような、詩情あふれる結末を含めて、これぞまさしく柄刀のロマン、という終わり方にはため息が漏れます。あ、もちろん、「或るニッポン樫鳥の謎」に出てくる密室トリックも、他で全く見たことがない構成要素によるものでとても面白いんですよ。その点も含めて、注目です。

    (2023年9月)

第64回2023.09.08
全員信用ならないなあ…… ~作家小説大豊作~

  • トゥルー・クライム・ストーリー、書影

    ジョセフ・ノックス
    『トゥルー・クライム・ストーリー』
    (新潮文庫)

  • 〇少し早めの告知から

     9月22日発売の「小説新潮10月号」に、シリーズ短編「そして誰にも共感出来なかった 迷探偵・夢見灯の読書会」が掲載される予定です。これは今年の「2月号」から始めたシリーズの第二弾ですね。大学生の夢見灯が読書会を開くと、その読書会の課題本に似た事件が起こる「夢」に取り込まれることになり、その事件の謎を解くまで夢から醒めることが出来ない……という設定のミステリー。

     第二弾の課題本は、タイトルで雰囲気が伝わるかもしれませんが、アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ・ミステリ文庫)です。十人が孤島に行って全員死ぬ……という謎を、短編で再現する関係で四人に限定しましたが、それでもかなり慌ただしい殺人劇となってしまいました。このシリーズでは古典ミステリー等々のオマージュを色々実験していきたいので、引き続き頑張っていきます。

    〇『レーエンデ国物語』の話題から

     第59回で特集しました、多崎礼の新シリーズ『レーエンデ国物語』ですが、去る8月に第2巻『レーエンデ国物語 月と太陽』(講談社)が刊行されました。第59回でも、このシリーズは新刊が出るたびに感想を書く、と予告していましたので、公約通りまずはその感想を。

     第1作から時代はくだり、今回は名家の少年・ルチアーノと怪力無双の少女・テッサ、この二人の視点で物語が進んでいきます。ルチアーノは屋敷を襲撃され、村に流れ着き、そこでテッサをはじめ大切な人たちに出会うことになりますが、そこにも魔の手が忍び寄る。一方、テッサは戦場に出て、戦いの世界に身を投じていく。互いに深く思い合って、結婚の約束をしながらも、別の道を歩み始めた二人の人生が、ある事件をきっかけにまた交錯してしまうという、序盤の筋運びからして熟達の風格ですが、中盤~終盤にかけて、「革命」の物語が激しくなっていくところで私は大興奮。

     凄い話です。第1巻『レーエンデ国物語』が、苛烈な運命を描いた話でありながら、ファンタジー世界が内包する宝石のような美しさを宿した、いわば「過酷なおとぎ話」の輝きをたたえていたとすれば、第2巻『月と太陽』は真っ赤な色で塗りたくられた、「戦争」と「革命」の物語として、大きく舵を切っているのです(帯に「大人のための王道ファンタジー」と謳われているのは、これが理由でしょうか)。共通の世界観を持ちながら、その目指すところが全く違う。

     7月にMRC(メフィスト・リーダーズ・クラブ)で開催されたトークショーにおいて、著者は、昨今のウクライナ情勢を見ながら、第2巻の展開について思い悩んだことを話していましたが、その懊悩にも納得のいくような過激な展開を、『月と太陽』は見せていきます。本を読んでここまで暗澹たる気持ちになったのは久しぶりですが、それだけに、この先の物語をもっと見届けたいという気持ちも強くなりました。

     ……というか! もうここまできたら、早く次を読ませてくれッ! このままではあまりにつらすぎるよ!

    〇「作家小説」が揃いました

     さて、今月の新刊ですが、奇妙なことに「作家小説」が三冊も大集合。これも自分なりの用語ですが、「作家が作中に作家(自分の分身であったり、あるいは自分自身であったり)を登場させるメタフィクショナルな小説」という意味で使っています。この回では、現実の作者自身を指す場合は「著者」、作中に登場する小説家のキャラクターを指す場合は「作家」と呼んで区別していこうと思います。取り上げる作品三冊のリストを先に掲げておくと、

    ・ギヨーム・ミュッソ『人生は小説ロマン』(集英社文庫)
    ・最東対地『花怪壇』(光文社)
    ・ジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』(新潮文庫)

     ではまずは、ギヨーム・ミュッソ『人生は小説ロマン 』(集英社文庫)から。近年、集英社文庫から精力的に邦訳され、同社でのミュッソ紹介はこれが五作品目となります(以前、小学館文庫や潮文庫で訳されていたことがあります)。ミュッソは以前から、読者の鼻面を引きずり回すような語りの魅力が素晴らしく、あれよあれよと凄い地点まで連れていかれる『ブルックリンの少女』や、ラブコメ要素と美術ミステリーを追加した『パリのアパルトマン』など、面白い作品が目白押しでした。そして2020年に邦訳された『作家の秘められた人生』が、断筆宣言した作家の謎を巡るミステリーだったので、この人は「作家小説」も絶妙だなと思っていたのです。

     そして『人生は小説ロマン』もまた、「作家小説」の逸品なのです。本作に登場するのは、『迷宮ラビリンスにいる少女』という作品で一躍有名になり、フランツ・カフカ賞を受賞するに至った小説家、フローラ・コンウェイ。彼女は人前に出るのを好まず、対外的には「社会不安障害」を抱えていると説明をしている……という設定ですが、ニューヨークの自宅において彼女の娘が突如として姿を消し、誘拐疑惑が立ち上がるのが序盤の展開。その事件のカギを握るのは、パリに住むベストセラー作家、ロマン・オゾルスキ。しかし、なぜ、遠く離れた場所に住むロマンが、鍵を握っているのか? その趣向こそが、本書の最大のキモなのです。

    「メタフィクショナルな構造が、互いの尾を噛むウロボロスの蛇のように絡み合う逸品」――ということも出来ますし、「限りなく読者を馬鹿にし、煙に巻いた、最後の最後まで愉快なケッサク」ということも出来るのがこの作品です。個人的には大いにハマってしまって、ラストシーンにも妙な感動を覚えてしまったのが非常に悔しい。また、フローラ・コンウェイのパートにおいて、「ライター・ショップ」という、作家由来の品物や遺品を売る謎のショップが登場するのですが、その店の設定と、売られている品物のリストがめちゃくちゃ面白い。ウラジーミル・ナボコフのモルヒネ注射アンプルでしばらく笑っていました。誰が買うんだ。

     ミュッソには引用癖もあり、章の頭には必ずと言っていいほど引用句が取られていて、今作でもレイ・ブラッドベリや村上春樹(!?)など錚々たるメンツが登場するのですが(ただし、引用元の作品などは示されていないので、探すのは難しい。村上春樹だけは、『職業としての小説家』〈新潮文庫〉からの引用であると明かされています)、本作は最初の引用と最後の引用がジョルジュ・シムノンになっているというのが美しい。シムノンの言葉がラストの「謎の感動」に、また良い味を加えてくれるのです。

    〇「作家登場」ホラーミステリー、異形の進化形

     次に紹介するのは最東対地『花怪壇』(光文社)。恥ずかしながら著者の作品を読むのは初めてでしたが、趣向に淫したメタフィクショナルな試みに大満足しました。本作には、作家「最東対地」がその名前のまま登場し、大阪の夜凪を舞台にしたホラー小説を書こうと取材をしていきます。夜凪とは、大阪に五つある色街のことで、序盤は章ごとに「各夜凪の特徴を記した見開きのパート」「作家・最東対地による取材等のパート」「取材により収集した色街にまつわる怪談のパート」の三部構成を何度も反復していくことになります。この反復により、次第に虚実の境が曖昧になっていく読み味がまずたまらない。

     また、作家・最東対地パートでは、取材のシーンだけでなく、編集者との打ち合わせパートや友人作家との飲み会のパートなど、限りなく著者自身の現実に近いのかもしれない――と思わせるような会話劇が多く挿入され、なおさら虚実の境目を曖昧にしていきます。帯に推薦文を書いている今村昌弘、織守きょうや、清水朔、額賀澪らが、名前を改変されて登場するくだりなどは、悪い笑いが込み上げてきますね。

     そのように、ホラーや怪談というよりはブラックユーモアの気配すら感じながら読み進めていくと、ある部分で現実の底が抜け、輪をかけてメタフィクショナルな趣向と、薄ら寒い感覚を絶えず喚起される意外な展開が待ち受けます。ここのスリルが素晴らしい。そこまできたら、もういよいよページを捲る手は止められず、ラストまで一直線に楽しめます。

     日本では三津田信三の諸作、例えば『蛇棺葬』『百蛇堂 怪談作家の語る話』(いずれも講談社文庫)や、あるいは澤村伊智『恐怖小説キリカ』(講談社文庫)などで試みられていた、著者自身あるいは著者を投影した作家が作中に登場することで、作品現実と我々の現実の境目を曖昧にし、読者を恐怖に引きずり込むメタフィクショナルな趣向――その最新形が、『花怪壇』といえるのではないでしょうか。いやあ、めちゃくちゃいいですよ、これ。特に作家は全員読むべきですね。そして光文社と付き合いのある人間も読むべき。知ってる人が出て来るよ。

    〇いくところまでいっちゃった、究極形の「作家小説」

     そして今回のトリを飾るのは、ジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』(新潮文庫)です。2021年に邦訳された『スリーブウォーカー』の解説を書かせていただいた時、原書の情報だけを聞いていたので、ずっと期待しながら待っていたのですが、いやあ、期待を裏切らない……変な本だ!(笑)

     本作『トゥルー・クライム・ストーリー』は、ジョセフ・ノックス自身も登場する犯罪ノンフィクション――という「体」を取った、著者の最新作です。作中で描かれるのは、女子大学生ゾーイ・ノーランの失踪事件。ゾーイはなぜ失踪したのか、誰が関与しているのか、犯人は誰なのか。その謎を探るため、ジョセフ・ノックスの友人である作家イヴリン・ミッチェルは取材に乗り出します。本書は、「イヴリンが聴取した事件関係者のインタビュー」と「イヴリンとノックスによるメールのやり取り」、そして「ジョセフ・ノックスが読者に向けて書いたパート」などで構成されており、一見無味乾燥な記録のみから構成されるという点では、昨年集英社文庫から刊行された本格ミステリー、ジャニス・ハレット『ポピーのためにできること』を思い出させる作風です。

     しかし、『ポピーのためにできること』とは一つ、明瞭に違う点があります。『ポピーのためにできること』は、「事件が起こる前」のメールのやり取りにより構成されていましたが、『トゥルー・クライム・ストーリー』は「事件が起こった後」のインタビューによって構成されていることです。これはミステリーにおいては重要な意味を持ちます。「事件が起こる前」の出来事では、登場人物たちが嘘をつくはずがないからです(ただし例外はあり、見栄を張りたかったり、隠し事をしたいなどの理由があって、その人物が日常的に嘘をついている可能性はあります)。まだ事件は起きていないですし――まして、メールなどという個人的なものを後から覗かれるとは思わないわけですから――なおさら、変な噓をつく必要はありません。だからこそ、『ポピー~』の読み心地はむしろ、噓か本当かを見破っていくというよりも、無味乾燥な記録の中に読者が意味を見いだしていき、まだ見ぬ事件を想像し紡いでいくところにあります。積極的な態度が求められてしまうわけです。

     一方、『トゥルー・クライム・ストーリー』における「インタビュー」は、「事件が起こった後」に語られた話であり、登場人物たちは自分の正当性を主張するために、自分は間違っていなかったと納得するために、あるいは体裁を気にするがゆえに、インタビュアーに対して嘘をつきます。だからこそ読者は、情報のタペストリーを提示されながら、同時に「この人物が言っているのは本当なのか? 嘘なのか?」を絶えず考えることになります。

     普通なら、真偽の判別を含む点で、情報量としてはこちらの方が多く、脳負荷がかかるはずなのですが、そうはなりません。なぜなら、この形式を用いることによって、著者は読者の「予断」を自由に操作することが出来、その「予断」によって「読み味」を提示することが出来るからです。疑惑の濃淡や情報の繋がりによって、読者がこの記録をどう読めばいいか、誘導してしまう……これが巧いのです。『ポピーのためにできること』が「読み解く」体験だとするなら、『トゥルー・クライム・ストーリー』は「読まされてしまう」体験ということが出来るでしょう。

     とはいえ、これだけならこれまでのインタビュー小説と変わりません。インタビューの中から登場人物たちの関係性を起ち上げ、真相に迫っていく作品として、ヒラリー・ウォー『この町の誰かが』(創元推理文庫)、恩田陸『ユージニア』(角川文庫)『Q&A』(幻冬舎文庫)、近年ではホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(創元推理文庫)などが挙げられますが、『トゥルー・クライム・ストーリー』がこれら先行作品に比べてよりスリリングなのは、作家であるジョセフ・ノックスですら信頼出来るかどうか分からない、という点です。『トゥルー・クライム・ストーリー』は、そもそもわれわれ読者が手にしている作品は「第二版」であり、「第一版」では省かれていた本件に対するジョセフ・ノックス氏の関わりについても描写を追加したものだ、と冒頭で宣言されるのです。しかも、この本を出した出版社が、もうこれを機にノックスとは仕事をしないと突っぱねるというおまけつき。このように、作家自身が事件に対する利害関係者であることが明かされることによって、そもそも正しい情報を作家が提供しているのかどうか、情報の取捨選択が行われているのではないか、という疑惑が絶えず惹起されるようになります。ジョセフとイヴリンのやり取りが、ジョセフによって一部が黒塗りされ、検閲の印象を与えるのもその疑惑を強めています。

     ただでさえ嘘をついている可能性が高い事件関係者たちと、一ミリも信用できない異常作家。そんな話を700ページ近く読まされて面白いのか? と思われるかもしれませんが、これが、面白いんですよねえ、たまらなく。疑惑の方向性を作者が絶えずいじくりまわして、失踪事件が起こる前の人間関係でも、不穏な事件をたくさん起こしてくれるので、飽きずに読み進めることが出来ますし、終盤できっちり意外な犯人も出て来るのでミステリーとしても満足度が高い。

     というわけで、本作、非常にオススメです。偏愛度だけでいえば、ギヨーム・ミュッソ『人生は小説ロマン』は今年のイチオシ偏愛作ですが、それにプラスして完成度も高いのがジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』という感じです。今年一番面白い小説は人によって割れそうな年ですが、今年一番好きな海外ミステリーはノックスになりそうな予感!

     ……それにしても、巻末の作品リストを見る限り、2021年に『トゥルー・クライム・ストーリー』の原書を発表して以来、ノックスは本国でも作品をまだ出していないようなのですが……この次はどうするつもりなんだろう。それとも、これが最後みたいな覚悟で書いているのかな……いやあ、でもジョセフ・ノックス、やっぱりビシバシミステリーセンスを感じる人だし、もっと読ませてほしいよ、ほんと……。

    (2023年9月)

第63回2023.08.25
翻訳ミステリー特集・2023年版 後半戦 ~シビれるような「名探偵」~

  • 処刑台広場の女、書影

    マーティン・エドワーズ
    『処刑台広場の女』
    (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 〇宣伝から

     今月、小学館の雑誌「STORY BOX」が紙版最終号を迎えます。自分が初めて「書評」を依頼された媒体だけに、なんだかさみしい思いです。10月号を休刊とし、11月号からはWEBで再始動ということで、動向にも注目、ですね。

     そんな紙版最終号にどうにか間に合ったのが、新シリーズ〈特別養護老人ホーム・隅野苑〉の第一話「回廊の死角」。特別養護老人ホームに入居している由比等隴人ゆいとう・ろうじんという男は認知症を抱えているのですが、事件の謎を投げ掛けるやいなや、安楽椅子探偵に変貌するという趣向です。第一話では病院内で発生した殺人事件の謎を聞いただけで解き明かします。安楽椅子探偵をシリーズでやるのはこれが初めてですが、かなり難しいなあと悪戦苦闘しました。あと何話かは書かないといけないわけですが……。

    〇前置き

     今回は本題に入る前に、何作かメディア・ミステリーの話もしたいので、先にこちらで、メインで取り上げる作品のリストを掲載します。

    ・千街晶之『ミステリ映像の最前線 原作と映像の交叉光線クロスライト』(書肆侃侃房)/同 『原作と映像の交叉光線クロスライト ミステリ映像の現在形』(東京創元社)
    ・TVドラマ「ラストマン-全盲の捜査官-」(TBS系列)
    ・ゲーム「超探偵事件簿 レインコード」(スパイク・チュンソフト)
    ・蔡駿『忘却の河』(竹書房文庫)/同『幽霊ホテルからの手紙』(文藝春秋)
    ・スティーヴン・キング『異能機関』(文藝春秋)
    ・デイヴィッド・ギルマン『イングリッシュマン 復讐のロシア』(ハヤカワ文庫NV)
    ・マーティン・エドワーズ『処刑台広場の女』(ハヤカワ・ミステリ文庫)/同『探偵小説の黄金時代』(国書刊行会)

    〇メディアミステリーの話題から

     去る7月、千街晶之『ミステリ映像の最前線 原作と映像の交叉光線クロスライト』(書肆侃侃房)が刊行されました。2014年に刊行された千街晶之『原作と映像の交叉光線クロスライト ミステリ映像の現在形』(東京創元社)の続編にあたる作品です。第二作を『最前線』、第一作を『現在形』と以下では簡略化して表記します。

    『現在形』は「ミステリーズ!」vol.23~49に連載した評論に書き下ろしを加えたもので、2000年代以降の映像ミステリー作品に焦点を当て、その細部に注目した絵解きになっています。中でも、私自身、作品を見て大いに興奮したアニメ「UN-GO」(坂口安吾『明治開化 安吾捕物帖』だけでなく、短編「アンゴウ」「選挙殺人事件」「白痴」、未刊の長編『復員殺人事件』をも原案としている)について、その詳細な分析と魅力を解体しているのに興奮させられましたし、映画「告白」(湊かなえ『告白』が原作)のような、原作とあまりにかけ離れた作品でも、その意図を明確に読み解く姿勢に感動したのです。この『現在形』において、著者は自らの姿勢を次のように述べています。

    〝原作と映像を比較する際は、普通なら見落とされそうな細部に出来る限り注目することにした。細部の改変にこそ、映像化に関わったクリエイターたちの意図が籠められている可能性があると考えたからである。そして、そのような細部の改変の積み重ねから浮かび上がってくるものを、ミステリにおける探偵のように緻密に読み解いてゆきたい……というのが本書における私の挑戦である。〟(『原作と映像の交叉光線 ミステリ映像の現在形』「まえがき」、p.4~5より)

     もう、めちゃくちゃかっこよくないですか?(語彙の消失)

    ……というオタク的感想はさておき、この「細部」に注目するこだわりが、この一連の論考を刺激的なものにしているのだと思います。この姿勢は第二作『最前線』でも明瞭に受け継がれています。こちらは探偵小説研究会の同人誌「CRITICA」に掲載された原稿をまとめたものなので、まとめて読めるのが貴重で嬉しい限り(私も何号かは所持していますが、文学フリマに行けずに買い逃した号もあります)。

     第二作『最前線』の一つの目玉は、麻耶雄嵩『貴族探偵』『貴族探偵対女探偵』(集英社文庫)を原作とした「月9」ドラマ「貴族探偵」に関する論考「探偵と呼ばれる資格」でしょう。いま一番信頼出来るミステリー映像脚本家である黒岩勉が脚本家である時点で、私は大喜びで見ていたのですが、期待を全く裏切らない原作の換骨奪胎ぶりに舌を巻いていました。とはいえ、私の注目は短編「こうもり」と「幣もとりあへず」の映像化という「困難だろうなぁ」と思ったものにだけ向けられていたのも確か。ところがこの原稿では、全てのエピソードについて、追加された謎や手掛かりを明瞭に読み解いていくのです。

     同じような感動を覚えたところでいうと、「悪魔が来りて笛を吹く」について論じた「禁忌と境界」で書かれた「訛り」の手掛かりでしょうか。この部分、確かに映像で見た時に、あぁ、なるほどと思ったのですが、きっちり言語化出来ていなかったので、論考を読むまで思い出すことが出来ませんでした。『屍人荘の殺人』の映画で、映像だからこそ示せる手掛かりとして置かれたあるシーンの意図とか、改変だったと言われるまで全然気付いていなかったし……アニメ「ジョーカー・ゲーム」についても、柳広司の原作を読んでからだいぶ間が空いて視聴したので、「なんだか変な建付けのアニメだな」と一話で感じたのですが、その違和感の理由が説明されていて、過去の自分の感覚を謎解きしてもらった気分。アニメにも映像にも、とにかくミステリーにどっぷり浸かっている私にとって、これ以上ないほど面白い本ですし、紹介されている映像作品をどんどん見たくなってしまいます。「サスペリア」リメイクの改変についての論考は、他にどこにもないのでは……?

     と、そんなわけで、千街晶之の『現在形』『最前線』に大いに触発されて、以下ではまず、6月に完結、発売された、二つのメディアミステリーを紹介してみます。これらは原作付きじゃないので、ただ私が語りたいだけなんですけどね。

    〇TVドラマ「ラストマン-全盲の捜査官-」について

     本作は、全盲のFBI捜査官・皆実広見(演じるのは福山雅治)とそのアテンドを命じられた警察庁人材交流企画室の室長・護道心太朗(演じるのは大泉洋)のバディを描いたミステリー連作でした。ハンディキャップを抱えた名探偵と、それを補佐する助手役という構図がジェフリー・ディーヴァーの〈リンカーン・ライム〉シリーズを思わせ、おまけに脚本が黒岩勉ということで大注目していた作品であり、その期待を全く裏切られなかった傑作。各話ごとの見所の作り方と、シリーズを通した時の登場人物たちの成長と繋がりの描き方の按配が見事で、毎話ため息が漏れていました。

     ミステリー的な見どころは、皆実が大ファンである刑事ドラマの役者たちが事件に巻き込まれる3話のじっくりと腰を据えた消去法推理と、「エンタメ・どんでん返しの骨法全部盛り」といった風情の、立てこもり事件を描く6話あたりでしょうか。6話のどんでん返しって、ジェフリー・ディーヴァーの中編「トラブル・イン・マインド」をすごく思い出してそそられましたね。逆転の手法と、そのカギを画面の中にしっかり埋め込んでいるのが好きなんですよ。今田美桜演じる吾妻の過去に関わる、痴漢事件を扱った4話なども、現代を抉るミステリーとしての切れ味と、キャラクターを描く深度がぴったり一致していて素晴らしい。あとところどころ大泉洋が福山雅治のモノマネして笑かしてくるのやめて。

     連作としての白眉は、最終2話で解き明かされる、皆実と護道、二人の因縁にまつわる物語です。特に「なぜ階段の途中で二人の人物が揉み合っていたか?」という謎に対する解答はすごくスマートだと思うなあ。日本でも海外でも、あまたの「バディもの」が書かれてきた中で、こんな構図に辿り着いた作品が他にないという点でも、見逃すことが出来ない作品。私はもちろんBlu-rayを予約しました。

    〇ゲーム「超探偵事件簿 レインコード」について(どんな予断も持ちたくない人は、この節を飛ばしてください!)

     さて、蛇足ついでにもう一作。( )で書いておいたのは、まだ発売から2カ月ほどのゲームなので、自分でやりたくて、どんな種類の予断も持ちたくない人がいると思ったため。アドベンチャーゲームはどうしても時間かかりますからねー。ゲームシステムやキャストの情報はここでは割愛するので、各自公式サイトなどを参照してください。

     スパイク・チュンソフトの新作「超探偵事件簿 レインコード」は、〈ダンガンロンパ〉チームによる最新作。シナリオにはおなじみ小高和剛はもちろん、「ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期」では「トリック協力」の立場だった北山猛邦の名が、「メインシナリオ」のライターとしてしっかりクレジットされています。誤解を恐れずに言うならば、「ダンガンロンパ」には元々、生徒たちの特殊能力=「超高校級の〇〇」を使った「飛び道具」的な発想の魅力が、基礎としてのロジカルな推理の上にきちんと乗っかっていて、それがサイコポップな世界観と絶妙にマッチしていたのですが、北山猛邦が参加した途端、そこに「北山の物理トリック」の豪快な味わいがプラスされたと思うのです。「ニューダンガンロンパV3」3話の「籠密室」の面白さは何度でも強調していきたいし、小説『ダンガンロンパ霧切2』(星海社FICTIONS)がマジで面白いことも何度でも言っていきたい。『霧切3』も好きだぞ。

     で、「レインコード」なのですが、本作も北山本格が好きな人はやってほしいと思うんですよ。各話のタイトルがその趣向を表していたりして、事件の方向性を示してしまうので、厳密なネタバレを避けるとそこも書けないのですが……このゲーム、0話始まりで、その次の1話が……なんとね、四連続密室殺人事件の話なんですよ。それぞれの密室トリックは初級編くらいの難易度なのですが、推理ゲームとしての面白さを担保しながら、バリエーションの違う密室トリックを四つもプレゼンテーション出来るこのチームの強さよ。あとねえ、美術館の密室は……めちゃくちゃ気持ちいい。動きがある密室トリックって気持ちいいですよね。

     2話や、とあるエピソードでは「謎迷宮」という本作の根幹設定を使ったエモーショナルな「謎解き」の趣向を見せつけてくれますし(どれとは言えねえが、今回もミステリーゲームベストエピソード級の作品があった! いいぞ! 性格悪くて! このチームはこうでなくっちゃな!!!)、いつも大ちゃぶ台返しを繰り出されて興醒めしていた最終話さえも、今回は作中世界の義をしっかり通す話になっていて、感動を受け取って帰ることが出来ました。町一つ使ったプロットになっているおかげで、いつも空虚を掻っ切っている「陰謀論」が、スケールを備えて着地したという感触です。普段付き合いのある年上の人ほど、「ゲームはやらん!」と拒絶されてしまうのですが、このチームの作品はゲームだからこそ出来るミステリーの表現と演出に注力しているので毎回好きですね。ミステリーだと聞けばドラマでも漫画でもゲームでもアニメでも舞台でも飛んでいくのが私です。どうかしている。

     また、このチームの特徴として、「この謎を解くことに意味があるのか」「犯人を追い詰めることに理由があるのか」などの青臭い青春ミステリー的な悩みをどっぷり描いてくれるところがあって、「ダンガンロンパ」シリーズでは最後に梯子を外される時も多いのですが、今作「レインコード」は、主人公ユーマ・ココヘッドの苦悩と成長の物語として、最後まで首尾一貫してくれたのも大いに大満足。今年の私的「名探偵概念」ナンバーワンは、このユーマ・ココヘッド、もしくは……以下の「翻訳ミステリー特集」で最後に紹介する、彼女、で決まりでしょう。

    〇翻訳ミステリー特集・後半戦へ突入!

     さて、後半戦では、竹書房文庫から蔡駿『忘却の河』(竹書房文庫)を大プッシュ。純粋に作品の面白さだけなら、本年度のベストを獲れる作品だと思っています。第一部では1995年、名門高校の教師・申明シェンミンは学校での殺人事件に巻き込まれ、何者かに殺されてしまいます。彼は来世に転生する際、前世の記憶を忘れることが出来る〈孟婆湯もうばとう〉を飲もうとしますが、口に入れた瞬間、気持ち悪くなって吐いてしまう。すると転生後の彼の記憶はどうなったか? 彼は前世の記憶と現世の人格がまだら模様の如く共存する、不思議な天才小学生になってしまった……というのが基本設定。

     実は蔡駿は今年、『幽霊ホテルからの手紙』(文藝春秋)という作品も邦訳されていますが、『幽霊ホテル~』が本国で2004年に刊行されたのに対し(邦訳に使用されたのは2018年刊行の新版のようです)、『忘却の河』は2013年に刊行されているのです(邦訳に使用されたのは2018年のフランス語版)。『幽霊ホテルの手紙』自体も、ホテルに泊まった作家から送られた12通の手紙を少しずつ読むごとに、出来事の構図が変わっていくメタ・ホラーの良作で、私はかなり楽しんだのですが(作中で森村誠一『野性の証明』に言及された時は驚きましたが)、『忘却の河』の出来は『幽霊ホテル~』を圧倒的に凌駕しています。輪廻転生という現象の面白さもさることながら、上に紹介したあらすじは全て「申明」の目を通したものですが、この五部構成の小説では、語り手を少しずつスライドしながら、それぞれの視点で真相に迫っていくのです。「申明」とその生まれ変わりの少年の存在は、絶妙に宙ぶらりんにされながら、プロットを駆動していくという仕組み。この匙加減が巧妙なのです。

     また、『忘却の河』がフランス語から重訳された――という事情も、日本においては、ちょっと変わった味付けとして機能したと思います。というのも、輪廻転生をしたために前世の記憶と現世の存在が同居するようになった――という設定は、フランス・ミステリーにおける、アイデンディティーのスクラッチングと非常に相性がいいからです。つまり、『忘却の河』というのは、フランス・ミステリーが持つある種の魅力をたたえている作品だというのが、この形で読んだから分かった、というか……国を基準に作風を語るのは空虚に陥る場合もありますが、この感覚はちょっと面白いと思ったので書き残しておく次第です。また、フランス語翻訳チームが訳したせいなのか、登場人物たちの中国語読みが、見開きごとに初出ルビで振られていたのも、気遣いとして読みやすさに寄与していた気がします。

     そんな蔡駿、実は本国では「中国のスティーヴン・キング」と呼ばれているのですが、本家(本家?)スティーヴン・キングも、今年は新作が邦訳されています。『異能機関』(文藝春秋)がそれ。

    『異能機関』の主人公は、抜群の頭脳を持つ「神童」ルーク。彼には頭の良さだけでなく、もう一つ特殊な能力があった。手を触れずに、小さなものを動かしてしまうのだ。他人に気付かれるほどでもない能力だったが、彼は突然、超能力少年少女を集める謎の機関〈研究所〉に誘拐されてしまう。同じ境遇の少年少女たちと共に、〈研究所〉の圧政に耐えるルークは逃亡計画を練り始めるが……。

     本作を読んで真っ先に思い出したのは、キングの作品『ファイアースターター』や、宮部みゆきの『クロスファイア』『鳩笛草』といった、超能力少年・少女たちを描いたSFサスペンス。こういった傑作群を懐かしく思い出すと同時に、そうか、特別な能力を持つがゆえの苦悩や事件という私の発想は、こういう作品群から来ているのかも……とか懐かしく考えた次第。

     閑話休題。『異能機関』を読んで久しぶりに興奮したのは、「敵」がちゃんとおっかないこと。マジで今回、「敵」が強いんですよ。もちろん〈研究所〉に勤める大人たちのことですが。彼ら彼女らの圧政の恐怖が描かれているからこそ、逃亡計画の「冒険」感も高まるし、舞台を町に移してからのサスペンスも引き締まるというもので、ああ、やっぱり「敵」を巡る演出って大事だなあと再認識したのでした。個人的には『ドクター・スリープ』(邦訳2013年)以来のクリーンヒットです。読むのに五日間じっくり掛けましたが、キングはそれくらいずっぷり読まないと面白くないもんなあ。スティーヴン・キングデビュー50周年ということで、色々企画もあるので注目すべし。特に文春e-booksの「デビュー50周年記念! スティーヴン・キングを50倍愉しむ本」は無料なのでみんなダウンロードしておくべきですよ。こういうガイド+対談+新作短編の冊子を、無料で出せるってどういうことなの。

     また、本命である早川書房のアレに行く前に、どこでも取り上げられることが出来ていなかったデイヴィッド・ギルマン『イングリッシュマン 復讐のロシア』(ハヤカワ文庫NV)にも言及しておきたい。個人的にはNV=冒険小説枠の今年の当たり。ロンドン金融街の銀行役員が誘拐され、その身柄を保護するべく、MI6高官から呼び出された〝イングリッシュマン〟ダン・ダグラスの活躍を描くスリラーなのですが、「人狩り(マンハント)」小説の良作に仕上がっていると思います(類例にはリチャード・スターク『悪党パーカー/人狩り』、ジョー・ゴアズ『マンハンター』など。とにかく追跡・追い詰める・断罪する、の構造に全力を注いでいる小説にそう名付けています)。なにせマンハントを極めるあまり、まるで容赦のない鬼ごっこの鬼のようにロンドンからロシアまで犯人を追いかけていくのですから。改行が少ない文章で繰り広げられる濃密なアクション描写もイチオシですし、私が大好きなのは、結末近く、54節で繰り広げられる会話劇。この会話の締めくくりに、仕事人としての矜持が覗くよね。

    〇誰よりも「黄金時代」を知る作家、渾身の力作

     そして大トリ、マーティン・エドワーズの『処刑台広場の女』(ハヤカワ・ミステリ文庫)でございます。この作品、個人的には大いに衝撃を感じた一作。というのも、エドワーズという作家は、日本ではまず「評論畑」の人として紹介されていたからです。その評論というのが『探偵小説の黄金時代』(国書刊行会)というもの。アメリカ探偵作家クラブ賞(評論評伝部門)を受賞した本作は、アガサ・クリスティー、ドロシー・L・セイヤーズ、アントニイ・バークリーといった英国探偵作家が参加していた親睦団体〈ディテクション・クラブ〉の草創期の歴史を繙くものでした。このクラブについては、ジョン・ディクスン・カーの評論「地上最高のゲーム」(『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』〈創元推理文庫〉などに収録)などでも言及されており、クラシック・ミステリーのファンには有名な名前ですが、『探偵小説の黄金時代』の恐るべき点は、そのエピソード量と幅の広さ。作品の裏話を知ることが出来るだけでなく、作家群像劇としても読みごたえがあるのです。

     エドワーズが同クラブの公文書保管役に就任したからこそ出来た偉業、というのは間違いないにしても、黄金時代の本格ミステリーに深い敬愛がなければ、ここまでのことは出来ないだろうと感じさせる作品です。それだけに、彼の書いた小説『処刑台広場の女』が、1930年を舞台にしており、1919年のスペイン風邪流行がサブプロットとして走る……という話を聞いた段階で、ははあ、これは彼なりの黄金時代本格ミステリーに違いない、と思い込んでいました。早川書房からは4月にトム・ミード『死と奇術師』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)が刊行されており、そちらも1930年代を舞台に、クレイトン・ロースン『帽子から飛び出した死』のマーリニを彷彿とさせるような奇術師探偵が出てきたので、余計にその「思い込み」は補強されていました。

     ところが、その予想は良い意味で完全に裏切られたのです。確かに、『処刑台広場の女』には、さながらカーのような密室やエキセントリックな殺し方が盛り込まれてはいますし、時代の雰囲気もむんむんと漂っているのですが――それ以上に、現代ミステリーの技法を高いレベルで実現した犯罪小説だった、と言えるでしょう。「名探偵」レイチェル・サヴァナクは、果たして本当に「名探偵」なのか? それとも「悪魔」か? 第1節を読み終えた瞬間から、読者は記者ジェイコブと共に、宙ぶらりんのスリリングな問いに晒され続けることになります。この趣向が実に心憎い。おまけにこのレイチェルという女性が、とんでもなく魅力たっぷりなのです。あえて脱線するなら、第60回で言った、ノワールに出て来るファム・ファタールの条件として挙げた『「ああ、この女性になら破滅させられてもいいかも」という感覚を呼び起こす魅力的なセリフ一発、エピソード一撃』という条件は見事にクリアー……どころか、魅力的なセリフ七発、エピソード八撃みたいな女性です。あまりにも強すぎる。古典の時代を舞台にしつつ、現代の技法を見せつけるという点では、エドワーズの射程には、全時代の読者が存在しているということが出来るかもしれません。

     二つの視点と二つの時を行き来するにしたがって、事件の「形」がめまぐるしい勢いで変わっていく過程が面白いですし、いよいよ収集をつけられないだろうというほど盛り上がって来たところで、あるポイントからパタパタと作品が閉じていく、その手際も見事。もちろんこの時代を舞台にストレートなパズラーを書いても面白いタイプの作者だと思いますが、個人的には、こんなジェフリー・ディーヴァーみたいなエンターテインメントが出てきたので嬉しくなってしまいました。あと驚愕したんですが、これ、シリーズ展開しているの? え、一体どうやって? ちょっとこれは、本気で目が離せない。

     ところで、スチュアート・タートン『名探偵の海の悪魔』(文藝春秋)の「囚人名探偵」とかを読んでいても思うのですが……今の海外本格ミステリーの「名探偵概念」、どちゃくそに歪んでいて「癖(へき)」です。ちょうだいちょうだい、そういうのもっとちょうだい!

    〇まとめ

     さて、ということで前後編に分けて、「翻訳ミステリー特集・2023年版」をお送りしてきました。例年だと9月に行っているこの特集ですが、8月刊行の話題作2作、ピーター・スワンソン『8つの完璧な殺人』(創元推理文庫)とマーティン・エドワーズ『処刑台広場の女』がプルーフ(校正刷り)の形でいち早く読めたので、先にご紹介したという次第。

     もちろん、まだまだ8・9月にも未読の注目作が翻訳ミステリーには多く(新潮文庫のジョゼフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』とか、文藝春秋から出るというジェフリー・ディーヴァーの新作とか、アンソニー・ホロヴィッツもこれから出るし……)、9月以降の読書日記で急いで紹介していく可能性もあるのですが、今の段階で私の贔屓を言うなら、やっぱり『処刑台広場の女』になるかなあ。『忘却の河』も「もっとこの人の作品を読みたい!」の気持ちを含めて、大いにプッシュしたいですね。

     ピーター・スワンソンは、今年の1月に『だからダスティンは死んだ』(創元推理文庫)を刊行していて、話題性や盛り込まれたネタの量からすると『8つの完璧な殺人』が創元の推し作なのは分かるのですが、模範的な作りのスリラーとして『だから~』もかなり好きなんですよね……。そんなわけで非常に悩ましい2023年。暑い夏を翻訳ミステリーと共に過ごしましょう。

    (2023年8月)

第62回2023.08.11
翻訳ミステリー特集・2023年版 前半戦 ~ブッキッシュ・オン・ブッキッシュ~

  • 8つの完璧な殺人、書影

    ピーター・スワンソン
    『8つの完璧な殺人』
    (東京創元社)

  • 〇宣伝から

     8月に実業之日本社文庫から辻真先『村でいちばんの首吊りの木』が復刊されます。なんとこれが初の文庫化となるようです。辻作品の中でも指折りの傑作、それも短編集ということで、未読の方はぜひ読んでみてほしいです。手紙のやり取りから立ち上がってくる真相の構図が素晴らしい表題作、語りのうねりが楽しい「街でいちばんの幸福な家族」、無生物たちが少しずつ事件のあらましを語ってくれる「島でいちばんの鳴き砂の浜」の全三編です。

     この巻末に、辻真先先生との対談を掲載していただいています。この作品のことのみならず、キャリア全体のことから、最新作の話題まで深堀したので、20ページ以上という大ボリュームに……。私が張り切って喋り過ぎてしまった感があり、反省しているのですが、辻先生のお人柄が見える、愉快で、情報密度の濃い対談になっていると思いますので、ぜひ併せて楽しんでいただければ幸いです。「村でいちばんの首吊りの木」の映画化の話題にも触れていますが、ここのくだりは、個人的に感動しました。

    〇今回も雑誌の話題を少し

    「小説宝石」8月号の特集は「「音楽」のある景色」。劈頭を飾る奥田英朗「春のはかりごと」は、ミュージシャンを巡る監禁・誘拐ミステリーの味付けかと思いきや、監禁犯が出してくるメシが美味いというあたりから、あれよあれよととんでもない方向へ連れていかれる短編でした。すごい発想だなぁ……これもまた、現実の中にファンタジーを覗かせる作者らしい一編と言えるかも。ところで、馳星周「飛越ジャンプ」の連載が第2回目なんですが、このタイトルで馬の話ということで、ディック・フランシスを大いに感じています。『黄金旅程』(集英社)も素晴らしかったもんなぁ……。

    「小説新潮」8月号の特集は「妖しの饗宴」。夏らしいホラー短編が並んでおりました。万城目学「カウンセリング・ウィズ・ヴァンパイア」は、『あの子とQ』(新潮社)のシリーズということになるのでしょうか。作者らしい語りの魅力満点で、あの愛おしい世界観が味わえるので大いに楽しい。タイトルの元ネタは『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』ですね。また、『禍』(新潮社)を刊行した小田雅久仁によるインタビューは、短編集の全短編を自ら解説するというもので、この充実ぶりは必読でしょう。『禍』について作者は「このジャンル(怪奇小説のこと)のひとつの金字塔、みたいな位置づけになればいいな」と語っていますが、もうこれはなるでしょう、ならざるを得ない。人間にとって一番不気味なものであるはずの、自らの「体」を題材にした怪奇小説と的を絞ったからこそ、磨き抜かれた怪奇短編が揃っているからです。マジで怖いですよ。怖すぎて……あの……表紙を遠目に見た時「名前も呼びたくないアレ」にしか見えなさ過ぎて、献本いただいたのですが、封筒から出てきた瞬間悲鳴をぶちかましました。この禍々しさも含めて雰囲気に合っていると思うのですが、家では背表紙しか見えないように、サッと棚に格納しました。怖いぜマジで。

    〇お待たせしました、翻訳ミステリー特集

     さてさて、今年もランキング投票の時期が迫って来て、今年の面白い翻訳ミステリーってなんなんだい、と気になってくる季節です。そんなわけで、今年の個人的な注目作を続々挙げて行くコーナーを今年も用意しました。2021年と2022年は、「もう注目作が目白押し!」という年で、私もこの時期の特集を「頂上決戦」と銘打ってリングインを盛り上げるリングアナよろしく、勝手に対立を煽りながら(苦笑)盛り上げていたわけですが、今年は静かに「これもいいですよ」と差し出したい作品が多い感じなので、肩の力を抜いて「特集」と名付けてみました。メインで取り上げる作品は以下の通り。

    ・ロバート・アーサー『ガラスの橋 ロバート・アーサー自選傑作集』(扶桑社文庫)
    ・チョン・ミョンソプ『記憶書店 殺人者を待つ空間』(講談社)
    ・ロス・トーマス『愚者の街』(新潮文庫)
    ・ピーター・スワンソン『8つの完璧な殺人』(創元推理文庫)

     まずは、既に読書日記等で取り上げたのでメインでは触れない本も総ざらいしていきます。集英社文庫からはミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』に注目。これは私が解説を書いた作品なので、詳しい内容はそちらを参照して欲しいですが、フランス・ミステリー随一の技巧派が『そして誰もいなくなった』に挑んだ意欲作となっています。他では絶対に見ることの出来ないトリックにご注目あれ。

     ハーパー・コリンズ・ジャパンからはドン・ウィンズロウ『陽炎の市』がイチオシ。これは第60回の読書日記のメインで取り上げています。映画業界とギャングを掛け合わせた、魅力あふれる犯罪小説です。S・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』も読み逃してはいけない今年の名品。小学館文庫からはJ・L・ホルスト『疑念 警部ヴィスティング』がやはりイチオシで、これは第54回で、過去シリーズ作品も含めて分析の俎上に上げました。

     今回のメイン四冊のうち、まずは扶桑社文庫のロバート・アーサー『ガラスの橋 ロバート・アーサー自選傑作集』から。こちらは「STORY BOX」の書評「採れたて本!」でも紹介しているので、ここでは簡単にいきます。1950年代に活躍した作家、ロバート・アーサーによる、日本初のミステリー短編集で、これまでは短編「51番目の密室」(同題のハヤカワ・ポケット・ミステリの表題作)や、短編「ガラスの橋」(『北村薫の本格ミステリ・アンソロジー』〈角川文庫〉などに収録)で名のみ知られてきた作家でした。ここに挙げたようなタイトルが面白いので、日本のマニアは「いつかまとめて読んでみたいなあ」と思っていたわけです。私も含めて。その夢が叶った一冊で、さながらオー・ヘンリーの短編のような読み味の「マニング氏の金の木」や抱腹絶倒のホームズ・パスティーシュ「一つの足跡の冒険」など良い作品が揃っていると思います。マニアの蒐集欲も満たしてくれる一冊。

     マニア的な蒐集欲を満たし、名作を発掘したという点でいえば、ロス・トーマス『愚者の街』(新潮文庫)も今年は見逃せません。ロス・トーマスの作品は、1994年生まれの身からすると、ほとんどの作品が入手困難かつ古書でも高価で、一つ一つ集めるのが非常に大変でした。しかし、『クラシックな殺し屋たち』『ポークチョッパー:悪徳選挙屋』など、苦労して集めた甲斐のある作品が多いのです。自分なりの言葉に過ぎないのですが、パルプ・フィクションの題材を格調高く描ける人、というイメージがロス・トーマスにはあります。さながらジム・トンプソンのような元悪徳警官の話を、悪党だらけの諜報戦・コンゲームに仕立て上げた『愚者の街』も、その流れに則っているといえるのではないでしょうか。

     そういったマニアの蒐集欲絡みでいうと――ランキングに絡むような傑作ではないながら、チョン・ミョンソプ『記憶書店 殺人者を待つ空間』(講談社)は、ビブリオミステリー好きにそっと差し出しておきたい珍品。なぜかというと、この作品にはある種「究極の古本屋」が登場するからです。その古本屋のシステムというのは――「店主に向けて『なぜ自分がその本を欲しているか』をプレゼンし、それが店主に刺されば、タダで本をお持ち帰りできる」というもの。え、なにそれ。プレゼン仕込んで毎日行くんだが。ミステリーとしての見所を書いておくと、この書店は実は店主が15年前の殺人者を炙り出すために仕込んだ罠で(何を言ってるかわからねーと思うが、ありのまま起こったことを話しているぜ)、作品は後半、四人の客のうち誰が犯人かというフーダニットに変貌します。このフーダニットの甘さには目を瞑るとしても――ひとついちゃもんをつけるなら、韓国の古書の相場や作品背景が分からないので、挙がっている本に興奮出来なかったというポイントがあります。え、この設定で日本版、私にやらしてくれないか?

    〇ブッキッシュ過ぎるサスペンスにご注目

     さて、ピーター・スワンソンの新作です。最近コンスタントに作品が邦訳されていて、「読者を飽きさせないサスペンスの技法」と、「先行作へのオマージュ・目配せの匙加減の巧さ」で、毎回大いに楽しませてくれるのですが――今回の新作『8つの完璧な殺人』(創元推理文庫)は、その両方の魅力が遺憾なく発揮された作品となっています。

     タイトルの「8つの完璧な殺人」とは、古書店〈オールド・デヴィルズ・ブックストア〉店主、マルコム・カーショーが昔ブログに掲載したミステリー作品のリストで、作中で「絶対にバレない巧妙な手法」を編み出したミステリーを8作品挙げたものです。マルコムのもとを訪れたFBI捜査官グウェン・マルヴィは、「これらの作品の手口を模倣した殺人事件が巷で起きている」とマルコムに告げる……というのが序盤のあらすじ。

     本書が曲者なのは、作品の冒頭でこの「8つの作品」のリストとアガサ・クリスティ『アクロイド殺害事件』(別題『アクロイド殺し』)を加えたものを掲示し、「本書では下記の作品の内容や犯人について触れています。未読の方はご注意ください」と宣言されていること。全作既読で挑むのはかなりハードルが高くなっているのです。「8つの作品」のリストをここでも引用すると、

    〝『赤い館の秘密』A・A・ミルン
    『殺意』フランシス・アイルズ(アントニイ・バークリー)
    『ABC殺人事件』アガサ・クリスティ
    『殺人保険』ジェイムズ・M・ケイン
    『見知らぬ乗客』(小説、および一九五一年の映画)パトリシア・ハイスミス
    The Drowner(邦訳なし)ジョン・D・マクドナルド
    『死の罠』(戯曲、および一九八二年の映画『デストラップ 死の罠』)アイラ・レヴィン
    『シークレット・ヒストリー』(別邦題『黙約』)ドナ・タート〟(『8つの完璧な殺人』冒頭より)

     私はこのうち、The Drownerだけ未読、『死の罠』の戯曲は未確認で、あとは全て既読か視聴済です。ジョン・D・マクドナルドのこれは『8つの完璧な殺人』の元ネタだと知って、今年の1月にKindleで原書を購入したんですが、間に合わなかったですねー。

     さて、上記のリストですが、これが「ミステリーの傑作ベスト8」かというと、そうではないだろう、というリストになっています。もちろん、私自身好きな作品もありますが。このリストのポイントはあくまでも、「殺人手段だけを取り出した時に、その殺人手段が完璧なものかどうか、露見しにくいものであるかどうか」という点なのです。

     私は、このリストにはもう一つの意味があると思います。それは、主人公であるマルコムの「人物描写」です。このリストはブログに掲載されたものですが、そのように、「ミステリーを読んでいることを誇示したいマニアックな読書家」が作るリストとして、非常に解像度が高いリストになっているのです(これは大いに自戒を込めています!笑)。定石の踏まえ方、あるいは外し方。31~36ページに書かれた各作品の紹介文を読むと、なおさらその解像度が高まるという仕掛け。選書だけで「ひねくれたマニアだよこいつは」と表現することは、本を愛する作家にしか出来ない技巧だと思います。94ページに掲載された「雪の季節」に殺人が起こる作品のリストも、良い具合にマニアックですが、ここにアン・クリーヴスがちゃんと入っているのも嬉しい。

     さらに上記のリストの「ネタバレ」の問題について付言しますが、私は、必ずしも全作読んでから『8つの完璧な殺人』に臨む必要はないと思います。というのも、ネタバレは含まれているものの、そのネタバレの度合いには濃淡があり、致命的と言えるものから、「えっ、そんな脇道の話をバラすの」というものまであるからです。具体的に言うと、クリスティの二作『ABC殺人事件』『アクロイド殺害事件』あたりはやはり致命的と言えると思いますが、そもそも犯人が分かった状態で進行し、犯行計画も中盤までに描かれる『殺意』や『見知らぬ乗客』はダメージが少ないと言えるのではないでしょうか。もちろん、ここに掲げられた作品を家に積んでいて、「あ、読もうと思っていたんだった!」という場合には、この『8つの完璧な殺人』をキッカケに読むのは大いにアリでしょう。私も『赤い館の秘密』や『殺人保険』は大好きな作品です。でも、読むのを義務だと思わなきゃいけないほどではないかな、という感触です。

     例えばアイラ・レヴィンの戯曲を原作とする映画『死の罠 デストラップ』は傑作ですが、この作品で主にネタバレされているのは、「殺人手段」です。しかし、この映画の眼目はそこではなく、むしろ、攻守が絶えず入れ替わり、上映時間が経過するごとに物語の形がガラッと変わってしまう、そのスリリングなプロットにあるのです(私の作品を読んでいる人には、私の短編「入れ子細工の夜」の元ネタと言えば伝わるでしょうか)。その意味では、「殺人手段」だけを知らされたからといって、魅力が損なわれるわけではないということが出来るでしょう。

     しかし、このリストはもう一つ裏の使い方があるのではないかと思っています。ここから、作者の意図の深読みが出来るのではないか、と。実は『死の罠』の「殺人手段」そのものは、古典ミステリーにはありふれたアイディアで、それこそジョン・ディクスン・カーの短編(あれはラジオドラマだったかな?)に全く同じものが存在します。スワンソン自身がカーを好きでなかった可能性はありますが(38ページにはマルコムがカーに「のめり込めない」とこぼすシーンがあります)、そこに深読みの余地があります。つまり、むしろピーター・スワンソンは、『死の罠 デストラップ』のプロットにこそ、本作『8つの完璧な殺人』のインスピレーションを得たのではないか、と。だから本作は、このようなプロットを取っているのではないか……。

     ネタバレなしで触れられそうなのはこのポイントだけだったので、本稿ではここまでにしておきますが、マニアックに彩られたこのリストには、このように、無限の「読み」の可能性が内包されているように思います。肩まで浸かって、その魅力をどっぷり味わうもよし。片足だけつけて、この温泉、足湯としてもいいじゃないかと、むしろ周りの景色を楽しむもよし。様々な楽しみ方が出来る、良いサスペンスになっていると思います。しかしスワンソンよ、こんなオチを持ってくるかい?

    (2023年8月)

第61回2023.07.28
映画と小説のあいだ ~後編(国内編)~

  • エフェクトラ 紅門福助最厄の事件、書影

    霞流一
    『エフェクトラ
    紅門福助最厄の事件』
    (南雲堂)

  • 〇今月は珍しく新書の話題

     去る6月、早川書房から「ハヤカワ新書」が創刊されました。創刊月のラインナップ五点のうち、ミステリー好きにとっての最注目はなんといっても越前俊弥『名作ミステリで学ぶ英文読解』。全部で六作の海外名作ミステリーの原文を味わいながら、一流翻訳者の講義を受けることが出来るという、なんとも贅沢な一冊です。原文が十行程度載って、「〇行目のこの表現はどういう意味か」などの問題があり、その解説が載っている……とくれば、普通の英語のテキストと変わりないように思えるかもしれませんが、そこには「この作品のミステリーとしての勘所を捉えながらどう訳すか」「スラングをどう訳すか」などの実践的な話も数多く入っていて、「翻訳者とはこういう仕事をしているのか!」というのを、仕事部屋の入り口から覗き見させてもらっているような、実にワクワクする本です(翻訳のクラス生に訳させるとこの箇所を無視して訳すのですが……などの指摘箇所に、ものの見事に全て引っ掛かるという情けなさ! 翻訳者ってすごい!)。ちなみに、ネタバレ部分はきっちり切り分けられているので、未読作品についても安心して楽しめると思います。「英語の勉強をしたいけど、堅苦しい本を読むのはいやだ!」というミステリー好きにもオススメ出来ます。学生だと「勉強しなさい」と言われた時に「何言ってんだい! 勉強してらぁ!」とこの本の表紙を見せながら、こっそりクリスティーを楽しむ、なんてことが出来そう。

     六作の内訳はエラリイ・クイーン『Yの悲劇』『エジプト十字架の秘密』『災厄の町』、アガサ・クリスティー『アクロイド殺し』『パディントン発4時50分』、コナン・ドイル『恐怖の谷』で、特に『Yの悲劇』『アクロイド殺し』のネタバレ部分の読解などに唸らされました(「ああ、ここ原文だとこうなっているんだ」という気付きがありました)。『恐怖の谷』の「!」(エクスクラメーションマーク)に関するコラムにも、著者の読者としての実感が滲んでいて、なんだかため息が漏れました。ちなみに、クリスティーのコラムを大矢愽子、ドイルのコラムを駒月雅子が書いていて、翻訳ミステリー界のスマブラみたいな豪華な本になっています。

     ちなみに私、俎上に上がった六作のうち、唯一『パディントン発4時50分』は原文でも読んでいまして、それはなぜかというと、大学で「『パディントン~』をペーパーバックで毎週少しずつ読みながら、該当箇所のラジオドラマを少しずつ聞く」という英語の講義があったからなのです。そのため、私は『パディントン~』を短い時期に、原文、ラジオドラマ、(たまに分からない箇所もあるので)日本語版の三つのバージョンで摂取していて、だから体に沁み込んでいるのです。あの講義は本当に面白かったなあ。この本を読んで、そんな懐かしい思いも抱きました。

     新書の話題でもう一冊。6月には星海社新書から飯城勇三『密室ミステリガイド』が刊行されました。海外から20作品、国内から30作品の密室ミステリーを取り上げ、第一部「問題篇」ではストーリーやシチュエーション、図版、その作品を「密室ミステリー」として読み解いた時のポイントをネタバレなしで示し、第二部「解決篇」では解決とその解説がネタバレありで書かれています(なので、未読作のネタバレは読まないようにしてくださいね)。第一部は、有栖川有栖『有栖川有栖の密室大図鑑』(創元推理文庫等)などのように、「該当する作品には入っていない、密室の状況を解説した図面」が全て作られて入っているのが画期的ですし(幻想ミステリーであるスタンリイ・エリン『鏡よ、鏡』の「幻想シーンを除」いた時の密室状況の図とかは、初めて見た気がします)、第二部でネタバレを含めて解説することを前提にしているので、密室ミステリー「そのもの」が面白い作品はもちろんですが、それよりも「密室のネタを割ったうえで、そのネタがプロットや謎解き全体にどのような影響を及ぼしているか」を書ける作品を優先しているように見えるのが面白いです(著者は「トリックを明かして考察したい魅力を持つ作品」と表現しています)。たとえばエラリイ・クイーンは『チャイナ橙の謎』ではなく、『ニッポン樫鳥の謎』、ジョン・ディスクン・カーなら『三つの棺』ではなく『緑のカプセルの謎』とか。「コラム」として置かれた密室のハウダニット、ホワイダニットの分類では、著者の分類だけでなく、過去の作品内で小説家たちが行った分類も総覧のように並べられていて壮観です。

     密室ミステリーは、解決そのものやトリックもそうですが、別解をいかに潰すかという見せ方や、解決の中でそれがいかに機能するかに注力した作品こそ読み応えがあると思っていますが(だからネタバレ部分だけ読まないで、ちゃんと作品にあたってほしいところ)、その視点を力強く持った「トリック解説本」という感触です。最近の作品も数多く取り上げられているので、「あっ、この作品なら読んだことあるぞ」という作品が、一つ、二つは見つかると思います。そこを取っ掛かりに、このガイドがどういう本なのか、該当作品の部分だけでも読んでみて、「他のネタバレ解説も読みたいからこの作品を読もう!」をモチベーションにしていく――という読み方が理想的かもしれません。高校生の頃、私はこういう読み方を福井健太『本格ミステリ鑑賞術』(東京創元社)で実践しまして、かなり勉強になりました。ちなみに『密室ミステリガイド』ですが、ベスト100を選んだ際に追加される作品を短評で紹介するコラム「密室ミステリ・NEXT100」内において、私の短編「透明人間は密室に潜む」を挙げていただいています。こちらも大変、光栄です。

    〇新作映画のお話

     ということで、今回の本題へ。前回は「映画と小説のあいだ 海外編」と題しまして、映画監督自ら続編を書いた『ヒート2』や、映画監督の小説デビュー作である『その昔、ハリウッドで』などを取り上げましたが、今回はその国内編をお届けします。といっても、国内編は映画を一本と、映画の世界が題材になった小説を三作品紹介するという形で、海外編とは質感が違うかもしれませんが。

     以下が、取り上げる作品のリストです。今回はリストが短め。

    ・坂元裕二『怪物』(KADOKAWA)/映画「怪物」
    ・恩田陸『鈍色幻視行』/同『夜果つるところ』(どちらも集英社)
    ・霞流一『エフェクトラ 紅門福助最厄の事件』(南雲堂)

     監督・是枝裕和×脚本・坂元裕二×音楽・坂本龍一という夢の布陣で撮られた映画「怪物」を見てきました。あらすじについてはほとんど書けることがなく、何も知らない状態で見に行くのが最適の映画ですが、ミステリー好きにも見てみてほしい一作でした。連続ドラマのような構成によって、少しずつピースがハマっていく感覚が面白い作品なのです。マニア的に見ると、語り落として視聴者の想像に委ねたのか、それとも解答が用意されていないのか、判断がつかない箇所がまだら模様のようにあるので、厳しい評価の人もいると思いますが……多分、私が「この構成」の作品が好きすぎるんだろうな。繰り返し、同じ話を違う角度で描いていく、というような。あの主題を、坂元裕二ならではの肌感覚でしっかりと描いたのが上手いと思いました。中学生の頃、湊かなえ『告白』を読んだ時に凄まじい衝撃を受けたのですが、ある意味、それに通じるものがあった気がします(映画「告白」の方ではないです。「怪物」には映画「告白」のようなジェットコースター感はなかったし……映画「告白」、また見たくなってきた)。なぜ『告白』かというと、連作短編集的な構成が似ているのもそうですが、自分の心の底にある倫理観の根っこをガシッと掴んで揺らされた……というような感覚を、どちらの作品にも感じたからです。

     ただ、一つ確実に言えるのは、シナリオブックである坂元裕二『怪物』(KADOKAWA)もぜひ読んでみてほしいということです。映画ではカットされていたシーンに、さすが「花束みたいな恋をした」の脚本家……と言いたくなるような、ヒュッと喉が鳴ってしまうセリフや表現が散りばめられています。あそこはこうなっていたのか、ここはこうだったのか、という発見がたくさん。映画での役者の演技も素晴らしかったけれど、文字で読むとまた違った興奮が襲い掛かって来て、ああ、結局自分はどこまでいっても「文字」の人間なんだなあ、と思わされました。

     ちなみに、彩坂美